第2話 隣国での新生活と、ひっそりポーション屋
国境の巨大な門を越えた瞬間、肌に触れる空気の匂いが変わった。
同じ季節の風のはずなのに、どこかカラリと乾いていて、香辛料のような甘く刺激的な香りが鼻先をくすぐる。往来する馬車の数も、行き交う人々の服の鮮やかさも、言葉の明るい抑揚も――どんよりと停滞していた祖国とはまるで違う。
リリアナは、大きな布鞄を胸に抱きしめながら、思わず深く深呼吸をした。
(ここなら、誰も私のことを知らない。『ハズレ聖女』だなんて、後ろ指を指す人は誰もいないんだわ)
その事実だけで、背中に生えていた見えない羽が大きく広がるような気がして、胸の奥がすうっと軽くなった。
巨大な商業国家である帝国の入国審査は、驚くほどあっさりしていた。祖国では何をするにもまず“身分”と“加護の有無”が問われたのに、帝国の関所の役人は、淡々と荷物を確認し、規定の入国税を受け取るだけだった。
「滞在目的は」
「……仕事です。小さなお店を開きたくて」
書類から顔を上げた初老の役人は、ちらりとリリアナの手元を見た。指先に残る無数の火傷の痕、硬い豆、薬品が染み込んで変色した爪。それは、魔法ではなく手作業で過酷な労働を生き抜いてきた証だった。
「薬師か」
「はい。ポーションの調合なら、一通りできます」
「なら、中央市場より南、川沿いの工房区のほうが肌に合うだろう。あそこなら手頃な借家も多いし、何より職人の腕を正当に評価する奴らが集まっている」
教え方が実務的で、過度な愛想はない。けれど、祖国でずっと「存在しないもの」として扱われてきた身には、自分を一人の人間として、職人として見てくれたことが何よりありがたかった。
「ありがとうございます」
リリアナが深く頭を下げると、役人はほんの少しだけ口角を上げた。
「帝国は腕のある者を歓迎する。失くすなよ、その立派な働き手を」
門を抜けると、石畳の街道がそのまま巨大な大通りへ続いていた。魔石を使った街灯が等間隔に並び、道の両脇には無数の露店がひしめき合っている。焼きたての肉を炙る煙、果物の甘い香り、客引きの元気な声。
あまりの活気に目を回しそうになりながらも、リリアナは教えられた川沿いの工房区へ向かった。
道中、煌びやかな大通りには、窓の大きな立派な薬屋がいくつもあった。しかし、どこも派手な看板を掲げ、店員が大声で客を呼び込んでいる。
(私がやりたいのは、ああいうのじゃないわ)
目立たず、静かに。本当に薬を必要としている人にだけ、自分のペースで届けられればそれでいい。
王宮の地下室で、誰とも口を利かずにただひたすら薬と向き合ってきたせいか、喧騒の中に長くいると胸がざわついてしまうのだ。
大通りから少し外れた裏道へ入り、川沿いの古い建物が並ぶ一角に出ると、そこは不思議なほど落ち着いていた。
聞こえてくるのは、金槌の音や、布を織る機械の規則正しい音。職人たちが黙々と自分の仕事に向き合う、心地よい静寂があった。
(ここ、すごく好きかもしれない)
リリアナは、掲示板に刺さっていた「貸店舗」の札を頼りに、川沿いの二階建ての小さな物件を見つけた。一階が店舗スペース、奥に小さな作業場、二階が住居になっている。外壁のレンガは古びているが、窓が大きく、川からの風がよく通る。
大家の老婦人は、リリアナが鞄から硬貨を数えて見せると、すぐに鍵を渡してくれた。
祖国では無給で働かされていたが、リリアナは王宮で廃棄される予定だった古い小瓶を少しずつ自分のものにし、こっそり作った薬を裏の商人に買い取らせて「逃亡資金」を貯めていたのだ。あの地獄を抜け出すための、ささやかな抵抗だった。
「静かに商売をやるなら、この辺りはいいよ。騒ぐ客も少ないからね。目立ちたくないなら、看板も小さくしておきな。この国は腕が良ければ勝手に客がつく。逆に目立ちすぎると、面倒な連中が寄ってくるからね」
大家の忠告に深く頷き、リリアナは鍵を受け取ってドアを開けた。
中は埃っぽく、何もない空っぽの空間だった。
けれど、誰に怒鳴られることも、理不尽なノルマを押し付けられることもない、完全に自由な空間だった。
(ここが……私の、私だけのお店……!)
