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第3話 運命の客は、死にかけの超美形でした

 すっかり日が落ちて、通りから人の気配が消えた頃。

 店の扉に「閉店」の木札を掛けたあとも、リリアナは作業場に残り、大鍋の前に立っていた。


 今日売れてしまった分のポーションを補充するための仕込みだ。

 空になった瓶を念入りに煮沸して乾かし、大量の薬草を種類ごとに仕分け、乳鉢で無心にすり潰す。

 祖国の王宮の地下室で、毎日毎日、来る日も来る日も繰り返してきた果てしない作業。その狂ったルーティンが完全に身体に染み付いているせいか、こうして手を動かしていると、不思議と余計な不安が薄れ、心が落ち着くのだ。


 ――しかし、その夜の静寂は、突然破られた。


 表の通りから、遠くで金属同士が激しく擦れ合うような嫌な音がした。

 叫び声ではない。ただ、重いものが地面を転がる音と、誰かが短く息を呑むような、切迫した気配。


 リリアナは薬草を刻む手を止め、作業場の小さな窓から外の暗闇を窺った。


(……喧嘩? それとも、物騒な追い剥ぎかしら)


 帝国は治安が良いと聞いていたが、やはり裏通りが完全に安全というわけではないらしい。

 関わり合いにならないのが一番だ。そう思い、再び乳鉢に向き直ろうとしたその時。


 ちりん。


 店のドアに付けた小さな鈴が、かすかに鳴った。

 鍵を掛け忘れていたらしい。


 次の瞬間、ドアが乱暴に押し開かれ、夜の闇よりも濃い黒い影が、店内に転がり込むように滑り込んできた。

 長身の男だ。上質な黒い外套を深く羽織り、ひどく鉄錆臭い――むせ返るような血の匂いを纏っている。


 男はカウンターにすがりつこうとして手を空振りし、そのまま床へ力なく崩れ落ちた。


「……っ、ぐ……」


 ドサリという重い音と共に、床の石畳に黒に近いほどの赤黒い液体が急速に広がっていく。

 大量の血だ。


 リリアナは悲鳴を上げる代わりに、即座に膝をつき、男の外套の肩を掴んで仰向けに引っくり返した。

 ランプの淡い光に照らされた男の顔を見て、リリアナは思わず息を呑んだ。


 ――恐ろしいほど、整った顔立ちだった。


 まるで名工が彫り上げた大理石の彫刻のように、非の打ち所がない端正な輪郭。苦痛に歪んで閉じられた長い睫毛。

 しかし、その美しい肌は死人のように青ざめており、唇には一切の血の気がなかった。


(……超絶美形、とか呑気なことを言ってる場合じゃないわね)


 男の胸元を探ると、高級な衣服の下に、ぞっとするほど深い裂傷があった。

 刃物によるものだ。しかも一太刀ではない。肩口から胸にかけて、さらに腹部にも、確実に内臓や太い血管に達しているであろう致命傷がいくつも口を開いている。


 呼吸は浅く、途切れ途切れで、首筋に当てた指先から伝わる脈は、今にも消え入りそうに弱かった。


(このままだと、あと数分で確実に死ぬわ……)


 リリアナは迷わなかった。

 すぐさま立ち上がり、カウンターの奥の棚から、今日自分のために少しだけ残しておいた『下級回復ポーション(仮)』の小瓶を掴み取った。


 普通の街の薬屋で売っているような薬なら、この傷には絶対に間に合わない。

 けれど、自分の作った“普通じゃない”薬なら、あるいは。


 小瓶のコルク栓を抜く手が、微かに震えた。


(お願い。この人の命を繋いで!)


 男の頭を膝に乗せ、冷え切った顎を支えて無理やり唇を開かせる。

 黄金色に澄んだポーションを少しだけ喉の奥へ流し込むと、男がゴホッと咳き込み、かすれきった声が漏れた。


「……だ、れだ……毒、か……?」

「喋らないでください。血が逆流します。毒じゃありません、薬です。飲んで」


 有無を言わさぬ強い口調で告げ、もう一度、今度は瓶の中身をすべて口内へ流し込んだ。

 男は抵抗する力すら残っておらず、反射的にその液体を嚥下した。


 ランプの火が、ふわりと揺れた。


 次に起こったことを、リリアナは生涯忘れることはないだろう。


 ――傷が、塞がったのだ。


 じゅわっ、という微かな音と共に、男の胸や腹に開いていた深い裂傷が、まるで見えない糸で高速で縫い合わされるように寄り集まり、肉が盛り上がり、裂け目の赤がみるみるうちに消えていく。

 数秒後には血が完全に止まり、浅かった呼吸が深く力強いものに変わった。死人のようだった青白い肌に、健康的な赤みが急速に戻ってくる。


 まるで、時間を無理やり逆回転させたかのような、圧倒的な光景だった。


「…………え」


 リリアナの口から、自分でも間抜けに聞こえる声が漏れた。


(ちょっと待って。効きすぎ……! いくらなんでも早すぎる! これ、絶対普通の回復薬の域を超えてるじゃない!)


