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7/12

第七章 前夜

Google AI Studioで専用のアプリを作り、プロットを読み込ませて作った和風ホラー小説です。

7-1【変貌】


十月に入ると、根守の空気は、腐った果実が熟れきって弾ける寸前のような、甘く重苦しい緊迫感を帯び始めた。

降り続く秋の長雨は、村の景色を水墨画のように曖昧に滲ませている。

けれど、その灰色のヴェールの向こう側で、村は確実に変貌を遂げていた。


秋季例大祭。

この村にとって一年で最も重要とされるその日が近づくにつれ、人々の営みは日常の軌道を外れ、狂信的な熱量で加速していく。

それは「祭り」という言葉から連想されるような、華やかで浮き足立ったものではなかった。

もっと切迫した、生存をかけた儀式へのカウントダウン。

あるいは、巨大な捕食者の口元へ、自ら進んで身を投じるための準備期間。


通学路の景色が変わった。

道沿いの家々の軒先に、注連縄しめなわが張り巡らされている。

だが、それは神社で見かけるような清浄な麻の色ではない。黒く、太く、まるでタールを塗り込めたような禍々しい縄だ。そこに挟み込まれた紙垂しでは、血のような赤色に染め抜かれている。

黒と、赤。

雨に濡れて黒光りする注連縄と、風に煽られて手招きするように揺れる赤い紙片。

その毒々しいコントラストが、村全体を一つの巨大な結界の中に閉じ込めていた。


「素晴らしい景色ですわね」

先頭を歩く御子柴麗華さんが、うっとりとした声で言った。

彼女は傘を差さずに歩いている。霧雨が彼女の長い黒髪に細かい水滴となって付着し、白磁のような肌を濡らしているが、彼女はそれを拭おうともしない。

まるで、根守の雨そのものを、慈悲深い聖水であるかのように全身で受け止めている。

「虚空様も、さぞお喜びでしょう。村中がこうして、心を一つにしてお迎えの準備をしているのですから」

麗華さんの足取りは軽い。

泥濘ぬかるんだ地面をものともせず、水たまりを避けることさえしない。彼女の革靴はすでに泥にまみれていたが、そんなことは些細な問題ですらないようだった。

その後ろを、神代沙夜が幽霊のように付き従っている。

沙夜の顔色は、降りしきる雨よりも蒼白だった。唇は血の気を失い、目はうつろに足元だけを見つめている。時折、何かに躓くように体が揺れるが、そのたびに手首の『根緒』を反対の手で強く握りしめ、痛みに耐えるように身を縮こまらせていた。


そして、最後尾を歩く私と、神代慧くん。

私たちは、麗華さんと沙夜から数メートル離れて歩いていた。

意図して距離を取ったわけではない。前を行く二人が纏う空気が、あまりにも異質で、近寄りがたかったからだ。

「……見ろよ」

慧くんが、低く押し殺した声で言った。

傘の柄を握る彼の手は、白くなるほど力が込められている。

「みんな、仕事の手を止めてる」

私は彼の視線を追った。

道沿いの畑、民家の軒先、商店のガラス戸の向こう。

そこにいる村人たちが、一斉にこちらを見ていた。

農作業の手を止め、談笑を止め、ただ静かに、私たち四人の行列を目で追っている。

その視線には、いつものような「監視」や「品定め」の色はなかった。

もっと重く、粘着質な感情。

泥の中に沈殿した欲望と、狂信的な崇拝がない交ぜになった眼差し。

七十を過ぎた老婆が、雨に濡れるのも構わずに畑の真ん中で土下座をしているのが見えた。彼女は泥に額を擦り付け、何かをブツブツと唱えながら、通り過ぎる私たちを拝んでいる。

軽トラックの運転席に座る中年男性が、ハンドルを握りしめたまま、じっとりと濡れた瞳で私を見つめている。その目は、肉屋の店先で上質な肉を見定めている時のように、あるいは飢えた獣が獲物を狙っている時のように、不躾で、貪欲だった。


「……気持ち悪い」

私は思わず口元を押さえた。

胃の奥から、酸っぱいものがこみ上げてくる。

彼らは私という人間を見ているのではない。

私の手首にある『根緒』と、虚空様への信仰に関する何かを見ているのだ。

「気にするな」

慧くんが、私の傘に隠れるようにして囁いた。

「目を合わせるな。あいつらは今、正気じゃない。俺たちを人間だと思ってないんだ」

「人間だと、思ってない……?」

「ああ。神代と御子柴の血を引く俺たち、そして『外』から招かれたお前。15歳の子供が揃った今年の祭りは、あいつらにとっての悲願なんだよ。俺たちはもう、ただの『器』だ。虚空様を満たすための、極上の器」

慧くんの言葉は、冷ややかな雨風となって私の鼓膜を叩いた。

器。

中身などどうでもいい。私の意思も、感情も、未来への希望も。

ただ、空っぽになって、あの巨木の養分を受け入れるためだけの存在。

「……慧くんは、平気なの?」

私は震える声で尋ねた。

「こんなのおかしいよ。みんな、狂ってるよ」

「平気なわけないだろう」

慧くんは吐き捨てるように言った。

その横顔には、十五歳の少年らしかなぬ苦悩が刻まれていた。

「でも、ここで騒いだら終わりだ。麗華を見ろ。あいつはもう、完全に『あっち側』の人間だ。俺たちが少しでも躊躇を見せれば、あいつは笑顔で俺たちを断罪するぞ。『信仰が足りない』ってな」

慧くんは視線を前に戻した。

その瞳の奥には、燃え尽きる寸前の蝋燭のような、危うい理性の光が揺らめいている。

「……莉桜。俺は、沙夜を守らなきゃいけない」

彼は独り言のように呟いた。

「どんなに狂った儀式でも、俺が神代の跡取りとして振る舞えば、沙夜への負担を減らせるかもしれない。あいつは体が弱いんだ。精神的にも、もう限界だ。だから……」

彼はそこで言葉を切った。

雨音が、私たちの沈黙を埋める。

慧くんは、私に「逃げろ」とは言わなかった。

言えなかったのだと思う。

私にはもう、逃げ場などないことを、彼も知っているから。

左手首の『根緒』が、ドクンと脈打った。

まるで、私の心臓がそこにあるかのように。

私は、無言で慧くんの隣を歩き続けた。

この狂った世界の中で、彼と交わすこの短い会話だけが、私がまだ正気を保っていることの、唯一の証明だった。


***


家に着く頃には、日はとっぷりと暮れていた。

玄関の扉を開けると、むせ返るような線香の香りと、湿った土の匂いが漂ってきた。

「ただいま」

私の声は、薄暗い廊下に吸い込まれて消えた。

返事はない。

けれど、気配はあった。

家の奥、居間の方から、布が擦れるような衣擦れの音と、何かが煮えるグツグツという音が聞こえてくる。

私は靴を脱ぎ、足音を忍ばせて廊下を歩いた。

床板が湿気を吸って膨らみ、一歩踏み出すたびに、生き物の内臓の上を歩いているような不快な弾力を返してくる。

居間の襖が、少しだけ開いていた。

隙間から漏れる光は、蛍光灯の白々しい色ではなく、蝋燭の炎のような赤みを帯びたオレンジ色だった。

「……お父さん? お母さん?」

私は意を決して、襖を開けた。


そこは、私の知っている居間ではなかった。

ちゃぶ台も、テレビも、壁際のタンスも、すべてが部屋の隅に追いやられている。

代わりに部屋の中央に鎮座していたのは、祭壇だった。

急ごしらえで作られたと思われる木の台の上に、三宝さんぽうが置かれ、その上には山盛りの白米と、泥のついたままの野菜、そして得体の知れない黒い液体が入った瓶が供えられている。

