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9/12

第九章 崩落

Google AI Studioで専用のアプリを作り、プロットを読み込ませて作った和風ホラー小説です。

9-1【疑心】


目覚めた瞬間、私は泥沼の底から急浮上したかのようなめまいを覚えた。

天井の木目。見慣れたシミ。公務員宿舎の、安っぽい化粧板の壁。

私は自室のベッドにいた。

体を起こすと、ずしりと重い倦怠感が全身にへばりついていた。昨日は神代家の屋敷から戻って来た後、ずっとベッドで悶々と過ごした。

心も体も相当弱っていたらしい。

神代家で目を覚ました時には、状況変化に囚われて気づかなかったようだ。

夜は泥のように眠ったはずなのに、疲れは少しも取れていない。むしろ、骨の髄まで鉛を流し込まれたような重たさだった。

(……夢、だったのかな)

そう思いたかった。

あの忌み山での狂乱。松明の炎。異臭。ドロリとした黒いお神酒。そして、虚空様のうろへと消えていった沙夜の後ろ姿。

すべてが悪夢であってくれれば、どれほど救われるだろう。

けれど、左手首には確かな質量があった。

根緒ねお』。

赤茶けた組紐は、私の手首に食い込むように巻き付いている。その下には、私が隠した金属の蓋が埋まっているはずだ。

ズキリ、と鋭い痛みが走る。

その痛みが、昨夜の出来事はすべて現実だったのだと、容赦なく告げていた。

「……行かなきゃ」

私は掠れた声で独りごちて、ベッドから這い出した。

現実は続いている。

あんなことがあっても、朝は来て、学校へ行かなければならない。この村の「細胞」として機能し続けなければならない。

制服に着替える動作一つ一つが、ひどく緩慢だった。鏡に映る自分の顔は土気色で、目の下にうっすらと隈ができている気がする。その顔はまるで、生気を根こそぎ吸い取られた抜け殻のように見えた。


一階へ降りると、居間からはすでにテレビの音が聞こえていた。

ちゃぶ台の上には、湯気の立つ朝食が並べられている。

「おはよう、莉桜。よく眠れたかい?」

父が新聞から顔を上げて言った。

その顔色は艶やかで、昨日の狂気じみた高揚感こそ鳴りを潜めているものの、瞳の奥には揺るぎない「充足」が宿っていた。

「……おはよう」

「おはよう、莉桜。さあ、座りなさい。今日は精のつくものを作ったわよ」

母が台所からおひつを抱えて出てきた。その足取りは軽く、鼻歌交じりだ。

ちゃぶ台に並べられているのは、根守村特有の郷土料理だった。山菜の煮付け、川魚の甘露煮、そしてドロリとしたとろろ汁。

東京にいた頃の朝食は、トーストとコーヒー、あるいは目玉焼きとハムといった洋風なものが常だった。それが今では、土の匂いのする茶色い料理ばかりだ。

「いただきます」

両親が揃って手を合わせる。その手首には、太い『根緒』が誇らしげに巻かれている。

私も遅れて手を合わせ、箸を持った。

「『根合わせ』の儀式は、本当に素晴らしかったそうだな」

父がとろろ汁をすすりながら、しみじみと言った。

「莉桜が虚空様と一つになれたことで、父さんと母さんも体が内側から浄化された気分だ。役場の仕事も、これからはもっと身を入れてやれそうだ」

「ええ、本当に。婦人会の方々とも、言葉を交わさなくても心が通じ合っているような気がするわ。これが『心は一つ』ということなのね」

母がうっとりとした表情で同意する。

私は無言で白米を口に運んだ。

味がしない。砂を噛んでいるようだ。

両親の会話には、一切の疑問も恐怖もない。

儀式の場に、両親は立ち会えていない。そのせいもあるだろう。

あんなおぞましい儀式に参加し、中学生の少女が生贄のように闇に消えたことへの忌避感など、両親には微塵も感じられないのだ。彼らにとってあれは、ただただ神聖で、ありがたい「功徳」だったのだ。

「莉桜も、昨日は大役ご苦労だったな。神代家の皆様も、お前のことを褒めておられたぞ」

「……うん」

「これでお前も、胸を張って根守の子だと言えるわね。よかったわねぇ」

母が慈愛に満ちた目で私を見る。

その視線が、怖かった。

かつて私に向けられていた「愛情」が、村の教義というフィルターを通すことで、異質な「執着」へと変質している。

私は逃げるように食事をかき込み、「ごちそうさま」と席を立った。

「あら、もういいの? まだ残っているのに」

「……ちょっと、お腹空いてなくて。行ってきます」

鞄を掴み、玄関へと走る。

背後から、「虚空様に見守られて、行ってらっしゃい」という母の明るい声が追いかけてきた。


外に出ると、やはり雨が降っていた。

しとしと、じめじめと。

根守の空は、腐った雑巾のような灰色をして、谷底の集落に蓋をしている。

傘を叩く雨音は、昨日よりも粘度を増しているように感じられた。

通学路の坂道を登る足取りは重い。

踏み固められた土の下から、道端の草むらから、無数の見えない根が私の足音を聞きつけている気がする。

(沙夜は……どうなったんだろう)

