第8話 過去との決別、そして祖国の崩壊
傲慢な使者を文字通り叩き出した日の夜。
帝城の皇帝専用の豪奢なダイニングでは、不思議なほど穏やかで温かい空気が流れていた。
並ぶ料理は国賓を歓待するレベルの豪華さなのに、肩が張らない。格式はあるのに、誰もリリアナを見下したり、粗探しをしたりしない。料理は一皿ずつ最も美味しい温度で提供され、味は繊細で優しく、すり減った胃の腑にじんわりと染み渡る。
――そして、皇帝アレクシスは、宣言通り本当に「今から聞く」を実行し始めた。
「リリー。お前の好きなものはなんだ」
向かいの席で、アレクシスが至極真面目な顔で尋ねる。
リリアナは、銀の重厚なスープスプーンを持ったまま、ピタリと固まった。
「私の、好きな……もの……?」
その言葉を、誰かから自分に向けて問われたことなど、生まれてこの方一度もなかった。
祖国の地下室では、「好き嫌い」などという感情は許されない最大の贅沢だった。カビの生えかけたパンと、塩味しかしない冷たいスープ。配られたものを、ただ生命活動を維持するためだけに胃に流し込む。それが食事のすべてだったからだ。
考えたこともない問いに、思考がふらつき、言葉に詰まる。
しかし、沈黙を責めるような冷たい視線は、この部屋のどこにもなかった。控えている侍女長のマルタも、ただ静かに、微笑みながらリリアナの言葉を待ってくれている。
リリアナは、伏せていた視線を少しだけ上げ、ぽつりと言った。
「……甘すぎない果物が、好きです。あと……こういう、温かいスープ。冷え切った胃が、内側からホッとするので」
「分かった」
アレクシスは鷹揚に頷くと、背後に控える料理長へ目線だけで指示を飛ばした。
数十秒後には、柑橘の香りが爽やかな極上のフルーツの盛り合わせと、黄金色に澄んだコンソメスープのお代わりが、魔法のようにリリアナの前に供された。
リリアナはスプーンでスープを一口すくい、ゆっくりと喉に落とす。
(……ちゃんと、私のリクエストを聞いて作ってくれた、『私のための』味だわ)
胸の奥が、熱いもので満たされていく。
誰かに大切にされることが、こんなにも心が満たされ、同時に泣きたくなるほど怖いことだとは知らなかった。けれど――もう、この温かさから目を背けたくはなかった。
「今日は、よくやったな」
アレクシスが、ワイングラスを傾けながら淡々と告げた。
「お前が望むなら、もう二度と“あの国”の人間はお前の視界に入れない。話すら出させないように手配するが、どうする?」
リリアナは目を瞬かせた。
一国の皇帝が、一人の町娘のメンタルのために国家間の情報統制すら辞さない構えを見せている。優しさの規模が、あまりにも規格外すぎる。
「……お気遣いは嬉しいです。でも、陛下は知っておいたほうがいいと思います。私の過去と、あの国が私に何をさせていたのかを」
「知っている」
即答した後、アレクシスはほんの少しだけ言葉を選び直した。
「……正確には、調査部隊の報告と、あの使者たちの態度から十分に推測できる、ということだ。だが、お前が自分自身の言葉で吐き出したい時に、いつでも聞こう」
リリアナはスープの湯気を見つめた。
言いたいこと、聞いてほしい理不尽は山ほどあるのに、それを言葉にすると、またあの薄暗い地下室の空気に引き戻されそうで、まだ少しだけ怖い。
代わりに、彼女は今日一番言いたかったことだけを、はっきりと口にした。
「……今日、私、逃げませんでした」
「うん」
アレクシスの声が、とろけるように甘く、柔らかくなる。
「逃げなかった。自分の足で立ち、過去の亡霊と対峙した。それだけで、お前は十分に強く、美しい」
強い。美しい。
そんな無条件の肯定を、今まで一度でも貰ったことがあっただろうか。
リリアナは、照れ隠しにふわりと笑って言った。
