第5話 皇帝陛下からの甘すぎる包囲網
皇帝専用の豪奢な馬車に揺られ、帝城の正門をくぐった瞬間、リリアナの脳裏にこびりついていた「王宮」という言葉のイメージが、盛大に打ち砕かれた。
光の届かない暗い廊下。カビと薬品の混じった湿った石壁。空気が澱んだ地下室の匂い。
――そんなものは、この国の中心にはどこにも存在しなかった。
視界に広がったのは、広大で手入れの行き届いた美しい庭園だった。冬の終わりを待つ色鮮やかな花壇、塵一つ落ちていない白い砂利の小道、清らかな水音を立てる豪奢な噴水。陽の光が、眩しいくらい素直に、真っ白な城壁に降り注いでいる。
(……本当に、ここがお城の中なの?)
馬車から降りたリリアナは、思わず口を半開きにして天を仰いだ。
高くそびえる美しい尖塔は確かに城の造りだが、祖国の王宮とは決定的に違う。ここは“人間がまともに息を吸える”澄んだ空気が流れていた。
馬車を先導していた近衛騎士が、リリアナに向かって、貴族の令嬢に対するような丁寧な礼をとった。
「リリアナ殿。こちらへ。皇帝陛下の命により、貴女様の新しい工房となる『特別薬房棟』へご案内いたします」
「……えっと、はい。お手数おかけします」
フルネームで、しかも敬称付きで呼ばれたことに、遅れて心臓が跳ねた。
(看板の『リリー』じゃなくて、本名で呼ばれてる……。アレクシス様、本当に私のこと全部調べ上げてるんだわ……怖い……)
逃げ出したい衝動を必死に堪え、背筋に力を入れて騎士の後を歩く。
通されたのは、帝城の中心から少し離れた、静かで日当たりの良い一角だった。緑豊かな木立に囲まれるように、こぢんまりとした上品な別棟が建っている。
騎士が恭しく重厚な木扉を開けた。
そこで待っていたのは、パリッとした黒のドレスに純白のエプロンを身につけた、背筋のピンと伸びた年配の女性だった。
「ようこそお越しくださいました、リリアナ様。お待ちしておりました」
様。
リリアナは反射的に「ただの平民ですので様はやめてください」と言いそうになり、慌てて飲み込んだ。ここで身分を主張して拒絶しても、皇帝の勅命の前では意味をなさないだろう。
女性は、孫を見るような柔らかく温かい微笑みを浮かべた。
「私はこの特別薬房棟の侍女長を任されました、マルタと申します。以後、リリアナ様の生活面と作業環境のサポートを、誠心誠意務めさせていただきます」
「あ、あの、サポートって……私は一人で自分の店をやるつもりだったんですけど……」
「お気になさらず。陛下より『彼女が一番安心でき、かつ一切の不便がない環境を構築しろ』と厳命されておりますゆえ」
マルタの後ろには、優秀そうな若い侍女たちが三人控えていた。皆、出しゃばらず視線を落としつつも、なぜかリリアナを見る目に「尊いものを拝むような」熱い敬意が混ざっている。
(……なんか、凄く歓迎されてる? 私、祖国から無能扱いで追放された底辺職人なのに?)
困惑でフリーズしているリリアナに、マルタが歩み寄り、穏やかな声で促した。
「まずは、新しい工房をご案内いたします。きっと気に入っていただけるかと」
案内された先は、一階の大部分を占める広大な「作業場」だった。
足を踏み入れた瞬間、リリアナは息を呑んだ。
広い。とにかく明るい。壁一面の大きな窓から自然光が入り、換気は完璧。床の石畳は塵一つなく磨き上げられ、壁際の特注の棚には、用途別に整理された最高級の保存瓶がズラリと並んでいる。
中央に鎮座する大鍋も、抽出用の炉も、純銀製の蒸留器も、精密な魔力計量器も――どれも国家予算レベルの新品の輝きを放っていた。
極めつけは、設備に施された魔法陣だ。
(ちょっと待って……これ、銅の蒸留器の接合部に純金が使われてる!? それに、鍋の底にあるこの刻印、温度を1ミリの狂いもなく一定に保つ最上位の魔道具じゃないの!?)