昨夜、神代家の屋敷で別れた時の、彼女の笑顔を思い出す。

『大丈夫だよ』と言った、あの弱々しい笑顔。

無事だろうか。

あれから何か変わったことはないだろうか。

不安が胸の中で膨れ上がり、私は自然と歩調を早めた。


校門をくぐり、下駄箱で上履きに履き替える。

廊下は薄暗く、湿気を吸った床板が不快な弾力を返してくる。

教室の引き戸の前に立つと、中からざわめきが聞こえてきた。

いつも通りの、朝の風景。

下級生たちが追いかけっこをし、上級生たちが談笑している。

私は深呼吸をして、ガララ、と戸を開けた。

湿った空気が顔に張り付く。

「おはよう」

努めて明るい声を出したつもりだったが、教室の喧騒にかき消されそうになる。

視線を巡らせる。

いた。

窓際の席に、神代慧くん。

そして、一つ飛ばして後ろの席に、沙夜。

二人はすでに登校し、席についていた。

慧くんは頬杖をついて窓の外を眺め、沙夜は教科書を広げて予習をしているようだった。

その姿を見て、私は全身の力が抜けるほど安堵した。

いる。

消えていない。

山崎和也くんの時のように、机ごと消滅しているなんてことはなかった。

私は二人に挟まれる自分の席へと足早に向かった。

「……おはよう、慧くん。沙夜」

鞄を置きながら声をかけると、二人が同時にこちらを向いた。

「……ああ。おはよう」

慧くんの声は低く、抑揚がなかった。

その顔色は、昨日よりもさらに悪い。目の下のクマは濃く、肌は青白く乾燥している。私と目が合うと、彼はわずかに眉をひそめ、何かを警告するように視線を逸らした。

『忘れろ』。

その無言のメッセージを受け取り、私は口をつぐむ。

そして、後ろを振り返った。

「おはよう、莉桜」

沙夜が、ふわりと微笑んだ。

その笑顔を見た瞬間、私の胸が締め付けられた。

儚い。あまりにも儚い笑顔だった。

儀式の夜の白装束姿が網膜に焼き付いているせいかもしれない。今の彼女は、制服を着ていても、どこかこの世ならざる透徹な空気を纏っているように見えた。

「体調……大丈夫?」

私は周囲に聞こえないよう、声を潜めて尋ねた。

「うん。大丈夫だよ。……莉桜は心配しすぎだよ」

沙夜は困ったように眉を下げて、小さく首を傾げた。

その仕草は、以前と変わらない沙夜のものだ。

けれど、その笑顔は薄氷のように脆く、少し触れただけで粉々に砕け散ってしまいそうだった。

彼女の手首には、太い『根緒』が巻かれている。それが白い肌に食い込み、昨日よりも色が濃くなっているように見えるのは、気のせいだろうか。

「一昨日は……ごめんね。私、何もできなくて」

「ううん。莉桜がいてくれたから、私、頑張れたんだよ。ありがとう」

沙夜の言葉は優しかった。

けれど、その優しさが逆に私を追い詰める。

彼女は、あの暗闇の中で何を見たのだろう。何を感じたのだろう。

それを聞くことは、この教室では許されない。

「おはようございます」

凛とした声が響き、教室の空気が一変した。

御子柴麗華さんが、優雅な足取りで教室に入ってきたのだ。

彼女は入り口で立ち止まり、教室全体を見渡すように微笑んだ。その姿は、この空間の支配者そのものだった。

「おはようございます、麗華さん」

私は反射的に立ち上がり、挨拶を返した。

「今日も雨ですわね。でも、『根合わせ』の儀式のおかげでしょうか。空気が澄んでいるように感じられますわ」

麗華さんは上機嫌だった。

その肌は内側から発光しているかのように艶やかで、『根合わせ』のトランス状態の余韻を、聖なるオーラとして纏っているようだった。

「沙夜さんも、慧さんも、おはようございます。『根合わせ』の儀式はお疲れ様でした」

そう言って彼女は私の右隣の自席に座り、鞄から授業に必要なものを机に移す。

麗華さんに向かって、クラスメイトたちが次々と「おはようございます」と声をかける。彼女はその一つ一つに笑顔で返していた。


――チリン、チリン――


直後、廊下から足音が近づいてきた。

ガラッ、と戸が開き、牛松先生が入ってくる。

「はい、席に着いてー。ホームルームを始めるよ」

先生はいつもの好々爺然とした顔で、教壇に立った。

「おはようございます、虚空様。おはようございます、先生」

全員で唱和し、深々と頭を下げる。

窓の外、雨に煙る忌み山に向かって。

その一連の動作は、あまりにも日常的で、あまりにもスムーズだった。

例大祭の夜、あんな狂気じみた儀式が行われたことなど、まるでなかったかのように。

あるいは、あの儀式こそがこの村の「日常」であり、学校生活の方が「仮初め」に過ぎないのだと言わんばかりに。

私は椅子に座り、机の下で左手首を強く握りしめた。

何も変わらない。

特別な儀式を経ても、表面的には何も変わらない学校生活が、淡々と進んでいく。

その変わらなさが、何よりも不気味だった。

私たちは、一歩ずつ、確実に、後戻りできない場所へと進んでいるのだ。



季節は巡り、何事もなく十月が過ぎ去った。

根守の秋は短い。雨が降るたびに気温が下がり、山々の緑はくすんだ褐色へと変わっていく。

十一月も半ばに差し掛かると、空気は肌を刺すような冷たさを帯び始めた。

けれど、湿気だけは変わらない。

冷たく、重く、肺の奥に澱のように溜まる湿気。

村の様子が、少しずつ変わり始めていた。

あれほど熱狂していた祭りの余韻は消え、代わりに、どこかピリピリとした緊張感が漂い始めていたのだ。

きっかけは、小さな「異変」だった。

ある朝、登校すると、教室がざわついていた。

「ねえ、聞いた? 山の方で土砂崩れがあったんだって」

「えっ、嘘? 虚空様の近く?」

「ううん、もっと下の方。でも、畑がいくつか埋まっちゃったらしいよ」

クラスメイトたちのひそひそ話が、耳に入ってくる。

土砂崩れ。

根守村のような急峻な山間部では、決して珍しいことではない。

けれど、そのタイミングが悪かった。

秋季例大祭と、長らく行えなかった『根合わせ』の儀式を行った直後なのだ。

村人たちは信じていたはずだ。あの儀式によって、村は守られ、安泰が約束されたのだと。

それなのに、災害が起きた。

それは、彼らの信仰の根幹を揺るがす事態だった。

「……おはよう」

私が席に着くと、慧くんが教科書から目を離さずに言った。

「聞いたか? 土砂崩れの話」

「うん……。みんな話してる」

私は鞄を置きながら、小声で答えた。

「大丈夫なのかな。結構、大きな崩落だったって聞いたけど」

「規模は大したことない。人的被害もないそうだ」

慧くんは冷静だった。

それから空いている麗華さんの席を目線で示しながら言葉を続ける。

「麗華は父親に付いて被害に遭った場所の視察に行くそうだ」

「そんなことにも、もう関わってるんだ。麗華さん」

自分と同い年の少女が、村を治める仕事の現場にいる。そのことは素直に尊敬できた。

「十一月は、秋の長雨や台風の影響が地盤に残っている時期だ。それに加えて、ここ数日の急な気温低下だ。土中の水分が凍結と融解を繰り返すことで、斜面が不安定になる。凍結融解作用による崩落は、物理的に十分にあり得る現象だよ」

麗華さんの席から視線を外し、クラス全体を見ながら彼は淡々と、理科の授業のように説明した。

その口調はあまりにも論理的で、この教室の中では浮いていた。

「だから、ただの自然現象だ。気にする必要はない」

慧くんはそう締めくくり、再び教科書に視線を落とした。

けれど、私には分かっていた。

彼がページをめくる指先が、微かに震えていることを。

そして、その声に滲む苦々しさを。

「……でも、みんなはそう思わないよね」

私が呟くと、慧くんの動きが止まった。

「……ああ」

彼は短く肯定した。

「この村の連中には、地質学も物理法則も通用しない。起きる現象はすべて、虚空様の意志だ」

慧くんは顔を上げ、教室を見渡した。

クラスメイトたちの表情には、不安の色が濃く浮かんでいる。

「なんで崩れたんだろう」

「お祈りが足りなかったのかな」

「儀式は成功したはずなのに」

「もしかして……」

誰かが、不穏な言葉を口にした。

「儀式は失敗だったのかな?」

その言葉は、波紋のように教室中に広がった。

儀式の失敗。

それはつまり、手順の間違いではない。

参加した人間の中に、「不純物」が混じっていたのではないか、という疑念だ。

「ねえ、誰か変なことしてないよね?」

「虚空様に失礼なこと、思ったりしてないよね?」

疑心暗鬼の視線が交錯する。

「心は一つ」。

その鉄の掟が、今、刃となって私たちに向けられようとしていた。

私の心臓が、嫌なリズムで脈打ち始める。

左手首の『根緒』が、熱を持って締め付けてくる。

(やめて……見ないで……)

私は必死に気配を消そうと、背中を丸めた。

後ろの席の沙夜も、息を潜めるように俯いている。

慧くんの言う通りだ。

ここでは、科学的根拠など何の意味も持たない。

「雨が降ったから地盤が緩んだ」のではない。「誰かの心が緩んでいたから、地盤が崩れた」のだと、彼らは本気で信じているのだ。

そして、その「原因」を特定し、排除しなければ、彼らの不安は解消されない。

重苦しい空気が、教室を満たしていく。

牛松先生が入ってきても、その空気は変わらなかった。

むしろ、先生の顔にも、いつもの好々爺然とした笑みはなく、焦燥と疑念の色が張り付いていた。

「えー、今朝の土砂崩れについては、皆も聞いていると思うが……」

先生は教壇に手をつき、私たちを見回した。

その視線は、ねっとりと粘着質で、一人一人の「心の色」を見定めようとするかのようだった。

「村の方々も心配しておられる。我々も今一度、気を引き締めなければならん。……心にやましいところはないか? 虚空様に対して、一点の曇りもなく顔を向けられるか? 各自、胸に手を当ててよく考えるように」

先生の言葉は、教育的指導などではなかった。

異端審問の開始を告げる、静かな宣言だった。

私は机の下で、固く拳を握りしめた。

恐怖で指先が冷たくなる。

この村の論理は、あまりにも強固で、そして理不尽だ。

自然災害さえも、個人の罪へと変換され、断罪の材料にされる。

そして、その矛先が誰に向くのかは、火を見るよりも明らかだった。

「よそ者」である私。

「外」へ出ようとしている慧くん。

そして、儀式の主役であった沙夜。

私たちは、すでに「標的」としてロックオンされているのだ。

窓の外では、冷たい雨が降り続いていた。

どんよりとした灰色の空が、私たちの逃げ道を塞ぐように垂れ込めている。

日々が過ぎていく。

けれど、それは解決へ向かう時間ではない。

破滅へと向かうカウントダウンのように、重苦しい不穏な空気が、日に日に濃度を増していくのを感じていた。



9-2【魔女狩り】


土砂崩れから数日、状況は私や慧くんの危惧した通りなってきた。

「儀式は失敗だった」

その言葉は、誰かが口にしたわけではない。

けれど、根守の谷底に澱んだ重苦しい空気の中に、確かな質量を持って漂っていた。

教室のざわめきは、いつしか粘着質なひそひそ話へと変わっていた。

窓の外では、冷たい雨が降り続いている。校庭の土を打ち、ぬかるみに変え、世界を灰色の幕で閉ざしていく雨音。その音が、教室内の陰湿な囁きを隠すためのカーテンの役割を果たしていた。