「陛下が、私の盾になって前に立っていてくださったからです。……皇帝の権力を使うなんて、ずるいです」
「ずるくて大いに結構。お前を守るためなら、私は帝国の全軍隊でも使うぞ」
あまりにも真顔で、とんでもないスケールの愛の告白(?)を返されて、リリアナは思わず吹き出してしまった。
心にこびりついていた恐怖の残滓が、少しだけ溶けて消えた気がした。
食後。自室へ戻る廊下で、侍女長のマルタが、銀の盆に乗せた一通の封筒を控えめに差し出した。
「リリアナ様。祖国より、あなた様宛の速達の書状が届いております」
その瞬間、リリアナの胃がヒュッと嫌な音を立てて縮み上がった。
あんなに立派に追い返したのに。紙切れ一枚で、またあの地下室の扉が目の前に現れたような錯覚に陥る。
リリアナは震える手で封筒を受け取り、封を切らずに握りしめた。
隣を歩いていたアレクシスが、ピタリと歩調を止め、リリアナを見下ろした。
「開くか。……もし嫌なら、私がこの場で灰にしてやるが」
「……開きます」
逃げないと決めたのだ。だから、自分の目で確かめる。
自室の暖炉の前で、リリアナはペーパーナイフで封を切った。
便箋に踊る文字は、見慣れた、そして大嫌いな筆跡だった。
父の字だ。
『リリアナへ。お前が必要だ。国が大変な危機に陥っている。今すぐ戻れば、これまでの罪は不問にし、待遇は改める。今までの行き違いは水に流そう。アルヴェルン伯爵家の名誉のためにも、早急に帰還せよ。これは当主としての命令である』
短い。
けれど、その短い文章の中に、彼らの底知れない傲慢さと愚かさがギュッと煮詰まっていた。
“必要”という言葉の裏にあるのは、娘としての愛情ではなく、ポーションを量産する『便利な手』が欲しいという強欲。
“待遇を改める”という言葉に滲む、どこまでも上から目線の施し。
“水に流そう”という一文には、自分たちが彼女を奴隷扱いしたことへの謝罪や反省の念など一文字も含まれていない。
そして最後の“名誉”。
結局のところ、彼らが守りたいのはリリアナという人間ではなく、自分たちの保身と飾り立てた地位だけなのだ。
便箋を持つリリアナの指先が、微かに震えた。
それは、恐怖ではない。
怒り――でもない。
ただひどく静かで、氷のように冷たい、完全な『見切り(諦め)』だった。
リリアナは、紙を見つめたまま、誰にともなく呟いた。
「……水に流すって、一体何を? 私が流した血と汗と涙の量を、あなたたちは一滴でも知っているの?」
アレクシスが答える前に、リリアナの中ではすでに完璧な答えが出ていた。
彼女はゆっくりと、便箋を半分に折った。
丁寧に折って、丁寧に――真ん中から引き裂いた。
ビリッ。
ビリ、ビリ、ビリッ。
分厚い羊皮紙を破る音が、思った以上に心地よかった。
細かくなった破片を手のひらに乗せたまま、リリアナは、憑き物が落ちたように晴れやかな顔で笑った。
「私、絶対に、あの国には戻りません」
言えた。
声に出して言えた。胸の奥に詰まっていた重い泥が、すべて消え去ったように軽い。
アレクシスは深く頷き、当たり前の事実のように言った。
「知っている」
「……どうしてですか?」
「お前はもう、誰かの理不尽な命令で動く『都合のいい道具』ではないからだ。……お前は、お前の意思を持つ、気高き一人の女性だ」
リリアナは暖炉に歩み寄り、手の中の紙片を、燃え盛る火の中へとパラパラと落とした。
炎が傲慢な文字を舐め、あっという間に黒い炭となって崩れ落ちていく。
燃えて灰になっていくのは、ただの紙切れだけではない気がした。
息の詰まる地下室の湿気。
浴びせられ続けた罵倒。
“魔力ゼロの役立たず”という理不尽な烙印。
それらがすべて、炎の中で浄化され、完全に消滅していく。
リリアナは、深く、澄んだ息を吐き出した。
「……過去のトラウマが完全に消えたわけじゃありません。でも、こうして『戻らない』と自分の意思で拒絶できることが、すごく……」
