第7話 身勝手な使者と、冷徹な皇帝の盾
帝城の特別応接間は、水を打ったように静まり返っていた。
豪奢な調度品が並んでいるが、それは成金趣味の見せびらかしではなく、数百年の歴史を持つ帝国が『必要な格』を保つための静かで重厚な威厳だ。
磨き上げられた大理石の床、天井に描かれた緻密なフレスコ画、窓の外から微かに聞こえる噴水の水音。
リリアナはベルベットのソファに座り、震えそうになる指先を膝の上で固く組んでいた。
目の前のテーブルには最高級の茶器から良い香りの湯気が立っているのに、喉がカラカラに乾いて一口も飲めない。
(来た。やっぱり、迎えに来た。私をあの地下室に引きずり戻すために)
廊下の向こうから、複数の足音が響いてきた。
帝国騎士の無駄のない規則的な靴音に混じって、やけに横柄で、苛立ちを隠そうともしない場違いな足音が近づいてくる。
重厚な扉が、重々しい音を立てて開かれた。
先頭を切って応接間に入ってきたのは、レオンだった。
祖国で『元婚約者』と呼ばれていた男。王国の近衛騎士団長の制服を仰々しく着込んでいるが、この大陸を統べる帝国の本拠地においては、その威光もひどく安っぽく見えた。
彼は肩をいからせ、部屋の造りを値踏みするように鼻で笑うような視線を投げた。
その背後には、アルヴェルン伯爵家の家令と、神殿の高位の役人が二人。
どれもこれも、自分たちが“正しい側”だと信じて疑わず、リリアナを「逃げ出した所有物」としか見ていない顔だ。
帝国側は、数名の近衛騎士が壁際に控えているだけだ。
しかし、この部屋の空気の主導権は、完全に帝国――否、ただ一人にあった。
部屋の最奥、一段高くなった豪奢な椅子に深く腰掛ける、皇帝アレクシスがいるからだ。
今日の皇帝は礼装ではなく、漆黒の執務服姿だった。無駄な装飾は一切ないが、その身から放たれる覇気だけで部屋の温度が数度下がっているように感じる。
氷のように冷たく、底知れない群青の瞳が、無礼な侵入者たちを静かに見据えていた。
レオンたちは、部屋の中央まで進み出て、ようやくその異様な空気に気づいたらしい。
ここが、彼らの思い描いていたような「簡単な引き渡し交渉の場」ではないことに。
帝国の絶対君主が、一介の使者のために直々に出向いているという事実が、どれほど異常で恐ろしい事態であるかを。
にもかかわらず、レオンの傲慢さはその恐怖を上回った。
彼は片膝を折ることもなく、ただ胸に手を当てる程度の、他国の皇帝に対するものとは思えない雑な略式の礼をして口を開いた。
「帝国皇帝アレクシス陛下。突然の訪問をお許し願いたい。我々は隣国より、正式な使者として参った。……おい、リリアナ。お前もそこにいたか。手間が省けて重畳だ」
まるで迷子になった犬を見つけたような口振りに、リリアナの肩がビクッと跳ねた。
アレクシスは、微かに目を細めただけで、頷きすらしない。
「……許可などしていない。だが、我が国の門前で野犬のように騒がれては近隣の迷惑だ。ここで要件だけを聞こう」
声は低く、抑揚がない。けれど、その一言だけでレオンの顔面から血の気が引くほどの“絶対的な格の違い”が空間を支配した。
レオンは一瞬、屈辱に口元を歪めたが、すぐに鼻を鳴らして持ち直した。
「要件は単純です。そちらに不当に匿われている女――リリアナ・フォン・アルヴェルンを、直ちに我々に返還していただきたい」
不当に匿われている女。
その言葉に、リリアナの胸の奥がヒヤリと冷え、過去のトラウマが蘇りそうになる。
視線を落としそうになったその時、アレクシスが、リリアナだけに見える角度で人差し指を一度だけ、トントンと肘掛けで叩いた。
(落ち着け。私がいる)――そう言われた気がして、リリアナはギュッと唇を噛み締め、顔を上げた。
レオンは得意げに続ける。
