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第6章 粛清

Google AI Studioで専用のアプリを作り、プロットを読み込ませて作った和風ホラー小説です。

6-1【標的】


九月の雨は、いつまでも降り止まない。

しとしと、じめじめと、空から降り注ぐ水滴は、根守の谷底に溜まった空気を腐らせていくようだった。

湿度は飽和状態を超え、教室の壁板は水を吸ったスポンジのように膨らんでいる。窓ガラスは結露で白く濁り、外の世界と私たちを隔てる膜となっていた。


あの日――『響木ひびきぎ』による選別の日から、数日が過ぎていた。

私の左手首には、赤茶けた『根緒ねお』が食い込んでいる。

最初のうちは感じていた異物感も、皮膚のかぶれも、今はもうない。ただ、時折ドクン、ドクンと、私の脈拍とは異なるリズムで締め付けられる感覚があるだけだ。

それは「ここにいるぞ」という合図であり、「見ているぞ」という警告でもあった。


「虚空様の御声が聞こえる」

そう嘘をついてから、私の視界は微妙に変質していた。

世界に薄い膜がかかったような、あるいは水槽の中から外を覗いているような、頼りない浮遊感。

クラスメイトたちの笑顔が、精巧な作り物に見える。牛松先生の慈愛に満ちた言葉が、呪文のように聞こえる。

けれど、その違和感を口にすることは許されない。

私は「こちら側」の人間になったのだから。


二時間目の休み時間。

教室の後ろにある掃除用具入れのそばで、異変は起きた。


「……痛い、なぁ」


ボソリと、誰かが呟いた。

雨音にかき消されそうなほど小さな、けれど湿った空気の中では妙に耳に残る声だった。

私は反射的に顔を上げた。

声の主は、小学六年生の男子生徒、山崎和也やまざき かずやくんだった。

彼は目立たない生徒だった。成績も普通、運動も普通。休み時間にはいつも文庫本を読んでいるような、大人しい少年だ。

その和也くんが、壁に向かって立ち、左手首を激しく掻きむしっていた。


ガリッ、ガリッ、ガリッ。


爪が『根緒』と皮膚の隙間を往復する音。

それは、黒板を爪で引っ掻く音にも似た、神経を逆撫でする不快なリズムを刻んでいた。


「痒い……痛い……外したい……」


彼はうわ言のように繰り返している。

その背中は小刻みに震え、まるで何かに取り憑かれたように一心不乱に手首を掻き続けている。

私の心臓が、早鐘を打った。

分かる。

その感覚は、私も数日前に味わったものだ。皮膚の下に根が入り込み、毛細血管を突き破って侵食してくるような、あの耐え難い痒みと痛み。

けれど、それは口に出してはいけない禁句だ。

「痛みは愛」「根が馴染んでいる証拠」。

そう教え込まれているこの村で、拒絶反応を示すことは「信仰の不足」を意味する。


(やめて、和也くん……誰かに聞かれる……)


私は心の中で叫んだ。

助け舟を出そうか。でも、どうやって?

