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第1話 役立たずの聖女、激務から解放される

 王宮の地下室の朝は、美しい鐘の音ではじまらない。


 はじまりを告げるのは、ドロドロに煮詰まった薬草の匂いと、大鍋の縁に当たって弾ける粘り気のある泡の音だ。湿った石壁に染みついた強烈な酸味と、鼻の奥を突く焦げた甘さが混ざり合い、呼吸をするたびに肺へと重くまとわりついてくる。


 窓一つない石室の中、リリアナは自分の背丈ほどもある大鍋を長い木べらでかき混ぜながら、心の中だけで淡々と今日の絶望的な数を数えた。


(本日のノルマは……下級回復ポーションが三百本。中級が百五十本。解毒薬が百本。熱冷ましが五十。……追加が来なければ、夜半過ぎには終わる、はず)


 終わる、という言葉に少しだけ力をもらう。終われば、壁際の硬い簡易ベッドで三時間は眠れる。眠れれば、また明日も鍋をかき混ぜることができる。


 木べらを握る彼女の手は、指先から手首までところどころ火傷や薬品による爛れの跡が残っていた。熱風を防ぐための分厚い革エプロンは薬品を吸って石のように重く、薬草を刻み続けた包丁の柄は、彼女の汗と薬液ですっかり黒ずんでいる。

 美しいドレスも、宝石も、ここにはない。あるのは煤と汗と、終わりの見えない労働だけだ。


 それでも、彼女は手を止めない。止められないのだ。


 華やかな王都の中心にそびえ立つ王宮。その豪奢な宮殿の影で、毎日信じられない量の「薬」が消費されている。

 騎士団の過酷な訓練で生まれる裂傷、国境付近の魔獣討伐で負う重傷、流行り病の高熱、暗殺未遂による毒、呪い。国営の治療院がどれだけあっても、怪我人は後を絶たない。


 だから、ポーションが必要だ。水のように大量のポーションが。


 それを誰が作っているのか――気にする者は誰もいない。知っていても、皆一様に目を逸らす。地下の劣悪な作業場に押し込まれ、配給される質の悪い端材と、カビの生えかけたパンと薄いスープだけで、ただひたすらに手を動かし続ける令嬢がいるなど、華麗なる王宮には似つかわしくない不都合な真実だからだ。


「リリアナ! まだ終わらないの!?」


 バンッ!と鼓膜を劈くような音を立てて扉が乱暴に開け放たれた。

 上から降りてきた監督役の女官が、ハンカチで大げさに鼻と口を覆いながら、汚物でも見るような目で眉をひそめた。


「申し訳ありません。中級回復の第二釜がもうすぐ仕上がりますので……」


「言い訳はいらないわ! 騎士団から急ぎの追加よ。中級回復ポーション二百本、今日中に上げなさい」


 女官は羊皮紙のメモを投げるように作業台へ置いた。そこには殴り書きで数量と『絶対厳守』の文字が記されている。


 リリアナは目を伏せ、一度だけ深く、湿気と薬草の匂いが充満した空気を胸に吸い込んだ。


(……追加、来たか。しかも中級を二百……)


 来ることは分かっていた。来ない日など、ここ三年間、一日たりとも存在しなかったのだから。


「承りました。材料の配給をお願いできますか?」


「は? 配給の予算なんてとっくに底をついてるわよ! 中庭の隅にでも生えてる雑草を適当にむしって煮詰めればいいじゃない。どうせあなたの作る泥水みたいな薬なんて、味も匂いも最悪なんだから誰も気にしないわ」


 吐き捨てるように言うと、女官は踵を返し、足早に階段を上がっていく。


「まったく。女神の加護すらない、魔力ゼロの役立たずのくせに、口だけは一人前なんだから……あぁ、ドレスに地下の臭いが移りそう」


 バタン!と重い扉が閉まる音の向こうで、そんな罵倒が残り香のように漂った。

 リリアナは、何も言い返さず、ただ鍋をかき混ぜる手を止めなかった。


(加護なし。魔力ゼロ。役立たず。……もう、耳にタコができるほど聞いたわ)


 リリアナは、由緒正しきアルヴェルン伯爵家の長女として生まれた。

 アルヴェルン家は、代々優秀な『聖女』を輩出する特別な家柄だ。聖女とは、生まれながらにして女神の加護を持ち、祈るだけで清らかな水を極上のポーションに変え、触れるだけで傷を癒やすという奇跡の体現者である。