祭壇の奥には、掛け軸がかけられていた。

『根守大神』と書かれた筆文字。その墨汁が垂れて、まるで文字が泣いているように、あるいは血を流しているように見える。

そして、その祭壇に向かって、父と母が正座していた。

「……あ、莉桜。お帰りなさい」

母がゆっくりと振り返った。

その顔を見て、私は息を呑んだ。

母の顔、その表情が、帰り道で見た村人たちのかおそのままだったからだ。

隣の父もまた、鏡で写したように同じ貌をしている。

ワイシャツにスラックスという仕事着のまま、顔だけが私の知らない貌。そのチグハグさが、狂気をより一層際立たせていた。

「遅かったじゃないか、莉桜」

父が穏やかな口調で言った。

その声は優しかった。東京にいた頃の、私を可愛がってくれた父親の声そのものだった。

けれど、その目は笑っていなかった。虚空様に守られた村人という仮面の奥にある瞳は、爬虫類のように冷たく、瞬き一つせずに私を見据えている。

「……な、何してるの? その顔……」

私は後ずさりしながら言った。

足が震えて、うまく力が入らない。

「何って、準備だよ。お前も早く支度をしなさい」

父は何でもないことのように言った。

「支度って……お祭りって明後日でしょ? なんで、そんな……」

「気持ちを作るんだよ、莉桜」

母が立ち上がり、私の方へ近づいてきた。

私の知らない貌が、薄暗い部屋の中でぼぅっと浮かび上がる。

「形から入ることで、心も整うの。私たちはよそ者だから、人一倍、身も心も清めなければならないのよ。そうしないと、虚空様に失礼でしょう?」

母の手が伸びてくる。

その手首には、太い『根緒』が巻かれている。

赤茶けた組紐が、白塗りの肌に食い込み、まるで血管が浮き出ているように見えた。

「嫌……やめて!」

私は母の手を振り払った。

パチン、と乾いた音が響く。

母の手が宙を舞い、そのまま力なく垂れ下がった。

母は怒らなかった。

表情一つ変えず、ただ哀れむように小首をかしげただけだった。

「どうして嫌がるの? 莉桜。こんなに名誉なことはないのよ?」

「名誉なんかじゃない! おかしいよ、こんなの! お父さんもお母さんも、変だよ! 東京に帰ろうよ! お願いだから!」

私は叫んだ。

喉が張り裂けそうなほどに、絶叫した。

この数ヶ月、ずっと押し殺してきた恐怖と拒絶が、一気に決壊したのだ。

「こんな村、もう嫌だ! 誰も彼も私を見てない! 私を『エサ』みたいに見てる! 学校も、家も、全部狂ってる! お願い、目を覚ましてよ!」

涙が溢れて止まらなかった。

私は床に崩れ落ち、両親に向かって懇願した。

かつて私を守ってくれた、理性的で優しい両親に戻ってほしかった。

「……可哀想に」

父が、ため息交じりに言った。

それは、駄々をこねる幼児をあやすような、どこまでも上から目線の、冷淡な響きだった。

「まだ、馴染めていないんだな。東京の毒が、抜けきっていないんだ」

父は立ち上がり、私の前に立った。

そして、私の頭に手を置いた。

その手は温かかった。けれど、その温もりは、生き物の体温というよりは、発酵する腐葉土の中に手を入れた時のような、蒸れた不快な熱さだった。

「心配するな、莉桜。お前がどんなに未熟でも、虚空様は受け入れてくださる。お前は選ばれたんだ。『根合わせ』の儀式でお前が根と繋がれば、その不安も、恐怖も、孤独も、すべて消えてなくなる」

父の指が、私の髪をく。

「私たちが、お前を立派な『供物』にしてやるからな」

供物。

父の口からはっきりとその言葉が出た瞬間、私の中で何かが完全に終わった。

彼らはもう、私の両親ではない。

「高村莉桜」という人間の親としての機能は失われ、ただ「根守の虚空」に奉仕するためだけの、忠実な下僕に成り下がってしまったのだ。

「……いや」

私は首を振った。

「いやだ……私は、物じゃない……!」

「物ではないよ」

母が、私の顔を両手で挟み込んだ。

仮面のような無機質な貌が、目の前まで迫る。弧を描いた口が、私と両親の間に刻まれた傷口のように見える。

「あなたは『器』よ。神聖な、虚空様の依代よりしろとなる器。これ以上の幸せが、どこにあるというの?」

母は恍惚とした表情で言った。

「お母さんたちはね、誇らしいのよ。あんなに小さかった莉桜が、こんなに立派な役目を任されるなんて。だから、笑ってちょうだい。そんな怯えた顔をしていては、根がうまく入っていかないわ」