「大丈夫?」と声をかければ、私も「痛み」を肯定することになる。「私も痛かったよ」と言えば、私の『根緒』への順応が嘘だったとバレてしまう。

私が躊躇している間に、教室の空気が変わった。


ふわり、と甘い花の香りが漂った。


「あら、山崎さん? どうなさいましたの?」


鈴を転がすような、美しい声。

御子柴麗華さんが、いつの間にか和也くんの背後に立っていた。

教室のざわめきが、潮が引くように静まり返る。

下級生たちが遊ぶ手を止め、上級生たちが談笑を中断する。全員の視線が、掃除用具入れの前に集まった。


和也くんは、ビクリと肩を跳ねさせ、振り向いた。

その顔は蒼白で、脂汗が滲んでいる。左手首は赤く腫れ上がり、爪で掻き壊したのか、うっすらと血が滲んでいた。

赤茶けた『根緒』が、その血を吸ってさらにどす黒く変色しているように見える。


「あ、御子柴、さん……」

「そんなに強く掻いては、肌を傷つけてしまいますわよ。……それとも、肌ではなく、『根』を傷つけようとしているのかしら?」


麗華さんは、優雅に小首をかしげた。

その口元には、慈愛に満ちた聖母のような微笑みが浮かんでいる。

けれど、その瞳は笑っていなかった。

標本箱の中の昆虫を検分するような、あるいは腐った果実を見定めているような、冷徹で無機質な眼差し。


「ち、違います……ただ、ちょっと痒くて……」

「痒い?」

麗華さんは、ことさら不思議そうに言葉を反芻した。

そして、ゆっくりと和也くんに歩み寄る。

カツ、カツ、と上履きの音が響くたびに、和也くんは後ずさりし、背中が掃除用具入れにぶつかった。


「おかしいですわね。虚空様からいただいた『根緒』は、私たちの体の一部。魂のへその緒です。自分の体の一部が、そんなに痒くてたまらないなんてこと、あるかしら?」


麗華さんは和也くんの目の前で立ち止まり、そっと彼の手首を取った。

彼女の白魚のような指先が、血の滲んだ『根緒』に触れる。

和也くんが「ひっ」と短い悲鳴を上げて身を縮こまらせた。


「……ああ、可哀想に」


麗華さんは、深いため息をついた。

それは同情のようであり、深い失望のようでもあった。


「拒絶しているのですね。あなたの体が、心が、虚空様との繋がりを」


その言葉は、静かな教室に波紋のように広がった。

拒絶。

それは「根腐れ」の始まりを意味する言葉。


「ち、違います! 僕は……!」

「嘘はいけませんわ」


麗華さんの声が、一段低くなった。

彼女は和也くんの手首を掴んだまま、じっと彼の目を見つめた。


「心は一つ。隠し事は罪。……山崎さん、あなた、最近『根の帳』に嘘を書いていましたね?」


和也くんの目が、極限まで見開かれた。

「え……?」

「一昨日、あなたは『感謝して過ごしました』と書きました。でも、その日の放課後、あなたは裏山の方を見て、舌打ちをしていましたね? 私は見ていましたよ」


見ていた。

いつ? どこで?

背筋に冷たいものが走る。

麗華さんの監視網は、私たちの想像を遥かに超えている。あるいは、彼女自身が見ていなくても、村中の「目」が彼女に報告しているのだ。


「そ、それは……虫がいて……」

「言い訳は結構です」


麗華さんは、汚いものを触ってしまったかのように、パッと和也くんの手を離した。

そして、ハンカチを取り出すと、丹念に自分の指先を拭き始めた。


「心が腐ると、根も腐る。その痒みは、あなたの心の中に生まれた『疑い』という毒が、体の中から溢れ出している証拠ですわ」


彼女はハンカチを畳み、冷ややかに言い放った。


「残念です。秋祭りが近いというのに、こんなところから『根腐れ』の臭いがしてくるなんて」


根腐れ。

その単語が出た瞬間、教室の空気が凍りついた。

物理的な温度が下がったかのように、肌が粟立つ。

クラスメイトたちの目が、一斉に和也くんを見る目から、「汚物」を見る目へと変わった。

恐怖ではない。嫌悪だ。

自分たちの清浄な空間に、異物が紛れ込んでいることへの生理的な拒絶反応。


「ち、違う……僕は……」


和也くんが助けを求めるように周囲を見回した。

目が合う。

私と、目が合った。


(助けて)


