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第八章 根合わせ

Google AI Studioで専用のアプリを作り、プロットを読み込ませて作った和風ホラー小説です。

8-1【行列】


逢魔がおうまがとき

誰かがそう呟いたわけではない。けれど、山峡の空がどす黒い紫色に染まり、太陽が忌み山の稜線に食い殺されるように沈んでいくその瞬間を、他にどう形容できただろうか。

昼間の晴天が嘘のように、湿気が再び鎌首をもたげていた。

それは雨の前触れというよりも、この谷底に溜まった何十年、何百年分の人の息吹と、死者の脂が気化して立ち込めているような、粘着質な重さだった。


神社の拝殿の前には、二基のかがり火が焚かれている。

パチ、パチ、と爆ぜる音だけが、静寂を切り裂いていた。

炎は赤ではない。松脂まつやにを多く含んでいるせいか、あるいはもっと別の何かを燃やしているせいか、黒煙を伴ったどす黒い橙色が、周囲の闇を毒々しく照らし出していた。


私は、拝殿の脇に整列させられていた。

隣には、神職装束の姿の慧くんと艶やかな振袖姿の麗華さんがいる。

そして、私たちの前方には、数百人はいるであろう村人たちが、墓標のように微動だにせず並んでいる。

誰も口を利かない。

咳払いひとつ聞こえない。

昼間の祭りの喧騒は、まるで別の世界での出来事だったかのように消え失せ、ここにはただ、巨大な一つの意思に統率された有機的な塊だけがあった。


拝殿の奥から、鈴の音が聞こえた。

シャン、シャン、シャン……。

冷たく、硬質な音色が、重たい空気をさざ波のように揺らす。

巫女装束を身にまとった沙夜が、ゆっくりと進み出てきた。


息を呑んだ。

そこにいるのは、数時間前に私と笑い合っていた少女ではなかった。

白塗りの化粧を施された顔は、能面のように無表情だ。唇に差された紅だけが、切り裂かれた傷口のように鮮烈な赤を放っている。

彼女は祭壇の前に座ると、深く一礼し、祝詞のりとを奏上し始めた。


「掛けまくもかしこき、根守の大神おおかみ御前みまえまおさく――」


沙夜の声は、細く、けれど驚くほど遠くまで響いた。

それは人間の声帯から発せられる音というよりは、風が空洞を吹き抜ける時に鳴る笛の音に似ていた。

彼女の自我は、もうそこにはない。

「神代沙夜」という器の中に、村の歴史と、妄執と、そして虚空様の意志が注ぎ込まれ、溢れ出しているのだ。


いにしえちぎり、たがうことなし。なずみし血は根となりて、御山みやまを縫い、里をいだかん。尊き御霊みたまの嘆きを鎮め、我ら、一つに溶け合わんことを――」


意味の全ては理解できない。

けれど、その言葉の端々に散りばめられた単語が、私の鼓膜を不快に震わせる。

泥。血。根。溶け合う。

それは神への感謝ではない。もっと生々しい、契約の再確認だ。

かつて人柱となった娘への弔いと、その犠牲の上に成り立つこの村の繁栄を、永遠に維持するための呪文。


沙夜の背中が、小刻みに震えているのが見えた。

彼女は耐えているのだ。

この圧倒的な「役目」という名の暴力に、たった一人で。

私は叫び出したかった。

その場に駆け寄り、彼女の手を引いて逃げ出したかった。

けれど、体は金縛りにあったように動かない。

左手首に巻かれた『根緒』が、ドクン、ドクンと脈打ち、私の四肢に根を張り巡らせているような感覚がする。

動くな。見届けろ。

数千本の見えない根が、私をこの場所に縫い留めている。


祝詞が終わると、沙夜は再び深く頭を下げ、祭壇の脇へと退いた。

代わって進み出たのは、神主である慧くんの父親だった。

立派な狩衣かりぎぬをまとい、手には大きなさかきを持っている。

彼は集まった村人たちを、そして私たち四人を、猛禽類のような鋭い眼光で見下ろした。


「皆の者、よくぞ集まった」

腹の底に響くような、朗々とした声。

「今宵は、久方ぶりの『根合わせ』。我らが根守の民にとって、最も神聖にして、最もおそるべき夜である」


神主は、ゆっくりと語り始めた。

この地に伝わる因果話を。

飢饉と地滑りに苦しんだ村人たちが、いかにして神の怒りを鎮め、この土地に根を下ろすことを許されたか。

一人の清らかな娘が、自ら望んで土中に入り、その身をいしずえとして巨木と一体化したという、美談に塗り替えられた悲劇を。


「娘は言った。『私の心はうろとなりてお前たちを見張ろう』と。これは呪いではない。慈愛である。我らが道を誤らぬよう、心がバラバラにならぬよう、母なる木となって見守ってくださっているのだ」