リリアナは、震える手で無意識に作業台へ触れた。
高級な黒檀で作られた台は、冷たく、滑らかで、木屑のささくれ一つない。祖国では、腐りかけた木の台のトゲが指に刺さって血を流しながら作業するのが当たり前だったのに。
怪我をする心配がない。ただそれだけの事実が、妙にリリアナの鼻の奥をツンとさせた。
「……お気に召しませんでしたか?」
呆然としているリリアナを見て、マルタが不安げに尋ねる。
「いえ、違うんです……! 凄すぎて、現実感がなくて。こんなの、国一番の宮廷錬金術師が使うような設備ですよ」
「それは良かったです。こちらは正真正銘、“リリアナ様専用”の工房ですので、ご自身の使いやすいようにいくらでもカスタマイズしてくださいませ」
専用。
その甘美な響きが、今度はリリアナの背中にゾクッとした寒気を走らせた。
(専用の城の設備。専属の侍女。……これって、完全に“逃げられないように囲われてる”ってことでは……?)
リリアナが顔を引きつらせたのを察したのか、マルタはすぐにフォローを入れた。
「ご安心ください。この棟への出入りの制限は、すべて悪意ある者からあなた様を守るためのものです。決して、自由を奪うための牢獄ではございませんよ」
優しすぎる説明が、逆に包囲網の分厚さを物語っていて怖い。
そして、その“怖さ”をさらに上書きするように、二階の私室へ案内された。
そこは、最高級ホテルもかくやという豪奢な「寝室」だった。
天蓋付きのふかふかのベッド。最高級の羽毛布団。いつでも適温を保つ魔道暖炉。白木の美しい机と椅子。窓の外には、リリアナの目を楽しませるためだけに造られた小さなプライベートガーデン。
――カビ臭い簡易ベッドしか無かった地下室と、完全に真逆の世界。
(こんな部屋、私みたいな薄汚れた女に必要……? いや、必要か……人間らしい生活を送るためには……)
完全にキャパシティを超え、脳内がショートしそうになっていると、若い侍女が控えめに声をかけてきた。
「リリアナ様、お風呂のご用意が整っております。急な移動で、さぞお疲れでしょうから」
「え、お風呂? 今からですか? まだ外は明るいですし、私、荷解きもポーションの仕込みも……」
「陛下より、『到着したら何よりもまず、彼女の身体を温め、休ませるように』と固く命じられておりますので」
陛下より。
なぜ一国の皇帝が、ただの町娘の入浴のタイミングまで把握して指示を出しているのか。
リリアナが反論しようと口を開きかけた、その時だった。
――廊下の先から、複数の重い靴音が近づいてきた。
護衛の騎士たちが立ち止まり、空気が一瞬にしてピンと張り詰める。
現れたのは、皇帝アレクシスだった。
昨日の夜の“血まみれの美形”ではない。帝国の執務服に身を包んだ、最高権力者としての圧倒的な威圧感。
――のはずなのに、リリアナを見た瞬間、その群青の瞳が、ふわりと春の陽だまりのように柔らかく細められた。
「無事に到着したようだな。長旅、ご苦労だった」
「っ……はい。陛下」
リリアナは反射的に姿勢を正し、祖国で叩き込まれた完璧な臣下の礼をとろうとした。
しかし、アレクシスは長い脚で一歩踏み出し、リリアナの肩を軽く手で制した。
「固くなるな。昨日も言っただろう。ここでは、お前に無理な命令は一切しない」
その言葉に、リリアナの胃が別の意味でキュッと締め付けられる。
(命令しない、って……皇帝陛下がそんなこと言うわけないじゃないですか。絶対に裏があるはずよ)
アレクシスは部屋の設備を満足げに見回し、リリアナに視線を戻した。
「設備に不満はないか。足りないものがあれば、何でもすぐに用意させるが」
「不満というか……あまりにも豪華すぎて、私が粗相をして壊してしまわないか不安です」
「壊れたら新しいものを百個用意させる。遠慮など微塵もする必要はない」
言い方が、あまりにも当然すぎて狂っている。国家予算の使い方がおかしい。
リリアナは、意を決して真っ直ぐにアレクシスを見た。