母の親指が、私の目尻の涙を拭う。

その指先からは、あの鉄錆と腐葉土の臭いがした。

黒脂くろやに』の臭いだ。

母の指の腹に、べっとりと黒い樹脂がついているのが見えた。

「さあ、ご飯にしましょう。今日は赤飯よ。お祝いだからね」

母はにっこりと微笑むと、私を立たせようと腕を引いた。

その力は、か弱い女性のものとは思えないほど強かった。

まるで、大木の根が獲物を締め上げるような、絶対的な拘束力。

私は抵抗する気力さえ奪われ、人形のように立ち上がった。

ちゃぶ台の上には、確かに赤飯が盛られていた。

けれど、その小豆の色はどす黒く、まるで凝固した血液を混ぜ込んだかのように見えた。

湯気と共に立ち上る匂いは、もち米の甘い香りではなく、生臭い獣の臭いだった。

「いただきましょう」

父と母が、鏡合わせの貌で手を合わせる。

その姿は、不気味な人形劇のようで、あまりにもおぞましかった。

私は箸を持つことができなかった。

ただ、目の前の赤黒い塊を見つめながら、震えることしかできなかった。

家の中に、私の居場所はない。

外の世界にも、逃げ場はない。

世界中が、この村の狂気に塗りつぶされてしまったかのようだった。


「……ごちそうさま」

私は一口も食べずに、箸を置いた。

「あら、食べないの? 体調が悪いの」

「……お腹、空いてないから」

「そう。じゃあ、明日に備えて早く休みなさい。明日は学校で、大切なお話があるんでしょう?」

母は私の嘘を追求しなかった。

私が食べようが食べまいが、どうでもいいのだ。

私が生きて儀式の日を迎えさえすれば、それでいいのだから。

私は逃げるように自室へと戻った。

階段を上る背中に、両親の咀嚼音が追いかけてくる。

クチャ、クチャ、クチャ。

それは、人間が食事をする音というよりは、何かもっと別の生き物が、肉を食んでいるような音に聞こえた。


自室に入り、鍵をかける。

ドアに背中を預け、ズルズルと座り込んだ。

心臓が早鐘を打っている。

怖い。

親が狂ってしまったことが、こんなにも恐ろしいなんて。

これまで私を守ってくれていた防波堤が消え失せ、荒れ狂う海に放り出されたような心細さ。

私は膝を抱え、左手首の『根緒』に顔を埋めた。

『根緒』に埋め込んだ和也君のシャーペンの芯の蓋が、皮膚を刺激する。

皮肉なことに、この呪いのアイテムだけが、今の私にとって唯一の「確か」な感触だった。

この痛みだけが、私がまだここに存在していることを教えてくれる。

「……助けて」

声に出してみたが、誰にも届かないことは分かっていた。

慧くんの言葉が蘇る。

『俺たちはもう、ただの器だ』

そうだ。私は器だ。

中身なんていらない。空っぽになって、恐怖も絶望も感じなくなれば、楽になれるのかもしれない。

窓の外では、雨が降り続いている。

その音に混じって、遠くから太鼓の音が聞こえた気がした。

ドンドコ、ドンドコ、ドンドコ。

低く、腹の底に響くようなリズム。

それは祭りの稽古の音なのか、それとも私の幻聴なのか。

あるいは、忌み山の地下深くで、あの巨木の心臓が脈打っている音なのか。

私は耳を塞ぎ、目を閉じた。

瞼の裏に、判で押したような両親の笑顔が焼き付いて離れなかった。


翌朝。

私は重い頭痛と共に目を覚ました。

一晩中、悪い夢を見ていた気がする。

夢の中で、私は土の中に埋められていた。手足が木の根になって、動かせない。口の中には泥が詰め込まれ、叫ぶこともできない。

地上では、笑顔の両親と、麗華さんが、私を見下ろして笑っている。

『立派な根になったね』

『これでずっと一緒よ』

そんな声が聞こえて、目が覚めたのだ。

体中が汗でびっしょりと濡れていた。

その汗さえも、樹液のように粘り気を帯びている気がして、私はシャワーを浴びずにはいられなかった。

冷たい水を浴びても、体の芯にこびりついた恐怖は洗い流せない。

鏡に映る自分の顔は、昨日よりもさらにやつれ、目の下の隈が濃くなっていた。

まるで、死人のようだと思った。

あるいは、これから死にゆく者の顔。


一階に降りると、両親はすでにいなかった。

テーブルの上に、「役場と婦人会で準備があるので早めに出ます。朝ごはんは冷蔵庫にあります」というメモが置かれている。

その文字は、ミミズがのたうつような乱れた筆跡で、最後に『心は一つ』と書き添えられていた。

私はメモをくしゃりと握りつぶし、ゴミ箱に捨てた。

冷蔵庫を開ける勇気はなかった。

中に入っているのが、普通の朝食なのか、それとも昨日のあの赤黒い塊なのか、確認するのが怖かったからだ。

私は何も食べずに家を出た。


雨はまだ降り続いていた。

傘を叩く雨音が、私の焦燥感を煽る。

早く、学校へ行かなければ。

沙夜に会わなければ。

彼女なら知っているはずだ。この祭りの本当の意味を。

『根合わせ』という儀式が、単なる通過儀礼ではないことを。

そして何より、私たちがこれからどうなるのかを。

昨日の慧くんの態度。両親の狂気。村人たちの視線。

すべての点が線となって、一つの最悪な予想図を描き出そうとしている。

私はそれを確かめるのが怖かった。

けれど、知らないまま殺されるのはもっと嫌だった。

坂道を登りながら、私は決意を固めた。

今日、沙夜から真実を聞こう。

たとえ彼女を傷つけることになっても、真知らなければ、私は本当に気が狂ってしまう。

校門が見えてきた。

古びた木造校舎が、雨の中に黒々とそびえ立っている。

その姿は、私たちを飲み込むために口を開けた、巨大な怪物のようにも見えた。

私は深く息を吸い込み、校門をくぐった。

左手首の『根緒』が、警告するようにキリリと痛んだ。



7-2【伝承】


翌朝、私は鉛を飲み込んだような重たい胃を抱えて登校した。

靴箱で上履きに履き替える一連の動作さえ、まるで水中で行っているかのような酷い倦怠感を伴う。

教室の引き戸に手をかけ、深呼吸をする。

肺に入ってくるのは、カビと湿気、そして校舎の古い木材が発する独特の酸っぱい臭い。それが私の日常のすべてだった。


ガララ、と戸を開ける。

教室の空気は、昨日よりもさらに密度を増していた。

クラスメイトたちはすでに登校しており、いくつかのグループに分かれて談笑している。一見すれば平和な朝の風景だ。けれど、私には分かっていた。彼らの視線が、私が一歩足を踏み入れた瞬間、粘着質な糸のように絡みついてきたことを。

「おはようございます、莉桜さん」

一番に声をかけてきたのは、やはり御子柴麗華さんだった。

彼女は教卓のそばで、まるでこの教室の管理者のように佇んでいる。

「……おはよう、麗華さん」

私は引きつりそうになる頬を必死に抑え、愛想笑いを返した。

彼女の視線が、私の左手首に落ちる。

そこには赤茶けた『根緒』が巻かれている。私は無意識に右手でそれを隠すように覆った。

「今日も雨ですわね。でも、お祭りまでにはきっと上がりますわ。虚空様が、私たちのために空を清めてくださるもの」

麗華さんはうっとりと窓の外を見上げた。

その横顔は美しく、そして狂おしいほどに純粋だった。

私は曖昧に頷き、自分の席へと急いだ。


視線を巡らせる。

沙夜と慧くんは、まだ来ていない。

いつもなら、もう登校している時間だ。

胸の奥で、嫌な予感が警鐘を鳴らす。

昨日の夕食での両親の様子が脳裏をよぎる。「供物」「器」。あの言葉の意味を、沙夜なら知っているはずだ。

神社の娘として、巫女として育てられた彼女なら。

私は鞄を置くと、祈るような気持ちで教室の入り口を見つめた。


そろそろ牛松先生が来るという時間。教室の後ろの戸が静かに開けられた。

「間に合ったか」

言いながら入ってきたのは慧くん。その後ろにうつむきながら立っている沙夜が見える。

「……遅れて、ごめんなさい」

彼女の姿を見た瞬間、私は息を呑んだ。

顔色が悪い。

白い肌は陶器のように血の気がなく、目の下には化粧でも隠しきれない濃い隈が浮き出ている。雨に濡れた黒髪が、海藻のように頬に張り付いていた。

「あら、沙夜さん。珍しいですわね」

麗華さんが鈴を転がすような声で言った。

「……うん。ちょっと、神社の準備が忙しくて」

沙夜は私と目を合わせようともせず、俯いたまま自分の席――こちらへと向かってくる。

その歩き方は、まるで目に見えない鎖を引きずっているかのように重い。

私は声をかけようとした。

けれど、右隣の麗華さんが、じっとこちらを見ている気配がして、言葉を飲み込んだ。

ここじゃない。今じゃない。

うかつなことを言えば、私も「根腐れ」の疑いをかけられる。

「おはよう、沙夜。準備って大変そうだけど、大丈夫?」

「おはよう、莉桜。準備は毎年のことだから……今年は『根合わせ』がある分ちょっと時間がかかっちゃった」

疲れの見える笑顔で返してくる沙夜。

その顔を見て、さらに負担をかけてしまうのではないかと、『根合わせ』について尋ねることを躊躇する気持ちが出てくる。

それでも、ここまで沙夜が憔悴してしまうような儀式に自分が関わらなければならないと思うと、やはり聞かずにはいられなかった。それに、もしかしたら、聞くことで沙夜の負担を減らすために私にできることがあるかもしれない。