嘘だ。

私は唇を噛み締めた。

沙夜は言っていた。「人柱になって村を救った」と。

けれど、今の神主の言葉には、「自ら望んで」という欺瞞が含まれている。

そして何より、あの言葉。

『根は腐り、山は崩れ、村は滅びる』

それは慈愛などではない。脅迫だ。

私たちを、恐怖で支配するためのくさびだ。


「さあ、時は満ちた。選ばれし若人わこうどよ。その身を清め、白きころもまとうがよい。虚空様が、お腹を空かせて待っておられる」


お腹を空かせて。

その言葉が、私の理性を逆撫でする。

やはり、彼らは知っているのだ。これが「供物」を捧げる儀式であることを。

それを「名誉」だの「一体化」だのという言葉で飾り立て、自分たちの罪悪感を塗りつぶしているに過ぎない。


神主の合図と共に、太鼓が打ち鳴らされた。

ドン、ドン、ドン。

地響きのような音が、私の心臓のリズムを強制的に書き換えていく。

私たちは、神社の脇にある社務所へと促された。


社務所の中は、外よりもさらに濃密な線香の匂いが充満していた。

薄暗い畳敷きの部屋に、四組の衣装が用意されている。

白装束。

死者が旅立つ時に着る、あの白い着物だ。

男女の区別なく、すべて同じ形、同じ白さ。

それは、個性を消し去り、ただの「魂の器」となるための制服だった。


「素晴らしいですわね」

隣で着替え始めた麗華さんが、恍惚とした声で呟いた。

彼女は振袖を脱ぎ捨て、白い肌を露わにするのを躊躇わなかった。その肌は、白装束よりもなお白く、そして冷たそうだった。

彼女の左手首には、赤黒く変色した『根緒』が食い込んでいる。まるで、血管そのものが体外に露出して、のたうち回っているかのように見えた。

「これで私たちは、生まれ変わるのです。一度死んで、虚空様の中で再び産み落とされる。……ああ、なんて羨ましい」

麗華さんの視線は、部屋の隅で着替えている沙夜に向けられていた。

そこには、純粋な嫉妬があった。

地主の娘である彼女でさえ、神の依代よりしろにはなれない。その役割を与えられた沙夜への、狂おしいほどの羨望。


私は震える手で、ブラウスのボタンを外した。

指先が冷たくて、うまく動かない。

慧くんは、着替えずに部屋の外で待機している。障子越しに見えるその背中は、石のように硬く強張っていた。

彼は今、何を考えているのだろう。

着替えの前に飲んだ酔い止めの薬のことを考えているのだろうか。それとも、これから始まる「芝居」の段取りを反芻しているのだろうか。


沙夜は、誰とも目を合わせようとしなかった。

巫女装束を脱ぎ、さらに簡素な白衣はくえ一枚になる。

その体は、あまりにも細く、薄かった。

あんな華奢な体が、村全体のごうを背負わされている。

着替えを終えると、彼女はそっと自分の左手首を撫でた。

そこにある『根緒』だけが、彼女を現世に繋ぎ止める唯一の鎖であるかのように。


「準備はいいか」

神主の声が、襖越しに聞こえた。

私たちは顔を見合わせた。

いいえ、視線が合ったのは慧くんだけだ。麗華さんは陶酔し、沙夜は虚空を見つめている。

私は、慧くんに向かって小さく頷いた。

ポケットの中の薬包紙を、ギュッと握りしめる。

大丈夫。私は正気だ。

これは芝居だ。

終われば、日常が戻ってくる。


外に出ると、世界は闇に包まれていた。

いつの間にか、かがり火以外の明かりはすべて消されていた。

村の家々の明かりも、街灯も、月明かりさえも、分厚い雲と木々に遮られて届かない。

あるのは、揺らめく炎と、底知れぬ黒い森の気配だけ。


神社の本殿の裏へと回る。

そこには、普段は厳重な鎖で封鎖されている、錆びついた鉄の扉があった。

その向こうには、山頂へと続く古びた石段が、闇の中に吸い込まれるように伸びている。

禁足地。

神域。

あるいは、怪物の胃袋へと続く食道。


神主が、鍵束を取り出した。

ジャラリ、という金属音が、静寂の中で不吉に響く。

重たい鉄の扉が、悲鳴のような軋み声を上げて開かれた。

その瞬間、奥から冷たく湿った風が吹き抜けてきた。

腐葉土と、カビと、そして鉄錆の臭い。

黒脂くろやに』の臭いだ。

私は思わず鼻を覆いそうになったが、白装束の袖を掴んで耐えた。


「行くぞ。列を乱すな」

神主が松明たいまつを掲げ、先頭に立つ。

その後に沙夜が続く。彼女の足取りは、夢遊病者のように頼りない。

次に慧くん。彼は、沙夜の背中を食い入るように見つめながら、一歩一歩を踏みしめている。

そして麗華さん。彼女は背筋を伸ばし、まるで天国への階段を登るかのように優雅に歩き出した。

最後が、私だ。


私は、深呼吸をしてから一歩目を踏み出した。

石段は苔むして滑りやすく、足を置くたびにヌルリとした感触が靴底越しに伝わってくる。

私の後ろには、神代家と御子柴家の親類縁者たちが続くはずだ。

彼らは「選ばれた大人たち」だ。

振り返ることは許されない。

背後から、無数の気配が、音もなく迫ってくるのを感じる。

衣擦れの音さえしない。ただ、彼らの吐く息の湿り気だけが、私の首筋にまとわりついてくる。


ピーヒャララ……ドンドコ、ドン……。

眼下の神社から、お囃子の音が聞こえてきた。

村に残った人々が、儀式の成功を祈って演奏しているのだろう。

けれど、その音色は、昼間に聞いた祭り囃子とは似ても似つかないものだった。

リズムが狂っている。

笛の音が、調子外れに甲高く叫び、太鼓の音が、不整脈のようにドロリと重く響く。

それは音楽ではなかった。

人間の生理的リズムを破壊し、平衡感覚を奪い、吐き気を催させるための音響兵器のようだった。


気持ち悪い。

胃の奥がひっくり返りそうだ。

音階のズレた笛の音が、脳みそを直接かき回してくる。

視界がぐらりと揺れた。

松明の炎が、生き物のようにのたうち回っている。

その光が照らし出す石段の脇の木々が、異様な形に見えた。

杉の木肌が、人間の皮膚のように滑らかで、脂ぎっている。

枝が、無数の腕となって、私たちを手招きしている。

地面から露出した根が、巨大な血管のように脈動し、土の中の養分――あるいは死体――を吸い上げている。


(……幻覚だ)

私は必死に自分に言い聞かせた。

これは、あの音のせいだ。雰囲気のせいだ。

私はまだ、何も飲んでいない。正気だ。

けれど、左手首の『根緒』が、私の思考を否定するように熱くなる。

ギュウ、と締め付けられる感じがする。

痛い。

でも、その痛みが心地よいと感じ始めている自分がいる。

この根に身を委ねてしまえば、あの狂ったお囃子も、心地よい子守唄に聞こえるのではないか。

この列から外れることへの恐怖よりも、この列の一部であることの安堵感が、私の心を浸食していく。

「――っ!」

締め付けてくるような『根緒』に鋭い痛みを感じて、霞がかっていた意識を切り裂く。

『根緒』に埋め込んだ、和也君のシャーペンの芯の蓋だ。

鋭く歪んだ金属の蓋が私の皮膚にささる。その刺激が、私を現実に呼び戻そうとする。


「……莉桜さん」

前の麗華さんが、歩きながら囁いた。

振り返りもしない。けれど、その声は私の耳元で直接囁かれたかのように鮮明に響いた。

「聞こえますか? 山が、喜んでいますわ」

彼女には、聞こえているのだ。

この不協和音が、祝福の歌声に。

腐臭を含んだ風が、神の吐息に。

「……うん。……聞こえるよ」

私は答えた。

自分の声が、自分のものではないように響く。

嘘をついているつもりだった。話を合わせているつもりだった。

けれど、私の口から出た言葉は、妙に滑らかで、確信に満ちていた。

本当に、山が喜んでいるように感じられる。

巨大な胃袋が、餌が喉を通っていくのを待ちわびて、涎を垂らしているような、おぞましい歓喜。


列は進む。

一歩、また一歩と、闇の奥深くへ。

誰も言葉を発しない。

ただ、ザッ、ザッ、という足音と、遠くで響く狂った笛の音だけが、世界を支配していた。

前を行く沙夜の白い背中が、闇の中に白く浮かび上がっている。

それは、死出の旅路を行く魂のようにも、あるいは、深海魚を誘き寄せる疑似餌のようにも見えた。


私の意識が、少しずつ乖離していく。

私は高村莉桜だ。東京から来た、ただの中学生だ。

そう念じる私と、

私は根守の一部だ。この行列の一粒だ。早く、早く根と繋がりたい。

そう渇望する私が、頭の中でせめぎ合っている。


ふと、視界の端で何かが動いた気がした。

木々の隙間。闇の奥。

誰かが見ている。

いや、人ではない。

無数の目が、私たちを見下ろしている。

それは木々の節穴であり、葉の裏についた虫の卵であり、そして、かつてこの山に埋められた人々の眼球だった。

『聞こえます、聞こえます』

頭の中に、あの日の教室での声が響く。

『お前は我らのものだ』

『逃がさない』


私は、白装束の袖の下で、右手を強く握りしめた。

爪が掌に食い込む。

痛みだけが、私を「こちら側」に繋ぎ止めるいかりだった。

まだだ。

まだ、飲まれてはいけない。

慧くんとの約束がある。

沙夜を守るという、誓いがある。

私は歯を食いしばり、歪みそうになる視界を睨みつけた。

その先には、黒々とそびえ立つ山頂が、巨大な口を開けて私たちを待ち構えていた。



8-2【祭壇】


濡れた石段の感触が、足袋たびの底を通して生々しく伝わってくる。

一歩踏みしめるたびに、苔がジュクリと音を立て、何十年、何百年と積み重なった死者のあぶらを踏みつけているような錯覚に陥る。

私の後ろには、数十人の村人たちが続いているはずだ。それなのに、背後は深海のように静まり返っていた。衣擦れの音も、呼吸音すら聞こえない。ただ、彼らの体から立ち上る湿った熱気と、無言の圧力が、津波のように私の背中を押し上げているだけだった。