彼の目がそう訴えていた。

数日前の私と同じ目。恐怖に震え、孤独に押しつぶされそうな目。

私は反射的に一歩踏み出しそうになった。

違うよ、と。ただ痒いだけだよ、と。そう言ってあげたかった。


けれど。


「莉桜さん?」


麗華さんの声が、横から飛んできた。

見ると、彼女は私を見て微笑んでいた。

完璧な、隙のない、美しい笑顔。

しかしその瞳の奥には、「あなたはどうするの?」という無言の圧力が渦巻いている。


「莉桜さんは、分かりますわよね? この痒みが何を意味するのか。だってあなたは、虚空様の御声を聞き、私たちと正しく繋がったのですから」


試されている。

これは、踏み絵の続きだ。

私が本当に「こちら側」の人間なのか、それともまだ「あちら側」に未練を残しているのか。

もしここで和也くんを庇えば、次は私が「根腐れ」認定される。

私の手首の『根緒』が、ギリリと音を立てて締め付けた気がした。

痛い。

逆らってはいけない。

外してはいけない。

守られなければならない。


私は、唇を引きつらせた。

頬の筋肉を無理やり持ち上げ、能面のような笑顔を作った。


「……うん。分かるよ、麗華さん」


自分の声が、他人のもののように響く。


「和也くん……かわいそう。きっと、心が迷ってるんだね」


言ってしまった。

決定的な一言を。

和也くんの顔から、表情が抜け落ちた。

絶望ですらない。信じていた世界が足元から崩れ去ったような、虚無の表情。


「そうよね、莉桜ちゃんの言う通りだわ」

「近寄らない方がいいよ、うつるかもしれない」

「臭いもんね、なんか」


私の言葉を合図にしたかのように、クラスメイトたちが口々に囁き始めた。

さっきまで隣の席で笑い合っていた友人が、昨日まで一緒に遊んでいた下級生が、まるで汚いものを見るように和也くんを遠巻きにする。

そこには、悪意すらなかった。

ただ、「腐ったミカンを箱から取り除かなければならない」という、事務的で衛生的な義務感だけがあった。


「あ……あぁ……」


和也くんはその場にへたり込んだ。

誰も手を差し伸べない。

先生でさえも。

教卓にいる牛松先生は、悲しげな顔をして首を横に振っていた。

「困ったねぇ。手当てをしてやりたいが、心の腐りまでは薬では治せんからねぇ」

先生の言葉は、教育者の放棄だった。


そして牛松先生は、何事もなかったかのようにベルを鳴らす。

三時間目の始まりを告げる音。

それは、和也くんへの「判決」の合図でもあった。


「さあ、皆さん。席に着きましょう。腐った空気を吸わないように、深呼吸をして」


麗華さんがパン、と手を叩く。

その音で、全員が何事もなかったかのように動き出した。

和也くんだけを残して。


彼は掃除用具入れの前に座り込んだまま、動かない。

まるで、そこに見えない壁があるかのように、誰も彼を見ようとしない。

避けて通るのではない。

彼が存在する空間だけが、ぽっかりと切り取られ、認識の外側に追いやられているようだった。


私は自分の席に戻り、教科書を開いた。

文字が目に入ってくるが、意味をなさない。

心臓の音がうるさい。吐き気がする。

私は、一人の人間を切り捨てた。

保身のために。自分が助かるために。


ふと、視線を感じて顔を上げる。

窓際の席。

神代慧くんが、じっとこちらを見ていた。

彼は何も言わなかった。表情も変えなかった。

ただ、その瞳には、深い諦念と、私への憐憫が宿っていた。

「それが、この村での生き方だ」と、告げるような目。


そして、私の後ろの席。

神代沙夜。

彼女は机に突っ伏していた。

震えているのが分かる。耳を塞いでいるのが分かる。

彼女は、和也くんの「助けて」という心の声が聞こえてしまっているのかもしれない。

あるいは、これから彼に起こることを予見して、恐怖しているのかもしれない。


授業が始まった。

牛松先生が黒板に文字を書く音が、カツ、カツ、と響く。

平和な授業風景。

しかし、教室の後ろ、掃除用具入れの前には、まだ和也くんがいる。

彼は膝を抱え、ブツブツと何かを呟いている。


「ごめんなさい……ごめんなさい……もう掻きません……信じます……」


その声は、誰の耳にも届かない。

クラスメイトたちは、時折談笑し、先生の冗談に笑い声を上げる。

和也くんの声だけが、別の周波数のノイズのように、教室の空気に溶けずに漂っている。


(おかしい)


私はペンを握りしめ、震えを抑えた。

おかしい。これはおかしい。

彼がそこにいるのに。声を出しているのに。

どうして誰も反応しないの?

どうして、「いないこと」になっているの?


「ねえ、莉桜さん」


右隣の麗華さんから声をかけられたことに、私の反応は遅れた。

授業中に麗華さんがおしゃべりをするなんて、今までになかったことだからだ。

見ると満面の笑み。


「秋季例大祭に向けて明日の放課後、全員で神社の掃除をする予定でしたわよね? 私も、あまり神社の境内に立ち入ることがないので、楽しみですわ」


彼女の視線の先、私の肩越しには、うずくまる和也くんがいるはずだ。

でも、彼女の瞳には和也くんは映っていない。

背景の一部。あるいは、ただのシミとして処理されている。


「……うん、楽しみだね」


私は答えた。

答えるしかなかった。

なぜ、麗華さんがこのタイミングで明日の予定の話をしてきたのか?