「彼女は我が国の伯爵家の娘であり、王国の管理下にある重要資産です。先日の国外追放は、彼女の反省を促すための一時的な措置に過ぎません。国の危機を前にして、帰還の義務を果たすのは当然のこと」
家令が一歩前に出て、仰々しく巻物を掲げた。
「これはアルヴェルン伯爵家当主の署名と、我が国の王宮の正式な印璽が入った召還命令書です。本人がこれに従わぬ場合、騎士団による『強制連行』も法的に許可されております」
強制連行。
その言葉の響きに、リリアナの指先が氷のように冷たくなる。
祖国は、どこまでいっても彼女を“意志を持った人間”としては扱わない。ただの便利な道具を修理工場へ持ち帰る、そんな程度の認識なのだ。
アレクシスは、表情一つ変えずに淡々と聞いていた。怒りの気配すらない。ただ、絶対零度の冷たさだけがある。
「……面白い」
ぽつり、と。
皇帝の口からこぼれたその一言で、レオンと家令の背筋がビクンと強張った。
アレクシスは、ゆっくりと首を傾げた。
「自ら国外追放の書類にサインさせておきながら、都合が悪くなれば召還命令を下す。婚約破棄して捨てた女を、今度は強制連行する。……貴国の法とやらは、随分と底が浅く、ご都合主義にできているらしいな」
図星を突かれ、レオンの顔が朱に染まる。
「国家の利益の前では、個人のちっぽけな感情など些末な問題だ! リリアナもそれを理解すべきだ。彼女は元々、王国の庇護下で不自由なく『養われていた』のだからな!」
その瞬間、リリアナの中で、張り詰めていた何かがプツンと切れかけた。
養われていた?
一日睡眠三時間、休日ゼロ、無給で毎日数百本のポーションを作らされ、泥水をすするような生活を強いられていたのに?
怒りで喉が震えるが、長年の恐怖が鎖となって声を出すのを邪魔する。
――しかし、リリアナが声を上げるより先に、絶対的な皇帝の怒りが爆発した。
「『養っていた』、だと?」
アレクシスの声は、地鳴りのように低く、応接間の空気をビリビリと震わせた。
「貴国は、“養う”という言葉の定義を根本から履き違えているらしい」
皇帝が、ゆっくりと席を立った。
階段を降り、応接間の中央へ歩み出る。帝国騎士たちが無言で道を空け、柄に手をかける。その一歩一歩が、目に見えない巨大な圧力となってレオンたちにのしかかった。
レオンはここに来て初めて、己の致命的な勘違いを悟り、冷や汗を流し始めた。
目の前の男は、田舎の小国の王族ではない。その気になれば、三日で自分たちの国を地図から消し去ることができる、覇王なのだ。
それでも引けないのは、無駄に高いプライドのせいか。
「へ、陛下! こちらには正当な書類が――」
「紙切れの話などしていない」
アレクシスは、家令が震える手で掲げる巻物を一瞥すらしなかった。
「正当性というものは、中身(事実)で決まるものだ」
皇帝は、ソファで固まるリリアナのすぐ横まで歩み寄り、彼女を庇うように斜め前に立った。
一切の隙のない、完璧な『盾』の立ち位置。
彼がそこにいるだけで、レオンたちの放つ悪意はすべて遮断され、リリアナの心に安堵が広がっていく。
アレクシスは、見下すような冷ややかな目でレオンを射抜いた。
「聞こう。貴国は、リリアナを一体何のために必要としている」
「そ、それは……彼女は薬の調合に長けている。国の医療と、戦線の維持のためだ!」
「医療のため」
アレクシスは同じ言葉をなぞり、氷のような嘲笑を浮かべた。
「ならば、なぜ彼女を光の当たらない地下室に押し込めた」
空気が、完全に凍りついた。
レオンの顔が引き攣り、言葉に詰まる。
「……それは、彼女が聖女としての加護を持たず、無能だったから――」
「加護がないのなら、彼女の卓越した調合技術で国を支えさせればいい。働きに見合う正当な対価を払い、安全な環境を整え、その技術を国宝として遇すればいい。そうすれば、国は確実に強くなる。……だが、貴国は一体何をした?」