「やっぱり、よそ者が混じってたからじゃないか」

「心が一つじゃなかったんだ」

「虚空様がお怒りなんだよ」


声の主を特定しようと視線を上げても、誰も私を見ていない。

全員が教科書やノートに目を落とし、あるいは隣の席の友人と談笑しているふりをしている。

けれど、その視線の端、意識の焦点は、確実に私たち――私と、慧くんと、沙夜に向けられていた。

視線という鋭利な針が、皮膚を突き刺し、内側を探ろうとしているような感覚。

(違う……私は……)

心の中で否定しようとしても、言葉は喉の奥で凍りつく。

土砂崩れという物理的な現象が、この村では「精神の欠陥」の結果として処理される。

雨量や地盤の緩みといった科学的な因果関係など、ここには存在しない。あるのは、「信仰の純度」と「神の賞罰」という、絶対的かつ理不尽な精神論だけだ。


「神代家だって、最近はどうだか」

「跡取り息子が、村を出たがってるって噂だぞ」

「やっぱり、心が離れてるんだ」


矛先は、慧くんにも向いていた。

彼は窓際の席で、石像のように固まっている。頬杖をついた手は白く変色し、口元は真一文字に結ばれている。彼は聞こえないふりをしているのではない。全身全霊で、この理不尽な暴力に耐えているのだ。

そして、沙夜。

私の後ろの席から、衣擦れの音が聞こえない。息遣いさえも聞こえない。

彼女は、存在を消すようにうつむいていた。

「巫女様も、十五歳だからねぇ」

「力が足りなかったんじゃないか?」

「穢れを祓いきれなかったのかもしれない」

そんな無遠慮な言葉さえ、雨音に混じって聞こえてくる。

あんなに過酷な儀式を耐え抜き、人柱としての役割を果たした彼女に対してさえ、村の疑念は容赦なく牙を剥く。

失敗の原因は、必ず「誰か」にある。

その「誰か」を見つけ出し、排除しなければ、村の安寧は取り戻せない。

それが、根守村の生存本能だった。


「静かに」

凛とした声が、教室の空気を切り裂いた。

御子柴麗華さんだ。

彼女は席を立ち、ゆっくりと教室を見渡した。

その動作一つで、ざわめきが潮が引くように止む。

彼女は教壇の脇まで歩み出ると、聖女のような微笑みを浮かべて言った。

「皆さん、不安になる気持ちは分かりますわ。先日の土砂崩れ……虚空様のお膝元でそのようなことが起きるなんて、確かにただ事ではありませんもの」

麗華さんの声は、甘く、優しく、そして絶対的な響きを持っていた。

「ですが、疑心暗鬼はいけません。疑いは毒となり、根を腐らせます。私たちは今こそ、心を一つにしなければならないのです」

彼女はそこで言葉を切り、私の方へ歩み寄ってきた。

カツ、カツ、と上履きの音が響く。

私の心臓が早鐘を打つ。

麗華さんは私の机の横で立ち止まり、そして慧くん、沙夜へと視線を巡らせた。

「わたくしたち四人は、あの夜、確かに虚空様と一つになりました。その絆に、一点の曇りもございません」

彼女は断言した。

「わたくしたち四人に、虚空様に対してやましいところなどありませんわ。ねえ、皆さん?」

麗華さんは、私を見下ろした。

その口元は笑っていた。

完璧な弧を描く、美しい唇。

けれど、その目は笑っていなかった。

黒曜石のように暗く、冷たく、そして底知れぬ怒りを湛えていた。

「そうですわよね? 莉桜さん」

同意を求められ、私は反射的に頷いた。

「……もちろんだよ」

「慧さんも、沙夜さんも」

慧くんは無言で頷き、沙夜は小さく「はい」と答えた。

麗華さんは満足げに目を細めた。

「ご覧なさい。これが真実です。私たちの結束は揺るぎません」

彼女は再びクラスメイトたちに向き直り、優雅に両手を広げた。

「犯人探しなど、虚空様は望んでおられません。今はただ、祈りましょう。私たちの心がより深く、強く根を張れるように」

教室中から、安堵のため息が漏れた。

麗華さんがそう言うなら。

地主の娘であり、誰よりも信仰心の篤い彼女が保証するなら、間違いはない。

クラスメイトたちの顔に、崇拝の色が浮かぶ。

その光景を見て、私は戦慄した。

麗華さんは、私たちを庇ったのだろうか?

違う。

彼女のあの目。あの、凍てつくような怒りの炎。

あれは、「疑う村人たち」に向けられたものなのか、それとも「儀式を失敗させた(かもしれない)私たち」に向けられたものなのか。

私には、後者のように思えてならなかった。

彼女の怒りは、「私の完璧な儀式に泥を塗ったのは誰だ」という、管理者としての激昂に見えた。

(……探される)

直感が、警鐘を鳴らす。

麗華さんは、許したわけではない。

公の場での混乱を避けるために、一時的に蓋をしただけだ。

その蓋の下で、これから徹底的な調査が始まる。

魔女狩りにも似た、背信者探しが。

「根腐れ」の発生源を特定し、切除するための、冷酷なオペレーションが。


その予感は、的中した。

表面上、村は平穏を取り戻したかのように見えた。

麗華さんや御子柴家、神代家からの通達により、「土砂崩れは自然現象ではなく警告である」「より一層の信仰が必要である」という解釈が広まり、表立った犯人探しは鳴りを潜めた。

けれど、水面下の狂気は、むしろ加速していた。

休み時間。廊下ですれ違う時。下校途中。

視線が変わった。

以前のような、露骨な敵意や好奇心ではない。

もっと粘着質で、湿り気を帯びた視線。

じっとりと肌にまとわりつき、毛穴から侵入して心の中を探ろうとするような、陰湿な観察眼。

村人全員が監視者であり、同時に容疑者だった。

「あいつが怪しいのではないか」

「あいつの祈りが足りないのではないか」

互いに互いを監視し、少しでも異分子の兆候があれば密告する。

疑われる前に、疑う側に回らなければならない。

その強迫観念が、村全体の空気を張り詰めさせていた。

疑いが晴れたはずの私たちに対しても、例外ではなかった。

むしろ、「選ばれた四人」であるからこそ、より厳しい目が向けられている。

「本当にお前たちは潔白なのか?」

「よそ者の娘は、本当に馴染んでいるのか?」

「神代の息子は、本当に村を想っているのか?」

声に出さない問いかけが、雨上がりの湿気のように常に私たちの周りに漂っていた。

私は、息を潜めて過ごした。

目立たないように。影のように。

笑うべきところで笑い、悲しむべきところで悲しみ、村の空気に完全に同化するための擬態を続けた。

けれど、私の左手首にある『根緒』は、片時も休むことなく脈動していた。

ドクン、ドクン。

お前は見られているぞ、と囁くように。

皮膚の下に埋め込んだ金属の蓋が、時折チクリと痛む。

その痛みだけが、私がまだ「個」を保っている唯一の証だった。


そして、その日はやってきた。

放課後。

雨足が強まる中、麗華さんが私の机の横に立った。

手には、一冊のノートが握られている。

藍色の和紙で装丁された、あのノート。

『根のねのとばり』。

「今日は、莉桜さんの番ですわね」

麗華さんは聖女のような微笑みを浮かべ、私にノートを差し出した。

教室中の視線が、私に集まる。

麗華さんの目は表情に反して笑っていない。

慧くんが、窓際で息を止めている気配がする。

私は震える手で、ノートを受け取った。

ずしりと重い。

紙とインクの重さではない。そこに込められた、村人たちの執念と、監視の重圧。

「……うん。今夜書いて、ちゃんと明日持ってくるね」

掠れた声で答え、私はノートを鞄にしまった。

家に帰るまでの道のりが、永遠のように感じられた。

傘を叩く雨音が、断罪の足音のように聞こえる。

『根腐れ』。

『排除』。

『消失』。

山崎和也くんの記憶が、フラッシュバックする。

彼はこのノートに何を書いたのだろうか。何を書かなかったのだろうか。

そして、私は今日、何を書けばいいのだろうか。


夜。

私は自室の机に向かい、『根の帳』を広げていた。

部屋の電気は消し、スタンドライトの明かりだけが手元を照らしている。

窓の外は漆黒の闇。雨音が、家全体を包み込むように響いている。

一階からは、両親の寝息が聞こえてくるようだ。

彼らはもう、完全に「あちら側」の住人だ。今日の夕食でも、「土砂崩れは浄化のための試練だ」「私たちももっと精進しなければ」と、うっとりした目で語り合っていた。

私は一人きりだ。

この家の中にいても、村の中にいても、世界中どこにいても。

鉛筆を握る手が震える。

(書かなきゃ……)