――踏み絵――


もしここで「和也くんはどうするの?」と聞けば、彼女の笑顔は一瞬で消え、私を見る目は「異物」を見る目に変わるだろう。

「誰のこと?」と、真顔で聞かれるかもしれない。

その恐怖が、私の口を縫い止める。


世界が、書き換わっていく。

私の認識とは無関係に、この村の「正しさ」によって、現実がリアルタイムで修正されていく感覚。

めまいがした。

床がぐにゃりと歪み、私が座っている椅子ごと、底なしの泥沼に沈んでいくような錯覚。


『根緒』が熱い。

左手首が、脈打つように熱い。

それはまるで、「よくやった」と私を褒めているようでもあり、「お前も共犯だ」とあざ笑っているようでもあった。


私は視線を窓の外へ逃がした。

灰色の空。煙る山々。

そして、すべてを見下ろす忌み山の頂。

あそこにある巨木が、枝を広げて笑っている気がした。


和也くんの呟きが、やがて嗚咽に変わる。

それでも、教室の時間は止まらない。

誰も彼を見ない。

彼が「根腐れ」として処理されるまで、この空間は彼を拒絶し続けるのだ。


私は、自分の左手首を右手で強く握りしめた。

爪が『根緒』に食い込む。

痛い。

でも、この痛みだけが、私がまだ完全に狂っていないことの証明のような気がした。

あるいは、もう手遅れなのかもしれないけれど。


和也くんのすすり泣く声が聞こえる。

あそこにいたのは、数日前の私だったかもしれない。

そして、明日の私かもしれない。


「……ごめんね」


音にならない声で、私は謝った。

誰に対しての謝罪なのか、自分でも分からなかった。

ただ、胃の腑に溜まった鉛のような罪悪感だけが、重く、冷たく、私を内側から押し潰そうとしていた。



6-2【消失】


翌朝も、根守の空は腐った雑巾のような色をしていた。

窓ガラスを叩く雨音は、昨日よりも粘度を増しているように感じる。ポツリ、ポツリという軽快なリズムではなく、ボタ、ボタ、と重たい雫が屋根を打ち据える音は、まるで濡れた泥団子を延々と投げつけられているような不快感を伴っていた。