最後の一段を登り切った瞬間、視界が開けた。

そこは、世界の果てだった。

あるいは、世界の底だったのかもしれない。


「……あ」

喉の奥から、乾いた音が漏れた。

山頂は、予想していたよりも遥かに広かった。木々が切り払われ、ぽっかりと空いた空間。その地面は黒い土が踏み固められ、まるで巨大なすり鉢の底のようになっている。

そして、その中央に、それは鎮座していた。


虚空様ウロサマ

根守の大神。


写真で見たことはあった。村の至る所から、その頂きを見上げてきた。

けれど、目の前にある「実物」は、植物という概念を遥かに逸脱していた。

太い。あまりにも太すぎる。

幹の周囲は大人十人が手を繋いでも届かないだろう。樹皮は岩のようにゴツゴツと隆起し、ところどころがこぶのように膨れ上がっている。それは老木の枯淡な姿ではなく、筋肉が極限まで膨張し、血管が浮き出た肉塊のように見えた。

枝葉は空を覆い隠すほどに広がり、夜の闇よりもなお濃い影を落としている。

風もないのに、枝がざわざわと揺れている。

葉擦れの音ではない。無数の虫が這い回るような、あるいは何千人もの人間がひそひそと噂話をしているような、生理的な嫌悪感を催す音。


そして、何よりも目を引くのが、その根元だった。

幹の中心、地面に接した根元から、巨大な亀裂が走っている。

うろ

落雷によって裂けたのか、あるいは内部から何かが食い破って出てきたのか。

大人が立ったまま余裕で入れるほどの縦長の裂け目が、ぱっくりと口を開けていた。

暗い。

松明の明かりが周囲を照らしているはずなのに、その洞の中だけは光が届かない。光そのものを吸い込み、咀嚼そしゃくしているかのような、絶対的な闇。

物理的な奥行きを超えた、底知れぬ深淵がそこに繋がっているのが直感でわかった。


あれは、傷跡ではない。

捕食器官だ。

この村のすべてを飲み込み、消化し、養分に変えるための、巨大な口。


足がすくんだ。

前へ進まなければならないのに、膝が笑って力が入らない。

私の隣で、麗華さんが恍惚とした吐息を漏らした。

「ああ……虚空様。今宵も麗しいお姿で……」

彼女はその場にひざまずき、泥に額を擦り付けて平伏した。白い着物が汚れることなど気にも留めない。

神主である慧くんのお父さんが、祭壇の前へと進み出る。

祭壇といっても、粗末な木の台が置かれているだけだ。その上には、山盛りの供物と、一升瓶、そして朱塗りのさかずきが並べられている。


「皆の者、が高い。御前であるぞ」

神主の低い声が響く。

私は弾かれたようにその場に正座した。慧くんも、沙夜も、そして後ろに続く村人たちも、一斉に地面にひれ伏す。

土の冷たさと、腐葉土の臭いが鼻腔を満たす。

視線を上げることすら許されない。

ただ、目の前の巨木が放つ圧倒的な質量と、そこから漂う濃密な気配に押しつぶされそうになる。


「掛けまくも畏き、根守の大神に対したてまつる――」

祝詞のりとが始まった。

それは、神社で沙夜が唱えていたような美しい韻律のものではなかった。

もっと原初的で、野蛮で、そして呪術的な響き。

「我ら根守の民、御身おんみの根となりて、土をみ、水をすすり、命を繋がん。こは契約なり。いにしえより続く、血と泥の契約なり」

神主の声は、朗々としているようでいて、どこか切羽詰まった響きを帯びている。

「今年のみのりは御身の恵み。里の安寧は御身の守り。我らが心、一つに溶け合い、御身のうろを満たさんことを」


満たす。

その言葉に、背筋が粟立った。

やはり、あの洞は空っぽなのだ。常に何かを欲し、何かを食らわなければ満たされない、飢えた穴なのだ。

私の左手首が、ドクン、と跳ねた。

『根緒』だ。

今まで感じたことのないほど強く、熱く脈打っている。

締め付けられるような痛みではない。まるで、目の前の巨木と共鳴し、私の血液を逆流させて、あちら側へと吸い寄せようとする引力のような力。

(呼ばれてる)

頭ではなく、細胞が理解してしまった。

私は高村莉桜という人間ではない。この巨大な根系こんけいの末端にある、ちっぽけな毛細根の一つに過ぎないのだと。

「逃げられない」

絶望が、黒いインクのように心に広がっていく。

慧くんがくれた薬?

そんなものは無意味だ。

物理的な距離など関係ない。私がどこへ逃げようと、この『根緒』を通じて、私は常に虚空様に監視され、生殺与奪の権を握られている。

東京に帰る? 進学する?

なんて馬鹿げた夢を見ていたのだろう。

一度でも根を張った植物が、自ら土を離れて歩き出せるわけがないのに。


おもてを上げよ」

神主の声で、私はハッとして顔を上げた。

いつの間にか、神主は祭壇の上の瓶を手に取っていた。

ドロリとした黒い液体が、朱塗りの盃に注がれる。

とぷ、とぷ、という重たい音が、静寂の中に響いた。

液体は、水や酒のようなサラサラしたものではない。水飴のように糸を引き、松明の光を受けて鈍く黒光りしている。

強烈な臭いが漂ってきた。

鉄錆と、腐った葉と、そして獣の脂が混じったような、あの臭い。

黒脂くろやに』。

この村の因習の象徴であり、禁忌の味。


「選ばれし四人の若人わこうどよ。御神酒おみきを頂くがよい」

神主が厳かに告げる。

最初に進み出たのは、沙夜だった。

彼女は幽霊のように足音もなく祭壇へ近づくと、震える手で盃を受け取った。

その横顔は白紙のように何もなく、ただ瞳だけが、恐怖に見開かれている。

彼女は一瞬だけ躊躇い、そして覚悟を決めたように一気にあおった。

喉がゴクリと鳴る。

口元から黒い雫がこぼれ、白い装束に染みを作る。

沙夜は盃を返すと、ふらりとよろめき、その場に崩れ落ちそうになった。

「沙夜!」

慧くんが思わず声を上げ、駆け寄ろうとする。

しかし、神主が鋭い視線でそれを制した。

「控えよ。……神と交わっている最中だ」

沙夜は荒い息を吐きながら、虚ろな目で宙を見つめている。その頬が、急速に朱に染まっていくのが見えた。焦点が合っていない。

(薬……)

慧くんの言葉を思い出す。

『トランス状態に入りやすくするためのドラッグみたいなもんだ』

あんな即効性があるなんて。

次は、慧くんの番だった。

彼は唇を噛み締め、悲痛な面持ちで盃を受け取った。

私と目が合う。

その瞳には、「飲むな」という警告と、「飲むしかない」という諦めが同居していた。

彼は一息に飲み干すと、苦悶の表情を浮かべた。

鉄の味に顔をしかめたのか、それとも自分の理性を手放すことへの抵抗か。

彼は拳を握りしめ、必死に立ち続けていたが、やがてその膝がガクガクと震え始めた。


そして、麗華さん。

彼女は恍惚とした笑みを浮かべ、まるで愛しい人の口づけを受けるかのように、盃に口をつけた。

喉を鳴らして味わい、舌なめずりをする。

その口元は黒く汚れ、妖艶で、そしておぞましかった。

「ああ……熱い……虚空様の血が、私の中に……」

彼女は自分自身を抱きしめるように身をよじり、陶酔の吐息を漏らした。


最後は、私だ。

神主が、なみなみと注がれた盃を私に差し出す。

黒い水面が揺れている。そこに映っているのは、恐怖に引きつった私の顔と、背後にそびえる巨大な虚空様の影。

「さあ、莉桜。飲みなさい」

どこからか、母の声がした気がした。

「飲みなさい。そうすれば楽になる」

父の声も聞こえる。ここにいないはずの両親の声が聞こえる。

村人たちの無言の視線が、私の背中に突き刺さっている。

拒否権はない。

飲まなければ、ここで「根腐れ」として処分されるだけだ。

私は震える両手で盃を受け取った。

重い。

液体そのものの重さ以上に、この村の歴史と狂気が詰まっているような重さ。

鼻をつく異臭に、吐き気がこみ上げる。

(慧くんの薬……飲んでるから……大丈夫……)