アレクシスは声を荒げない。淡々と、容赦なく事実だけを切り刻んでいく。だからこそ、逃げ場がなく恐ろしい。
「彼女の才能を搾取し、侮辱し、過労死寸前まで奴隷のように酷使し、妹のダミーとして使い潰した。そして用済みになればゴミのように追放し、国が傾いて困ったら、今度は首に縄をつけて連れ戻そうとしている。――それを“医療のため”と呼ぶのか。笑わせるな」
レオンがギリッと歯を食いしばる。
「貴国に! 我が国の内情をそこまで語られる義理はない!」
「義理などハナからない。だが、他国の領土に足を踏み入れ、要求を通すのなら『筋』は通せと言っているのだ」
家令が、泣きそうな声ですがりつく。
「へ、陛下! どうかご慈悲を! このまま手ぶらで帰れば、我々の体面が……王家の体面が丸潰れに……」
「体面?」
アレクシスは、今日一番の底冷えする声で吐き捨てた。
「己の体面を守りたいのなら、まず自国の民を、国を支える者を守れ。そんな当たり前のこともできない愚か者に、名乗る体面など存在しない」
その一言で、家令と神殿の役人は完全に心が折れ、膝から崩れ落ちた。
レオンは焦燥のあまり、ついに理性を失い、背後のリリアナに向かって怒鳴りつけた。
「リリアナ!! お前からも何か言え! お前はアルヴェルン伯爵家の娘だ! 国のために命を捧げて戻るのが、貴族としての道理だろうが!!」
ビクッ、とリリアナの肩が跳ねた。
その呼び方。命令口調。自分を所有物として見下す目。
あの地下室で、毎日毎日浴びせられ続けた呪いの言葉。身体が竦み、声が出なくなる。
――しかし、次の瞬間。
アレクシスの大きく温かい手が、リリアナの震える小さな手を、ギュッと力強く包み込んだ。
「話さなくていい」
リリアナにだけ聞こえる、甘く、優しい声。
それだけで、肺に詰まっていた空気が抜け、呼吸ができた。
アレクシスはリリアナの手を握ったまま、レオンへ視線を戻し、殺気を込めて言い放った。
「私の前で、彼女に二度と命令するな」
「何だと……!?」
「ここは帝国だ。彼女は帝国の絶対的な保護下にある。彼女を脅し、強制連行を口にした時点で、貴様らは外交の礼を致命的に踏み外している」
レオンが腰の剣に手をかけようとした瞬間、部屋に控えていた十数名の近衛騎士が一斉に剣の鯉口を切り、チャキッという冷たい金属音が響き渡った。
抜剣はしない。だが、「次に動けば四肢を切り落とす」という明確な殺意がレオンを串刺しにする。
神殿の役人が悲鳴を上げた。
「へ、陛下! 誤解です、我々は彼女を大切に――」
「では質問を変えよう」
アレクシスが容赦なく遮る。
「貴国は、リリアナの労働に対して、正当な『賃金』を支払っていたか?」
「…………っ」
役人が固まる。無給であったことは明白だ。
「休日を与えていたか? 労働時間を管理していたか? 毒素の充満する地下室から出し、安全な環境を整えていたか? ……家族からの執拗な侮辱を、誰か一人でも止めたか?」
一つずつ、鋭い杭のように事実が打ち込まれていく。
レオンも、家令も、誰一人として反論できない。
圧倒的な沈黙の中で、アレクシスは冷酷な結論を告げた。
「貴国の不当な要求は、すべて却下する」
交渉の余地など一切ない、完全なる拒絶。
レオンが顔を真っ赤にして吠える。
「帝国は! 大国の力で隣国の内政に不当に介入するつもりか!!」
「介入ではない」
アレクシスは、当たり前の事実を告げるように言った。
「私はただ、愛しき『私の臣民』を、野盗から守っているだけだ」
臣民。
その言葉に、リリアナは目を見開いた。
アレクシスは続ける。
「彼女にはすでに『特別薬師』の地位と徽章を与えた。法的にも、身分的にも、彼女は完全に帝国の庇護下にある。……もしこれ以上、彼女を不当に連れ戻そうと軍を動かすのであれば、それは帝国への『宣戦布告』と見なす」