私は重い足取りで通学路を歩いていた。

傘を打つ雨の振動が、柄を握る手を通して骨に伝わる。

昨日の出来事が、悪い夢であってほしいと願っていた。

和也くんが泣き出したこと。麗華さんが冷たく宣告したこと。そして私自身が、彼を見捨てて「救われた側」に回ったこと。

一晩眠れば、また元の日常に戻っているのではないか。和也くんが恥ずかしそうに登校してきて、みんなで「昨日は変だったね」と笑い話にできるのではないか。

そんな浅はかな希望は、校門をくぐった瞬間に粉々に砕け散った。


下駄箱の前に立った時だ。

私の視線は無意識のうちに、六年生男子の棚へと吸い寄せられた。

一番下の段。隅から二番目。

そこには、山崎和也くんの上履きが入っているはずだった。

けれど、そこは空だった。

上履きがないだけではない。

名札が、ない。

木製の古びた下駄箱には、それぞれの生徒の名前が書かれた白い紙が貼られている。手書きの、少し日焼けした紙片。

しかし、その場所だけが、綺麗に剥がされていた。

剥がされた跡すらなかった。

テープの糊残りも、紙の繊維の残りかすもない。まるで、最初からそこには誰も割り当てられていなかったかのように、黒ずんだ木の地肌がむき出しになっていた。


「……え?」

喉の奥から、空気が漏れた。

私は傘を畳むのも忘れ、その空白を凝視した。

背後から登校してきた下級生たちが、私の脇をすり抜けていく。

「おはようございます!」

「あ、今日の雨、すごーい」

彼らは私の立ち尽くす姿を気に留めることもなく、そして、その「空白の棚」に目を向けることもなく、平然と自分たちの上履きを取り出していく。

誰も気づいていないのか。

いや、気づいていないふりをしているだけなのか。

私の心臓が、嫌なリズムで脈打ち始めた。

左手首の『根緒』が、濡れたナメクジのように肌に吸い付いている。


私は逃げるように昇降口を抜け、廊下を歩いた。

床板が湿気を吸って、ブヨブヨと波打っているような錯覚に襲われる。一歩踏み出すたびに、校舎という巨大な生き物の内臓の上を歩かされているような、頼りない感触。

教室の引き戸が見えてくる。

あの中に、彼はいるのだろうか。

名札が剥がされていたとしても、本人は教室にいて、いつものように文庫本を読んでいるのではないか。

私は震える手で、引き戸に手をかけた。


ガラララ……。

滑りの悪い戸が、重たい音を立てて開く。

教室の中は、すでに湿った熱気で満たされていた。

ストーブなど焚いていないのに、人間の体温と、雨の匂いと、カビの臭いが混ざり合い、ムッとするような空気が顔に張り付く。

「あ、莉桜ちゃん、おはよー」

「おはよう、高村さん」

クラスメイトたちの声。

いつも通りの挨拶。いつも通りの笑顔。

小学二年生のタカシくんが、積み木を崩して遊んでいる。四年生の女子たちが、昨日のテレビ番組の話で盛り上がっている。

何も変わらない、平和な朝の風景。

ただ一点を除いて。


私は、息を止めた。

視線が、教室の後方へと釘付けになる。

掃除用具入れの前。

昨日、和也くんが泣き崩れていた場所。

そこには、何もなかった。

机も、椅子も。

山崎和也という人間が座っていた痕跡が、物理的に消滅していた。


「……嘘」

私はよろめき、入り口の柱に肩をぶつけた。

ない。

本当に、ないのだ。

ただ彼が欠席しているのではない。机ごと、椅子ごと、彼の存在を示す質量そのものが、この空間から切り取られていた。

私は恐る恐る、その「空白」へと歩み寄った。

教室の床は、長年の使用で黒ずみ、所々ささくれ立っている。

毎日、私たちが雑巾がけをして磨き上げた床だ。

机を移動させれば、埃の跡が残るはずだった。椅子の脚を引きずった擦過痕が残るはずだった。

けれど、そこには何もなかった。

埃一つないわけではない。周囲と同じように、うっすらと均一に埃が積もり、黒ずんでいる。

まるで、何十年も前から、そこには何も置かれていなかったかのように。

時空が歪んでいる。

そんな馬鹿げた言葉が脳裏をよぎるほどの、完璧な「不在」だった。


目眩がした。

床がぐにゃりと歪み、私の足元から崩れ落ちていくような感覚。

(おかしい……おかしいよ)

昨日は確かにここにあった。

和也くんが座っていた。本を読んでいた。手首を掻きむしっていた。

それなのに、どうして床に跡がないの?

どうして、みんな平気な顔をしているの?