すがるようにそう念じ、私は息を止めて盃を傾けた。


ドロリとした液体が、口の中に滑り込んでくる。

「んぐっ……」

味は、最悪だった。

強烈な鉄の味。血の味だ。

それに加えて、古い油のような粘り気と、腐った土のじゃりじゃりとした食感。

喉が拒絶して収縮するのを、無理やり嚥下えんげする。

食道を焼きただれるような熱い塊が落ちていく。

胃袋に到達した瞬間、爆発的な熱量が体中に広がった。


カッ、と視界が白む。

「あ、が……」

盃を取り落としそうになり、慌てて両手で押さえる。

地面がぐにゃりと歪んだ。

平衡感覚が一瞬で消し飛ぶ。

酔い止め? 胃薬?

そんなもので防げるような生易しいものではない。

これは毒だ。

私の人間としての理性を溶かし、別の生き物に作り変えるための劇薬だ。


『ようこそ』

頭の中に、声が響いた。

耳からではない。脳髄のひだに、直接染み込んでくるような声。

低く、湿り気を帯びた、無数の囁き声の集合体。

『こっちは温かいよ』

『もう考えなくていいんだ』

『根を張れ。根を張れ』

視界の端で、巨木が脈動しているのが見えた。

ゴウッ、ゴウッ、という低い音が、木の幹から、そして地面の下から響いてくる。

それは幻覚だと分かっているのに、あまりにもリアルな質感を持って迫ってくる。

「いや……だ……」

私は首を振った。

思考が溶けていく。

「東京の高村莉桜」という輪郭が、熱い泥の中に沈んでいく。

怖い。

自分が自分でなくなることが、たまらなく怖い。

けれど、その恐怖の裏側に、奇妙な甘さが張り付いていることに気づいてしまった。

このまま溶けてしまえば、楽になれる。

もう、怯えなくていい。

もう、よそ者だと疎外感を感じなくていい。

みんなと一緒になれる。両親と同じになれる。

『そう、それでいい』

『お前は我らのものだ』

『愛しているよ』

甘い声が、脳を撫でる。

下腹部のあたりが、妙に熱い。

お神酒の成分のせいなのか、それとも自我が崩壊する際のエンドルフィンのせいなのか。

体の奥から、じわじわと痺れるような快感が湧き上がってくる。

それは性的な興奮にも似ていたが、もっと根源的で、おぞましい快楽だった。

個体としての殻を破られ、巨大な母体へと回帰していく、胎内回帰願望のような陶酔。


「あ……は……」

口から、力のない笑い声が漏れた。

立っていられない。

私は崩れ落ちるように地面に手をついた。

土が温かい。

まるで生き物の肌のように、生温かく、湿っている。

(ああ……なんて……気持ちいい……)

地面に指を突き立てる。

私の指が、そのまま根になって伸びていき、この大地と一体化していくようなイメージが脳裏を駆け巡る。

左手首の『根緒』が、ギュウギュウと締め付けてくる。

痛い。けれど、その痛みさえもが、愛撫のように感じられる。

「莉桜さん……」

隣で、麗華さんが私を見ていた。

彼女の顔が、歪んで見える。

目が四つあるように見えたり、口が裂けているように見えたりする。けれど、そのどれもが美しく、神々しく見えた。

「一緒になりましょう。すべてを、虚空様に捧げて」

彼女の白い手が伸びてくる。

その指先が、植物のつたのようにしなやかに伸び、私の体に絡みついてくる幻覚。

私は抵抗できなかった。

いや、抵抗したくなかった。

混濁した意識の中で、「東京」の記憶が遠ざかっていく。

ビル群の明かり。舗装された道路。清潔なマンション。

それらが、色あせた偽物のように感じられる。

ここにある泥と、闇と、腐臭こそが、本当の世界なのだと。

「……きこえ、ます……」

私は、うわ言のように呟いた。

「……虚空様の……お声が……」

それは嘘ではなかった。

私の脳内は今、何千、何万という「村の声」で満たされ、パンク寸前だったのだから。


ふと、祭壇の奥、あの巨大な虚空様のウロが目に入った。

闇。

ただの暗闇ではない。

粘り気のある、生きた闇。

その奥で、何かがうごめいているのが見えた気がした。

赤い、濡れた何かが。

『おいで』

洞が、私を呼んでいる。

『こっちへおいで』

『私の中においで』

『もっと深く、もっと奥へ』

その声に呼応するように、私の胃の中で黒い液体が暴れまわる。

私は四つん這いになり、嘔吐えずいた。

けれど、吐き出されたのは胃液ではなく、言葉にならない嗚咽おえつだけだった。

私の体はもう、私の意志では動かない。

この村の、この巨木の、消化器官の一部として組み込まれてしまったのだ。


「儀式を始める」

神主の声が、遠くから聞こえた。

太鼓の音が、ドンドコ、ドンドコと激しくなり、私の心臓を早鐘のように打ち鳴らす。

終わる。

私が終わる。

そして、何かが始まる。

私の左手首にある『根緒』の中に隠した、小さな金属の蓋。

和也くんの遺品。

その尖った角が、皮膚に食い込んでいる痛みだけが、かろうじて私をこの世に繋ぎ止めている最後の蜘蛛の糸だった。

(痛い……痛い……)

