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第6話 枯渇する祖国と偽りの聖女

 リリアナが帝国の明るく清潔な工房で、最高級の設備に囲まれながら決められた時間だけポーションを作っていた頃。


 祖国の王宮では、別の意味で大きな鍋が沸騰していた。

 焦りと、苛立ちと、責任の押し付け合い――それらがドロドロに煮詰まって、むせ返るような濃い毒となって王宮全体を覆い始めていたのだ。


「中級回復ポーションが完全に底を突いたと言っているだろうが!!」


 王宮の軍議室で、騎士団の副団長が怒声と共に分厚いオーク材の机を叩き割らんばかりに叩いた。


「負傷兵が溢れ返っているんだぞ! 日々の訓練での怪我だけではない、北の国境付近で魔獣の動きが活発化している。このままでは前線の維持すら不可能だ! 治療院の在庫はどうなっている!?」


 怒鳴りつけられた宮廷医師長は、土気色になった顔で両手を広げた。


「わ、私に怒鳴られても困る! 薬師ギルドや錬金術工房には毎日急かしている。材料も予算も渡している。だが――彼らには『作れない』のだ!」

「作れないだと!? ただの傷薬だろうが!」

「ただの傷薬ではないのだよ! 騎士団が要求する『即効性』と『完全治癒』を両立した高品質なポーションを、毎日数百本単位で量産できるすべなど、我が国のどこを探しても存在しないのだ!」


 副団長が、信じられないものを見るように唸る。


「そんな馬鹿な。数日前までは、何の問題もなく湯水のように納品されていたじゃないか。あれは一体どこから湧いて出ていたんだ!」

「……私にも分からん。地下の備蓄庫から毎日上がってきていたものを、そのまま流していただけだ」


 回っていた。

 ほんの数日前まで、王宮の機能は完璧に回っていたのだ。


 王族も、貴族も、騎士も、誰も『誰がそれを回しているのか』を見ようとしなかった。

 光の当たらない地下室に押し込められた、名もなき令嬢の血の滲むような過重労働。それは華やかな王宮にとって不都合な真実であり、見る価値もない「雑務」だと思い込んでいた。


 だから、誰も気づかなかったのだ。

 リリアナというたった一つの心臓が機能停止した瞬間、この国の“血液”が完全に止まってしまうという致命的な事実に。


 副団長が、苛立ち紛れに吐き捨てた。


「ポーションがないなら、聖女がいるだろう! 国を挙げて認定した『光の聖女』セシリア様が! あの方の奇跡で、前線の兵士たちを一瞬で癒やせばいいじゃないか!」


 その名前が出た瞬間、宮廷医師長の目が泳ぎ、額から滝のような冷や汗が流れ落ちた。


「……そ、それは……」


 数日後。

 王宮内の最も豪奢な一室で、緊急の極秘会議が開かれていた。


 集まったのは、第二王子側近の宰相、宮廷医師長、そしてリリアナの父であるアルヴェルン伯爵と、元婚約者の近衛騎士団長レオン。

 円卓の上には、国中から上がってきた悲鳴のような報告書が山積みになっている。治療院の崩壊、騎士団の死傷者激増、ポーション価格の異常な高騰による市民の暴動寸前の事態。


 父である伯爵は、ハンカチで何度も脂汗を拭いながら震える声で言った。


「……諸外国から、高値でポーションを買い付けるわけにはいかないのか」


 宰相が冷ややかな目で伯爵を睨みつける。


「金の問題ではない。我が国で数日前まで流通していたポーションは、他国の最高級品エリクサーに匹敵する純度だったのだ。そんなものを数百本単位で売ってくれる国などあるわけがない。……それで? 肝心の『聖女様』の様子はどうなのだ」


 全員の視線が、部屋の隅に控えていたセシリア付きの筆頭侍女に向けられた。

 侍女は、今にも倒れそうなほど青ざめた顔で一歩前に出た。


「セ、セシリア様は……本日も、わずか三人の騎士を癒やされただけで『魔力枯渇』を起こし、倒れられました。現在はご自室で療養されております……」


 レオンが、信じられないというように顔を上げた。


「たった三人だと? 馬鹿な。先月の討伐遠征の時は、あいつは祈り一つで、一気に五十人の重傷兵を回復させたはずだぞ! あの無尽蔵の光の魔力こそが、真の聖女の証だろうが!」