書かなければ、疑われる。

白紙で出せば、「隠し事がある」とみなされる。

不満や不安を書けば、「信仰が足りない」と断罪される。

正解は一つしかない。

「賛美」だ。

この村を、虚空様を、そしてあの狂った儀式を、心の底から素晴らしいと称えること。

それだけが、私が生き延びるための唯一の道。

私は鉛筆を紙に押し付けた。

『秋季例大祭、そして根合わせの儀式、本当にありがとうございました』

文字を書くたびに、左手首が痛む。

『根緒』の下に隠した、和也くんの遺品。ひしゃげた金属の蓋の角が、筆記動作に合わせて皮膚を擦り、肉に食い込む。

チクリ。ズキリ。

痛い。

痛みが、私の脳に警告を送る。

「嘘をつくな」と。

「魂を売るな」と。

けれど、私はその痛みを無視して、鉛筆を走らせた。

『あのような神聖な儀式に参加できたこと、身に余る光栄です』

嘘だ。あんなもの、地獄だった。

『虚空様と一つになれた喜びで、胸がいっぱいです』

嘘だ。気持ち悪かった。吐き気がした。

『村の皆様の温かさに触れ、改めてこの村が好きになりました』

嘘だ。みんな狂ってる。みんな怖い。

書けば書くほど、心の中で悲鳴が上がる。

自分の言葉で、自分の心を切り刻んでいく感覚。

涙が溢れてくる。

ポタリ、と紙面に落ち、紙を文字を歪ませる。

(泣いちゃだめ……書き直さなきゃ……)

滲んだ文字は、「迷い」の証拠になる。

私は必死に涙を拭い、ページをめくった。

もっと、完璧な嘘を。

もっと、彼らが喜ぶ言葉を。

もっと、もっと、もっと。

『虚空様は素晴らしいです』

『私は幸せです』

『疑う心などありません』

『私の全てを捧げます』

左手首の痛みが、鋭さを増していく。

金属の蓋が、皮膚を突き破りそうになるほど強く食い込む。

それはまるで、和也くんが、そしてかつての私が、「やめろ」と叫んでいるかのようだった。

でも、止まれない。

書かなければ消される。

消される。

いなかったことにされる。

恐怖が、思考を白く塗りつぶしていく。

理性が崩壊し、生存本能だけが暴走する。

(許して……許して……)

誰に謝っているのかも分からない。

ただ、許されたかった。

この恐怖から。この孤独から。

鉛筆を握る手に力が入りすぎる。紙が破れそうになる。

『虚空様』『虚空様』『虚空様』

視界が涙で歪む。

頭の中で、あのお囃子の音が鳴り響く。

ドンドコ、ドンドコ。ピーヒョロロロ。

私の心臓の音。私の呼吸の音。

すべてが、村のリズムに上書きされていく。

左手首の痛みが、熱に変わる。

『根緒』が脈打ち、私の血管と繋がり、全身に「村の言葉」を送り込んでくる。

書け。書け。書け。

お前は我らの一部だ。

個などいらない。心などいらない。

ただ、従順な根となれ。

私は、夢中で鉛筆を動かし続けた。

時間の感覚がなくなる。

自分が何を書いているのかも分からなくなる。

ただ、白い紙を黒い文字で埋め尽くすことだけが、救いであるかのように。


ふと、我に返った。

手が止まる。

鉛筆の芯が削れ切ったのか、芯を覆っている軸木じくぎが紙に触れるカスカスという乾いた音がしたからだ。

私は、荒い息を吐きながら、手元のノートを見下ろした。

「……え?」

喉から、ひきつった声が漏れた。

そこにあったのは、賛美の言葉ではなかった。

感謝の言葉でも、信仰の誓いでもなかった。

見開きいっぱいのページに、びっしりと、隙間なく、同じ文字が書き殴られていた。


『助けて』

『助けて』

『助けて』

『助けて』

『助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助』


ミミズがのたうち回るような、乱れた筆跡。

大小様々な大きさで、紙面を埋め尽くす黒い悲鳴。

ある部分は筆圧が強すぎて紙が破れ、裏のページまで突き抜けている。

ある部分は涙で滲み、黒い染みのように広がっている。

「……あ、あ……」

私は鉛筆を取り落とした。

カラン、と乾いた音が、静寂に響く。

これが、私の心?

これが、私の本音?

嘘で塗り固めようとしても、痛みで封じ込めようとしても、溢れ出してしまった魂の叫び。

やってしまった。

取り返しがつかない。

こんなものを見られたら。

明日、このノートを提出したら。

麗華さんはどう言うだろう。

牛松先生はどう言うだろう。

『根腐れだ』

『排除せよ』

幻聴が、耳元で囁く。

左手首が、焼けるように熱い。

金属の蓋の痛みはもう感じない。

代わりに、『根緒』がギリギリと音を立てて締め付けてくる。

まるで、私の手首をねじ切り、その先にある心臓を握り潰そうとするかのように。

「いや……いやだ……」

震える手を叩きつけるようにノートを閉じた。


――バン!――


薄暗く、静寂に満ちた部屋に、現実を拒絶する音が響く。

しかし視界から紙面が消えても、脳裏に焼き付いた文字は消えてくれなかった。

『助けて』という文字が、無数の目となって私を見つめている。

お前はもう、手遅れだ、と嘲笑うように。

窓の外で、雷が鳴った。

紫色の閃光が、部屋の中を一瞬だけ照らし出す。

窓ガラスに映った私の顔。

涙と鼻水でぐしゃぐしゃになり、恐怖に引きつった、醜い顔。

その後ろに、黒い影が立っている気がした。

両親ではない。

もっと巨大な、枝を広げた何かが、私を見下ろしている。

(見られている)

この部屋の中で。

このノートの前で。

私の心が決壊し、本音を吐露してしまった瞬間を、虚空様はずっと見ていたのだ。

逃げ場はない。

隠し場所はない。

私は、椅子から転げ落ちるようにして床に崩れ込んだ。

喉の奥から、言葉にならない嗚咽が漏れる。

助けて。

誰か、助けて。

けれど、その声に応える者は、この村には誰もいないことを、私は誰よりも知っていた。


『根腐れ』『根腐れ』『根腐れ』……


聞こえてくるのは村人の――麗華さんの、私を断罪する声。

うずくまり、自身をきつく抱きしめても震える体を止められない。

閉じた瞼の闇に浮かぶのは、背信者とさげすむ無数の目。

その目に押しつぶされるように私の意識は、プツリと途絶えた。



9-3【証拠】


コン、コン、コン。

硬質な音が、意識の底を叩いた。

私は弾かれたように目を開けた。

視界に飛び込んできたのは、見慣れた天井ではなかった。目の前数センチのところに、ほこりを被ったフローリングの床板がある。

「……っ」

体を起こそうとして、全身に走る鋭い痛みに呻き声を漏らした。

節々が軋む。まるで一晩中、見えない縄で縛り上げられていたかのように、筋肉が強張っている。

手足の先が氷のように冷たい。

私はベッドの上ではなく、勉強机の椅子の下、床の上にうずくまるようにして眠っていたのだ。

(なんで……?)