さらっと、国家の滅亡(武力介入)をチラつかせた。
レオンの顔から血の気が完全に引き、膝がガクガクと震え始める。
それでも、男の惨めなプライドが、最後に醜い悪あがきをさせた。
「リ、リリアナ! 目を覚ませ! お前は本当にこの男に利用されているだけだぞ! 大国の皇帝に囲われて、良いように使われて捨てられるのがオチだ!!」
リリアナの喉が動いた。
言い返したい。怒鳴りつけてやりたい。
でも、まだ言葉が上手く紡げない。
――だから、アレクシスが、彼女の心を代弁するように言い放った。
「彼女を利用し、使い捨てたのは、お前たちだろう」
静かな声だった。
それなのに、その一言で、レオンの言葉の刃はすべて粉々に打ち砕かれた。
「私は彼女に休みを与える。労働の自由を与える。拒否権も与える。最高の環境と、正当な対価を支払う。……それを“囲う”と呼ぶのであれば、貴国が彼女にやってきた悪逆非道な行為は、一体何と呼ぶのだ?」
レオンの口が、開いたままパクパクと動くが、音は出ない。
完全に論破され、己の醜悪さを鏡で見せつけられたのだ。
アレクシスは、最後にゴミを見るような目で言い渡した。
「帰れ。次、この帝国の土を踏む時は、使者としてではなく『敵国の侵略者』として処理する。……消えろ」
近衛騎士が、重厚な扉を勢いよく開け放った。
それは招きではなく、紛れもない「追放」の合図だった。
レオンは悔しさと恐怖で顔を醜く歪めながらも、帝国の絶対的な武力と正論の前に抗うことはできず、尻尾を巻いて踵を返した。家令と役人たちも、逃げるようにそれに続く。
バタンッ、と重い音がして扉が閉まる。
応接間に、再び静けさが戻った。
リリアナは、アレクシスに握られたままの手を見つめ、ゆっくりと強張っていた肩の力を抜いた。
アレクシスが振り返り、先程までの冷徹な覇王の顔から一転、心配そうな、ひどく甘い顔つきになった。
「……大丈夫か、リリー。怖かっただろう」
リリアナは、何度か瞬きをしてから、小さく頷いた。
「……大丈夫、です。陛下が、全部言ってくださったから」
助けてくれた。守ってくれた。
あの理不尽な言葉の刃から、圧倒的な力で庇ってくれた。
アレクシスは、リリアナの手を優しく撫でながら、微笑んだ。
「あの場で泣き崩れず、逃げなかった。お前は強いな」
「……陛下が、手を握っていてくれたからです」
その言葉に、アレクシスの群青の瞳が嬉しそうに細められる。
リリアナの胸の奥で、じわっと温かいものが広がっていった。
――同時に、彼女の心の中で、過去の呪縛が完全に砕け散る音がした。
(私、もう絶対に、あの国には戻らない)
祖国がどれだけ命令しようと、泣きつこうと、脅迫してこようと。
自分はもう、誰かに搾取されるだけの『便利な歯車』ではない。
アレクシスは、リリアナの晴れやかな顔を見て、満足そうに頷いた。
「よし。今日はもう仕事は休みだ。……いや、今日は大いに祝おう」
「祝う?」
「ああ。お前が、過去の亡霊に完全に打ち勝った記念日だからな」
リリアナは、驚いたように目を見開いた。
勝った。
そんな肯定の言葉を、人生で一度でも自分に向けられたことがあっただろうか。
アレクシスは、当然のように付け足す。
「夕食は、腕利きの料理長にお前の一番好きなものを作らせよう。何が食べたい?」
「……私の好きなものなんて、分からないんじゃないですか?」
「分からない。だから、こうして今からお前に聞くんだろう?」
その言い方が、あまりにも真っ直ぐで、自然で。
リリアナは、先程まで震えていたはずなのに、思わず「ふふっ」と声を出して笑ってしまった。
皇帝の盾は、敵に対してはどこまでも冷徹で、鋭くて、圧倒的で。
同時に――彼女の柔らかな心を守り抜くための、世界で一番温かくて、甘い壁でもあった。