――チリン、チリン――


周りを気にせずに沙夜と話す機会はいつだろうかと考えていると、牛松先生がベルを鳴らしながら教室に入ってきた。

沙夜に向けていた姿勢を前に戻す。今日も気の抜けない学校の一日が始まるのだ。


授業中、私は上の空だった。

牛松先生の声が、遠いラジオのノイズのように聞こえる。

先生は黒板に『秋季例大祭』の進行表を書き出し、熱っぽく語っている。

「いいかい、今年の祭りは特別だ。我々根守の民が、真に一つになるための聖なる儀式が行われるのだからな」

生徒たちが一斉に頷く。その動作の不気味なほどの一体感。

私は、後ろの席の沙夜の気配を探った。

彼女は身じろぎもせず、ただ静かに呼吸をしているようだった。

休み時間になっても、チャンスは訪れなかった。

「沙夜さん、少しよろしいかしら?」

麗華さんがすぐに沙夜の席へ行き、何やら親しげに話しかけるのだ。祭りの段取り、衣装の確認、体調への気遣い。そのすべてが、完璧な監視網として機能していた。

沙夜は「うん」「ありがとう」と短く答えるだけで、私の方を見ようとはしない。

彼女もまた、監視されていることを理解しているのだ。


焦りが募る。

このまま何も聞かずに家に帰れば、私はあの狂った両親と、得体の知れない儀式の中に放り込まれることになる。

それだけは避けたかった。

真実を知りたい。たとえそれが、どれほど恐ろしいものであったとしても。


沙夜と二人きりで話せる機会がないまま昼休みが終わった。

掃除の時間だ。

生徒たちが一斉に立ち上がり、机を後ろに下げる。

騒がしい喧騒の中、私は一瞬の隙を見て沙夜に近づいた。

「沙夜」

小さく名を呼ぶ。

私の隠れた呼びかけに、彼女は不思議そうに顔を上げる。

「……ゴミ捨て、一緒に行かない?」

私は精一杯の自然さを装って、教室の隅にある大きなポリバケツを指差した。

沙夜は一瞬、麗華さんの方を盗み見た。

麗華さんは下級生たちに囲まれ、何やら指示を出している。こちらには気づいていないようだ。

「……うん」

沙夜は短く頷き、立ち上がった。


「ゴミ捨て行ってくるね」

近くにいたクラスメイトに声をかけ、私たちは無言でバケツの取っ手を持ち、廊下へと出た。

ずしり、とゴミの重さが手に食い込む。

廊下の床板が、湿気を含んで軋む音だけが響く。

他の生徒たちはそれぞれの持ち場へ散らばっている。

私たちは逃げるように、昇降口を抜け、校舎の裏手へと回った。


焼却炉は、校舎と裏山の境界線に位置している。

錆びついた鉄の扉と、コンクリートの囲い。その向こうには、鬱蒼とした杉林が広がっている。

雨は小康状態を保っていたが、空は鉛色に淀み、今にも崩れ落ちてきそうだった。

バケツを置くと、私は周囲を確認した。

誰もいない。

聞こえるのは、森の奥から響くジジジという湿った虫の声だけ。

「ねえ、沙夜」

私は彼女に向き直った。

沙夜は俯き、自分の上履きのつま先を見つめている。

「教えて。『根合わせ』って、何?」

単刀直入に聞いた。時間をかけている余裕はなかった。

「昨日、お父さんとお母さんが変だったの。私が『供物』だとか、『器』だとか……。お父さんとお母さん、なんだか別人みたいで……怖くて」

私の声は震えていた。

沙夜がゆっくりと顔を上げる。

その瞳は、深く、暗い色をしていた。かつて一緒に雑誌を見て笑い合った時の輝きは、もうどこにもない。

「……ごめんね、莉桜」

消え入りそうな声だった。

「私が、もっと早く言えばよかったの」

「沙夜が悪いわけじゃないよ。ただ、知りたいの。私たち、どうなっちゃうの?」

私は彼女の細い肩を掴んだ。

華奢な体が、小刻みに震えているのが伝わってくる。

沙夜は一度大きく息を吸い込み、そして、覚悟を決めたように口を開いた。

「……『根合わせ』っていうのはね、この村に古くから伝わる伝承を、模した儀式なの」

「伝承?」

「うん。昔、この村で大きな災害があった時に、一人の娘が人柱になって村を救ったっていう……悲しいお話。その娘の魂を慰めて、虚空様に感謝を捧げるために、その娘と同い年の十五歳の子供たちが選ばれるの。今年は巫女である私が15歳だから、人柱役は私」

沙夜は淡々と、まるで教科書を読み上げるように説明した。

「人柱って……それじゃあ、沙夜が――!」

「形だけよ」

沙夜は私の言葉を遮るように、少し早口で言った。

「本当に埋めたりするわけじゃない。ただの再現劇みたいなもの。白無垢を着て、お祈りをして、虚空様の根元にお供え物をする……それだけ」

彼女は無理に口角を上げ、微笑んで見せた。

「村の大人たちは信心深いから、それを本当のことのように大げさに言ってるだけなの。『命を捧げる』とか『一つになる』とか、それは精神的な意味での話。……だから、大丈夫。莉桜が危ないことをさせられることは、絶対にないよ」

沙夜の言葉は、私が一番聞きたかった言葉だった。

ただの儀式。ただの再現。

命までは取られない。

その言葉に縋りつきたい衝動に駆られる。

けれど、違和感は拭えなかった。

沙夜の笑顔が、あまりにも儚すぎたからだ。

「……本当に?」

私は彼女の目を覗き込んだ。

「本当に、それだけなの? じゃあ、なんで沙夜はそんなに顔色が悪いの? なんで慧くんはあんなに……」

「それは……私が、巫女だから」

沙夜は視線を逸らした。

「主役だから、緊張してるの。失敗したら村の人たちに怒られちゃうし……それに、この儀式が終わったら、私は正式に神社の跡継ぎとして認められることになる。もう、外の世界には行けなくなるから」

彼女は左手首の『根緒』を、右手で強く握りしめた。

「それが、少しだけ寂しいだけ。……莉桜は……儀式が終われば、また普通の生活に戻れるよ」

「沙夜……」

彼女の言葉には、嘘がないように聞こえた。

自分の運命を受け入れ、諦めている少女の、静かな悲しみ。

もしそれが真実なら、私はなんて残酷なことを聞いているのだろう。

「そっか……。ごめん、私、変に勘ぐりすぎてたかも」

私は大きく息を吐き出した。

肩の力が抜けていく。

そうだよ。ここは日本だ。昭和も終わろうとしている現代だ。

本当に人を殺すような儀式なんて、あるわけがない。

両親がおかしくなったのも、村全体の雰囲気に当てられた一時的な集団ヒステリーのようなものなのだろう。祭りが終われば、また元の優しい父と母に戻るはずだ。

――そう、信じたかった。

「ううん。怖がらせてごめんね」

沙夜は優しく微笑んだ。

それは、聖女のように穏やかで、そしてどこか、現世の人間ではないような透明な微笑みだった。

「さあ、戻ろう。先生に怒られちゃう」

沙夜は空になったバケツを持ち上げると、私を促すように歩き出した。

私はその後ろ姿を見つめながら、一抹の不安を胸の奥に押し込めた。

彼女の背中が、黒い森の闇に吸い込まれていくように見えたのは、気のせいだと思いたかった。


放課後。

雨はまだ降り続いていたが、私たちは傘を差して下校した。

いつもの四人。

先頭を歩く麗華さんは、上機嫌に鼻歌を歌っている。

「明日は晴れるといいですわね。虚空様もきっと、待ちわびておられますわ」

彼女の言葉には、一点の曇りもない。

沙夜は無言で俯いて歩いている。昼休みの会話の後、彼女は再び貝のように口を閉ざしてしまった。

そして、最後尾を歩く私と慧くん。

慧くんは、今日一日、ほとんど言葉を発していなかった。

いつもの分かれ道。

「それじゃあ、莉桜さん。また明日、お祭りでお会いしましょう」

麗華さんが優雅に手を振る。

「……また明日」

沙夜も小さく会釈をした。

二人は、村の最奥へと続く坂道を登っていく。

残されたのは、私と慧くんだけだった。

私は、慧くんの横顔を見た。

彼は傘の柄を白くなるほど強く握りしめ、二人の背中を――いや、その先にある忌み山を睨みつけていた。

「……慧くん」

私が声をかけると、彼はハッとしたようにこちらを向いた。

その瞳には、深い疲労と、焦燥感が滲んでいた。

「莉桜」

彼は声を潜め、周囲を警戒するように視線を巡らせた。

雨音に紛れさせるように、早口で告げる。

「沙夜の言ったこと……全部は信じるな」

「え……?」

心臓が跳ねた。

「あいつは、お前を巻き込みたくないだけだ。お前を安心させるために、優しい嘘をついてる」

「嘘って……じゃあ、やっぱり……」

「これ以上は言えない」

慧くんは私の言葉を遮った。

「ここで俺が何かを言えば、俺も沙夜も、そしてお前も終わる。……ただ、覚えておけ」

彼は一歩、私に近づいた。

雨に濡れた彼の制服から、微かに線香の匂いがした。

「自分の目で見たものだけを信じろ。言葉じゃなく、空気を読め。この村が今、どうなっているか。……正気を保て、莉桜」

「慧くん……」

「……気を抜くな」

彼はそれだけ言い残すと、逃げるように踵を返した。

その背中は、絶望に押しつぶされそうに見えた。

私はその場に立ち尽くし、彼が坂道を登っていくのを見送った。

『気を抜くな』

その言葉が、呪いのようにリフレインする。

沙夜の「安心させるための嘘」と、慧くんの「警告」。

どちらが真実なのか。

いや、私はもう、答えを知っている気がした。


私は一人きりで、家路についた。

村の入り口へと続く下り坂。

いつもなら見慣れた風景のはずだった。

けれど、今の景色は、私の知っている根守村ではなかった。

「……黒と赤」

思わず声が漏れた。

道沿いに並ぶ家々の軒先。

そこには、注連縄が張り巡らされていた。

祭りの時期にはよく見る光景だ。けれど、この村の色は違う。

清浄な麻の色ではない。

黒い。

まるでタールを塗り込めたような、ドロドロとした黒い縄。

そして、そこに挟み込まれている紙垂しでは、白ではなく、鮮血のような赤色だった。

黒と、赤。

毒々しいコントラストが、雨に濡れてぬらぬらと光っている。

風が吹くたびに、赤い紙垂が手招きをするように揺れる。

それは結界だった。

邪悪なものを入れないためのものではなく、中のものを逃がさないための、禍々しい結界。

呼吸をするたびに、強烈な臭いが鼻腔を突き刺す。

線香の甘ったるい香りと、腐葉土の発酵した臭い。そして、どこからともなく漂ってくる、鉄錆のような血の臭い。

五感が拒絶反応を起こし、吐き気がこみ上げてくる。

道端の地蔵の首にも、赤い前掛けではなく、黒い布が巻かれている。

家々の雨戸は固く閉ざされているが、その隙間から、無数の視線を感じる。

誰も外には出ていない。

けれど、村全体が息を潜め、一つの巨大な生き物となって、私という「供物」が通り過ぎるのを監視しているようだった。

『ただの再現劇みたいなもの』

焼却炉での、沙夜の言葉が蘇る。

嘘だ。

これは、ただの劇のセットなんかじゃない。

こんなにも悪意と狂気に満ちた装飾が、ただの形式的なものであるはずがない。

あれがすべてではないのではないか?