記憶の糸を手繰り寄せる。

昨夜、私は机に向かっていた。

『根のねのとばり』を広げ、鉛筆を握りしめ、必死に言葉を紡ごうとしていた。

そこまでは覚えている。

「虚空様は素晴らしい」「私は幸せです」「疑う心などありません」。

嘘を。保身のための、吐き気がするような賛美の言葉を書き連ねていたはずだ。

けれど、その先がプツリと途切れている。

いつ寝たのか。どうしてこんなところで、胎児のように丸まって意識を失っていたのか。

まるで私の脳の一部が、何者かによって切り取られたかのような空白。

解離。

その単語が脳裏をよぎり、背筋に冷たいものが走った。

私は、私でいられているのだろうか。

この空白の時間の間に、私は「何か」をしてしまったのではないか。


コン、コン、コン。

再び、扉がノックされた。

「莉桜? 起きなさい、莉桜!」

母の甲高い声が、薄い扉越しに響いてくる。

「寝ているの?遅刻するわよ」

時計を見る。

針はすでに七時半を回っていた。いつもなら朝食を食べ終え、身支度を整えている時間だ。

「……今、起きる!」

私はれた声で叫び、慌てて立ち上がった。

ふらつく足で机にすがりつく。

その拍子に、視線が机の上に落ちた。

スタンドライトの明かりに照らされたまま、藍色のノートが開かれている。

『根の帳』。

昨夜、私が必死に向き合っていた、呪いの交換日記。

(提出できなければ疑われる……)

内容は確認できなかった。母の「早く支度しなさい」と急かす声が、階段を下る足音とともに聞こえてきたからだ。

ここで中身を読み返している時間はない。もし白紙のまま提出すれば、あるいは書き損じがあれば、即座に「怠慢」あるいは「反逆」とみなされる。

提出しないという選択肢は、死と同義だ。

私は中身も確認しないまま、乱暴に学生鞄に押し込んだ。

ずしり、と重い手応え。

それは単なる紙の束の重さではなく、私の命運そのものの重さのように感じられた。


「おはよう、お母さん」

「おはよう。……まあ、ひどい顔。髪も跳ねてるじゃない」

台所には、すでに朝食の支度が整っていた。

母は私の顔を見るなり眉をひそめたが、その瞳には心配の色よりも、規格外品を見るような冷ややかな検分の色が混じっていた。

「早く食べなさい。心身を整えて学校へ行くのも、虚空様への務めよ」

「……うん」

私は機械的に椅子に座り、味噌汁を口に運んだ。

味はしなかった。

ただ、喉を通る熱い液体が、かろうじて私が生きていることを実感させるだけだった。

昨夜の記憶がないことへの不安が、胸の奥で黒い渦を巻いている。

けれど、立ち止まることは許されない。

この村という巨大な時計の歯車の一つとして、私は今日も正確に回転し続けなければならないのだから。


学校までの道のりは、記憶にないほど短く感じられた。

気づけば私は教室の入り口に立っていた。

ガララ、と引き戸を開ける。

湿った空気が、顔に張り付く。

「おはようございます、莉桜さん」

すでに自席に座っていた麗華さんが、こちらを向いて挨拶してきた。

彼女は優雅な動作で立ち上がり、こちらに近づいてくる。

麗華さんは今日も完璧だった。制服のプリーツスカートには一点の乱れもなく、長い黒髪は艶やかに光を反射している。その立ち姿は、この教室の支配者そのものだった。

「……おはよう、麗華さん」

私は鞄から『根の帳』を取り出し、両手で差し出した。

指先が微かに震えているのを悟られないように、力を込める。

「お願いします」

「ええ、ご苦労様」

麗華さんは聖女のような微笑みを浮かべ、ノートを受け取った。

その瞬間、彼女の視線が私を一瞬だけ鋭く射抜いた気がした。

値踏みするような、あるいは獲物の急所を探るような目。

けれど、次の瞬間にはまた柔和な笑みに戻っている。

「昨日は筆が進みましたか? 莉桜さんの清らかな心が綴られているのを、楽しみにしていますわ」

「……うん」

私は逃げるように自分の席へと向かった。

私の席の後ろに座っている沙夜が目に入る。

「おはよう。沙夜」

「おはよう。莉桜」

沙夜はいつものように淡く微笑みながら、挨拶を返してくれる。

前の席では、慧くんが参考書を開いていた。私が席に着くと、彼は視線を上げずに小さく溜息をついた。

他のクラスメイトは誰も私を見ていない。

けれど、教室中の空気が私にまとわりつき、皮膚の毛穴から侵入して心臓を鷲掴みにしようとしているような圧迫感があった。


その日は、表立った事件は何一つ起きなかった。

授業は淡々と進み、休み時間にはクラスメイトたちの空虚な笑い声が響いた。

けれど、その平穏こそが何よりも不気味だった。

誰もが互いの顔色を伺い、視線を盗み見ている。

「あの子、昨日あんなこと言ってたけど」

「お祈りの時、目が泳いでた」

「虚空様は見ている」

ひそひそとした囁き声が、湿気を含んだ空気の中で増幅され、耳の奥で羽音のように鳴り響く。

粘着質な疑心暗鬼。

誰もが「誰が吊るし上げられるのか」と怯え、そして「自分ではない誰か」であってほしいと願っている。

私は息を潜め、影のように過ごした。

左手首の『根緒』が、時折ドクンと脈打ち、皮膚の下に埋め込んだ金属の蓋がチクリと痛む。

その痛みが、まだ私の中に残っている「東京の高村莉桜」を刺激する。


そして、翌日の朝。

断罪の時は、唐突に訪れた。


朝のホームルーム。

牛松先生が教壇に立つ前に、一人の女子生徒が手を挙げた。

「先生。昨日の『根の帳』について、報告があります」

麗華さんに似た(実際に憧れているらしい)、真面目そうな生徒だった。

彼女の手には、あの藍色のノートが握られている。

私の心臓が、早鐘を打ち始めた。

嫌な予感がする。

背筋に冷たい汗が伝う。

「なんだね?」

牛松先生が穏やかに促す。

女子生徒は、怯えたような、それでいてどこか興奮したような表情でノートを開いた。

「昨日の担当は、高村莉桜さんでした。……ですが、この内容は……」

彼女は言葉を濁し、開いたページをクラス全員に見えるように掲げた。

教室が、しんと静まり返った。

私も見た。

そして、息を呑んだ。

そこにあったのは、私が書いた「賛美の言葉」だけではなかった。

「賛美の言葉」の続きに、文字ですらないものが書かれていた。

いや、文字ではあったが、それは意味をなす文章の形を保っていない。

『助けて』

『助けて』

『助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて』

『助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて』

ページ一面を埋め尽くす、無数の「助けて」の羅列。

ミミズがのたうち回るような、あるいは爪で紙を引っ掻いたような、狂気じみた筆跡。

筆圧は強く、所々で紙が破れ、裏のページまで黒鉛が突き抜けている。

文字の大きさもバラバラで、行も整っておらず、まるで何かに取り憑かれた人間が、断末魔の叫びを紙に叩きつけたかのような惨状だった。

「……ひっ」

誰かが短い悲鳴を上げた。

「これは……」

牛松先生の目が、カッと見開かれた。

好々爺の仮面が剥がれ落ち、そこには異物を排除しようとする冷酷な審問官の顔が現れる。

「莉桜ちゃん。これはどういうことかね?」

先生の声は低く、重く、教室の床を這うように響いた。

一斉に突き刺さる視線。

恐怖。軽蔑。嫌悪。そして、「見つけた」という安堵。

クラスメイトたちの目が、私を「人間」としてではなく、「汚染源」として見ている。

「ち、違います……私は……」

焦って立ち上がろうとしたが、膝がガクガクと震えて立てない。

記憶がない。

あの夜、私は確かに机に向かっていた。でも、こんなことを書いた覚えはない。

解離していた時間の私が、書いたのか。

私の深層心理に押し込められていた悲鳴が、理性の堤防を決壊させ、勝手にあふれ出したというのか。

「違う? 何が違うのですか?」

麗華さんが、静かに口を開いた。

彼女は自分の席に座ったまま、微笑みを浮かべて、私に問いかけてくる。

その瞳は、凍てつくように冷たかった。

「『助けて』とは、誰に助けを求めているのですか? 私たちから? それとも、虚空様から?」

彼女の声には、隠しきれない棘があった。

「この村は、虚空様の慈愛に満ちた場所です。その中で『助けて』と叫ぶということは、あなたがこの村を『地獄』か何かだと感じている証拠ではありませんか?」

「信仰心の欠如だ」

男子生徒の一人が吐き捨てるように言った。

「やっぱり、よそ者なんだよ」

「心が一つじゃないんだ」

けがれてる」

口々に浴びせられる罵倒。

それは物理的な石礫いしつぶてとなって、私の全身を打ち据えるようだった。

かつて見た光景がフラッシュバックする。

山崎和也くん。

掃除用具入れの前でうずくまり、誰にも助けてもらえず、翌日には「いなかったこと」にされた彼。

川辺で必死に偽物の『響木』を耳に当てていた男性。

彼らもまた、こうして断罪され、排除されたのだ。

次は、私だ。

ここで認めれば、私は終わる。

私の存在は消され、両親の記憶からも抹消され、この世のどこにもいなかったことにされる。

(嫌だ……消えたくない……!)