鞄を床に置き、リリアナはその場にへたり込んだ。胸の奥がじん、と熱くなり、視界がぼやける。
悲しいわけじゃない。やっと人間らしい息ができる喜びで、涙が溢れたのだ。
泣いている暇はない。まずは掃除だ。
窓を全開にして風を入れ、床を磨き、作業場の古い炉に火を入れる。王宮の立派な設備には遠く及ばないが、水と火と鍋さえあれば、彼女の技術は十分に発揮できる。
翌日から、リリアナは市場へ通い詰めた。
薬草商の露店を見て回り、乾燥した葉や根、保存用のアルコールを買い集める。
「お嬢ちゃん、その草は安物だぜ。こっちの立派な薬草にしなよ」
「いえ、この安物で十分です。ちょっと湿気てますけど、三時間ほど低温で焙煎して毒素を飛ばせば、高価な薬草より抽出効率が三倍良くなるんです。あ、こっちの干し根もいただきますね」
「……え? ば、焙煎?」
薬草商が目を白黒させていたが、リリアナは気にせず大量の安価な素材を買い込んだ。
祖国では、加護を持たないリリアナに良質な素材など回ってこなかった。泥のような粗悪品を、技術と知識だけで一級品に引き上げるのが彼女の日常だったのだ。帝国の市場に溢れる素材は、安物でも彼女から見れば宝の山だった。
数日後。最低限の道具と材料が揃い、店の準備が整った。
店の名前は、迷った末に小さな木札に素直に書いた。
『ポーション屋 リリー』
看板は、通りを歩く人が注意しなければ気づかないほど小さくした。これなら、ひっそりとスローライフを送れるはずだ。
開店初日の朝。
リリアナは作業台にピカピカに磨いた瓶を並べ、深呼吸をした。
まず作るのは、帝国の一般市民が買うような、ごく普通の『下級回復ポーション』だ。市場で標準品を買って飲み比べ、効き目の方向性は把握している。
(目立っちゃダメ。私の手癖で“良すぎる薬”を作らないように、抽出時間は半分にして、濾過も適当に……)
そう自分に言い聞かせて大鍋に向かったのだが――三年間のブラック労働で身体の髄まで染み込んだ「完璧な調合手順」は、そう簡単に抜けるものではなかった。
温度管理の甘さを見過ごせず、気づけば無意識に火力を微調整し、不純物を見ると反射的に百回かき混ぜて完全に取り除いてしまう。
結果、出来上がった液体は、濁りなど一切ない、眩しいほどに透き通った黄金色に輝いていた。
(……あれ? ちょっと澄みすぎ……? でもまあ、濁っているよりは綺麗な方が飲みやすいわよね)
リリアナは首を傾げながらも、それを瓶詰めして店先の棚に並べた。
午前中は、当然のように誰も来なかった。裏通りの新参者の店など、そんなものだ。
リリアナは焦ることなく、昼には自分で作った温かいスープを飲んだ。急かされずにゆっくり食事ができるだけで、涙が出るほど美味しかった。
午後。
ちりん、とドアの鈴が鳴った。
入ってきたのは、煤で顔を汚した作業着姿の青年だった。近所の鍛冶屋だろう。彼は顔をしかめながら、赤く焼け焦げた右腕を押さえていた。
「……ここ、ポーション屋だよな? いつもの大通りの店が長蛇の列でさ……痛くて仕事にならねえから、とりあえず一番安い傷薬をくれ」
リリアナは頷き、棚から先ほど作った『下級回復ポーション(仮)』を一本取った。
「軽い火傷なら、これで十分だと思います。患部に塗るのではなく、そのままお飲みください」
「飲むのか。まあいいや」
青年は疑いもせず栓を抜き、一息で中身をあおった。
――次の瞬間。
「…………え?」
青年の動きがピタリと止まった。彼は自分の右腕を見下ろし、目を極限まで見開いた。
赤く腫れ上がり、水ぶくれが破れていたはずの皮膚が、まるで時間を巻き戻すかのように瞬時に塞がり、数秒後には火傷の痕ひとつない、つるんとした元の肌に戻っていたのだ。
リリアナも、内心で焦った。
(……え、ちょっと待って。治るの早すぎない!? 一応、効き目を抑えたつもりだったのに!)