 けれど、リリアナにはその「加護」が一切なかった。魔力すら、一般人以下だった。


 加護がない。それだけで、彼女は一族の恥、ただの“ハズレ”として扱われた。

 両親は早々に長女を見切り、代わりに強大な光の加護を持って生まれたひとつ下の妹、セシリアを「真の聖女」として徹底的に磨き上げた。

 プラチナブロンドの髪に、宝石のような青い瞳。誰にでも愛想良く振る舞う可憐な妹を貴族たちは褒めそやし、王宮は妹を次期聖女として迎え入れた。


 そしてリリアナは――王宮の地下室という、光の届かない場所へ押し込められた。


 聖女の奇跡(魔法)が使えない彼女は、薬草をすり潰し、成分を抽出し、何時間も火にかけて合成するという、泥臭い「調合」の手作業で薬を作るしかなかった。

 誰にも名を呼ばれず、感謝もされない仕事。泥水だと嘲笑される薬。けれど、なぜか彼女が作った薬の治りは異様に早く、その生産ラインが止まれば王宮の機能が麻痺するという矛盾が、彼女の狂った日常だった。


 鍋の中身がとろりと黄金色に変色したのを確認し、リリアナは火力を落とす。濾し布を用意し、滅菌したガラス瓶を素早く並べる。

 数は――二百本追加。今日だけで六百本以上の薬を作ることになる。


 指が勝手に動く。身体は完全に工程を暗記している。むしろ、思考を働かせれば、あまりの理不尽さに心が折れてしまう。

 だから、何も考えない。ただの歯車になる。


 そのときだった。


 階段を駆け下りる、いつもとは違う複数の足音が響いた。硬い革靴の音。次いで、扉が静かに、だが威圧感を持って開かれる。


 現れたのは、王宮付きの書記官。そして、見慣れた壮年の男女――リリアナの父であるアルヴェルン伯爵と、母だった。

 さらにその後背には、絹のような見事な金髪に、彫刻のように整った顔立ちの青年が立っていた。かつてリリアナの“婚約者”として定められていた男、第二王子にして近衛騎士団長であるレオンだ。


 豪華な衣装に身を包んだ彼らは、地下室の淀んだ空気を心底嫌悪するように、鼻と口をハンカチで押さえていた。


 リリアナは手を止め、すすけたエプロンの端で指先を拭うと、静かに腰を折って臣下の礼をとった。


「お父様、お母様。それに第二王子殿下……。このようなむさ苦しい場所へ、いかがなさいましたか」


 母は答える前に、ふっと冷酷な笑みを漏らした。


「相変わらず、惨めで薄汚い姿ね。でも安心しなさい。今日からあなたは、もう私たちを父や母と呼ぶ必要も、殿下に媚びを売る必要もなくなるわ」


 父がわざとらしく咳払いをし、書記官が手にした羊皮紙の巻物を淡々と広げた。


「王国法および王家からの勅命に基づき、アルヴェルン伯爵家長女、リリアナに対し、身分剥奪および国外追放を命ずる」


 紙の擦れる音が、異常に静まり返った地下室に大きく響いた。


 国外追放。


 その言葉が落ちた瞬間、普通なら絶望で泣き崩れる場面だろう。胸の奥が締め付けられ、息ができなくなる……と思っていたのに、リリアナの身体に起きた反応は、全く逆だった。


 ふわりと、憑き物が落ちたように肩の力が抜けたのだ。


(……追放。それって、つまり……ここから、出られるの?)


 呆然とするリリアナをよそに、書記官の無機質な声が続く。


「理由は、聖女としての資質が著しく欠如していること、並びにその存在が次期聖女たるセシリア様および王宮の名誉を損なう恐れがあるため。所持品の持ち出しは私物のみ最小限とする。期限は本日の日没まで――」


 母が勝ち誇ったような顔で言葉を被せてきた。


「聞いたでしょう? あなたの妹であるセシリアが、本日をもって正式に“光の聖女”として神殿から認定されたのよ! あの子の祈りひとつで、騎士団の傷は瞬時に癒え、国中が光に包まれるの。泥水みたいな薬をコソコソ煮詰めることしかできない出来損ないは、もうこの国には必要ないのよ」


 それはすぐに王都中へ広まるだろう。祝福の鐘と歓声、華やかなパレード。妹は光芒の中心に立つ。

 光が強くなれば、不要な影は消し去られるのみだ。


 レオンが、氷のように冷たい軽蔑の目をリリアナに向けた。


「そういうわけだ。君との婚約は、王家の権限をもって正式に白紙撤回させてもらう。君のように魔力もなく、薄汚れた真似しかできない女が王族の妻になるなど、元々あり得ない話だったのだ。私の隣には、真の聖女であるセシリアこそが相応しい」


 ひとつひとつ、彼らは彼女を“切り捨てる”ために最も残酷な言葉を選んで投げつけている。傷つけ、屈辱を与え、二度と這い上がれないようにするために。


 けれど、リリアナはまるで、遠い国の昔話でも聞いているような気分だった。


 なぜなら、今彼女の胸の奥底からグツグツと湧き上がっている感情は、怒りでも悲しみでもなく――歓喜と、途方もない安堵だったからだ。


(毎日睡眠時間三時間で、休日ゼロ。タダ働きで毎日六百本のポーションを作らされるこの地獄から……解放、される……っ!?)