沙夜は、一番恐ろしい部分を隠したのではないか?

「……っ」

私は傘を握りしめ、足早に歩いた。

アスファルトの下から、無数の根が脈動し、私の足音を聞きつけている気がした。

左手首の『根緒』が、熱を持って締め付けてくる。

「こっちへおいで」「逃げられないよ」と囁くように。

家が見えてきた。

公務員宿舎の無機質なコンクリートの壁。

いつもなら安堵するはずの我が家が、今は処刑台のように見えた。

あの中には、両親がいる。

昨日、私を「器」と呼び、恍惚とした表情で笑っていた両親が。

この狂った村の景色と同じ色に染まってしまった二人が、私を待っている。

帰りたくない。

けれど、行く場所なんてどこにもない。

私は絶望的な気持ちで、ドアノブに手をかけた。

金属の冷たさが、私の正気をかろうじて繋ぎ止める唯一の感覚だった。



7-3【密会】


夜の十時を回っても、根守の空気は変わらない。雨はやんだが、濃い霧のような重く湿った空気。

むしろ、夜の深まりと共にその粘度を増し、家全体を黒い粘液で包み込んでいるかのような圧迫感があった。


私は自室のベッドの端に座り込み、膝を抱えていた。

電気は消している。

暗闇の方が、いくらかマシだったからだ。

明かりをつければ、壁の染みが、天井の木目が、すべて私を見下ろす無数の眼球となって迫ってくる。

この家にはもう、プライバシーなど存在しない。壁一枚隔てた向こう側まで、村という巨大な生き物の血管が張り巡らされているのだから。


階下からは、まだ両親の声が聞こえていた。

ブツブツ、ブツブツ……。

低い、虫の羽音のような読経。

普段の父の声ではない。母の声でもない。もっと別の、地底から湧き上がってくるガスが、彼らの声帯を震わせて発しているような、無機質な響き。

彼らは祭壇の前で、何時間も祈り続けている。

「莉桜のため」「村のため」「虚空様のため」。

その祈りの言葉に含まれる狂気じみた献身が、床板を伝って私の足の裏をくすぐり、全身の毛を逆立てた。


眠れるわけがなかった。

目を閉じれば、瞼の裏に昨日の「赤飯」が焼き付いて離れない。

凝固した血液のような、どす黒い塊。それを笑顔で頬張る両親の姿。

私は耳を塞ぎ、呼吸を殺した。

自分が呼吸をする音さえも、この家の静寂を乱す「異音」として感知され、階下の“何か”を刺激してしまうのではないかという妄想に囚われていた。


カツン。


不意に、窓ガラスに硬いものが当たる音がした。

私はびくりと肩を跳ねさせた。

風の音ではない。雨粒の音でもない。

もっと意図的な、何かがぶつかる音。

私は恐る恐る顔を上げ、カーテンの隙間に視線を走らせた。

一階の居間から漏れる明かりが、雨に煙る庭をぼんやりと照らし出している。

そこに、影があった。

黒い人影が、暗く重いよどみの中に佇んでいる。


(……見つかった?)

心臓が早鐘を打つ。

村人の監視だ。

私が逃げ出さないように、あるいは「根腐れ」の兆候がないかを見張るために、誰かが庭に侵入しているのだ。

恐怖で喉が引きつる。

叫ぼうとしたが、声が出ない。叫べば、階下の両親に気づかれる。

今の両親が、私に「根腐れ」の疑惑があると知った時、どんな行動に出るか……。


カツン。


また、音がした。

人影が、腕を振る動作をしたのが見えた。

小石か、枯れ枝を投げているのだ。

私は震える手でカーテンを少しだけ開け、窓ガラスに顔を近づけた。

雨だれの跡が残るガラス越しに、その人影と目が合う。

細身の男の人のシルエット。

けれど、その立ち姿には見覚えがあった。

どこか気怠げで、それでいて張り詰めたような、独特の猫背。


「……慧くん?」


声にならない声で、私はその名を呼んだ。

神代慧。

彼が、なぜこんな時間に、私の家の庭に?

慧くんはこちらが気づいたことを悟ると、人差し指を口元に当てて「静かに」というジェスチャーをした。

そして、手招きをする。

一階の窓――両親がいる居間の窓からは死角になる、物置の陰へと移動していく。


罠かもしれない。

一瞬、そんな疑念が脳裏をよぎる。

彼もまた、あちら側の人間だ。神代家の跡取りとして、私を試しに来たのかもしれない。

けれど、その疑念を打ち消すように、左手首の『根緒』が熱を持った。

違う。

あの目は、捕食者の目ではない。

教室で私に向けられていた、あの痛ましいほどの焦燥と、深い孤独を湛えた目だ。

この狂った世界の中で、まともに葉が通じる相手。

私は迷いを振り切り、ベッドから降りた。


部屋を出る時、ドアノブを回す手が震えた。

廊下は漆黒の闇に包まれている。

階下からの祈りの声は、まだ続いている。

ブツブツ、ブツブツ……。

そのリズムに合わせて、古い家屋が軋みを上げている。

私は足音を忍ばせ、階段を降りた。

一段、また一段。

木造の階段が「ギィ」と鳴るたびに、心臓が口から飛び出しそうになる。

居間への入り口は閉まっているが、そこから漏れるオレンジ色の光と、線香の甘ったるい臭いが、廊下にまであふれ出していた。

(気づかないで……お願い……)

私は息を止め、居間の前を通り過ぎる。

両親の声が、一瞬だけ高まった気がした。

「……我ら……根となりて……」

意味の取れない言葉の断片。

私は逃げるように玄関へ向かい、鍵を開けた。

金属のこすれる音が、静寂の中で爆音のように響く。

背後を振り返る余裕はない。私はサンダルを突っ掛け、夜の闇へと飛び出した。


外気は、家の中とはまた違う種類の重さを持っている。

冷たい湿気が、私のパジャマに染み入ってくるようだ。

十月の夜気は肌寒く、湿気が肌にまとわりついて体温を奪っていく。

私は物置の陰へと走った。

そこに、慧くんがいた。

闇に溶け込むように立っている。

その顔色は、月明かりの下で見る死人のように青白かった。


「……慧くん」

私が声をかけると、彼はハッとしたように顔を上げた。

「来たか」

低く、押し殺した声。

虫の音にかき消されそうなほど小さいが、そこには切迫した響きがあった。

「こんな時間に、どうしたの? 誰かに見られたら……」

「大丈夫だ。見張りは俺が撒いた。……それより、時間がない」

慧くんは周囲を警戒するように視線を巡らせると、私の手を取った。

その手は氷のように冷たかった。

彼は私の掌に、何かを押し付けた。

カサリ、という乾いた感触。

見ると、それは薬包紙に包まれた粉薬のようなものだった。

「これ……?」

「薬だ」

慧くんは短く言った。

「明日の夜、儀式の前に飲んでおけ」

「儀式の前……?」

私は掌の上の小さな包みを見つめた。

白い粉末が透けて見える。

毒だろうか。それとも、幻覚剤だろうか。

疑心暗鬼にかられる私を見て、慧くんは自嘲気味に口の端を歪めた。

「安心しろ。ただの酔い止めと、胃薬を混ぜたもんだ」

「酔い止め?」

「儀式では、お神酒を飲まされる。……ただの酒じゃない。『黒脂くろやに』と、何か別の草の汁が混ぜられた、神代家秘伝の神酒だ」

黒脂。

その単語を聞いただけで、鼻の奥にあの鉄錆と腐葉土の臭いが蘇る。

「あれを飲むと、意識が混濁する。トランス状態に入りやすくなるんだ。村の連中はそれを『神懸かり』と呼んでありがたがってるが、要は集団幻覚を見るためのドラッグみたいなもんだ」