私のすぐ横を、六年生の男子生徒が通り過ぎた。和也くんとよく将棋を指していた子だ。

彼は、和也くんの机があったはずの場所――今はただの虚空となっている空間――を、避けることもなく、自然な動線で横切っていった。

まるで、そこに障害物など最初から存在しなかったかのように。


「……ねえ」

私は耐え切れず、彼の袖を掴んだ。

彼は驚いたように振り返る。

「なに? 高村さん」

「あ、あの……」

言葉が喉に詰まる。

聞いてはいけない。本能がそう警鐘を鳴らしている。

けれど、このままでは私が狂ってしまう。私の記憶の方が間違っていると、世界に塗りつぶされてしまう。

「……山崎くんの机、どこに行ったの?」

私は声を絞り出した。

心臓が破裂しそうだった。

彼は、きょとんとした顔をした。

「え? 誰?」

演技ではなかった。

悪ふざけでも、意地悪でもなかった。

彼は本当に、私が何を言っているのか分からないというように、不思議そうに首を傾げたのだ。

「誰って……山崎和也くんだよ。昨日まで、ここに座ってた……」

「やまさき……?」

彼は眉をひそめ、記憶の糸を手繰り寄せるような仕草をした。

そして、困ったように笑った。

「ごめん、高村さん。寝ぼけてるんじゃない? うちの学年、男子は俺と健太だけだよ」

「え……」

「変なの」

彼は軽く手を振ると、そのまま行ってしまった。

背筋に、氷水を流し込まれたような悪寒が走った。

忘れているのではない。

最初から「いない」ことになっている。

人間の脳みそを、記憶を、こんなにも鮮やかに書き換えることなんてできるのだろうか。

それとも、私が狂っているのか。

私が、存在しない人間の幻覚を見ていたとでもいうのか。


私は助けを求めて周囲を見回した。

誰か。誰か一人でも、違和感を持っている人はいないのか。

視線の先で、神代沙夜が席についているのが見えた。

彼女は教科書を広げていたが、ページをめくる手は止まっていた。

長い黒髪がカーテンのように顔を隠しているが、その背中が微かに強張っているのが分かる。

「沙夜……」

私は縋るように彼女の席へと歩み寄った。

沙夜なら。私の親友の沙夜なら、覚えているはずだ。

昨日、あんなに悲しそうな顔で和也くんを見ていたのだから。

「沙夜、おはよう」

声をかけると、沙夜はビクリと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。

その顔色は、和紙のように白かった。目の下には濃い隈があり、唇は乾燥してひび割れている。

「……おはよう、莉桜」

消え入りそうな声。

私は彼女の机に手をつき、周囲に聞こえないように声を潜めた。

「ねえ、沙夜。……おかしいよね?」

「…………」

「和也くんの机がないの。みんな、彼のことを知らないって言うの。ねえ、沙夜は覚えてるよね? 昨日、あそこで……」

私は後ろの「空白」を指差そうとした。

その瞬間、沙夜が私の手を強く掴んだ。

痛いほどに。

彼女の細い指が、私の手に食い込む。

「莉桜」

沙夜が、強い口調で私の名を呼んだ。

その瞳には、涙が溜まっていた。けれど、それは同情の涙ではなく、恐怖と懇願の涙だった。

「……やめて」

「え?」

「何も言わないで。……お願いだから」

彼女は震えながら首を横に振った。

視線は、決して私の背後の「空白」に向けようとはしない。

見てはいけないもの。触れてはいけないもの。

そこに「無」があることを認識してしまえば、自分もその「無」に引きずり込まれることを、彼女は知っているのだ。

「沙夜……あなたも、忘れて」

私の問いかけに、沙夜はただ、唇を噛み締めて俯いた。

その手首に巻かれた『根緒』が、彼女の白い肌の上で、昨日よりも黒く濁って見えた。

諦念。

彼女は受け入れたのだ。この理不尽な消失を。村の掟を。

「ごめんね……ごめんね……」

蚊の鳴くような声で、彼女は繰り返した。

それは和也くんへの謝罪か、それとも私への謝罪か。

彼女の手が離れる。

私は突き放されたような孤独を感じながら、ふらりと後ずさった。


窓際の席を見る。

神代慧。

彼はいつものように、窓の外を眺めていた。

雨に煙る校庭。その向こうにそびえる忌み山。

彼は、この教室の異変になど気づいていないかのように、完璧な無関心を装っている。

けれど、私には分かった。

彼が持っている鉛筆の先が、ノートの一点に押し付けられ、紙を突き破って机に食い込んでいるのが。

砕けた黒い芯が、ノートの端に転がっている。

彼もまた、戦っているのだ。

「認識」と「現実」の乖離に。

和也くんがいなくなったという事実を「異常」だと叫びたい衝動と、それをすれば自分も消されるという「理性」との間で。

私が彼に近づこうと一歩踏み出した時、慧くんが不意にこちらを向いた。