 思わず満面の笑みを浮かべそうになるのを必死に堪えて、リリアナは神妙な顔を作り、深く頭を下げた。


「……王命とあらば、謹んでお受けいたします」


 母が訝しげに目を細めた。


「……ずいぶん素直ね。もっと床に這いつくばって、泣いて縋ると思ったのに。行く当てもないくせに強がって」


「縋る理由など、どこにもございませんので」


 口にしてから、リリアナは自分の声が信じられないほど軽く、明るく弾んでいることに気づいた。地下室の淀んだ空気を抜けて、三年ぶりに新鮮な酸素を肺の奥まで吸い込んだような気分だ。


 レオンが不快そうに美しい顔を歪める。


「強がりも大概にしろ。王国の庇護を失って、外の世界で生きていけるとでも思っているのか? 魔獣に食い殺されるか、野垂れ死ぬのがオチだぞ」


 リリアナは少しだけ首を傾げて考えた。


 生きていけるかどうか。確実な保証などどこにもない。

 けれど、ここにいて過労死するよりは、一万倍マシだ。

 ここには、未来がない。ただ大鍋とガラス瓶と、理不尽な追加発注の紙切れがあるだけだ。


「生きていけるかは分かりません。でも――ここよりは、きっと圧倒的に楽しい人生になると思います」


 一切の嫌味を含まない、純度百パーセントの本心だった。


 父の顔が怒りで赤黒く染まる。


「親に向かってなんという減らず口を……! ええい、もういい! さっさとこの書類に署名しろ! そして二度と私たちの前に姿を現すな!」


 書記官が差し出した書類に、リリアナは一切の躊躇なく、滑らかな筆致でサインした。

 署名が完了した瞬間、書記官は巻物を閉じ、形式的に頭を下げた。


「以上をもって追放令は成立しました。日没までに、速やかに城門を出てください」


 用は済んだとばかりに、母は嫌悪感を丸出しにして踵を返し、階段へ向かった。父と書記官もそれに続く。


 すれ違いざま、レオンが立ち止まり、リリアナの耳元で小声で吐き捨てた。


「忠告しておく。外でどれだけ惨めな思いをしようと、絶対にセシリアの足を引っ張るような真似はするな。泣きついてきても、王宮の門は二度と開かないと思え」


 リリアナは、顔を上げ、レオンの目を真っ直ぐに見つめ返した。


「泣きつく予定は未来永劫ありません。……むしろ、今日はお三方に心からのお礼を申し上げたいくらいです」


「は? 頭でもおかしくなったか?」


 レオンが顔をしかめる。階段を上りかけていた両親も振り返った。

 リリアナは、もう感情を隠すことをやめ、花が綻ぶような心からの笑みを浮かべた。


「婚約破棄、ありがとうございます。国外追放も、本当にありがとうございます。――これでやっと、この最低最悪な地下室からおさらばできますから!」


 静寂が落ちた。


 全員が、一瞬何を言われたのか理解できず、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まっている。驚き、困惑し、やがて猛烈な侮辱を受けたと気づき、顔を真っ赤に引きつらせた。


 父が怒鳴り込もうとしたが、母が震える手でそれを制した。


「ほ、放っておきなさい! どうせ追放される娘の惨めな虚勢よ! ……日没までに出て行かなければ、衛兵に引きずり出させるからね!」


 最後まで負け惜しみのような捨て台詞を残し、彼らは逃げるように地下室から去っていった。


 重い扉が閉まり、足音が完全に遠ざかると、地下室には再び、鍋が煮えるコトコトという音だけが残った。


 リリアナは振り返り、まだ熱を持っている大鍋を見下ろした。


(……追加発注、中級二百本。これを作らないと騎士団の怪我人が困るのよね)


 彼女は一度だけ苦笑して、重い革エプロンと手袋をつけ直した。


「うん。作るわ。これだけは、ちゃんと最後まで作ってから出ていく」


 誰に命令されたからではない。ただの、職人としての意地だ。

 リリアナは、中庭の隅からこっそり採取して干しておいた「雑草」――強烈な苦味を消し、薬効を数倍に跳ね上げる不思議な葉っぱ――をたっぷりと鍋に放り込み、魔力の代わりに祈りを込めるように丁寧に混ぜ合わせた。