生存本能が、爆発した。

恐怖が脳髄を焼き切り、代わりに冷徹な計算回路が作動する。

生き残るためには、何でもする。

魂を売ってでも、心を殺してでも、この場を切り抜けなければならない。

私は、震える足を叱咤して立ち上がった。

そして、大きく息を吸い込み、叫んだ。

「違います! 私が『助けて』と書いたのは、自分が助かりたいからではありません!」

教室が、一瞬だけ静まり返る。

私の剣幕に、クラスメイトたちが気圧されたのだ。

私はその隙を逃さず、瞬時に構築した詭弁をまくし立てた。

「私は、悲しかったんです。尊い虚空様に見守られたこの根守村のみんなが、互いを疑い、監視し合っている現状が! 心がバラバラになってしまっているこの状況が、たまらなく悲しかったんです!」

涙が、勝手に溢れてきた。

これは演技の涙ではない。極限の恐怖と、自分自身を騙すことへの絶望が生み出した涙だ。

「これは虚空様を悲しませることです。だから私は、一心不乱に祈りました。虚空様に、どうか私たちをお救いくださいと。みんなの心がまた一つになるように、どうか助けてくださいと! その祈りが、無意識のうちに筆を動かしてしまったんです!」

嘘だ。

全部、出まかせだ。

私はただ、自分が怖くて、苦しくて、逃げ出したくて、助けを求めていただけだ。

けれど、私の口は滑らかに、この村の狂った論理に迎合する言葉を紡ぎ出していた。

「私は、この村が大好きなんです! 虚空様を愛しているんです! だからこそ、今の疑い合う空気が耐えられなかった……ただ、それだけなんです!」

私はその場に泣き崩れた。

机に手をつき、嗚咽を漏らす。

(……気持ち悪い)

自分の言葉に、吐き気がした。

心の中で、本当の私が叫んでいる。

『嘘つき! お前はこの村を憎んでるくせに! 逃げ出したいと思ってるくせに!』

けれど、もう一人の私が、それを冷ややかに見下ろしている。

『黙れ。生き残るためだ。これくらい言えなくてどうする』

自分の中で、何かが決定的に乖離していく音がした。

「……なるほど」

牛松先生の声が、頭上から降ってきた。

恐る恐る顔を上げると、先生は深く頷き、感極まったような表情をしていた。

「そうか……そうだったのか。莉桜ちゃんは、そこまで深く、村のことを憂いてくれていたのか」

先生の目には、涙さえ浮かんでいるように見えた。

「疑ってすまなかったね。君のその激しい祈り、確かに虚空様への純粋な信仰の現れだ。文字が乱れるほどの没入……それこそが、神懸かりに近い状態だったのかもしれん」

空気が、反転する。

先ほどまで私に向けられていた敵意が、急速に「共感」と「称賛」へと変わっていくのが肌で感じられた。

「すごいな、高村さん」

「僕らよりずっと、深く考えてたんだね」

「疑ってごめんね」

クラスメイトたちが、口々に謝罪と称賛の言葉を投げかけてくる。

そのあまりの掌の返しように、私はめまいを覚えた。

彼らにとって、「論理」や「事実」はどうでもいいのだ。

「虚空様への信仰」という文脈に合致してさえいれば、どんな狂気も「正気」として肯定される。

「素晴らしいですわ、莉桜さん」

麗華さんが、席を立って私に近づいてきた。

彼女は机にうずくまる私の肩を抱き、優しく立たせてくれた。

「あなたのその熱い想い、痛いほど伝わりました。私たちも反省しなければなりませんね。互いを疑うことこそが、虚空様への不義理であったと」

彼女はハンカチで私の涙を拭ってくれた。

その手つきは優しく、慈愛に満ちていた。

けれど、至近距離で見る彼女の瞳の奥は、決して笑っていなかった。

『よくできました』

声に出さずに、彼女の唇がそう動いた気がした。

見抜かれている?

私が嘘をついていることを。

そして、その嘘を突き通すために、私が自分の魂を売り渡したことを。

――違う!今のは私の恐怖心が生み出した妄想だ。

麗華さんに、ここで私を見逃す理由はない――はず……。

「先生。莉桜さんのこの『根の帳』は、不敬なものではなく、むしろ篤い信仰の記録として認めるべきだと存じます」

「うむ。御子柴さんがそう言うなら、間違いないだろう。莉桜ちゃん、よくぞそこまで心を砕いてくれた」

牛松先生の裁定が下った。

私は、許されたのだ。

「……ありがとうございます」

私は深々と頭を下げた。

安堵はない。

あるのは、泥沼の底に足を引きずり込まれたような、重苦しい疲労感だけだった。

席に座るとき、ふと視線を感じた。

前の席。

慧くんが、肩越しに私を見ていた。

彼は何も言わなかった。表情も変えなかった。

けれど、その瞳には、かつてないほどの深い憐れみと、そして苦渋の色が滲んでいた。

まるで、友人が目の前で汚濁にまみれ、人間としての尊厳を捨て去る瞬間を目撃してしまったかのような目。

(見ないで……)

私は心の中で懇願した。

慧くんにだけは、こんな無様な姿を見られたくなかった。

そして、私の後ろの席。

沙夜。

彼女は、痛ましげに眉を寄せ、泣き出しそうな顔で私を見つめていた。

彼女の手が、微かに伸びかかっている。

私の背中に触れようとして、けれど、触れることができずに空を彷徨っている。

「……莉桜」

蚊の鳴くような声が聞こえた。

私は振り返ることができなかった。

今の私には、彼女の純粋な悲しみを受け止める資格さえない気がしたからだ。


私は椅子に座り、机の下で左手首を強く握りしめた。

『根緒』の下、皮膚に埋め込んだ金属の蓋が、ギリリと音を立てて肉に食い込む。

痛い。

痛い。

けれど、その痛みだけが、私がまだ完全に狂っていないことの証明だった。

口では「虚空様を愛している」と叫びながら、腹の底ではどす黒い嘔吐感を抱えているこの矛盾。

身体と言葉の不一致。

自己喪失の恐怖。

私は生き残った。

けれど、その代償として、私はまた「高村莉桜」という人間の核を、自らの手で砕いてしまったのだ。

教室には、再び平穏な空気が戻っていた。

まるで何事もなかったかのように、授業の準備が始まる。

私は教科書を開きながら、ぼんやりと思った。

(次は、いつだろう)

今回は乗り切った。

でも、次は? その次は?

私はいつまで、この綱渡りを続けられるのだろうか。

いつまで、嘘を嘘として認識していられるのだろうか。

いつか、本当に心から「虚空様万歳」と叫ぶ日が来てしまうのではないか。

それが一番の恐怖だった。

窓の外では、冷たい秋の雨が、降り止むことなく世界を濡らし続けていた。



9-4【宣告】


翌日、教室の扉を開けた瞬間、私は肌にまとわりつく空気の質が変わっていることに気づいた。

昨日まで充満していた、針のむしろに座らされるようなピリピリとした緊張感はない。粘着質な疑心暗鬼の視線も、私を突き刺すような敵意も、潮が引くように消え失せている。

代わりにそこにあったのは、奇妙なほど明るく、そして重々しい「安堵」だった。

まるで、長く患っていた病の特効薬が見つかった時のような、あるいは、手に負えない猛獣の檻にようやく頑丈な鍵がかけられた時のような、絶対的な解決への確信に満ちた空気。