「……陛下。私、このまま休んでいると落ち着きません。表の店舗の棚も空っぽですし、明日の分の薬草の仕込みをしないと――」
「分かっている」
アレクシスはリリアナの言葉を遮らずに聞き届け、淡々と、だが絶対に譲らない響きで答えた。
「だからこそ、今日はもう休め」
「休んだら、在庫が作れません。騎士団からの急な追加発注が来たらどうするんですか!」
「休まなければ、お前の身体がもたない。それに、ここはブラックな祖国とは違う。無茶な追加発注など、私がすべて握り潰す」
正論にして、圧倒的権力による物理的解決。
リリアナは反論しようとして、言葉に詰まった。祖国で“休む=役立たずの烙印”という呪いをかけられていた彼女にとって、休めという命令は恐怖でしかないのだ。
アレクシスは、リリアナの怯えたような目を見て、声のトーンを一段階落とした。
「……お前は昨日、命の危険を顧みず、私を救ってくれた。だが、お前の心と身体は、まだ過去の呪縛から“救われていない”。……まずは、人間らしい生活を取り戻すんだ」
リリアナは、思わず視線を落とした。
自分の手。薬品による爛れ。火傷の跡。カチカチになった指の豆。薬液が染み付いて変色した爪。
皇帝の美しい瞳に見られたくなくて、ギュッと手を握りしめる。
「……私、昨日まで、過労死寸前だったんです」
ぽろっと、本音がこぼれ落ちた。
絶対に言うつもりはなかったのに、彼の声があまりにも優しすぎて、無意識に口が動いていた。
「地下室に閉じ込められて、毎日毎日、何百本も薬を作らされて。手を止めたら『役立たず』って怒鳴られて。やっと眠れると思ったら、深夜に追加のノルマが来て……」
言葉にするだけで、当時の息苦しさが蘇り、喉の奥がヒリヒリと痛む。
アレクシスの瞳に、氷のような冷たい怒りの炎が灯った。
「それは、労働ではない。ただの拷問であり、虐待だ」
短い、しかし絶対的な断言。
リリアナは弱々しく肩をすくめた。
「……でも、加護のない私にとっては、それが生きるための『日常』でしたから」
「そんなものを、お前の日常にしてはいけない」
アレクシスは一歩だけリリアナに近づき、手が触れる寸前の距離でピタリと止まった。
「よく聞け、リリー。ここでは、その狂った日常は終わりだ」
その言葉が、重力を持ってリリアナの胸の最奥にストンと落ちた。
ただの同情や慰めではない。この世界で一番強い男の、絶対的な“庇護の宣言”だった。
空気が甘く重くなりかけたところで、侍女長のマルタが控えめに、だが絶妙なタイミングで咳払いをした。
「陛下。お食事の準備も整っております。湯浴みの後に、すり減った胃に負担の少ない、栄養価の高いものをと料理長が腕によりをかけております」
胃に負担の少ないもの。
過労死寸前の人間のリカバリー方法が、妙に専門的すぎて怖い。
リリアナが呆然としていると、アレクシスはさらっと、とどめを刺すように言った。
「それから、お前のこれからの『業務の時間割』も用意しておいた」
「……時間割、ですか?」
「ああ。開店は昼からでいい。午前は仕込み。午後は販売。夕方十七時以降は完全休養。そして、夜間作業は例外なく『禁止』だ」
「……きん、し」
リリアナは思わず鸚鵡返しにした。命令はしないと言ったのに、完全に職権乱用である。
アレクシスは、まるでそれが世界の理であるかのように頷く。
「お前は放置すれば、無自覚に自分の限界を超えて自分を酷使するだろう。だから、私が強制的に止める」
「……あの、私、陛下の部下や所有物になった覚えはないんですが?」
「部下ではない。ましてや物でもない」
アレクシスは、彫刻のような美しい顔に、甘く蕩けるような笑みを浮かべた。
「お前は、私が持てるすべての力を懸けて『守りたいと願う女性』だ」
――ボフッ。
リリアナの脳内で、何かがショートして爆発する音がした。
(守りたい女性って、なに……っ!? ちょっと待って、距離感が、皇帝陛下のお言葉の威力が強すぎる!)