慧くんの言葉は、冷徹で、即物的だった。

そこに信仰心など微塵もない。あるのは、この村の仕組みを解剖し、嫌悪する冷ややかな理性だけだ。

「これを飲んでおけば、胃での吸収を遅らせて、吐き気を抑えられる。……完全にシラフでいられる保証はないが、飲まないよりはマシだ。意識を保っていられる」

彼は私の目を強く見つめた。

「いいか、莉桜。儀式の間、何を飲まされても、何を見せられても、思考を手放すな。周りの空気に流されるな。お前が正気を失ったら、終わりだ」

その言葉は、命令というよりも、悲痛な願いのように聞こえた。

私は薬包紙を握りしめた。

くしゃり、と音がする。

そのささやかな音が、私と彼を繋ぐ唯一の「正気」の音のように思えた。


「……ありがとう」

私は震える声でお礼を言った。

「でも……どうして、私に?」

「……お前が壊れたら、沙夜が悲しむ」

慧くんはぶっきらぼうに言って、視線を逸らした。

「それに、お前だけじゃない。……俺も飲む」

彼は自分のポケットを叩いて見せた。

彼もまた、この狂った儀式に抗おうとしているのだ。神代家の跡取りという立場を利用して、密かに準備を進めていたのだ。

「そろそろ戻る。長居すると怪しまれるからな」

慧くんはそう言って、踵を返そうとした。

「待って!」

私は反射的に彼の上着の袖を掴んだ。

水分を吸って湿った布地が、指に冷たく張り付く。

ここで彼を帰してしまえば、私はまたあの狂った家の中に一人きりで取り残される。

その恐怖が、私に質問をさせた。

ずっと、喉元につかえていた疑問を。

「教えて、慧くん。……沙夜は、大丈夫なの?」

慧くんの足が止まる。

背中越しに、彼の緊張が伝わってくる。

「……明日の儀式のことなら危険はない」

「でも、人柱なんでしょ? 伝承の通りにするなら……」

「再現劇だ」

慧くんは振り返り、私を睨みつけるようにして言った。

その瞳には、雨に濡れた野良犬のような、獰猛さと脆さが同居していた。

「ただの芝居だ。村の連中の信仰心を満たすための、悪趣味な学芸会だ」

「本当に? 本当に、誰も死なないの?」

私は食い下がった。

焼却炉での沙夜の顔が忘れられなかった。

『莉桜は……儀式が終われば、また普通の生活に戻れるよ』

彼女はそう言った。自分は戻れないかのような口ぶりで。

慧くんは私の手を振り払うことはしなかった。

ただ、雨に打たれるまま、じっと私を見ていた。

やがて、彼はため息交じりに口を開いた。

「……今回の『根合わせ』。俺たちが十五歳だから選ばれたと思ってるか?」

「え? ……違うの? 先生は、十五歳の子供が四人揃ったからって……」

「違う」

慧くんは首を横に振った。

「俺や、お前や、麗華が十五歳であることは、ただの偶然だ。条件の一つに過ぎない」

彼は、村の奥、闇に沈む忌み山の方角を一瞥した。

「重要なのは、巫女役である沙夜が十五歳だということだ」

「沙夜が……?」

「この村の伝承にある、最初の人柱。その娘が生贄になったのが、十五歳の時だったんだ。だから、十五歳の巫女でなければならない。……俺たちは、その『おまけ』だ。沙夜という主役を引き立てるための、単なる舞台装置なんだよ」

慧くんの声には、自嘲の色が混じっていた。

神代家の跡取りである自分さえも、この儀式においては妹の添え物でしかないという無力感。

「だからこそ、安全なんだ」

彼は自分に言い聞かせるように、言葉を重ねた。

「この儀式は、かつて村を救ったその娘への『感謝』と『哀悼』のために行われる。村人たちは、その娘を神の依り代、虚空様の化身として崇めているんだ。……そんな相手を、再現劇でもう一度殺すような真似、するわけがないだろう?」

論理的だった。

あまりにも論理的すぎて、逆に不安になるほどだった。

信仰とは、論理で説明できるものなのだろうか。

狂気とは、理屈の通じる相手なのだろうか。

「……だったら」

私は、核心を突く問いを口にした。

「だったら、どうして慧くんは、そんなに焦ってるの?」

慧くんの表情が凍りついた。

雲間からさした月明かりに、彼の白くなった顔が夜の闇に浮かぶ。

「安全な劇なんでしょ? ただの芝居なんでしょ? なら、どうして……そんなに怖がってるの?」

私の言葉は、彼の理性の殻にひびを入れたようだった。

慧くんは唇を噛み締め、拳を握りしめた。爪が皮膚に食い込むほど強く。

「……気に入らないんだよ」

絞り出すような声だった。

「たとえ真似事でも……ただの形式だとしても……あいつらが、沙夜を『死体』として扱うのが、我慢ならないんだ」

感情が、堰を切ったようにあふれ出す。

「あいつらは沙夜を見ていない。沙夜の中に、勝手に神聖な『何か』を見出して、崇めているつもりになっている。……沙夜は、ただの十五歳の、体の弱い、普通の女の子なのに」

慧くんの声が震えていた。

それは、神代家の次期当主としての言葉ではなかった。

ただ妹を想う、一人の兄としての叫びだった。

「あいつらの、あの粘着質な視線。沙夜を供物として値踏みするような目。……吐き気がする。そんな妄想の犠牲になって、沙夜が暗いウロの中に閉じ込められるなんて、一秒だって許したくない」

彼は激しく息を吐き、濡れた前髪を乱暴にかき上げた。

その瞳の奥で、激しい怒りと、どうしようもない無力感が渦巻いているのが見えた。

彼は知っているのだ。

この村の狂気を。

論理では安全だと分かっていても、生理的に受け入れられないおぞましさが、この儀式にはあることを。

「……俺は、沙夜を守る」

慧くんは、誓うように呟いた。

「何があっても、俺が守る。……そのためなら、俺は何だってする。どんな役だって演じてやる」

彼は私を見た。

その目は、すがるようでもあり、共犯者を求めるようでもあった。

「莉桜。お前も、生き残れ。……沙夜のためにも」

私は頷くことしかできなかった。

雨音に混じって、遠くで犬の遠吠えが聞こえた。

それは、不吉なサイレンのように夜の闇を切り裂いた。

「もう戻る。……あいつらに気づかれる前に」

慧くんは短く告げると、夜の闇の向こうへと消えていった。

闇に吸い込まれるその背中は、あまりにも小さく、頼りなかった。


私は、薬包紙を握りしめたまま、その場に立ち尽くしていた。

手の中の冷たい感触だけが、今の私を支える唯一の現実だった。

慧くんは「安全だ」と言った。

それに「沙夜の言ったこと……全部は信じるな」とも。

彼のあの焦燥は、本当にただの「兄としての情動」なのだろうか。

もっと根源的な、言葉にできない予感を、彼自身が必死に否定しているように見えたのは、私の気のせいだろうか。


私は家に戻った。

玄関の鍵を閉め、廊下を歩く。

階下からのお祈りは、まだ続いていた。

ブツブツ、ブツブツ……。

その声は、さっきよりも熱を帯び、何かを呪うような響きに変わっていた。

私は逃げるように階段を駆け上がり、自室に飛び込んだ。

ドアに鍵をかけ、ベッドに倒れ込む。

湿り気を帯びたパジャマは冷たい。

けれど、体の芯は熱く、心臓は早鐘を打っていた。

私は枕の下に薬包紙を隠した。

これが、私の命綱だ。

明日の夜。

私はこの村の心臓部へ連れて行かれる。

逃げ場はない。

けれど、心だけは渡さない。

私は左手首の『根緒』を、右手で強く握りしめた。

ドクン、ドクン。

脈打つ組紐の感触が、まるでカウントダウンのように私の体を駆け巡った。

運命の時まで、あと少し。



7-4【束の間】


十月二十日。

根守村にしては珍しく、空は抜けるような青に覆われていた。

連日降り続いた長雨が嘘のように上がり、秋の柔らかな日差しが、谷底の集落を照らし出している。濡れそぼっていた屋根瓦が乾き、アスファルトからは陽炎のような水蒸気が立ち上っていた。