適切な言葉が見つからないリリアナの代わりに、アレクシスが優しく紡いだ。
「それが、『自由』だ」
その一言で、リリアナの心は、本当の意味で救済された。
翌日から、祖国の家族や元婚約者からの書状は、手を替え品を替え、執拗に届き続けた。
哀れみを誘う泣き落としの文。
王族の権威を振りかざした命令口調の文。
神殿からの“元聖女候補としての責務”を説く偽善的な文。
母からの、背筋が凍るほど猫撫で声の優しい文。
(アレクシスが裏で九割方の手紙を握り潰し、焼却処分にしていたことをリリアナは知らないが)、手元に届いたわずかな手紙も、リリアナの心を揺さぶることはもう二度となかった。
届いた封筒を開け、中身を一瞥し、破り、暖炉へ放り込む。
その手順は、長年培ったポーション作りと同じくらい、正確で無駄のないルーティンとなっていた。
そして同じ頃。
リリアナという“規格外の心臓”を失った祖国では、容赦のない崩壊が訪れていた。
まず、国の医療と防衛の要である『治療院』と『騎士団』が完全に機能停止した。
リリアナが残していた高品質な回復ポーションの備蓄は三日で底を突き、粗悪な市販薬では負傷兵の傷は塞がらず、痛みに耐えかねた騎士たちが次々と任務を放棄した。結果として辺境の防衛線が崩壊し、魔獣の被害が国境を越えて街へとなだれ込み始めた。
次に、国の精神的支柱であった『神殿』の権威が地に墜ちた。
光の聖女セシリアの奇跡が、日を追うごとにショボくなり、ついには完全に途絶えたのだ。
王都の広場で行われた大規模な公開祈祷の最中。
セシリアの杖から放たれた光は、蛍の尻尾ほどの儚い明滅を見せた後、パチンと弾けて消滅した。そして彼女は、魔力枯渇による激痛で群衆の面前で無様に泡を吹いて倒れ込んだ。
「……おい、嘘だろ。あれが聖女の奇跡?」
「先月の討伐の時は、もっと太陽みたいに眩しかったぞ!?」
「ただの光魔法の暴発じゃないのか!? 騙された!!」
群衆の疑念は、一度火がつけばもう誰にも止められない。
追い打ちをかけるように、宮廷内部から致命的な情報がリークされた。
聖女の奇跡は、追放された長女・リリアナが地下室で作っていた『特製の薬湯と魔力増幅の香油』によるドーピングの賜物であったという事実が、証拠の調合記録と共に市井にばら撒かれたのだ。
怒り狂った民衆は暴徒と化し、大聖堂に石や汚物が投げつけられた。
さらに、帝国へ高圧的に乗り込んだ近衛騎士団長レオンが、帝国の皇帝に完膚なきまでに論破され、尻尾を巻いて逃げ帰ってきたという醜聞が、尾ひれをつけて諸外国へと広まった。
“国の宝である至高の薬師を、奴隷のように扱って追放した愚かな国が、国が傾いた途端に泣きつき、皇帝に叩き出された”
その国際的な評価は、王国の信用を底の底まで叩き落とした。
他国の商人は見切りをつけて一斉に撤退し、腕のある職人や薬師たちは、より待遇の良い隣国の帝国へとこぞって亡命していった。
金も、人も、信頼も。すべてが祖国から急速に失われていく。
そして、機能不全に陥った王宮では、醜悪な責任の押し付け合いが始まっていた。
「すべては、優秀な長女を迫害し、無能な次女を神輿に担ぎ上げたアルヴェルン伯爵家の責任だ!」
「ふざけるな! その次女を聖女に認定し、ポーションの出所を確認しなかったのは王家と神殿だろうが!」
「黙れ! 我が国が帝国の属国にされる前に、誰かが責任を取って腹を切らねばならんのだぞ!」
誰かをスケープゴートにして首を差し出さなければ、暴徒化した民の怒りも、他国からの経済制裁も止められない。
最初に血祭りに上げられたのは――諸悪の根源である、アルヴェルン伯爵家だった。
伯爵は、自室の椅子にへたり込み、幽鬼のように青ざめた顔で虚空を見つめていた。