青年は信じられないものを見る目で自分の腕を撫で回し、拳を何度も握ったり開いたりした。
「い、痛くねえ……どころか、昨日痛めた肩の関節痛まで消えてるぞ!? うそだろ、俺、高位神官の奇跡でも受けたのか!?」
「あ、あの、お客様の体質にたまたま合っていただけかと……」
リリアナが咄嗟に言い訳をするが、青年はカウンターに身を乗り出して叫んだ。
「これ、いくらだ!? いや、金貨でも払う! 頼む、あと三本売ってくれ!!」
「ええっ!? い、いえ、お代は表の看板通り、銅貨三枚ですけど……」
「銅貨三枚!? お嬢ちゃん、神様か!?」
青年は震える手で硬貨をカウンターに叩きつけると、追加のポーションをひったくるように抱え、弾かれたように店を飛び出していった。
ちりん、と鈴が鳴って、再び静寂が訪れる。
リリアナは、棚に残った黄金色の液体を見つめた。
(……私、ごく普通の、ちょっと綺麗な傷薬を作ったつもりなんだけど)
その数時間後。
静かだったはずの川沿いの裏通りに、奇妙な行列ができ始めた。
「さっきの鍛冶屋の馬鹿が、腕生やして戻ってきたって聞いたんだが!」
「お嬢ちゃん! 俺の長年の腰痛も治るか!?」
「うちの坊やの高熱が下がらなくて……っ!」
駆け込んでくる客に、リリアナは半ばパニックになりながらポーションを売った。
そして皆、一本飲んだ瞬間に同じ反応をした。目をひん剥き、痛みが消えた箇所をさすり、信じられないという顔でリリアナを拝み倒すのだ。
夕方になる頃には、棚に用意していた五十本のポーションは完全に売り切れていた。
カウンターの上の小皿には、見たこともない量の硬貨が山積みになっている。嬉しいはずなのに、リリアナの背筋には冷たい汗が流れていた。
(これ、絶対に目立ってる……。大家さんの言ってた通りになっちゃう)
ひっそりスローライフの計画が、初日から音を立てて崩れ去っていく。
閉店の札を出そうとしたその時、最後に入ってきた客は、上等な絹の服を着た中年の商人だった。やけに鋭く、欲深そうな目がリリアナを舐め回す。
男は空っぽの棚を見て、ニヤリと口元を歪めた。
「……どうやら噂は本当らしいな。裏通りの小娘が、国宝級のエリクサー紛いの薬を格安でばら撒いてるって」
リリアナは、スッと表情を消した。王宮で理不尽な貴族たちを相手にする時に身につけた、“一切の感情を見せない”営業スマイルだ。
「たまたまです。本日の材料の当たりが良かっただけで、ただの傷薬ですよ」
「隠さなくていい。俺がまとめて買い取ってやる。明日作れる分を全部だ。今の倍の値段を出そう」
男はドンッ、と重たい金貨の袋をカウンターに置いた。
明らかな威圧。逆らえば面倒なことになるぞ、という暗黙の脅し。普通の町娘なら、震え上がって頷くしかないだろう。
しかし、リリアナは王宮の地下室で、国で一番傲慢な王族や貴族たちから日常的に罵倒され続けてきたのだ。それに比べれば、この程度の小悪党の威圧など、そよ風にも等しい。
リリアナは、金貨の袋を一瞥もせず、ゆっくりと首を横に振った。
「お断りします」
「……あ? 今、なんと」
「うちは、街の皆さんのための小さなポーション屋です。一部の方に買い占められると、本当に薬を必要としている常連さんが困りますので。お引き取りください」
きっぱりと、淀みない声で告げる。
商人の顔が怒りで朱に染まる。
「小娘が、調子に乗るなよ! こんな目立つ真似をして、後ろ盾もないくせに無事で済むと――」
「お帰りにならないのでしたら、衛兵を呼びます。この国は、随分と治安が良いようですから」
リリアナが真っ直ぐに見据えると、商人はチッと舌打ちをし、金貨袋をひったくって店を出て行った。
扉が閉まる直前、「後悔するぞ」という捨て台詞が聞こえたが、リリアナは静かに扉の鍵を閉めた。
店内に静寂が戻る。
夕方の赤い光が、空になった棚を照らしている。
(……やっぱり、手を抜いて作るなんて無理だった。私の体は、良い薬を作るようにできちゃってるんだわ)
目立てば面倒が増える。商人のような輩もまた来るだろう。
なのに、リリアナの胸の奥は、不思議なほど晴れやかだった。
(でも、売れた。私が、私の手で作った薬が……ちゃんと誰かの痛みを消して、あんなに喜んでもらえた)
「役立たず」と蔑まれ続けた日々の傷跡が、今日のお客たちの笑顔で、少しだけ癒やされた気がした。
リリアナは作業場へ戻り、ランプに火を灯して新しい鍋を用意した。
明日も作ろう。自分の手で、最高品質のポーションを。
――しかし、彼女はまだ知らなかった。
「裏通りに神話級の薬を作る聖女がいる」という噂が、夜の間に川を渡り、工房区から大通りへ、さらには帝国の中心である『巨大な皇城』にまで届こうとしていることを。