「おはよう、莉桜ちゃん」

「おはよう」

クラスメイトたちが、屈託のない笑顔で挨拶をしてくる。

昨日まで私を「汚染源」を見るような目で睨みつけ、私の『根の帳』を証拠品として突き出した同じ生徒たちが、だ。

彼らの瞳には、もう迷いはない。

黒目の奥に、狂信的な光が宿っている。

私は愛想笑いを貼り付け、「おはよう」と小さく返しながら、逃げるように自分の席へと向かった。


窓際の席には、すでに神代慧くんが座っていた。

彼は教科書を開いていたが、その視線は文字を追っていなかった。ただ一点、黒板の上に掲げられた『虚空様』の写真を、穴が開くほど凝視している。

その横顔は、昨日よりもさらに青白く、頬がこけて見えた。握りしめた拳の関節が白く浮き上がり、微かに震えている。

「……慧くん」

私が声をかけると、彼はビクリと肩を震わせ、ゆっくりとこちらを向いた。

その瞳を見た瞬間、私は息を呑んだ。

そこには、絶望と、そして大人たちへの激しい怒りが、どす黒い炎となって渦巻いていた。

「……何も聞くな」

彼は私の問いかけを遮るように、低く押し殺した声で言った。

「今は、何も」

その拒絶は、私に向けられたものではない。彼自身が今、正気を保つために必死で堤防を支えている、そのギリギリの均衡を崩さないための懇願だった。


そして、私の後ろの席。

神代沙夜。

彼女は、静かに座っていた。

いつものように背を丸め、気配を消すように俯いている。けれど、その姿はどこか違って見えた。

透明感が増している。

生きている人間の生々しさが抜け落ち、精巧に作られたガラス細工か、あるいは祭壇に飾られた供物のように、触れれば壊れてしまいそうな儚さを纏っている。

「沙夜……」

「おはよう、莉桜」

彼女は顔を上げ、ふわりと微笑んだ。

その笑顔には、恐怖も、悲しみもなかった。ただ、すべてを悟り、受け入れた者だけが浮かべることのできる、静謐な諦めがあった。

「今日も曇ってるね」

彼女は何でもないことのように天気の話をした。

窓の外では、鉛色の空が太陽を隠し、校庭を薄暗く染めている。

私は言葉に詰まり、ただ頷くことしかできなかった。


ガララ、と引き戸が開く音がした。

教室の空気が、一瞬にして沸き立つ。

御子柴麗華さんが入ってきたのだ。

彼女はいつものように完璧だった。制服のプリーツスカートには一点の乱れもなく、長い黒髪は湿気を吸って艶やかに光っている。

けれど、今日の彼女はどこか違っていた。

内側から発光しているかのような、圧倒的な高揚感。

聖女のような慈愛と、目的を達成した執行人のような冷徹さが、完璧なバランスで同居している。

「皆様、おはようございます」

鈴を転がすような声が響く。

クラスメイトたちが一斉に彼女の方を向き、敬虔な信徒のように挨拶を返す。

麗華さんは優雅に歩を進め、私の席の横を通り過ぎ――そして、沙夜の席の前で立ち止まった。


「沙夜さん」

麗華さんが呼びかける。

その声は、甘く、とろけるように優しかった。

沙夜がゆっくりと立ち上がる。

麗華さんは、愛おしい宝物に触れるように、沙夜の両手をそっと包み込んだ。

「おめでとうございます、沙夜さん」

おめでとう?

私は耳を疑った。何がめでたいというのだろう。

土砂崩れが起き、儀式が失敗したと騒ぎ立て、犯人探しをしていたはずのこの教室で、一体何が。

麗華さんは、うっとりとした表情で沙夜を見つめ、そして教室全体に聞こえるように、朗々と宣言した。

「みなさん、昨夜、神代家と御子柴家の両当主による話し合いの場が設けられ、決定いたしましたの。穢れを祓い、怒れる虚空様をお鎮めするには、最上の供物を捧げるしかない、と」

最上の、供物。

その単語が、私の脳内で反響する。

「これで根守は救われますわ。そして何より、沙夜さん。あなたが本当の意味で虚空様と一つになれる時が来たのです」

麗華さんの瞳が、恍惚と潤む。

「素晴らしいことですわ。これ以上の名誉はありません。私たちには到底手の届かない、神聖な領域……。あなたが選ばれたのです」

彼女は沙夜の手を握りしめ、その白い肌に爪が食い込むほど強く、熱烈に祝福した。

「本当の『根合わせ』が行われるのです」


時が止まったようだった。

クラスメイトの高揚する気配がさざ波のように広がっていく。

本当の、根合わせ。

先日行われたあの狂気じみた儀式が「偽物」だったというなら、「本物」とは何なのか。

私の脳裏に、以前沙夜が語った伝承が蘇る。

『昔、この村で大きな災害があった時に、一人の娘が人柱になって村を救ったっていう……』

『その娘と同い年の十五歳の子供たちが選ばれるの』

人柱。

生贄。

私はガタガタと震えだした膝を抑え、必死に立ち上がった。

「……どういう、こと?」

私の声は掠れ、震えていた。

「本当の根合わせって……まさか……」

麗華さんがゆっくりと私の方を向いた。

その美しい顔には、一点の曇りもない笑顔が張り付いている。

「あら、莉桜さん。まだ理解できていらっしゃらないの? 言葉の通りですわ」

彼女は当然のことのように、平然と言い放った。

「沙夜さんが、虚空様への人柱となられるのです」


教室が、どよめきに包まれることはなかった。

代わりに満ちたのは、深い納得と、安堵の吐息だった。

「やっぱり、そうだったんだ」

「巫女様が、行ってくださるんだ」

「これでもう大丈夫だね」

「ありがとう」

「おめでとう」

「おめでとう」

「おめでとう」

クラスメイトたちが口々に呟き、中には涙ぐんで手を合わせる者さえいた。

彼らは沙夜の死を悲しんでいるのではない。

一人の少女が犠牲になることで、自分たちの平穏が約束されたこと、そしてその犠牲が「尊い信仰」という美しい物語に昇華されたことに、感動しているのだ。

狂っている。

全員、狂っている。

私は吐き気をこらえ、沙夜を見た。

彼女は抵抗しなかった。否定もしなかった。

ただ、麗華さんに握られた手を見つめ、静かに目を伏せていた。

「……はい」

小さな、けれどはっきりとした声で、沙夜は答えた。

「謹んで、お受けいたします」

その瞬間、教室中から拍手が巻き起こった。

パチ、パチ、パチ、パチ。

乾いた音が、私の理性を粉々に砕いていく。

私はその場に立ち尽くし、拍手喝采の中で生贄となる親友が祝福される光景を、呆然と見つめることしかできなかった。



放課後。

根守村に太陽の光はない。

重く垂れ込めた雲が、世界を薄暗く閉ざしていた。

ホームルームが終わると同時に、沙夜は麗華さんに連れられて職員室へと向かった。これからの「準備」について話し合うためだという。

二人の姿が見えなくなると、慧くんが私の手首を掴んだ。

「来い」

拒否を許さない強い力で、彼は私を教室の外へと引っ張り出した。

廊下ですれ違う生徒たちが、私たちを奇異な目で見る。けれど慧くんは構わず、誰もいない渡り廊下の隅まで私を連れて行き、壁に背中を押し付けた。

「慧くん、痛い……」

私が呻くと、彼はハッとしたように手を離した。

その顔は、怒りと悔しさで歪んでいた。

「……すまない」

彼は荒い息を吐き、壁を拳で殴りつけた。

ドン、という鈍い音が響く。

「ふざけるな……! どいつもこいつも、正気じゃない!」

慧くんの声が震えている。

「沙夜が殺されるんだぞ? あいつら、本気で沙夜を殺して、それを『救済』だの『名誉』だのとほざく気か!?」

「慧くん、教えて。どういうことなの? 本当の根合わせって……本当に、沙夜が生贄になるの?」

私は縋るように尋ねた。

まだ信じられなかった。信じたくなかった。

ここは現代の日本だ。いくら閉鎖的な村だとしても、殺人が、生贄が、公然と行われるなんてありえない。

慧くんは血走った目で私を睨みつけ、そして吐き捨てるように言った。

「……ああ、そうだ。殺されるんだ」

彼は怒りと悔しさで震える両手を見つめ、その震えを抑え込むようにきつく握りしめる。

「本来……沙夜が生まれた時から、この計画はあったんだ」

「え?」

「俺たちの母親は、沙夜を産んだ後に体を壊して亡くなった。その時から、親父たちは考えていたんだ。十五年後、沙夜が十五歳になった時に、本当の儀式を行うことを」

慧くんの声は、地底から響いてくるように重く、暗かった。

「だが、時代の変化もあった。それに、俺たちの母親の遺言もあった。『子供たちを犠牲にしないでほしい』と。だから親父も迷っていたんだ。形だけの、再現劇としての『根合わせ』でお茶を濁そうとしていた」