冷徹な目。

「席に着け、莉桜」

低く、鋭い声だった。

「……慧くん」

「先生が来る。……余計なことを考えるな」

彼は私を見据えたまま、目で合図を送ってきた。

『座れ』。

『口をつぐめ』。

『お前まで消えたいのか』。

そのメッセージを受け取った瞬間、私は膝の力が抜けそうになった。

彼は肯定したのだ。

和也くんが「いた」ことを。そして、彼が「消された」ことを。

言葉にはしなかったけれど、その警告こそが、私の記憶が狂っていないことの唯一の証明だった。

けれど、それは同時に絶望の証明でもあった。

神代家の跡取りである彼でさえ、この事態を黙認するしかないのだという絶望。


「あら、莉桜さん。まだお席に着いてらっしゃらないの?」

鈴を転がすような声が、教室の空気を切り裂いた。

御子柴麗華さんだ。

彼女はいつの間にか教室に入ってきており、私の背後に立っていた。

その立ち位置は、奇しくも消えた和也くんの席があった場所――その「空白」の真上だった。

彼女は何もない空間を踏みしめ、そこに立っている。

背筋が凍りついた。

彼女にとって、そこは「空白」ですらないのだ。最初から床であり、空間であり、誰の領分でもない場所なのだ。

「……おはよう。麗華さん」

私は引きつった笑顔を向けた。

麗華さんは、完璧な微笑みで私を見返した。

「おはようございます。今日も雨が続いて、少し気分が滅入りますわね」

彼女は何気ない世間話のように言いながら、私の左手首に視線を落とした。

「でも、莉桜さんには『根緒』がありますもの。虚空様と繋がっていれば、どんな天気でも心は晴れやかでしょう?」

「……はい」

「ふふ。素直でよろしいこと」

彼女は満足げに頷くと、私の肩をポンと叩いた。

その手は温かかった。人間らしい、血の通った温かさ。

それが逆に恐ろしかった。

彼女は、一人の人間を社会的に、物理的に抹殺しておきながら、微塵も心を痛めていない。罪悪感など欠片もない。

彼女の中では、それは「掃除」と同じなのだ。

教室の隅の埃を掃き出しただけ。腐ったミカンを捨てただけ。

だから、彼女の世界は清潔で、美しく、完璧なままなのだ。

「さあ、席に戻りましょう。先生がいらっしゃいますわ」

麗華さんは優雅に身を翻し、自分の席へと向かった。

私は操り人形のように、彼女の言葉に従うしかなかった。


自席に戻り、椅子に座る。

硬い座面の感触。

机の木の匂い。

すべてがリアルで、すべてが嘘くさい。


――チリン、チリン――


ガラッ、と引き戸が開き、牛松先生がベルを鳴らしながら入ってきた。

「はい、席に着いてー。ホームルームを始めるぞ」

先生はいつもの好々爺の顔で、教壇に立つ。

出席簿を開く。

「えー、今日は全員出席だな。結構、結構」

全員。

その言葉が、私の鼓膜を不快に震わせた。

和也くんがいないのに。

彼の机が消えているのに。

先生の目には、この教室が「完全」な状態に見えているのだ。

欠落などない。異物などない。

純度百パーセントの、根守村の子供たち。

先生の視線が、教室を舐めるように移動し、そして一瞬、あの「空白」の上を通り過ぎた。

止まらなかった。

何の疑問も、躊躇いもなく、視線は滑っていった。

人間の脳は、見たくないものを無意識に視界から消去するという話を聞いたことがある。

盲点。

今、この教室全体が、巨大な盲点の中にいるのだ。

私だけが、その盲点の外側から、このグロテスクな喜劇を見せられている。


吐き気がした。

胃の腑が裏返るような、強烈な嘔吐感。

世界が歪む。

黒板の文字が、ぐにゃりと曲がって見える。

天井の木目が、無数の目玉となって私を見下ろしている。

『見ているぞ』

『お前はどうする?』

『馴染め』

『馴染め』

『忘れるんだ』

耳の奥で、低い羽音が聞こえる。

それは『響木』から聞こえた幻聴と同じ周波数で、私の脳を直接揺さぶってくる。

私は口元を手で覆い、必死に吐瀉物を飲み込んだ。

ここで吐いてはいけない。

ここで取り乱して、「和也くんはどうしたんですか!」と叫んではいけない。

そうすれば、私は「第二の山崎和也」になる。

明日の朝、私の机が消え、みんなの記憶から私が消去される。

東京にいた頃の私も、両親との思い出も、全てがなかったことにされる。

それは死ぬことよりも恐ろしい、存在の消失。


(認めなきゃ……)

私は、机の下で左手首を握りしめた。

爪を立てる。

痛い。

痛みが、私を現実に繋ぎ止める。

けれど、その現実こそが狂っているのだとしたら?

私は、狂った現実に適応するために、自らの正気を切り捨てなければならない。

(いないんだ)

私は心の中で呟いた。

(山崎和也なんて子は、最初からいなかった)

(この教室は、最初からこの人数だった)

(あの空白は、ただの通路だ)