 侍女は、ガタガタと震えながら、ついに隠しきれなくなった『真実』を口にした。


「……セシリア様の魔力は、元々それほど多くはございません。これまでの大規模な奇跡はすべて……『事前の準備』があってこそのものでした」

「準備だと?」


「はい。祈りの儀式の前に、必ず『特製の薬湯』を飲み、魔力増幅の『香油』を肌に塗り、祈りの最中も喉を守る『飴薬』を含んでおられました。それらを使用することで、一時的に魔力の底上げと、奇跡の範囲拡大を行っていたのです」


 会議室の空気が、凍りついた。


 レオンが、低い、地を這うような声で問う。

「……その薬や香油は、誰が作っていた」


 侍女は涙声で答えた。


「すべて……リリアナ様です。リリアナ様が、毎日地下室で『これを飲めば、セシリアの祈りが少しは楽になるはずだから』と、睡眠時間を削って作ってくださっていたのです」


 その言葉が落ちた瞬間、伯爵の顔面から完全に血の気が引いた。


 毎日。

 セシリアの輝かしい奇跡の裏には、常にリリアナの泥臭い支えがあった。

 リリアナは、家族から蔑まれ、妹にすべてを奪われてもなお、激務の合間を縫って妹の体を気遣うアイテムを作り続けていたのだ。


 結果として、セシリアの才能は底上げされ、彼女は『光の聖女』として祭り上げられた。

 そして彼らは、その土台となっていたリリアナを「魔力ゼロの役立たず」と嘲笑い、国から追放したのだ。


 宰相が、氷のような目で伯爵とレオンを交互に見据えた。


「……つまり、セシリア様の聖女としての力は『ハリボテ』であり、我が国の医療と軍事を根底から支えていたのは、貴殿らが追放した長女の方だったと。そういうことだな?」


 伯爵は口をパクパクさせるだけで、何の反論もできなかった。

 レオンもまた、ギリッと奥歯を噛み締め、沈黙するしかなかった。


 王宮の地下室に残されていた記録簿には、常軌を逸したポーションの製造量と、完璧に計算され尽くした薬湯の調合レシピが、リリアナの几帳面な筆跡で残されていた。

 しかし、そのレシピ通りに宮廷の錬金術師たちが作ろうとしても、途中で必ず失敗するか、ただの濁った泥水にしかならなかった。リリアナの手指に宿る『見えない奇跡(無自覚チート)』がなければ、到底再現不可能な代物だったのだ。