それが、先日の儀式だ。

私たちは白装束を着せられ、薬を飲まされ、幻覚を見せられた。けれど、誰も死ななかった。沙夜も戻ってきた。

「なのに……あの土砂崩れだ」

慧くんが顔を上げ、憎悪に満ちた目で雨空を睨んだ。

「たかが自然災害だ。雨が降れば土は崩れる。当たり前のことだ。なのに、この村の連中はそれを『神の怒り』だと結びつけた。おざなりな儀式を行ったから、穢れが祓いきれなかったから、虚空様がお怒りになったのだと!」

彼の論理は正しい。

あまりにも正しくて、そしてこの村ではあまりにも無力だった。

「親父も、御子柴の親父も、恐怖したんだ。自分たちの判断が間違っていたのではないかと。村を守るためには、やはりいにしえの盟約通り、巫女を人柱として捧げなければならないのではないかと」

「そんな……そんなの、おかしいよ!」

私は叫んだ。

「親なんでしょ? 自分の娘だよ? なんで守ってあげないの!?」

「信仰だ」

慧くんは冷たく言い放った。

「あいつらにとって、虚空様は絶対だ。自分の命よりも、子供の命よりも、この村の存続と神への奉仕が優先される。……いや、違うな」

彼は自嘲気味に笑った。

「あいつらは本気で信じているんだ。沙夜が死ぬことで、沙夜自身も救われると。虚空様と一体になり、村を見守ってくれるのだと。だから、これは『殺人』じゃない。『昇華』なんだと」

眩暈がした。

常識が通じない。善悪の基準が根本から書き換えられている。

私の両親もそうだった。

私を「器」と呼び、「供物」にすることを喜んでいた。

彼らは悪意を持って私を虐待しているのではない。狂信という名の善意で、私を破滅させようとしているのだ。

「麗華もそうだ」

慧くんが呟く。

「あいつは……あいつは、純粋なんだ。純粋すぎるほどに、この村の教えを信じている。だから、沙夜が選ばれたことを本気で祝福している。自分には手の届かない、神聖な領域に行く沙夜を、羨んでさえいる」

麗華さんのあの恍惚とした表情。

沙夜の手を握りしめ、涙ぐんで喜んでいた姿。

あれは演技ではなかった。彼女の中では、沙夜を人柱にすることは「最高の幸福を与えること」と同義なのだ。

「止めなきゃ……」

私の口から、言葉が漏れた。

「止めなきゃいけないよ、慧くん。沙夜が死んじゃう。あんな暗い穴の中で、一人で……」

想像するだけで、胃の腑が縮み上がる。

あの巨大な虚空様の洞。底知れぬ闇。

あそこに閉じ込められ、土に埋められ、あるいは……。

「分かってる!」

慧くんが立ち上がり、私の肩を掴んだ。

「止めるに決まってるだろ! 俺は絶対に沙夜を死なせたりしない。こんなバカげた茶番の犠牲になんかさせない!」

彼の指が、私の肉に食い込む。

その痛みは、彼自身の心の痛みのようだった。

「でも、どうやって?」

私は震える声で聞いた。

「村中が賛成してるんだよ。大人たちも、先生も、みんな。私たちだけで、どうやって……」

「……力ずくでも連れ出す」

慧くんの目に、狂気にも似た決意の光が宿った。

「今夜だ。今夜、神代の屋敷で親父たちが最終的な儀式の日取りを決める会議をする。大事な儀式のための話し合いだ。他のことには目がいかなくなる。その隙に沙夜を連れ出して、山を越える」

「山を越えるって……真っ暗な中を?」

「道はある。昔、林業に使われていた廃道だ。今は誰も使っていないが、俺はずっと調べていた。いつか沙夜を連れて逃げるために」

彼は準備していたのだ。

ずっと、この日のために。

表面上は従順な跡取り息子を演じながら、水面下でたった一人、この巨大なシステムに抗う牙を研いでいたのだ。

「私も行く」

私は反射的に言っていた。

「私も手伝う。私にも何かできるはずだよね?」

自分でも驚くほど、迷いはなかった。

怖い。足がすくむほど怖い。

もし失敗すれば、私は間違いなく「根腐れ」として処分されるだろう。沙夜だけでなく、私自身の命も終わる。

けれど、このまま何もしないで沙夜が死ぬのを見ているくらいなら、一緒に破滅した方がマシだと思った。

それに、私には分かっていた。

ここで逃げれば、私は一生、この村の亡霊に憑りつかれたまま生きることになる。

「……莉桜」

慧くんが、驚いたように私を見た。

そして、ふっと表情を緩めた。それは、この数週間で初めて見る、彼本来の優しい顔だった。

「お前は馬鹿だな。……戻れないぞ」

「戻る場所なんてとっくになくなってるよ。お母さん、お父さんのところ、家にも」

私は左手首を見つめた。

赤茶けた組紐が、私の脈動に合わせてドクン、と跳ねる。

「それに……私、また同じ思いをしたくない」

左手首を『根緒』ごと握りしめる。チクリ、と肌を刺激するひしゃげた金属片の感触。

山崎和也くんの遺品。

彼を見殺しにした罪悪感。

もし沙夜まで見殺しにしたら、私は人間でいられなくなる。

「分かった」

慧くんは私の手を強く握り返した。

「お前の協力が必要だ。俺一人じゃ、沙夜を支えきれないかもしれない。……頼む」

「うん」

私たちは、薄暗く冷え込む渡り廊下で、共犯の契約を結んだ。

それは、神への反逆であり、この狂った世界への宣戦布告だった。



その日の下校時。

私たちはいつものように四人で並んで歩いていた。

表面上は、何も変わらない放課後の風景。

けれど、その内実は決定的に変質していた。

「沙夜さん、体調はいかがですか? 昨夜はよく眠れまして?」

先頭を歩く麗華さんが、気遣わしげに振り返る。

「うん……大丈夫だよ」

沙夜は淡々と答えた。

彼女はもう、感情を表に出すことをやめてしまったようだった。ただ静かに、運命を受け入れた聖女のように振る舞っている。

それが彼女なりの、私たちへの「拒絶」なのかもしれないと思うと、胸が痛んだ。

「それは重畳ですわ。これからの準備期間、心身ともに清浄に保たなくてはなりませんものね。神代のおじ様も、張り切っておられましたわよ」

麗華さんは楽しげに語る。

「儀式の日取りは、次の新月……十一月二十日になりそうですね。闇が最も深くなる夜こそ、虚空様の口が最も大きく開く時なのですから。おそらく今夜の両家の話し合いで、そういう結果になるのではないかしら」

十一月二十日。

あと一週間もない。

私と慧くんは、無言で視線を交わした。

時間がない。

すぐに行動しなければ――。

「楽しみですわね、莉桜さん」

不意に話を振られ、私はビクリとした。

「あ……うん、そうだね」

「私たちも、沙夜さんの一世一代のお勤めをしっかりと見届けましょうね。それが、残される私たちの務めですもの」

麗華さんの笑顔は、無邪気で、残酷だった。

彼女は本当に信じているのだ。沙夜が死ぬことの正当性を。

悪意がない分、その狂気は純粋で、手の施しようがない。

いつもの分かれ道に差し掛かる。

「では、ごきげんよう」

麗華さんが華やかな笑顔で手を振る。

沙夜も、小さく手を振る。

その顔には、今にも砕け散りそうなほど弱々しい笑顔が浮かんでいた。

(待ってて、沙夜)

私は心の中で叫んだ。

(絶対に、助けるから)

三人の背中が、坂道を登っていく。

よどんだ闇に包まれた忌み山が、黒い巨人のように彼らを見下ろしている。

私は一人、村の入り口へと続く坂道を下り始めた。

足取りは重い。

恐怖で胃が縮み上がる。

村の家々の軒先には、またあの黒い注連縄と赤い紙垂が飾られている。

それらが風に揺れるたびに、無数の手招きに見える。

『逃がさない』

『いよいよだ』

『根になれ』

『巫女を捧げよ』

幻聴が聞こえる。左手首の『根緒』が、熱を持って締め付けてくる。

けれど、私は足を止めなかった。

左手首をきつく握りしめる。

皮膚を刺す金属片の痛み。

これが私の正気だ。

これが私の武器だ。

巨大な信仰という名の壁。同調圧力と狂気で塗り固められた、この絶望的な要塞。

今夜、私たちはそれに挑む。

たとえ、蟷螂の斧だとしても。

私は唇を噛み締め、押さえつけてくるような分厚い曇り空の下を走り出した。


(第九章 完)


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