顔面が沸騰しそうになり、慌てて話題を変えようとしたが、アレクシスはさらに逃げ道を塞ぐように続けた。
「お前の店は、表向きは『帝城付属の特別薬房』として機能させる。客は城内の身元の確かな者と、私が直接許可を出した者に限定する」
「……完全許可制……」
「嫌か?」
「嫌というか……それなら確かに、私の望む『ひっそり』は達成できそうですけど……」
言ってから気づく。
物理的な脅威からの『ひっそり』は完璧に守られているが、代わりに皇帝陛下からの重すぎる矢印に完全にロックオンされている。
(包囲されてる……ッ! 圧倒的な権力と、超絶ホワイトな待遇と、甘すぎる優しさで、四方八方から完全に逃げ道を塞がれてる……!)
その後、半ば強制的に押し込まれた湯浴みは、リリアナの常識をさらに破壊した。
温度が一定に保たれた広い湯船。髪を洗うための最高級の香油。侍女たちのプロフェッショナルなマッサージ。
湯から上がると、ふかふかのタオルで包まれ、胃に優しくも信じられないほど美味しい温かい食事が用意されていた。
一口食べるごとに、死にかけていた細胞が「生きている喜び」を思い出していくのが分かる。
(なにこれ……ここが天国……? でも、こんなに甘やかされたら、人間が駄目になっちゃう……!)
食後。どうしても落ち着かなかったリリアナは、マルタに懇願した。
「あの、少しだけ……本当に一時間だけでいいので、作業場を使わせてください」
「……かしこまりました。ですが、必ず一時間で切り上げてくださいませ。陛下のお達しですので」
『陛下のお達し』。その言葉の威力が凄まじい。
作業場に入ると、机の上にはすでに完璧な状態の材料が用意されていた。
リリアナは、深呼吸をして大鍋の前に立つ。
(とりあえず、帝国の標準的な傷薬を作ろう。絶対に効きすぎないように、手抜きで……)
そう思って作り始めたはずなのに、最高級の道具と素材を前にしたリリアナの手は、勝手に「最も効率的で完璧な手順」を刻み始めてしまった。
火力を安定させ、不純物を完全に取り除き、抽出時間を一秒の狂いもなく見極める。
結果、出来上がったポーションは――淡い金色どころか、液体の内側から神聖な光を放っているように澄み切っていた。
「……あ、やばい」
自分で呟いてしまうほど、エリクサー一歩手前の、ヤバい代物が完成してしまった。
そのとき、コンコンと作業場の扉がノックされ、アレクシスが入ってきた。
彼は鍋の中の光り輝く液体を一目見て、微かに目を細めた。
「……なるほど。昨日裏通りで作ったものより、さらに純度と魔力が濃いな」
「ま、材料と設備が良すぎたんです! 私のせいじゃありません!」
「では、材料の質を落とせばいい」
「質を落としたら、逆に反発して爆発するかもしれないじゃないですか! ポーション作りを舐めないでください!」
リリアナが職人の顔になって言い返すと、アレクシスは不快に思うどころか、ますます愉快そうに笑った。
「頼もしいことだ。……なら、配る相手を厳選すればいい。まずは城内の、本当に重傷を負った騎士の治療にだけ使う。一般向けには、効果を薄めた別の製品のラインを私が作らせよう」
皇帝の口から出る解決策は、いちいち規模が国家レベルだ。
リリアナは完成したポーションを小瓶に移しながら、不安げにぽつりと言った。
「……私、こういう自分の力が、本当は怖いです。バレたら、また誰かに良いように利用されて、捨てられるだけだから」
アレクシスの視線が、ポーションの瓶を握るリリアナの、傷だらけの手元へ落ちた。
「誰にも利用などさせない」
短い、だが絶対の確信を持った言い切り。
そのまま彼は、自分の懐から小さな銀色の丸薬入れのようなものを取り出した。中には、ほんのりと花の香りがする、最高級の治癒軟膏が入っている。
「手を出せ」
「え?」
「いいから、手」
逆らう間もなく、リリアナは両手を差し出していた。