絶好の祭り日和だ。

誰もがそう口にし、顔をほころばせていた。

けれど私には、この晴天こそが、何やら巨大な舞台装置の照明のように思えてならなかった。

村全体が、今夜行われる儀式のために、わざとらしく飾り立てられているような違和感。

太陽の光は明るすぎる。そのせいで、家々の軒下に下がる黒い注連縄や、風に揺れる赤い紙垂しでの影が、より一層濃く、毒々しく地面に焼き付けられていた。


「莉桜、何をぼんやりしているの。早く準備なさい」

母の声に、私はビクリと肩を震わせた。

振り返ると、母が満面の笑みを浮かべて立っていた。

その笑顔は、昨夜の狂気をそのまま引き継いでいた。目尻の皺が深く刻まれ、口角が不自然に吊り上がっている。まるで、喜びという感情を顔面に貼り付けたかのような表情。

「お父さんも、もう先に行っているわよ。今日は私たち家族にとって、一世一代の晴れ舞台なんだから」

母は私の背中をバン、と叩いた。

その手には、遠慮も気遣いもなかった。ただ、所有物を適切な場所へ配置しようとするような、乱暴な力強さがあった。

「……うん、分かってる」

私は俯き、小さな声で答えた。

逃げ場はない。

家の中は、すでに線香と腐葉土の甘ったるい臭いで充満していた。

昨夜、両親が祭壇の前で祈り続けていたあの「何か」が、部屋の隅々にまで染み付いているようだった。


外に出ると、村はすでに祭りの熱気に包まれていた。

遠くから、ピーヒャララ、ドンドン、というお囃子の音が聞こえてくる。

普段は静まり返っている通りを、法被はっぴを着た男たちが忙しなく行き交い、子供たちがはしゃぎ回っている。

一見すれば、どこの田舎にもある、秋祭りの平和な光景だ。

けれど、私には分かっていた。

彼らの笑顔の下に、得体の知れない「期待」と「飢え」が潜んでいることを。

すれ違う村人たちが、私を見る。

「おはよう、莉桜ちゃん」

「いよいよだねぇ」

「楽しみだねぇ」

彼らは親しげに声をかけてくる。その視線は、私の顔ではなく、私の左手首――『根緒』が巻かれた手首――に吸い寄せられ、そして納得したように頷くのだ。

『ああ、ちゃんと育っている』

『もうすぐ食べごろだ』

そんな声が聞こえてくるようで、私は左手首を右手で隠し、足早に通り過ぎるしかなかった。


神社の境内は、さらに人が溢れかえっていた。

参道の両脇には屋台が並び、焼きそばや綿菓子の甘い匂いが漂っている。

「あ、莉桜ちゃんだ!」

「一緒に回ろうよー!」

中学二年生の女子たちが、私を見つけて手を振った。彼女たちは年下の小学生たちを引き連れ、楽しそうに屋台を巡っている。

彼女たちの目には、この村の狂気は見えていないのだろうか。

それとも、見えていないふりをすることが、この村で生きるための唯一の処世術だと、本能的に悟っているのだろうか。

「ごめんね、ちょっと用事があって」

私は愛想笑いを浮かべて断った。

彼女たちの無邪気な笑顔を見ていると、胸が締め付けられるように痛かった。

私はもう、あちら側には戻れない。

私は「選ばれた」のだ。生贄の友として。あるいは、共犯者として。


両親は、すでに村の大人たちの輪の中に溶け込んでいた。

父は役場の職員たちと談笑し、母は婦人会の女性たちと甲高い笑い声を上げている。

二人の顔は、周囲の村人たちと全く同じだった。個性が消え、村という巨大な生き物の細胞の一つになりきっている。

その光景を見て、私は吐き気を覚えた。

あそこに私の居場所はない。

かつて私を愛してくれた父と母は、もうどこにもいないのだ。

孤独感が、冷たい風となって私の心を吹き抜けていく。

私は人波を避け、神社の裏手へと向かおうとした。


その時だった。

「……莉桜」

低い声に呼び止められた。

社務所の陰、注連縄が張り巡らされた結界のすぐそばに、神代慧くんが立っていた。

彼は白衣はくえはかまという神職の装束を身にまとい、手にはさかきを持っていた。

その姿は、いつもの学生服姿とは違い、近寄りがたいほどに凛として見えた。

けれど、その顔色は悪かった。

目の下には濃いクマがあり、唇は血の気を失って白く乾燥している。

「慧くん……」

私は周囲を警戒しながら、彼に近づいた。

慧くんは、忙しなく境内を見回している。神主である父親の補佐として、朝から休む間もなく働いているのだろう。

「大丈夫か?」

彼は短く聞いた。

その言葉の裏に、「昨日の薬は持っているか」「正気を保っているか」という意味が含まれていることを、私は痛いほど理解していた。

私は無言で頷き、ポケットの上から薬包紙の感触を確かめた。

クシャリ、という微かな音が、私と彼を繋ぐ唯一の命綱のように感じられた。

「……慧くんこそ」

「俺は平気だ。やるべきことをやるだけだ」

彼は視線を、本殿の奥、さらにその上にある忌み山の方角へと向けた。

その瞳には、諦念と、そして微かな、燃え尽きる寸前の残り火のような反抗心が宿っていた。

「沙夜は?」

私が尋ねると、慧くんは顎で神社の裏手をしゃくった。

「奥の小川だ。みそぎをしている」

「禊……?」

「今夜の儀式のために、身を清めているんだ。……一人でな」

慧くんの声が、苦渋に歪んだ。

「俺は親父のそばを離れられない、ついていてやれない。……莉桜、もし暇なら、沙夜のそばにいてやってくれないか」

「うん、もちろん」

私は即答した。

ここにいても、針のむしろに座らされているような気分になるだけだ。それに、沙夜のことが心配だった。

慧くんは、ふっと表情を緩めた。

それは、ほんの一瞬だけ見せた、年相応の少年の顔だった。

「頼んだぞ」

そう言い残すと、彼は再び厳しい表情に戻り、呼ばれる声の方へと去っていった。

その後ろ姿は、あまりにも孤独で、そして頼りなかった。


神社の裏手に回ると、祭りの喧騒が嘘のように遠のいた。

杉林に囲まれた小道は薄暗く、ひんやりとした冷気が漂っている。

足元の土は湿っており、踏みしめるたびにジュクリと音を立てた。

数分ほど歩くと、水音が聞こえてきた。

サラサラという清涼な音ではない。もっと重く、深く、大地の底から湧き出してくるような水音。

この小川の水は、忌み山から流れ出し、村の田畑を潤す水源となっている。

村人たちはこの水を「虚空様の恵み」として崇め、決して汚してはならないと言い伝えてきた。

木立が開け、視界が広がる。

そこに、沙夜がいた。


彼女は、白装束――死に装束にも似た白衣一枚を身にまとい、川の中に立ち尽くしていた。

十月の山水は、手を入れるだけで痛むほど冷たいはずだ。

それなのに、沙夜は微動だにせず、目を閉じて合掌している。

腰まである長い黒髪が、水面に広がり、まるで黒い藻のように揺らめいている。

木漏れ日が、彼女の白い肌をスポットライトのように照らし出していた。

その姿は、あまりにも美しく、そして痛々しかった。

人間離れした神々しさと、今にも消えてしまいそうな儚さが同居している。

「……沙夜」

私は、恐る恐る声をかけた。

沙夜の肩が、びくりと震えた。

彼女はゆっくりと目を開け、こちらを振り返った。

その唇は紫色に変色し、体は小刻みに震えている。

「莉桜……?」

掠れた声。

私は慌てて駆け寄り、岸辺に置いてあったタオルを掴んで川に入ろうとした。

「だめ!」

沙夜が鋭い声で私を制した。

「入っちゃだめ。莉桜まで濡れちゃう」

「でも、そんな……冷たいでしょう? 風邪ひいちゃうよ!」

「平気だよ」

沙夜は無理に笑ってみせたが、その笑顔は引きつっていた。

「もう終わるから。……あと少しだけ」

彼女は再び前を向き、何かを呟き始めた。

祝詞のりとだろうか。

意味の分からない言葉が、水音に混じって紡がれていく。

私は岸辺で立ち尽くし、ただ彼女を見守ることしかできなかった。

慧くんは言っていた。「沙夜は体が弱い」と。

それなのに、彼女はこんな過酷なことを、たった一人で耐えているのだ。

村のため。虚空様のため。

そんな実体のないもののために、十五歳の少女が犠牲になっている。

怒りと悲しみが、胸の奥で渦を巻いた。


やがて、沙夜は深く一礼し、ゆっくりと岸へと上がってきた。