 これを作ってしまえば、もう二度と、あいつらのために薬を作る必要はないのだ。


 時間は意外なほど早く過ぎた。

 抽出、濾過、瓶詰め、蝋での封印。単純作業が終わるたびに、彼女を縛り付けていた見えない鎖が、一本、また一本と砕け散っていくような感覚があった。


 夕刻。

 地下室の高窓から差し込む光が、かすかに赤みを帯び始めたころ。

 最後の六百本目の瓶に封印の蝋を落とし、リリアナは深々と息を吐いた。


「……終わったぁっ!」


 空になった大鍋の前で、両手を高く突き上げて背伸びをする。いつもなら立っていられないほどの疲労に襲われるはずなのに、今は羽が生えたように体が軽かった。


 リリアナは作業台の奥の隠しスペースから、ボロボロの布鞄を引き出した。

 中には、こっそり内職をして貯めていた少しばかりの硬貨、使い慣れた小さな乳鉢、お気に入りの計量スプーン。そして何より大切な――自分で独自に書き溜めた『調合レシピ帳』。


 過酷な環境で、質の悪い材料をどう活かすか試行錯誤し続けるうちに、彼女は独自の手法を編み出していた。

 材料の見極め方、煮詰める最適な温度、薬草同士の相乗効果。魔力というチートがない代わりに、手順と知識で効果を極限まで高める技術。

 これさえあれば、どこへ行っても自分の力で生きていける。


 荷物をまとめ、私服の薄いワンピースの上に古びたマントを羽織る。

 階段を上がる足取りは、スキップしそうなほど弾んでいた。一段上るごとに、空気が変わる。薬草の匂いが薄れ、代わりに地上の新鮮な風の匂いが混ざってくる。


 地上階へ出る扉を押し開けた瞬間、夕陽の眩しさに思わず目を細めた。


(空って……こんなに広くて、明るかったんだ)


 廊下を行き交う煌びやかな貴族たちは、煤けた姿のリリアナを見てあからさまに顔をしかめ、避けるように通り過ぎていく。

 だが、今の彼女にとって、そんな視線はどうでもよかった。


 城門へ向かう途中、ふと中庭が見えた。花壇の隅っこで、リリアナがいつも材料にしていた「雑草」が風に揺れている。


(あの草、生命力が強くて回復効果の底上げにぴったりだったのよね。……まあ、誰もあんな雑草に価値があるなんて気づかないだろうけど)


 リリアナは小さく笑い、そのまま前を向いた。


 城門に近づくと、槍を持った屈強な衛兵が立ち止まるよう手を上げた。リリアナが書記官から渡された追放令の書類を見せると、衛兵は哀れむような、困惑したような顔で道を開けた。


「……日没前だな。上からの通達通り、見送りも護衛も一切つけられないが……死ぬなよ、嬢ちゃん」


「はい。お気遣いありがとうございます」


 リリアナが屈託のない笑顔でお礼を言うと、衛兵は不気味なものでも見るように目を丸くした。


 重厚な石造りの城門をくぐる。

 外の世界の空気は、少し冷たくて、どこまでも自由だった。


 風が髪を揺らし、マントの裾をはためかせる。遠くから城下町の市場の活気ある声が聞こえ、馬車の車輪の音が響く。

 足元の影が、夕陽に照らされて長く伸びている。


 リリアナは一度だけ振り返り、王宮の豪奢な尖塔を見上げた。

 あそこには、彼女を貶めた家族がいる。彼女を見下した元婚約者がいる。そして、彼女のすべてを奪った妹がいる。


(さようなら、最低最悪のブラック王宮。……もう二度と、あなたたちのために薬は作らないわ)


 そう決別を誓った途端、身体の奥底からフフッと笑いが込み上げてきた。


「……やった。ついに辞められた……っ! 私の自由だー!!」


 誰に聞かれるでもなく、両手を広げて高らかに宣言する。


 行き先は、もうずっと前から決めてある。

 国境の向こう側にある隣国、広大で豊かな『帝国』だ。商人の出入りが激しく、実力のある職人が正当に評価されると噂の国。


 そこで――自分のための、小さくて可愛いポーション屋を開くのだ。


 誰かにこき使われることもなく、八時間ぐっすり眠って、美味しいご飯を食べて、自分の好きな薬を自分のペースで作る。

 そんな、夢のようなスローライフを送るために。


 リリアナは鞄の紐をぎゅっと握り直し、夕陽に照らされた街道へ向かって、力強く一歩を踏み出した。


 この日、王国から名もなきひとりの少女が追放された。

 王国全土の医療を人知れず支え続けていた『真の奇跡』を喪失したことに、愚かな者たちが気づくのは、もう少しだけ先の話である。

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