アレクシスは自身の大きな指先で軟膏を掬い取ると、リリアナの小さな手の甲、爛れた皮膚、硬くなった指先に、そっと丁寧に塗り込み始めた。
ヒィッ、とリリアナは短く息を飲んだ。
皇帝の指が、自分の汚い手に直接触れている。その触れ方は少しの乱暴さもなく、まるで壊れ物のガラス細工を扱うように、ひどく慎重で、慈しむようだった。
「っ、陛下、そんな……私の手なんか汚いですし、人にやってもらうような……!」
「黙っていろ。痛むか?」
「いえ……痛くは、ないです」
軟膏が塗られた場所から、じんわりと心地よい熱が広がっていく。
リリアナは恥ずかしさで顔から火が出そうで、視線を上げるこができず、ただアレクシスの伏せられた長い睫毛を見つめることしかできなかった。
アレクシスはすべての傷跡に薬を塗り終えると、満足げに頷き、淡々と告げた。
「その奇跡の腕は、帝国にとっての至宝だ。……だが、それ以前に、この手は『お前自身』にとって、一番大切なものだろう」
言葉の温度が、不器用なほどに優しい。
リリアナは思わず、かすれた声で聞いてしまった。
「……陛下は、どうして私にそこまでしてくださるんですか。ただ薬が作れるだけなら、設備を与えて放置しておけばいいのに」
アレクシスは、すぐには答えなかった。
少しだけ沈黙が落ちた後、彼の手が、リリアナの手に優しく重なった。
「昨日、お前は正体も分からない血まみれの男の命を救った。追手が迫る恐怖の中でも、見返りも求めず、震える手で私を隠してくれた」
群青の瞳が、真っ直ぐにリリアナの心を射抜く。
「私は、あんなにも美しく、気高い魂を持つ人間を、絶対に失いたくない」
ドクン、と。
リリアナの心臓が、今まで経験したことのない異常な跳ね方をした。
「役に立つから」ではない。ただの人間として、リリアナという存在そのものを肯定し、欲してくれている。
リリアナは限界に達し、顔を真っ赤にしてパッと手を引き抜いた。
「っ……陛下、そういうの、本当に困ります!」
「何が困るんだ」
「……私、優しくされることに、まったく慣れてないんです! 心臓に悪いです!」
半ば自暴自棄に正直な思いを叫ぶと、アレクシスは目を丸くし――そして、愛おしくてたまらないというように微笑んだ。
「ならば、慣れればいいだけの話だ」
「簡単に言わないでください!」
「簡単ではないと分かっている。だからこそ、お前が当たり前のように受け入れられるようになるまで、私が何度でも、永遠に与え続ける」
皇帝の口説き文句は、逃げ道をすべて塞ぐ完全な包囲網だった。
「ほら、一時間経ったぞ。約束通り、今日はもう寝室へ戻れ」
アレクシスに背中を押され、リリアナは抗うこともできずに寝室へと連行された。
夜。
魔道暖炉の火がパチパチと爆ぜる音だけが聞こえる、静かで安全すぎる部屋。
ふかふかのベッドに潜り込んでも、身体がこの圧倒的なホワイト待遇に慣れておらず、すぐには眠れそうになかった。
――コンコン。
控えめなノックの後、侍女長のマルタがそっと入ってきて、一枚の小さな封筒を差し出した。
「陛下より。読んだら、余計なことは考えずにすぐ休むように、とのことです」
リリアナはベッドの上で身を起こし、封を切った。
中には、皇帝の流麗な文字で、たった一言だけが記されていた。
『無理をするな。明日も、元気なお前に会いたい。 アレクシス』
リリアナは、その短い手紙を両手で握りしめ、ベッドに倒れ込んだ。
胸の奥が、じんわりと熱く、甘く溶けていくような感覚。
(……会いたい、って……。あの皇帝陛下が、私に……)
怖い。期待したら、また裏切られた時に壊れてしまう。
でも。
手紙をそっと胸に押し当てたときだけは、リリアナは自分の頬がだらしなく緩むのを、どうしても止めることができなかった。
帝城の夜は静かで、温かく、そして絶対的な安全に守られていた。
リリアナを囲い込む甘すぎる包囲網は、こうして確実に、彼女の心を絡め取っていくのだった。