私はその痛みにすがった。

この痛みを忘れたら、私は完全に溶けてしまう。

泥人形になってしまう。

現実か幻覚か区別のつかなくなった両目から涙が溢れてくる。

歪んだ視界で世界がさらに曖昧になる。

助けて。

誰か、助けて。

心の中で叫んでも、口から出るのは、

「……虚空様……虚空様……虚空様と一つに……」

という、狂った賛美の言葉だけだった。



8-3【悦危えつあや


私と麗華さんは虚空様の洞を挟んで、向かい合って立っている。

ドンドン、ドンドン、ドンドン。

腹の底に響く太鼓の音が、私の心臓の鼓動を上書きしていく。

いや、違う。

それは私の心臓が、身体という枠組みを叩いて、外へ飛び出そうとしている音なのかもしれない。

胃袋の中で爆ぜた熱塊が、全身の血管を駆け巡り、脳髄を焼き焦がしていく。

視界がぐにゃりと歪んだ。

世界が溶けていく。

夜の闇も、松明の炎も、目の前の巨木も、すべてが水飴のようにドロドロに溶け合い、混ざり合っていく。


――ヒャララ……ピーヒョロロ……

どこからともなく、甲高い笛の音が聞こえ始めた。

龍笛りゅうてきだろうか。それとも篳篥ひちりきだろうか。

その音色は、優雅な雅楽などでは決してなかった。断末魔の悲鳴のようであり、あるいは地獄の底から亡者を手招きするサイレンのようでもあった。

音の波が、物理的な圧力を持って鼓膜を押し破り、脳みその中をかき回す。

頭の中が攪拌かくはんされる。

「私」という個体が、ミキサーにかけられた果実のように粉砕され、根守という巨大なスープの中に溶け込んでいく感覚。


「ああ……」

口から、熱い吐息が漏れた。

立っていられない。

膝が笑うどころか、骨そのものがゴムのように頼りなくなっている。

私は地面に両手をついた。

指の隙間から、黒い土が這い上がってくるような気がした。

土の冷たさと、そこから立ち上る腐葉土の発酵臭。

臭い。けれど、たまらなく甘い。

腐敗と熟成は紙一重だ。この村の空気は、熟れきって崩れ落ちる直前の果実のような、濃厚な死と生の気配に満ちていた。


顔を上げる。

目の前に、虚空様がいる。

さっきまでは、ただの巨大な古木に見えていた。

けれど今は違う。

ゴウッ、ゴウッ、と低い唸り声を上げながら、その巨体はドクンドクンと脈動していた。

樹皮のしわ一本一本が、血管のように膨れ上がり、中を流れるどす黒い樹液を循環させている。

岩のようにゴツゴツとしたこぶは、苦悶に歪む人間の顔のようにも見え、あるいは快楽に喘ぐ女の顔のようにも見えた。

生きている。

植物ではない。これは、巨大な肉塊だ。

枝葉がざわざわと揺れるたびに、数千、数万の視線が私を見下ろし、品定めしているのが分かる。

『熟れたか』

『満ちたか』

『我らと一つになるか』

脳内に直接響く声。

それは幻聴だと分かっているのに、私の唇は勝手に動き出そうとしていた。

「はい……はい……」

従順な家畜のように。あるいは、愛を乞う奴隷のように。


ふと、周囲の気配が変わった。

私たちを取り囲む村人たちの輪。

彼らの姿が、歪んで見える。

黒い装束をまとった人間の形をしていたはずの彼らが、一本一本の太い「根」に変貌していく。

うねり、絡み合い、壁となって私たちを閉じ込める、肉色の根。

逃げ場はない。

この円環は、子宮であり、胃袋であり、そして墓場なのだ。


「うっ……」

足元に、違和感があった。

白装束のすそが、勝手に捲れ上がっていく。

風ではない。

もっと粘着質な、意志を持った何かが、私の足首を掴んでいた。

視線を落とす。

そこには、地面から這い出した無数の細い根が、蛇のように鎌首をもたげていた。

赤黒く、濡れた根。

その先端は、動物の触手のようにぬらぬらと光り、私の白い肌を探っている。

「ひっ……!」

短い悲鳴を上げたが、体は動かなかった。

根が、足首に巻き付く。

冷たい。

いや、生温かい。

生き物の体温を持った根が、私のふくらはぎを這い上がり、膝裏をくすぐり、太ももへと侵入してくる。

ゾワリ、と背筋に電流が走った。

それは恐怖による悪寒だったはずだ。

けれど、拒絶しようとする脳の指令とは裏腹に、私の体はビクリと反応し、熱を帯びていく。

根は、私の抵抗など意に介さず、白衣はくえの隙間を縫うようにして、さらに奥へと潜り込んでくる。

ザラザラとした樹皮の感触と、分泌される粘液のぬめり。

相反する二つの刺激が、鋭敏になった皮膚を直接撫で回す。


(やめて……入ってこないで……)

心の中で叫ぶ。

けれど、声にならない。

根は、まるで熟れ具合を確かめる農夫の手つきで、私の太ももの肉を押し、弾力を確かめ、そして愛おしむように絡みつく。

異物感。

絶対的な他者が、私の聖域を土足で踏み荒らしていく感覚。

生理的な嫌悪感で、胃の中身を吐き出しそうになる。

だが、それと同時に、抗えない甘美な痺れが下腹部から這い上がってきた。

お神酒に含まれていた薬物のせいだろうか。

それとも、この圧倒的な「力」に蹂躙されることへの、本能的な屈服だろうか。

根が動くたびに、私の神経は快楽と苦痛の狭間で悲鳴を上げ、思考が白く弾けていく。

「あ……ぁ……」

漏れ出た声は、自分のものではないようだった。

甘く、とろけた、雌の鳴き声。

それを聞いた瞬間、羞恥心さえもが消し飛んだ。

どうでもいい。

何もかも、どうでもいい。

この巨大な根の一部になり、養分として吸い尽くされ、空っぽになれるなら、それはどれほど楽なことだろう。

自我という重荷を下ろし、ただ「虚空様」という全能の存在に身を委ねる安らぎ。

それが「信仰」の正体なのかもしれない。


前を見る。

御子柴麗華さんが、そこにいた。

彼女もまた、地面に崩れ落ちるように膝をついている。

その白く美しい顔は、夕映えのように朱く上気し、汗で濡れた髪が頬に張り付いている。

目はうつろに虚空を見上げ、口元はだらしなく緩んでいる。

「ああ……虚空様……もっと……もっと深く……」

彼女は、見えない根に向かって両手を広げ、抱擁を求めていた。

その姿は、神聖な巫女などではない。

異類の神に犯され、それを悦びとして受け入れる、狂った花嫁の姿だった。

彼女の白装束の下でも、無数の根が蠢き、その体を弄んでいるのだろうか。

彼女の太ももを、腹を、胸を、あの冷たく熱い触手が這い回っているのだろうか。

想像しただけで、私の体も共鳴し、熱く疼いた。

私の足元の根もまた、呼応するように締め付けを強める。

まるで、「お前も同じだ」と囁くように。

「お前も、根守の女だ」と、烙印を押すように。


視線を感じる。とろけた視界の片隅。

――沙夜。

彼女は、虚空様の正面、ぽっかりと口を開けた「うろ」の前に立っていた。

その後ろには、慧くんが控えている。

さらにその後ろ、私たち全員を見下ろす位置に、神主である慧くんの父親が立っている。

神主の目は、私たちを見ていなかった。

彼は、ただ虚空様だけを見つめ、何事かブツブツと呪文のようなものを唱えている。

その手には、大きなさかきが握られている。バサッ、バサッ、と彼が榊を振るたびに、空気が重く澱み、私たちを圧迫する。


「沙夜……」

慧くんが、苦しげに妹の名を呼んだのが見えた。

けれど、その声は管絃の轟音にかき消され、私の耳には届かない。

慧くんの足元にも、きっと根が絡みついているのだろう。

彼は必死にそれに抗い、仁王立ちになって耐えているように見えた。

だが、その表情は蒼白で、脂汗が滝のように流れている。理性の堤防が決壊する寸前の、ギリギリの形相。


そして、沙夜。

彼女だけが、静かだった。

狂乱の音も、まとわりつく湿気も、彼女の周りだけ避けて通っているかのように、そこには真空のような静寂があった。

沙夜は、ゆっくりと顔を上げた。

その瞳には、もう光はなかった。

恐怖も、悲しみも、諦めさえもない。

ただ、底のない虚無だけが、黒い瞳孔の奥に広がっている。

彼女は見ているのだ。

私たちの目には見えない、あの「洞」の奥にあるものを。

物理的な闇の、さらに向こう側に繋がっている、根守の深淵を。


カラン、コロン……。

頭の中で、鈴の音がした気がした。

それは合図だった。

沙夜の足が、ふらりと動く。

自分の意志で踏み出したのではない。

見えない糸に引かれるように。あるいは、強力な磁力に吸い寄せられる砂鉄のように。

一歩。また一歩。

彼女の白足袋が、黒い土を踏みしめる。

その足取りは、夢遊病者のように頼りなく、けれど絶対に引き返せないという確固たる方向性を持っていた。

「……いかないで」

私の喉の奥で、言葉が形を成そうとした。

だめ。

あそこに入ってはいけない。

あそこは、神様のお家なんかじゃない。

消化器官だ。

入れば、二度と戻れない。沙夜が、沙夜でなくなってしまう。

溶かされ、砕かれ、ただの養分に変えられてしまう。


ズキン。

左手首に、鋭い痛みが走った。

「あっ……!」

一瞬、意識の霞が晴れた。

『根緒』の中に隠した、ひしゃげた金属の蓋。

和也くんの遺品であるその尖った角が、脈打つ手首の皮膚に深く食い込んだのだ。

痛み。

鮮烈な、物理的な痛み。

それが、泥酔したような私の脳髄に、冷水を浴びせかける。

(私は……私は、高村莉桜だ……!)

