エピソード64 喧嘩
歌舞伎町、昨今なにかと世間を賑わせている街。
そんな場所で実際に経験したこと聞いたこと考えたこと
そんなことを織り交ぜたノンフィクション風ファンタジーです。
「君、名前は? どこから来たの?」
言ってから、しまったと思った。
びっくりしすぎて、完全に職質みたいな聞き方になっている。
「……ごめん。名前だけでいいけど」
言い直すと、女の子は少しだけ笑った。
さっきまで緊張で固まっていた顔が、
その一瞬だけやわらぐ。
「るな、です」
「るなちゃんね」
名前を口にすると、急に現実味が出た。
さっきまでただの“女の子”だった相手に輪郭ができる。
こういう瞬間が、夜の街では案外大きい。
「じゃあ、るなちゃん。
なんでいきなり姫にしてくださいなの」
俺がそう聞くと、
るなは少しだけ視線を泳がせてから、
小さく息を吐いた。
「さっき、声かけられた時、ちょっと怖くて」
「うん」
「でも喫煙所入ってから、ずっと気になっちゃって」
「俺が?」
「……はい」
その「はい」は小さかったけど、
はっきりしていた。
真っ暗な大型ビジョンを背にして、
煙だけが夜に溶けていく。
さっきまで何をしても噛み合わない夜だと思っていたのに、
こういうふうに急に話が転がることがあるから、この街は油断できない。
「びっくりしたよ、普通に」
「すいません……」
「いや、謝ることじゃないけど」
るなはまだ少し恥ずかしそうにしていた。
勢いで言ったのはたぶん本当なんだろう。
でも、勢いだけで知らないホストにそんなことを言えるほど、
この街の女の子は単純でもない気もした。
「じゃあ、ちょっとだけ話そっか」
そう言うと、るなはやっと少しだけ安心したみたいに頷いた。
以前、みくとも利用した二十四時間営業のカフェに入った。
この時間の店内は、明るいのにどこか現実感が薄い。
始発待ちの人間と、
帰る場所を少し失った人間が、
同じ空気の中で時間をつぶしている。
歌舞伎町の外側にあるのに、
まだ少しだけ夜の続きみたいな場所だった。
向かい合って座って、適当に飲み物を頼む。
るなは少し落ち着かない様子でストローの袋をいじっていた。
さっき喫煙所で勢いよく「姫にしてください」
と言った子と同じ人間には見えないくらい、今はおとなしかった。
運ばれてきたミルクティーがテーブルに置かれて、
少し間ができたところで、俺は聞いた。
「なんで一人であんなとこにいたの?」
るなはすぐには答えなかった。
視線をカップに落として、それから小さく息を吐く。
「友達とライブに行った帰り道、喧嘩しちゃって」
「うん」
「友達は担当呼んで、どっか行っちゃいました」
「そっか」
「でも私は担当もいないし、始発までやることもなくて」
そこで、るなは少しだけ困ったように笑った。
「正直、誰か声かけてくれたらいいなって思ってました」
そうか、と思った。
だからあの時、姫にしてくださいだったのか。
最初は勢いに見えたけど、
たぶんあれは勢いだけじゃない。
ひとりでいるには夜が長すぎて、
でも誰でもいいわけじゃなくて、
そのちょうど曖昧なところに俺がいたんだろうと思った。
友達には担当がいる。
でも自分にはいない。
その差が寂しかったのかもしれないし、
悔しかったのかもしれない。
ただ暇をつぶしたかっただけかもしれないし、
その場で自分だけ取り残されたみたいに感じたのかもしれない。
たぶん、全部少しずつあったんだろう。
俺はミルクティーのグラスを見た。
薄い色の液体の中で、氷がゆっくり溶けている。
こういうとき、何を言うのが正解なのかはよくわからない。
下手に優しいことを言うと軽くなるし、
営業っぽくしすぎると全部が嘘になる。
「じゃあ、俺は救世主だ」
少しだけ冗談っぽく言うと、るなは目を上げて、ふっと笑った。
「たぶん、救世主です」
「たぶんかよ」
「だって、まだよく知らないし」
「それはそう」
そう返しながら、少しだけ安心した。
重すぎない。
でも、完全に軽くもない。
そのくらいの温度が、
今のるなにはちょうどよさそうだった。
さっきまで真っ暗な大型ビジョンの下で煙を吐いていた時間が、
もう少し前のことみたいに思える。
うまくいかない夜だと勝手に決めつけていたのに、
歌舞伎町はこういうふうに、
気分が下がりきったところで急に別の顔を見せてくる。
るなはストローを袋から出しながら、小さな声で言った。
「なんか、担当いる子っていいなって思っちゃって」
「羨ましかった?」
「ちょっとだけ」
「じゃあ今日から俺が担当ってことでいいじゃん」
「はい」
「適当かよ」
「じゃあ悩んでいいんですか?」
「だめ」
るなはやっとちゃんと笑った。
その笑い方を見て、少なくとも今この瞬間は、
喫煙所でいきなり姫にしてくださいと言われた時より、
少しだけ話が現実になってきた気がした。
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