 昼間の鍛冶屋の青年の時も驚いたが、今回は傷の深さが桁違いだ。

 完全に致命傷だったはずの傷が、痕すら残さずに消滅している。これではまるで、神殿の最高位の聖女が使う『奇跡』そのものではないか。


 男の長い睫毛が微かに揺れ、ゆっくりと重い瞼が開かれた。

 現れた瞳は、吸い込まれそうなほど深い、夜の湖のような群青色だった。


 男は一度、自分の胸元――傷があったはずの場所――に手を当て、信じられないというように指を動かした。衣服は切り裂かれ、血塗れのままだが、その下の肉体は完全に無傷だ。


 彼はゆっくりと体を起こし、膝をついたままのリリアナを見下ろした。


「……お前が、俺を助けたのか」


 その声は、まだ少し掠れてはいたが、確かな威厳と重低音の響きを持っていた。数分前まで死にかけていた人間の声とは到底思えない。


「はい。……たぶん」


 リリアナは、自分の作った薬の異常な効果に動揺し、思わず曖昧な返事をしてしまった。


 男はふっと、短く息を吐いて苦笑した。


「たぶん、か。……いや、確実だな。俺は間違いなく、一度死の淵に立ったはずだ」


 そして、男はその鋭い群青の瞳で、周囲の状況を瞬時に視線で走らせた。

 古びた店内、空っぽの薬棚、カウンターに置かれた小さな木札の看板。そして、血塗れの自分を介抱した、すすけたエプロン姿の小柄な少女。


(この人、状況を把握するのが異様に早い……。ただのチンピラや商人じゃないわ)


 男が立ち上がろうとしたため、リリアナは慌ててその肩を両手で押さえつけた。


「動かないでください! 傷は塞がっても、大量に失った血はすぐには戻りません。急に立てば貧血で倒れます!」

「……そうか。ならば、少しだけこのままでいさせてもらおう」


 男は大人しく座り直した。

 大の男、それも明らかに修羅場を潜り抜けてきたような人間が、こんな小娘の指示に素直に従うところが、逆に得体が知れず不気味だった。


 リリアナは奥から濡らした布を持ってくると、床に広がった血をざっと拭き取った。完全には無理だが、これ以上匂いが広がらないようにするためだ。


 その間、男はずっと、値踏みするような――いや、もっと純粋な『強い興味』を孕んだ目で、リリアナの動きを観察し続けていた。


「名は」

「……リリーです」


 本名を言うべきか迷い、店の看板の名前を名乗った。

 男はそれを聞いて、微かに目を細めた。


「偽名だな」

「……事情がありますので」

「事情がない人間など、この世にはいない。俺もそうだ」


 年齢は二十代半ばほどに見えるのに、言葉の端々に滲む重圧感が凄まじい。

 リリアナは、面倒な空気を逸らすように尋ねた。


「あなたこそ、こんな時間に、あんな酷い怪我で……一体誰に追われているんですか?」


 男は一瞬だけ沈黙し、群青の瞳を伏せた。


「……少し、国の……いや、身内の面倒な連中に噛みつかれた。油断した俺の落ち度だ」


 答えになっているようで、核心は何も言っていない。

 リリアナはそれ以上踏み込むのをやめた。踏み込んだところで、厄介事に巻き込まれるだけだ。


(せっかく帝国で、ひっそりスローライフを送るって決めたのに。初日からこれだなんて……)


 小さくため息をつきかけた時、男がふいに、低い声で尋ねた。


「あの液体は……どんな薬だ」


 リリアナは、カウンターに置かれた空の小瓶をちらりと見た。


「ただの下級回復ポーションです。傷や痛みを……ちょっとだけ早く治すための」

「程度の問題じゃないな」


 男は、呆れたように、だがどこか愉しげに笑った。


「俺は、肺を深く刺されていた。肋骨も数本砕かれていた。放っておけば、あと三分で呼吸ができなくなり、確実に死んでいた。……それを『ちょっと治す』などと表現するのは、いささか無理があるだろう」


 リリアナの背筋を、冷たい汗が伝い落ちた。


(そこまでの重傷だったの……!?)