思い出した。

私は、この狂った村に飲み込まれるためにここに来たのではない。

沙夜を守るために。この茶番を見届けて、彼女を連れ戻すために来たのだ。

足元の根が、不満げに蠢くのを感じた。

私の意識が覚醒しかけたことを察知したのか、根はさらに強く私の太ももを締め付け、白濁した粘液を擦り付けてくる。

快楽物質を直接注入しようとするかのように。

(離して……! 気持ち悪い……!)

私は歯を食いしばり、必死に理性を繋ぎ止めた。

沙夜を見なければ。

沙夜を、止めなければ。


「沙夜!」

私は叫んだ。

つもりだった。

けれど、口から出たのは、形にならない空気の塊だけだった。

声が出ない。

舌が麻痺しているのか、それともこの空間そのものが、私の「拒絶」の言葉を許さないのか。

管絃の音が、さらに大きくなる。

ピーヒョロロロロ! ドンドコドンドコ!

頭蓋骨の中で反響し、思考を粉々に砕く音の暴力。

私の叫びは、その轟音の渦に飲み込まれ、泡となって消えた。


沙夜は、止まらない。

彼女はもう、私の声など聞こえていないようだった。

その華奢な背中が私と麗華さんの間を抜け、遠ざかっていく。

わずか数メートルの距離が、永遠の隔たりに思えた。

彼女の前には、巨大な亀裂が口を開けている。

大人が立ったまま入れるほどの、縦長の洞。

その奥は、松明の光さえも届かない、漆黒の闇だ。

闇が、うねった気がした。

洞の中から、腐った息のような風が吹き出し、沙夜の長い黒髪を揺らす。

おいでおいで、と手招きするように。

沙夜は、吸い込まれるようにその闇へと近づいていく。


動け。動け、私の体。

私は必死に足に力を込めようとした。

けれど、足に絡みついた根は、鋼鉄のかせのように私を地面に縫い留めていた。

それどころか、根は私の体を内側から操るように、私の顔を無理やり沙夜の方へと向けさせた。

「見ろ」と強要するように。

「見届けろ」と命じるように。

私の頬が、勝手に引きつる。

口角が吊り上がり、だらしなく開いた口から涎が垂れる。

違う。笑いたくない。

こんな絶望的な光景を前にして、私は笑いたくなんかない。

なのに、私の顔は、前の麗華さんと同じように、恍惚とした笑顔を形作っていた。

「あぁ……綺麗……」

私の口が、勝手に喋った。

「沙夜……一つになるのね……素晴らしい……」

(違う! 喋らないで! それは私の言葉じゃない!)

心の中で絶叫しても、体は裏切り続ける。

私の魂は、肉体という牢獄の中に閉じ込められ、ガラス越しに外の惨劇を見せられているだけの観客に成り下がっていた。


沙夜が、洞の入り口に手をかけた。

ゴツゴツとした樹皮に、白く細い指が触れる。

その瞬間、巨木全体がビクン、と大きく震えた。

喜びの震えだ。

極上の供物が、自ら口の中に入ってきてくれたことへの、おぞましい歓喜。

沙夜は、躊躇わなかった。

振り返りもしなかった。

彼女は、静かに、音もなく、その闇の中へと足を踏み入れた。

白装束の裾が、闇に呑まれる。

長い黒髪が、闇に溶ける。

そして、彼女の姿は、完全に虚空の中へと消えた。


その瞬間。

世界から、音が消えた。

管絃の音も、村人の気配も、風の音さえも。

すべてが唐突に遮断され、真空のような静寂が訪れた。

残ったのは、私の荒い呼吸音と、早鐘を打つ心臓の音だけ。

そして。

目の前の巨木の洞から、微かな、けれど確かな気配が溢れ出してきた。

満足感。

満腹感。

そして、咀嚼を始めようとする、ゆっくりとした胎動。


私は、笑顔のまま凍りついた。

涙が、勝手に溢れて頬を伝う。

それは感動の涙ではない。

絶望と、無力感と、そしてこれから起こるであろう「何か」への、原初的な恐怖の涙だった。

左手首の痛みが、遠のいていく。

唯一の正気の証だった痛みが、圧倒的な狂気の前ではあまりにも無力で、ちっぽけなものに感じられた。

私はただ、とろけた顔で、親友が消えた暗闇を見つめ続けることしかできなかった。



8-4【解斎げさい


沙夜の背中が、どす黒い闇の奥へと吸い込まれていく。

私はそれを止めることも、叫ぶこともできなかった。

ただ、泥のように溶け崩れた思考の端で、彼女が完全に「あちら側」へ行ってしまったのだという事実だけが、焼きごてのように脳裏に焦げ付いていた。


「……うふふ」

鈴を転がすような、甘く、くぐもった笑い声が近づいてくる。

視界の端が白く濁り、世界がぐにゃりと歪んでいる。

麗華さんだ。

彼女は、まるで赤子をあやす聖母のように、両手を広げて私に歩み寄ってきた。

その背後には、脈動する巨木がそびえ立ち、無数の枝葉がざわざわと蠢いて、私たちを見下ろしている。

「よくできました、莉桜さん。つらかったでしょう? 怖かったでしょう?」

彼女の匂いがする。

白粉おしろいと、線香と、そして濃厚な獣の脂のような『黒脂くろやに』の匂い。

私は逃げることなど思いつきもしなかった。

逃げる? どこへ?

地面の下には無数の根が張り巡らされ、私の足首を、太ももを、そして心臓を、すでにがんじがらめに捕らえているというのに。

麗華さんの白い腕が、私の背中に回された。

ぎゅう、と抱きしめられる。

「もう大丈夫。何も考えなくていいの。すべて、虚空様にお任せすればいいのよ」

耳元で囁かれる言葉は、呪文のように私の理性を溶かしていく。

ああ、温かい。

彼女の体温が、白い装束越しに伝わってくる。

私は、吸い寄せられるように彼女の肩に額を預け、震える腕で彼女の背中を抱き返した。

互いの心臓の音が重なる。ドクン、ドクン、という生々しい鼓動。

それは私と彼女の鼓動であり、同時に、この大地そのものの鼓動でもあった。

安らぎ。

絶対的な、抗いようのない安らぎ。

思考を放棄し、自我を明け渡し、ただ巨大な流れの一部になることの、背徳的なまでの幸福感。

(ああ……私は、許されたんだ)

何に?