 その頃、セシリアの豪華な私室では、ヒステリックな叫び声が響き渡っていた。


「ガシャンッ!」

「きゃあっ!」


 壁に投げつけられた高価な姿見が粉々に砕け散り、侍女たちが部屋の隅で震え上がっている。

 ベッドの上に座り込むセシリアは、美しいプラチナブロンドの髪を振り乱し、化粧でも隠しきれない土気色の顔で叫んでいた。


「どうして……どうして私の光が出ないのよぉっ!!」


 少し祈っただけで、全身の血が逆流するような疲労感と頭痛に襲われる。

 目の下にできた濃い隈。カサカサに荒れた肌。

 自分が『本物』だと信じて疑わなかったセシリアにとって、今の自分の無力さは恐怖でしかなかった。


「私があの役立たずの泥水みたいな薬に頼ってたなんて、嘘よ! 私は光の聖女なの! 国中から愛される、特別な存在なのよぉッ!」


 泣き叫ぶセシリアの頭には、自分の体を気遣ってくれていた姉への感謝など微塵もない。

 あるのはただ、自分の輝かしい地位が失われることへの身勝手な恐怖と、思い通りにならない現実への苛立ちだけだった。


「ねえ、お姉様を連れ戻して! 今すぐあの地下室に繋いで、私のための薬を死ぬまで作らせなさいよ!!」


 醜く顔を歪める妹の叫びは、虚しく部屋の中に響き渡るだけだった。


 その日の深夜。

 王宮の執務室で、伯爵とレオンは重苦しい空気の中で向き合っていた。


 伯爵が、擦れ枯れた声で切り出した。


「……リリアナを、呼び戻す。冒険者ギルドの情報によれば、隣国の帝国の国境付近で目撃されたらしい」

「呼び戻す、だと?」


 レオンが、苛立たしげに鼻で笑った。


「馬鹿なことを言うな。あいつは自らサインして追放を受け入れたのだぞ。今さら『やっぱりお前が必要だった』などと頭を下げて頼み込むつもりか? 王族の、そして近衛騎士団長の誇りにかけて、そんな真似ができるわけがないだろう」


 どれだけ国が傾こうと、彼らの根底にある『自分たちは特別な選ばれた人間であり、魔力のないリリアナは底辺の道具である』という傲慢な認識は、一ミリも変わっていなかった。


「……では、どうするのだ。このままでは国が滅ぶぞ」

「簡単なことだ」


 レオンは、冷酷な目で剣の柄に手を当てた。


「『連れ戻す』のだ。あいつは伯爵家の所有物であり、王国の資産だ。資産が勝手に逃げ出したのなら、首に縄をつけてでも引きずり戻し、再び地下室の鎖に繋ぐ。それだけの話だろう?」


 伯爵は一瞬だけ良心の呵責に表情を強張らせたが、すぐに己の保身と王宮の崩壊への恐怖がそれに打ち勝った。


「……そうだな。あの子は昔から、私たちが命令すれば逆らえずに従う大人しい性格だった。少し脅してやれば、すぐに泣きついて戻ってくるだろう」

「俺が行こう。精鋭の騎士を数名連れて、帝国へ向かう」


 レオンは、歪んだ笑みを浮かべた。


「安心しろ。どんな手段を使ってでも、あの女を元の『正しい場所(ゴミ溜め)』に戻してやる。それが、あいつの身の丈に合った唯一の生き方なのだからな」


 彼らの言葉には、リリアナを一人の人間として尊重する意志など欠片もない。

 ただの『便利な道具』の修理に赴くような、傲慢で身勝手な決意だけがあった。


 その頃、帝国の皇宮、特別薬房棟では。


 リリアナはふかふかのベッドの上で、なぜか急に背筋に冷たい悪寒を感じて目を覚ました。

 魔道暖炉の火は温かく、部屋は完璧な温度に保たれているというのに、胸の奥がざわざわと波立っている。


(……何かしら。この、嫌な感じ)


 理由は分からない。ただ、長年の理不尽な環境下で培われた生存本能が、鋭く警鐘を鳴らしている。

 誰かが、自分のこのささやかな平穏を壊しに来る。

 自分を、もう一度あの暗く冷たい地下室へ引きずり戻すために。


 リリアナは、無意識のうちに布団をぎゅっと握りしめ、小さく震えた。


(怖い。……でも)


 ふと、廊下の向こうから、規則正しい静かな靴音が聞こえた。

 そして、扉越しに、低く落ち着いた、聞き慣れた声が響く。


「リリー。起きているか。……少し、夜風が冷え込んできた。暖炉の魔石を補充させてもいいか」


 皇帝アレクシスだ。


 たった一国を治めるだけのちっぽけな王とは違う。この広大な大陸を支配する、絶対的な武力と権力の象徴。

 そして何より、自分を『守りたい』と言ってくれた人。


 その声を聞いた瞬間、リリアナの体の震えが、嘘のようにピタリと止まった。


(……大丈夫。たぶん、今度はもう、逃げなくていい)


 リリアナは小さく息を吐き、ベッドから降りて扉へ向かった。

 彼女を守る帝国という巨大な盾は、すでに展開されている。


 祖国では、崩壊の音が加速度的に大きくなっていく。

 そして彼らは、自らが捨てた宝の真の価値に気づかぬまま、“都合のいい歯車”を取り戻すという最も愚かな選択に向けて、破滅の道を歩み始めていた。

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