 自分が適当に作った「ただの傷薬」が、致死量のダメージを瞬時に無効化したのだ。

 嬉しいという感情よりも先に、底知れない恐怖が込み上げてくる。祖国にこの薬の存在がバレれば、間違いなく地の果てまで連れ戻され、一生地下室に幽閉されるだろう。


 男は、怯えたようなリリアナの顔をじっと見つめ、静かに続けた。


「……命を救われた。見返りは何を求める? 金か、地位か。望むものがあれば――」

「何も求めません」


 リリアナは即答した。


「求めません。……求めたら、あなたはその後ろにいる『面倒な連中』ごと、この店に引き連れてきそうなので。お引き取りいただければ、それで十分です」


 男が、驚いたように目を丸くし――次の瞬間、声を立てずに肩を揺らして笑った。


「くっ……ははっ。見事だ。正しい判断だ」


 その笑い方は、血生臭い裏通りの薬屋には全く似つかわしくないほど、酷く上品で、優雅だった。


 リリアナは足早に奥の棚へ向かい、今度は赤い液体の入った別の小瓶を取ってきた。

 これは「ただの滋養強壮剤」のつもりで作った、造血と疲労回復を促すポーションだ。


「はい、これも飲んでください。血が足りなくて貧血になりますから」


 男は小瓶を受け取ると、中身を疑うことなく一息で飲み干した。

 飲んだ瞬間、男の顔色から最後の青白さが完全に消え去り、瞳の奥に強い光が宿った。


「……信じられん。体中の魔力まで完全に回復したぞ。本当に、お前は凄まじいな」

「い、いえ! 帝国の市場で売っている薬草が素晴らしいんです! 私じゃなくて、素材が――」

「違う」


 男は、リリアナの言い訳を即座に、力強く否定した。


「薬草はただの手段だ。この奇跡のような結果を創り出したのは、お前の腕だ」


 お前、というぞんざいな呼び方なのに、不快感は全くなかった。

 むしろ、自分の技術を真っ向から肯定し、価値を認めてくれたその言葉に、リリアナの胸の奥が小さく震えた。祖国では、誰一人として言ってくれなかった言葉だ。


 リリアナが口を噤んだ、その時だった。


 ――外の通りから、複数の荒々しい足音が近づいてくるのが聞こえた。


 硬い金属のブーツの音。通りを探るように、あちこちの路地で止まり、また動く気配。


 リリアナの心臓が跳ね上がった。


(追手……!?)


 男の群青の瞳が、一瞬にして極寒の氷のように冷たくなった。

 先程まで血を流して倒れていた男とは思えないほど、放たれる殺気の質が鋭く、重いものに変わる。


 リリアナは咄嗟に、店内のランプの火を吹き消した。

 室内が完全な暗闇に包まれる。


「こっちへ!」


 リリアナは男の腕を力強く引っ張り、作業場のさらに奥にある、薬草の保管用に使っている小さな物置部屋へと連れ込んだ。

 人が一人座るのがやっとの狭い空間だが、強い薬草の匂いが充満しており、外からは血の匂いも気配も完全に誤魔化せる。


 男は抵抗せず、リリアナの細い腕に引かれるまま物置の奥へ身を潜めた。


 リリアナが物置の扉を閉めようとした瞬間、男の大きな手が、リリアナの手首をガシッと掴んだ。

 暗闇の中で、群青の瞳が獣のように光っている。


「……怖くないのか」


「怖いです。でも――」


 リリアナは一瞬言葉を探し、ありのままの事実を答えた。


「目の前で死なれる方が、後味が悪くて嫌なので」


 男の表情が、ほんの僅かに揺れた。

 それが驚愕だったのか、別の感情だったのか、暗闇の中では分からない。


 男は小さく息を吐き、ゆっくりと手を離した。


「……恩に着る」


 リリアナは無言で頷き、物置の扉を完全に閉めた。


 その直後。

 店の正面のドアが、外から乱暴に叩かれた。


 ドンッ! ドンッ!