「よそ者」である罪に。「異物」である罪に。

周囲を取り囲む村人たちの気配が、一斉に膨れ上がるのを感じた。

彼らが奏でる管絃かんでんの音が、急激に歪み始める。

ヒョロロロ……グォオオオ……。

龍笛の音色は、もはや楽器の音ではなかった。何千もの亡者が喉を笛にして鳴らしているような、甲高く、それでいて湿った絶叫。

太鼓の音が、粘り気のある泥を叩くような音に変わり、私の脈拍を強制的に上書きしていく。

世界が回る。

闇が、渦を巻いて私たちを飲み込んでいく。

麗華さんの腕の中で、私の意識は急速に薄れていった。

最後に聞こえたのは、目の前の巨木のうろの奥から響いてくる、ゴウゴウという重低音。

それは風の音ではなく、巨大な生物が深く、長く、満足げに息を吸い込む音だった。


***


チチチ、チチチ……。

小鳥のさえずりが、遠くから聞こえてくる。

瞼の裏が、うっすらと明るい。

私は重たい泥の底から浮上するように、ゆっくりと意識を取り戻した。

目を開ける。

知らない天井だった。

見慣れた公務員宿舎の安っぽい化粧板ではない。太い梁が通り、年月を経た木目が美しい、格式高い日本家屋の天井だ。

「……ここ、は」

体を起こそうとして、自分の格好に気づいた。

白装束。

昨夜、私が着せられた、あの死に装束のままだ。

私は畳の上に敷かれた布団に寝かされていた。

ガバッ、と跳ね起きる。

周囲を見回す。十畳ほどの広さの客間。障子戸から、柔らかい朝の光が差し込んでいる。

一人だ。

誰もいない。

「沙夜……? 慧くん……?」

名前を呼んだが、返事はない。

静寂。

あまりにも静かすぎる。

昨夜の狂乱が嘘のように、清浄な朝の空気が満ちている。

その静けさが、逆に私の恐怖を煽った。

昨日の夜。

忌み山の山頂。松明の炎。異臭。トランス状態の村人たち。

そして、虚空様の巨大なうろの前に立ち、暗闇の中へと消えていった沙夜の姿。

「あ……あぁ……!」

鮮明なフラッシュバックに、心臓が早鐘を打つ。

沙夜は?

沙夜はどうなったの?

まさか、本当にあの中に?

「嫌……嘘だ、そんなの……」

私は布団を蹴り飛ばし、立ち上がろうとした。足がもつれる。平衡感覚がまだ戻っていない。

その時だった。

スッ、と音もなく障子が開いた。

「――お目覚めですか」

びくりと肩を震わせて振り返る。

座った状態で障子を開いたのは、四十代くらいの女性だった。地味な着物を着て、髪をひっつめに結っている。

彼女は手に水盆と手ぬぐいを持っていた。その表情は能面のように静かで、何の感情も読み取れない。

「あ、あの……ここは……」

「神代の屋敷でございます。私は神代家に仕える女中のような者です」

女性は抑揚のない声で答えた。

「昨晩の儀式の後、皆様こちらへ運ばれました。意識を失っておいででしたので」

「み、皆様って……沙夜は!? 沙夜はどこですか!?」

私は彼女に詰め寄った。

女性は一歩も引かず、淡々と言った。

「沙夜様も、慧様も、麗華様も、皆様ご無事でございます。すでに起床され、朝食の間にいらっしゃいますよ」

「え……」

全身の力が抜けた。

いる。

沙夜がいる。

「ご無事……なんですか?」

「はい。昨夜の儀式は、滞りなく、立派に執り行われましたゆえ」

女性はそう言うと、持ってきた莉桜の私服――昨夜祭りのときに来ていた服――を畳の上に置いた。

「お着替えをなさいませ。皆様がお待ちです」

私は震える手で服を掴んだ。

生きていた。沙夜は、生きていたんだ。

慧くんの言った通りだった。あれはただの「再現劇」で、村人たちの妄想を満たすための茶番だったのだ。

安堵で涙が出そうになる。

けれど、心のどこかで、消えない違和感が黒い染みのように広がっていた。

あの圧倒的な「捕食」の気配。

沙夜が闇に飲まれた瞬間の、あの決定的な喪失感。

あれは本当に、ただの芝居だったのだろうか?


着替えを済ませると、女性が廊下で待っていた。

「こちらへ」

短い言葉と共に、彼女は歩き出す。

私はその後ろについて、長い廊下を歩いた。

神代家の屋敷は広大で、そして古かった。磨き上げられた床板が、冷たく足の裏に吸い付く。

庭には手入れの行き届いた松や庭石が配置され、朝露に濡れて光っている。

美しい。

完璧なまでに美しい、日本の朝の風景。

けれど、私の脳裏には、昨夜の記憶がヘドロのようにこびりついて離れなかった。

(……気持ち悪い)

歩くたびに、太もものあたりに違和感を覚える。

昨夜、地面から這い出してきた無数の根が、私の着物の裾を割り入り、素肌を這い回った感触。

ザラザラとした樹皮の硬さと、そこから分泌されるヌルヌルとした粘液の冷たさ。

それらが私の太ももを、腹を、胸を、いやらしく愛撫し、締め付けた記憶。

カッと顔が熱くなる。

恥辱と、嫌悪感と、そして認めたくない微かな快楽の記憶。

あれは幻覚だったはずだ。お神酒に入っていた薬が見せた、悪い夢だ。

私は立ち止まり、自分の両手を見た。

白い。

綺麗だ。

爪の間に泥など詰まっていない。昨夜あれほど地面に手をつき、這いつくばったはずなのに、擦り傷ひとつない。

さっき脱いだ白装束も確認したけれど、目立った泥汚れはついていなかった。

(……どういうこと?)

あんな泥濘ぬかるみの中で、あんなに揉みくちゃにされたのに?

身体的な痕跡が、綺麗さっぱり消えている。

まるで、昨夜の出来事そのものが、私の頭の中だけで起きた妄想だったかのように。

「どうなさいました?」

前を行く女性が立ち止まり、不思議そうにこちらを見ている。

「い、いえ……なんでも、ないです」

私は慌てて手を下ろし、歩き出した。

混乱する。

現実と幻覚の境界線が曖昧になり、自分が何を信じていいのか分からなくなる。

この「汚れのなさ」こそが、何よりも恐ろしかった。

私の体験した恐怖も、痛みも、すべて「なかったこと」にされてしまうような、静かな隠蔽工作を感じるからだ。

「こちらです」

女性が襖の前で立ち止まり、膝をついて開けた。

「失礼いたします」

中から、ふわりと出汁の香りが漂ってきた。

広々とした和室に、四つの御膳が用意されている。

上座には誰もいない。おそらく、神主である慧くんのお父さんは別の場所にいるのだろう。

「あら、莉桜さん。おはようございます」

鈴を転がすような声。

麗華さんだ。

彼女はすでに席に着き、背筋を伸ばして座っていた。その顔色は艶やかで、昨夜の狂乱など微塵も感じさせないほど晴れやかだった。

「……おはよう、ございます」

私はおずおずと部屋に入った。

麗華さんの隣には、慧くんがいる。彼は腕を組み、不機嫌そうに目を伏せていたが、私が入ってくるとチラリと視線を向け、微かに頷いた。

そして、その隣。

「……沙夜」

彼女は、静かに座っていた。

いつものように少し背中を丸め、俯き加減で。

「沙夜!」

私は駆け寄った。

彼女の肩に手を置く。温かい。ちゃんと、体温がある。

「大丈夫? 沙夜、大丈夫なの?」

私の問いかけに、沙夜はゆっくりと顔を上げた。

その瞳と目が合う。

「……おはよう、莉桜」

小さな声。

いつも通りの、儚げで、優しい沙夜の声だ。

「……うん。大丈夫だよ。心配かけて、ごめんね」

彼女は弱々しく微笑んだ。

その笑顔を見て、私はへなへなとその場に座り込んだ。

よかった。

本当によかった。

昨夜、あんな暗闇の中に消えていったから、もう二度と会えないんじゃないかと思っていた。

「沙夜さんも、大変なお役目を立派に果たされましたものね」

麗華さんが、嬉しそうに言った。

「昨夜の儀式、本当に素晴らしかったですわ。虚空様が私たちを受け入れ、一体となるあの感覚……。私、一生忘れません」

麗華さんの頬が、恍惚と紅潮する。

「莉桜さんも、感じましたでしょう? 体の中に根が入り込み、魂が震えるようなあの喜びを」

「え……」

私は言葉に詰まった。

喜び?

あれが?

あのおぞましい、異物に侵入される感覚が?