「……リリアナ。リリアナさえ、あの地下室に戻ってくれば、すべてが元通りになるのに……っ!」
「戻るわよ! あの子はいつも私の言うことだけは聞いていたんだから!」
母が血走った目で叫んだ、その時だった。
バンッ!と乱暴に扉が開け放たれ、セシリア付きの侍女が、髪を振り乱して転がり込んできた。
「た、大変です旦那様! 奥様!!」
「やかましい! なんだ、リリアナが帰ってきたのか!?」
「違います! 王家からの通達です! 国家反逆および詐欺罪の疑いで、アルヴェルン伯爵家の取り潰しと、一族全員の投獄が決定いたしました! すでに近衛騎士団が屋敷を包囲しております!!」
「…………は?」
母の顔から表情が抜け落ちた。
父は椅子から立ち上がろうとして足がもつれ、無様に床を転げ回った。
そこへ、さらに絶望のどん底へ突き落とす死神が現れた。
かつて彼らと共にリリアナを見下していた元婚約者、レオンだ。彼は抜身の剣を手に、冷酷な目でかつての恩師たちを見下ろした。
「……悪いな、伯爵。王家からの命令だ。お前たち一族の首を民衆に差し出すことで、王家の責任を有耶無耶にする」
「レ、レオン殿! 待ってくれ! 君も同罪だろう!? あの時一緒にリリアナを追放したじゃないか!」
「俺は知らん。すべて伯爵家に騙されていた『被害者』として処理される手はずになっている。……帝国への侵略など不可能な以上、我が国が生き残るには、お前たちという『トカゲの尻尾』を切り捨てるしかないのだ」
その一言で、室内の空気が完全に死滅した。
自分たちが『都合よく切り捨てられる道具』になった瞬間だった。
絶対に必要な『奇跡の歯車』を自らの手でドブに捨てた機械は、二度と動くことはない。
祖国は、彼ら自身の愚かさと傲慢さの代償として、泥沼のような崩壊と没落の道を、一直線に転げ落ちていくのだった。
――そんな祖国の阿鼻叫喚など露知らず。
帝城の陽当たりの良い清潔な工房で、リリアナは新しく完成したポーションの瓶に、楽しげな鼻歌を交じえながらラベルを貼っていた。
『下級回復(※効きすぎ注意)』
『下級解毒(※一滴で十分)』
『滋養強壮(※魔力回復効果あり)』
効果を極限まで薄めて作ったつもりでも、どうしても国宝級のポーションになってしまうため、注意書きは必須だ。
そんな彼女の背後から、いつものように甘い気配が近づいてくる。
皇帝アレクシスだ。
「リリー。今日は、あの国からのゴミ(手紙)は届いたか」
「来ましたよ。先程、気持ちよく暖炉で燃やしました」
「よし」
世界で一番偉い男が、手紙を燃やしただけで「よし」と本気で褒めてくれる環境が、まだ少しだけくすぐったい。
リリアナはラベルを貼り終え、アレクシスを見上げて微笑んだ。
「……私、やっと過去と決別できたと思います。トラウマが完全に消えたわけじゃないですけど」
「完全である必要はない。時間をかけて、私がすべて上書きしてやる」
アレクシスは当たり前のように言い放ち、優しくリリアナの頬に触れた。
「お前が前を向き、こうして私の隣で笑ってくれている。……それが、私にとってのすべての答えだ」
リリアナは、ふっと幸せそうに目を細めた。
あの国が崩壊していくのは、決して自分の復讐ではない。ただ、彼らが自らの手で支柱を叩き折った結果、自重で崩れ落ちただけだ。
自分が二度とあの地下室に戻らないのは、仕返しでも罰でもない。
――愛する人たちのいるこの場所で、自由に、幸せに生きるためだ。
リリアナは、棚の隅に小さな綺麗な小瓶を置いた。
自分用に作った、ほんのり甘いリンゴ味の滋養薬。
これを飲んで、ふかふかのベッドでたっぷり眠って、明日も笑顔で目を覚ます。
そんな当たり前で、何よりも尊い『普通の未来』を、この温かい場所で紡いでいくのだ。
窓の外では、今日も変わらず、美しい庭園の噴水の音が心地よく響いていた。




