エピソード8 初指名
歌舞伎町、昨今なにかと世間を賑わせている街。
そんな場所で実際に経験したこと聞いたこと考えたこと
そんなことを織り交ぜたノンフィクション風ファンタジーです。
心の準備ができるより前に、
彼女は現れた。
「いらっしゃいませー!」
店内に、
いつもの声が響く。
その音が、
今日は脳にこだまする。
ボーイが、
まっすぐ俺のところに来た。
「奏楽さん、指名です。
B3テーブル、お願いします」
一瞬、
意味が分からなかった。
指名。
俺の?
嬉しい、
という感情は、
後からも来なかった。
ただ、
何が起きているのか、
理解できていない。
身体だけが、
勝手に動く。
いつもの癖で
ロクタンを持ちそうになり、
一瞬止まって、
ハチタンを手に取る。
そのまま、
テーブルに向かった。
そこにいたのは、
この前、
カフェで過ごした時とは
比べものにならないほど
落ち込んだみくだった。
席に座り、
おしぼりで
何度も目元を押さえている。
顔は、
上がらない。
胸の奥が、
ぎゅっと縮む。
「……みく」
声が、
思ったより低く出た。
「どうしたんだよ」
彼女は、
顔を上げないまま、
小さく首を振った。
「……ごめんなさい」
それだけだった。
理由も、
説明もない。
謝る必要のない相手に、
謝っている声。
俺は、
何をすればいいのか
分からなかった。
慰め方も、
正解の言葉も、
知らない。
テーブルマナーも、
シャンパンの表も、
今は役に立たない。
ただ、
横に座っている。
置物。
周りでは、
他の席の笑い声が続いている。
シャンパンの栓が
抜ける音もする。
この席だけが、
世界から切り離された
みたいだった。
「……大丈夫だよ」
結局、
それしか言えなかった。
彼女は、
少しだけうなずいた。
でも、
涙は止まらない。
初めての指名。
初めての席。
成功でも、
達成感でもなかった。
ただ、
逃げ場のない沈黙。
少し時間が経って、
みくの呼吸が、
ほんの少しだけ
落ち着いた。
おしぼりを握ったまま、
ぽつりと言う。
「……私、
嫌われちゃったみたい」
声は小さかった。
でも、
はっきり聞こえた。
「なんで?」
問いかけると、
彼女は、
しばらく黙った。
それから、
ゆっくり
言葉を選ぶ。
「仕事が、
うまくいかなくて」
視線は、
テーブルの隅に
落ちたまま。
「全然、
稼げなくて……」
その言葉に、
胸の奥が、
少しだけ痛んだ。
嫌われた理由が、
性格でも、
気持ちでもない。
数字だった。
「頑張ってる
つもりなんだけどね」
苦笑いみたいな
息を吐く。
「前は、
ちゃんと
結果出てたのに」
ちゃんと、
という言い方が
引っかかる。
誰にとっての、
ちゃんとなのか。
「稼げなくなったらさ、
空気、
変わるんだよね」
責めるような口調じゃない。
ただ、
知ってしまった人の声。
「怒られた
わけじゃないよ。
でも、
席にも
来てくれなくなった」
「役に立ってないんだな、
って」
その一言で、
すべてが分かった。
安心。
価値。
お金を払う理由。
それは、
払う側だけの話じゃない。
稼げるかどうかで、
居場所が決まる世界。
それは、
この店も、
同じだった。
励ましも、
慰めも、
今は軽すぎる。
ただ、
話を聞いている。
それだけ。
みくは、
少しだけ
顔を上げた。
「……だからさ」
声が、
震える。
「今日、
誰かに
会いたかった」
俺を見て、
言う。
この席にあるのは、
営業じゃない。
でも、
仕事だ。
この境界線の上に、
俺は、
初めて立っている。
「……俺でよければ」
声は、
思ったより
小さくなった。
続きを言おうとして、
やめた。
何を、
どこまで、
引き受けられるのか、
自分でも
分からなかったから。
みくは、
少しだけ
顔を上げた。
泣き腫らした目で、
俺を見る。
「……なに?」
責めるでも、
期待するでもない。
ただ、
確認する
みたいな声。
「ちゃんとしたことは、
言えないけど」
喉が、
少し渇く。
「今、
ここにはいる」
それだけだった。
慰めでもない。
解決策でもない。
約束でもない。
でも、
嘘じゃない。
みくは、
しばらく
黙っていた。
それから、
小さく
息を吐く。
「……それで、いい」
そう言って、
グラスに
手を伸ばす。
氷が、
静かに
音を立てた。
俺たちは、
それ以上、深い話はしなかった。
仕事の話も、
担当の話も、
未来の話も。
ただ、
時間が流れるのを、
一緒に
待っていた。
周りでは、
相変わらず笑い声がしている。
この席だけが、
少し違う速さで、進んでいた。
これが、
正しい接客なのかは、
分からない。
でも、
彼女は、
少しだけ、
呼吸が
楽そうだった。
それを見て、
胸の奥が、
少し痛んだ。
――これを、
価値と呼ぶのか。
それとも、
ただの、
逃げ場なのか。
まだ、
答えは出ない。
でも、
今夜だけは、
この席を
離れなかった。
それが、
俺の初指名だった。
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