私は反射的に自分の体を抱きしめた。まだ皮膚の下に、何かが這っているような錯覚が消えない。

「……よく、覚えてなくて」

私は嘘をついた。

「気がついたら、ここで寝てて……」

「ふふ、無理もありませんわ。初めての『神懸かり』ですもの。でも、体は覚えているはずよ。私たちはもう、他人ではないのですから」

麗華さんは意味深な笑みを浮かべ、箸を手に取った。

「さあ、いただきましょう。虚空様からいただいた命を」

本膳料理は豪華だった。

焼き魚、煮物、和え物。どれも丁寧に作られていることが分かる。

けれど、私の喉は固形物を受け付けそうになかった。

箸を持つ手が震える。

隣の沙夜を見ると、彼女もまた、食が進まないようだった。ただじっと、手元の白米を見つめている。

「沙夜……?」

小声で呼びかける。

彼女はビクリと反応し、私を見た。

その瞳の奥に、一瞬だけ、底知れぬ恐怖の色が走った気がした。

けれど、すぐにいつもの静かな瞳に戻り、「いただきます」と小さく呟いて箸を動かし始めた。

慧くんは、無言で食事を口に運んでいる。

その動作は機械的で、味など感じていないようだった。

重苦しい沈黙の中、麗華さんの楽しげな声だけが響く。

昨夜の儀式がいかに神聖であったか。虚空様の御力がどれほど強大か。これからの村がいかに繁栄するか。

彼女の話す内容は、昨夜のあの狂気じみた光景を、「美しい物語」として再構築していく作業のようだった。

私はただ、曖昧に相槌を打ちながら、味噌汁をすすることしかできなかった。

胃の中に落ちた液体が、昨夜飲まされた『黒脂』入りの酒の記憶を呼び覚まし、再び吐き気がこみ上げてくるのを必死で堪えながら。


食事が終わると、すぐに解散となった。

「それでは、また学校で」

神代家の重厚な門の前で、麗華さんが優雅に手を振る。

彼女の左手首には、赤黒く変色した『根緒』が巻かれている。それは昨日よりもさらに肌に馴染み、体の一部と同化しているように見えた。

「……うん、またね」

私は沙夜と慧くんに視線を向けた。

二人は門の内側に立ち、私たちを見送っている。

「沙夜、また明日ね」

「うん。……気をつけてね、莉桜」

沙夜の声は、どこか遠くから響いてくるようだった。

慧くんは何も言わず、ただじっと私を見つめていた。その瞳には、「今は何も聞くな」という強い意志と、「生き延びろ」というメッセージが込められているように感じた。

私は二人に背を向け、歩き出した。

麗華さんとはすぐに道が分かれた。

彼女は上機嫌で、御子柴家の屋敷がある方向へと消えていった。

私は一人、坂道を下る。

朝の光が、村全体を照らし出している。

雨上がりの空気は澄んでいて、遠くの山々までくっきりと見える。

美しい、日本の秋の風景。

けれど、すれ違う村人たちの視線が、私に突き刺さる。

「おはよう、莉桜ちゃん」

「昨日はお疲れ様だったねぇ」

「立派だったよ」

農作業に向かう老人たちが、手を止めて私に声をかけてくる。

その顔には、満面の笑みが張り付いている。

以前のような「監視」の目ではない。もっと粘着質で、もっと親密な、「所有」の目。

「ああ、お前も俺たちの仲間になったんだな」

「同じ根っこで繋がったんだな」

口には出さなくても、その視線がそう語りかけてくる。

私の左手首の『根緒』が、彼らの視線に呼応するように熱を持つ。

ドクン、ドクン。

昨夜の幻覚の中で感じた、あの無数の根の感触が蘇る。

彼ら全員の足元から見えない根が伸びていて、それが私の足首に絡みつき、地面の下で一つに繋がっているような感覚。

(見ないで……見ないで……)

私は左手首を右手で隠し、早足になった。

逃げたい。

でも、どこへ?

この村全体が、一つの巨大な「根」の網なのだ。

アスファルトの下も、家々の床下も、すべて繋がっている。

私は恐怖に背中を押されるようにして、公務員宿舎へと駆け込んだ。


「ただいま……」

息を切らして玄関に入ると、奥からパタパタと足音が聞こえてきた。

「あら、莉桜! お帰りなさい!」

母が飛び出してきた。

その後ろから、父も顔を出す。

「おお、帰ったか。心配していたんだぞ」

二人の顔を見て、私は息を呑んだ。

満面の笑み。

昨日、祭壇の前で見せていたあの狂気じみた笑顔とは違う。もっと晴れやかで、突き抜けたような明るい笑顔だ。

「よかったわねぇ、莉桜。昨日は神代家にお泊まりだったんでしょう? あんな立派なお屋敷に招かれるなんて、本当に名誉なことよ」

「ああ。役場でもみんなが褒めていたぞ。『高村さんの娘さんは、虚空様への勤めを果たした素晴らしい娘だ』ってな」

父が私の肩をバシバシと叩く。

その手には、以前のような遠慮も、私を気遣う優しさもなかった。

あるのは、自分の所有物が評価されたことへの、無自覚な優越感と、狂信的な喜びだけ。

「お父さんも鼻が高いよ。これでわが家も、名実ともに根守の人間だ」

「そうよ。これからはもっと、村のために尽くさなきゃね。虚空様のために」

二人の言葉が、私の心に冷たい杭を打ち込んでいく。

彼らは、私が無事に帰ってきたことを喜んでいるのではない。

私が「儀式」を終え、村の信仰に完全に組み込まれたことを喜んでいるのだ。

娘としての私ではなく、虚空様の「駒」としての私を歓迎しているのだ。

「……うん。疲れたから、部屋に行くね」

私は二人の視線から逃げるように、靴を脱ぎ捨てて廊下を走った。

背後から、両親の笑い声が聞こえる。

「あの子ったら、照れちゃって」

「まあ、昨夜は大変だったろうからな。ゆっくり休ませてやろう」

その声には、一切の悪意がない。

それが何よりも絶望的だった。

彼らの「正気」は、もう私の知っている「正気」とは違う場所に書き換えられてしまったのだ。

自室に入り、鍵をかける。

ベッドに倒れ込むと、涙が溢れてきた。

終わった。

すべて、終わってしまった。

儀式は完了し、私は生きて戻ってきた。

けれど、私が戻ってきた場所は、もう私の知っている世界ではなかった。

両親との間には、決定的な断絶の溝が口を開けている。

この家には、もう私の味方はいない。

左手首の『根緒』が、私の脈動に合わせて収縮する。

その中には、和也くんの遺品である金属の蓋が埋め込まれているはずだ。

指先で触れると、硬い感触と共に、鋭い痛みが走った。

「痛い……」

私はその痛みにすがるように、強く押し付けた。

この痛みだけが、私がまだ完全に彼らに染まっていないことの証だった。

この痛みだけが、昨夜の出来事が単なる「素晴らしい儀式」ではなく、おぞましい冒涜であったことを忘れさせないでいてくれる。

『根合わせ』の儀式は終わった。

けれど、私の体の中に植え付けられた恐怖と、拭い去れない不安の種は、これから芽吹き、根を張り、私を内側から食い尽くそうとしている気がしてならなかった。

私は布団を頭から被り、震える体を抱きしめた。

今日は平日だが、儀式での大役を果たした私たち四人は、学校は休みだと聞かされていた。

このまま眠ってしまおう。そうすれば、昨夜の出来事はすべて夢だったことにできるかもしれない……。

耳の奥では、まだあのお囃子の音が鳴り響いている。

ドンドン、ドンドン。

ヒョロロロ……。

それは、私を逃がさないという、根守村の勝利の凱歌のように聞こえた。


(第八章 完)

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