濡れた白衣が体に張り付き、華奢な体のラインを浮き彫りにしている。

私はすぐに駆け寄り、バスタオルで彼女の体を包み込んだ。

「沙夜、大丈夫? すごく冷たい……」

彼女の体に触れると、まるで氷のように冷え切っていた。

私は夢中で彼女の体をさすり、少しでも温めようとした。

「ありがとう、莉桜」

沙夜はガチガチと歯を鳴らしながら、それでも気丈に微笑んだ。

「毎朝、井戸水で似たようなことしてるから……慣れてるの」

「毎朝……?」

私は絶句した。

「知らなかった……。私、親友だなんて言いながら、沙夜のこと何も知らなかった」

涙が滲んできた。

私は、自分のことばかりだった。

自分が「よそ者」であることの不安、村の空気への恐怖。

けれど、沙夜はずっと、この村の中心で、私には想像もできない重圧と戦っていたのだ。

「謝らないで」

沙夜は、冷たい手で私の頬に触れた。

「莉桜には、知られたくなかったの」

「どうして?」

「だって……莉桜といるときだけは、私が『巫女』だってことを忘れられるから」

沙夜の言葉に、私はハッとした。

彼女の瞳は、どこか遠くを見つめていた。

「莉桜が東京の話をしてくれるとき、私もその場所にいるような気がした。流行りの服を着て、クレープを食べて、普通の女の子として笑っていられるような……そんな気がしたの」

彼女は、私の左手首に巻かれた『根緒』に視線を落とした。

「だから、莉桜がこの村に染まっていくのが、怖かった。私の『外』への窓が、閉ざされてしまうようで」

「沙夜……」

私は言葉を失った。

彼女はずっと、逃げ出したかったのだ。

この役目から。この村から。

「でもね」

沙夜は顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめた。

その瞳には、強い光が宿っていた。

「莉桜がいてくれたから、私はここまで頑張れた。莉桜という『外』を感じられる存在が近くにいたから、世界はここだけじゃないって思えた。だから、私は大丈夫」

彼女の言葉は、自分に言い聞かせるようでもあった。

大丈夫。私は大丈夫。

それは、諦めと決意が入り混じった、悲痛な自己暗示。

私は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。

『でも沙夜は、その外の世界には行けないの?』

『逃げよう。今からでも、逃げよう』

言えなかった。

ここでそれを言えば、彼女が必死に築き上げた覚悟を崩してしまうことになる。

それに、逃げ場などないことを、私たちはもう知ってしまっている。

村中の監視の目。両親の狂気。そして、私の手首に食い込む『根緒』の呪縛。

私たちは、巨大な蜘蛛の巣に捕らえられた蝶のようなものだ。

もがけばもがくほど、糸は強く絡みつき、窒息していくだけなのだ。


「着替えようか。風邪ひいちゃう」

私は努めて明るい声を出した。

沙夜は小さく頷き、用意してあった巫女装束へと手を伸ばした。

緋色ひいろはかまに、純白の小袖。

それは、今夜の儀式のための衣装ではない。昼の祭りのための、あくまで「表向き」の正装だ。

今夜、私たちが着せられるのは、あの白無垢のような死装束なのだ。

そのことを考えると、手が震えそうになったが、私はそれを悟られないように丁寧に帯を結んだ。

「やっぱり、沙夜は似合うね。お人形さんみたい」

「そうかな……ありがとう」

着替えを終えた沙夜は、いつもの儚げな美少女に戻っていた。

濡れた髪を拭き、櫛を通すと、黒髪は艶やかな光沢を取り戻した。

私たちは、近くの岩場に腰を下ろした。

木漏れ日が、私たちの足元にまだら模様を描いている。

川のせせらぎと、遠くから聞こえるお囃子の音。

ここだけ時間が止まっているかのように穏やかだった。


「ねえ、莉桜。東京で流行ってる歌、教えて」

沙夜が唐突に言った。

「え? 歌?」

「うん。こないだテレビでやってたやつ。……私、サビしか知らなくて」

私は少し驚いたが、すぐに彼女の意図を察した。

彼女は、今この瞬間だけは、巫女であることを忘れたいのだ。

ただの十五歳の、普通の女の子として過ごしたいのだ。

「いいよ。えっとね……」

私は、最近流行りのアイドルソングを口ずさんだ。

最初は自信なげに、途中からは手拍子を交えて。

沙夜もそれに合わせて、小さな声で歌い始めた。

歌詞を間違えて笑い合ったり、音程が外れて吹き出したり。

「あはは、莉桜、そこ違うよ」

「えー? うそ、こうじゃなかったっけ?」

「違うってば。こうだよ」

沙夜が楽しそうに笑う。

その笑顔には、いつもの陰りはなかった。

本当に、どこにでもいる普通の少女の笑顔。

私たちは、学校のこと、テレビのこと、好きな芸能人のこと、とりとめのない話をし続けた。

「根合わせ」のことも、「虚空様」のことも、「根腐れ」のことも、すべて忘れて。

まるで、明日も明後日も、こんな日常が続いていくと信じているかのように。


「莉桜、髪伸びたね」

沙夜が私の髪に触れた。

「そうかな? 切ろうか迷ってるんだけど」

「ううん、そのままでいいよ。綺麗だもん」

「沙夜の髪の方がずっと綺麗だよ。サラサラで」

「そうかな……。手入れ、大変だけどね」

私たちは互いの髪を触り合い、くすくすと笑った。

その温もりだけが、確かだった。

この狂った世界の中で、私たち二人だけが、確かにここに存在している。

互いの体温を感じ、鼓動を感じている。

それだけで、涙が出るほど愛おしく、そして切なかった。


ふと、風が止んだ。

木漏れ日が陰り、あたりが急に薄暗くなった気がした。

見上げると、太陽が雲に隠れようとしている。

「……そろそろ、行かなきゃ」

沙夜がぽつりと呟いた。

その声から、先ほどまでの明るさが消えていた。

魔法が解ける時間だ。

「……うん」

私も立ち上がった。

足が重い。

この場所から離れたくない。このまま時が止まってしまえばいいのに。

けれど、遠くから太鼓の音が響いてくる。

ドンドン、ドンドン。

それは祭りの終わりを告げる音であり、夜の儀式への合図でもあった。

「ありがとう、莉桜」

沙夜が私に向き直り、深々と頭を下げた。

「私、頑張れる気がする」

その言葉が、遺言のように聞こえて、私は胸が張り裂けそうになった。

「沙夜……」

私は彼女の手を握りしめた。

その手は、もう冷たくはなかった。私の体温が移ったのか、ほんのりと温かかった。

「約束だよ。……終わったら、また普通の話をしようね。クレープの話も、映画の話も」

私は、自分でも信じていない約束を口にした。

そうしなければ、彼女の手を離すことができなかったから。

沙夜は、悲しげに微笑んだ。

「うん。……約束」

彼女は私の手をゆっくりと離した。

指先が離れる瞬間、見えない糸がプツリと切れるような感覚があった。


私たちは並んで、神社へと戻る道を歩き出した。

背後で、小川の水音がゴウゴウと響いている。

それはまるで、私たちを飲み込もうと待ち構えている、虚空様の喉の鳴る音のように聞こえた。

空を見上げると、雲の隙間から射す光が、忌み山の頂を照らし出していた。

そこにあるはずの巨木が、黒い影となって私たちを見下ろしている。

束の間の平穏は終わりを告げた。

夜が来る。

根守村が、その本性を露わにする夜が。

私の左手首にある『根緒』が、ドクン、と強く脈打った。

「準備はいいか?」と問うように。

私は拳を握りしめ、前を見据えた。

ポケットの中の薬包紙と、もう一つ、根緒の中から肌を刺激するひしゃげた金属の蓋の感触を確かめながら。

まだ、終わらせない。

私は、絶対に沙夜をあんな化け物の生贄になんてさせない。

たとえ、この身が根に食い尽くされようとも。


神社の境内が見えてきた。

そこにはもう、昼間の賑やかな祭りの空気はなかった。

屋台は片付けられ、黒い装束に身を包んだ村人たちが、無言で整列している。

その異様な静寂が、私たちを迎えた。

ここからが、本当の「根守の祭り」なのだ。


(第七章 完)

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