「おい! 開けろ! 誰かいるか!」


 低く、荒々しい男の声。

 リリアナは一つ深呼吸をして喉を鳴らし、王宮で培った「感情を完全に殺す能面スイッチ」を入れ、ドアへ向かった。

 鍵は開けず、扉越しに冷淡な声で応じる。


「本日はもう閉店しました。ご用件でしたら、明日の朝にお願いします」

「ふざけるな! ここに怪我をした男が逃げ込まなかったか!? 黒い外套を着た、背の高い男だ!」

「存じ上げません。今日の客は夕方には全員帰りました」


 扉の向こうで沈黙が落ちる。

 次いで、別の男の声が響いた。


「おい、この店、やけに血と……薬の匂いが強くないか?」

「ここはポーション屋ですから。薬草を煮詰める匂いがするのは当然かと」


 自分でも、よくこれほどスラスラと言い訳が出てくるものだと感心する。

 王宮の地下室で鍛えられたのは、劣悪な環境でのポーション作りだけではない。理不尽な貴族たちから身を守るための、鋼のメンタルとスルースキルだ。


 外の男たちは、苛立ったように舌打ちをした。


「……怪しいな。中を改めさせてもらうぞ。扉を壊せ」

「どうぞ。ですが、帝国の治安維持隊に提出する『不法侵入と器物破損の令状』はお持ちですか? ここは正規の認可を受けた店舗です」


 言った瞬間、自分のハッタリに肝を冷やした。

 ここは帝国だ。法律が厳格に機能しているという役人の言葉を信じただけのハッタリ。


 しかし、その言葉は劇的な効果をもたらした。

 外の男たちが、明らかに怯んだようにざわめいたのだ。


「チッ……正規の店か。ここで騒ぎを起こして近衛に目をつけられたら厄介だ」

「行くぞ。路地裏に血痕が続いていた。別の場所を探せ」


 ガチャガチャと金属を鳴らしながら、複数の靴音が足早に遠ざかっていく。


 リリアナは、その場にへたり込みそうになる足の震えを必死に堪え、扉に耳を当てた。足音が完全に消え去ったのを確認してから、作業場へ戻り、物置の扉を開ける。


 男は、暗闇の中で静かに座っていた。

 ランプの明かりを入れると、その群青の瞳が、面白くてたまらないというようにリリアナを真っ直ぐに捉えた。


「……見事な手際だな。大した度胸だ」

「まだです。あなたがここから無事に出ていくまでがワンセットですから」

「……確かに」


 男は立ち上がると、血で汚れた外套の襟を優雅な手つきで直した。

 致命傷を負っていたはずの体は、今や完全に健康そのものだ。


 男は店内をぐるりと見回し、最後にリリアナへ視線を戻した。

 その瞳には、先程までの警戒心は消え、代わりに強い熱を帯びた「執着」の色が浮かんでいた。


「お前のその薬……いや、お前自身の技術は、国家が欲しがる」


 リリアナの背筋が凍りついた。


(やめて。そういうの、いちばん困るの! 私はスローライフがしたいの!)


 リリアナが露骨に嫌そうな顔をしたのを見て、男は小さく吹き出し、声を和らげた。


「安心しろ。命の恩人の静かな生活を、今夜のところは壊す気はない」


 そして、男はリリアナの前に歩み寄り、その煤けた小さな手を取ると、貴婦人を扱うような優雅な仕草で、手の甲に恭しく口付けを落とした。


「っ……!?」

「今は名乗れない。だが、この借りは必ず、俺の持てるすべての権力をもって返させてもらう」


 リリアナは顔を真っ赤にして手を引き抜いた。


「お、お礼なんていりません! ……ですから、もう二度と来ないでください!」


 顔を真っ赤にして言い放つと、男は目を細めた。


「手厳しいな」

「ひっそり、誰にも迷惑をかけずに生きていきたいんです」

「……分かった」


 男は身を翻し、裏口へ向かった。

 そして、扉に手を掛けたところで、振り返った。


「最後にひとつだけ。お前は、なぜそこまで修羅場に慣れている? ただの街の小娘ではないだろう」


 リリアナは、少しだけ遠い目をして笑った。


「慣れてるんです。……数日前まで、殺される方がマシなレベルの『ブラックな職場』で働いていたので」


 男は一瞬きょとんとした顔をして――今度は本当に、腹の底から愉快そうに声を立てて笑った。


「……なるほど。ならば、ここは随分と『ホワイト』な職場らしいな。何よりだ」


 そう言い残し、男は夜の路地の闇へと溶けるように消えていった。


 リリアナは、静まり返った店内で、しばらくその場に立ち尽くしていた。


 胸の奥が、変に高鳴って落ち着かない。

 手の甲には、まだ彼の唇の熱が残っている気がする。


 恐怖もある。とんでもない面倒事に首を突っ込んでしまった実感もある。

 なのに――あの強い光を宿した青い瞳が、頭から離れない。


 それと同時に、もっと現実的で致命的な問題が浮かび上がる。


(あの致命傷を一瞬で全快させる薬を、私、やっぱり作れちゃったんだ……)


 これが世間に知られれば、ひっそり暮らすという夢は、いとも簡単に崩れ去るだろう。


 リリアナは震える手で、棚に残った数本のポーションを見つめた。

 あれは、絶対に“普通の薬”なんかじゃない。今夜の客が、それを確信に変えてしまった。


 そして、その客が一体何者なのか。


 ――彼女はまだ、知る由もなかった。

 自分が拾い上げ、命を救った血塗れの男が、この広大な帝国を統べる若き絶対君主、皇帝アレクシスその人であるということを。


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数時間前までは数日前か数週間前までかな? 日没時に実家を出て隣国で店を開いて営業終了後だし
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