自分に言い聞かせるたびに、心の中で何かが死んでいく音がした。パキリ、パキリと、私の背骨が折られていくような感覚。

平衡感覚が失われ、椅子に座っているだけなのに、底なし沼に沈んでいくような浮遊感に包まれる。

視界の端で、あの空白の空間が、ぽっかりと口を開けた闇のように見えた。

そこだけ空気が淀んでいる。

いや、逆にそこだけが清浄すぎて、真空のように周囲の空気を吸い込んでいるのかもしれない。

あそこには、虚空様がいる。

村の地下深くに張り巡らされた根が、床板を突き破り、見えない口を開けて、次の獲物を待ち構えているのだ。


「高村さん? 顔色が悪いようだが」

牛松先生の声に、私はハッと顔を上げた。

先生が心配そうに私を見ている。

クラスメイトたちの視線が一斉に私に集まる。

麗華さんが、微笑んでいる。

「……大丈夫、です」

私は答えた。

声が震えないように、腹に力を入れて。

「ちょっと、貧血気味で……でも、平気です」

「そうか。無理はいかんよ。……皆勤賞を目指すのもいいが、体調管理も立派な務めだからね」

先生は満足げに頷き、黒板に向き直った。

務め。

私は助かったのだ。

嘘をつくことで。忘れたふりをすることで。

私は、この狂った世界の一部として機能することを「承認」されたのだ。

安堵と絶望がない交ぜになり、冷たい汗となって背中を伝い落ちる。

左手首の『根緒』が、ドクン、と強く脈打った。

『よくできました』

脳内に響く幻聴は、昨日よりもはっきりと、そして親しげに、私を褒め称えていた。



6-3【改竄】


『よくできました』


脳髄のひだに直接染み渡るような、甘く、粘着質な響き。

それは前に聞いた幻聴よりもはるかに鮮明で、そして恐ろしいほどに親しげだった。まるで、私の脳みその形に合わせてあつらえた液体が、隙間なく充填されていくような感覚。

そこには、確かな「承認」があった。

私は認められたのだ。嘘をつくことで。見えないものを見え、聞こえないものを聞こえ、そして、いるはずの人間が「いない」ことに同意することで。


ドクン、ドクン。

左手首の『根緒』が、私の心臓とは違う、もっと重くゆったりとしたリズムで脈打っている。

その拍動が全身に送り出すのは、血液ではない。安堵という名の麻薬だ。

東京の高村莉桜という人間が、音を立てて崩れ落ちていく。その瓦礫の下から、根守の「リヲ」という新しい、形のない何かが芽吹き始めている。

ほんの少し前まで感じていた吐き気や戦慄が、薄皮一枚隔てた向こう側へ遠のいていく。

(ああ、楽だ……)

思考を止めてしまえば、こんなにも楽なのか。

抗うことをやめ、流れに身を任せ、この巨大な胃袋の中で消化されることを受け入れてしまえば、もう恐怖に震える必要はない。


けれど、私の理性の残滓が、水底から必死に気泡を上げていた。

視界の端、教室の後ろ。

掃除用具入れの前。

そこには、ぽっかりと口を開けた「空白」がある。

山崎和也くんの机があった場所。彼が座り、本を読み、手首を掻きむしり、そして泣き崩れていた場所。

今はただ、埃っぽい床板が広がっているだけだ。


――チリン、チリン――


牛松先生がベルを鳴らす。


自分が壊され、強制的に生まれ変わらされるような感覚に浸っている間にも、当然一日は進んでいた。

休み時間を告げる音は、水中で聞く鐘の音のように歪んで聞こえた。

「あーあ、腹減ったな」

「今日の弁当なに?」

牛松先生が教室を出ていくと同時に、張り詰めていた空気が緩み、クラスメイトたちが一斉に動き出す。

その日常の光景こそが、どんなホラー映画よりもおぞましかった。

誰も、あの「空白」を見ようとしない。

避けて通るわけでもない。まるで最初からそこには何もなかったかのように、動線の中に自然に組み込まれている。

六年生の男子生徒――和也くんとよく将棋を指していた健太くんが、私の席の横を通り過ぎた。彼は友人と笑い合いながら、和也くんの席があったはずの空間を、何気なく踏んで歩いていく。

足が、空気を踏むのではなく、床を踏む。

そこに障害物は存在しない。物理的に、存在しないのだ。


私は席を立ち上がった。

足元がふらつく。平衡感覚が狂っているのか、床が斜めに傾いているように感じる。

「莉桜ちゃん、大丈夫? 本当に顔色が悪いよ」

四年生の女の子が、心配そうに声をかけてきた。

その瞳は澄んでいる。一点の曇りもなく、純粋な善意で私を見ている。

彼女もまた、和也くんのことを「忘れて」いるのだろうか。

「……うん、大丈夫。ちょっと、トイレ」

私は嘘を重ねた。

一度ついた嘘は、次の嘘を呼び、私をがんじがらめにしていく。

逃げるように教室の後ろへと歩く。

目指すのは、あの「空白」だ。


「関わるな」「忘れろ」

小夜や慧くんは態度でそう、忠告してくれている。

だからなるべくさりげなく、私は掃除用具入れの前を通過した。

床を見る。

古びた木造校舎の床板は、長年の使用で黒ずみ、所々ささくれ立っている。

毎日、私たちが雑巾がけをして磨き上げた床だ。

もし、昨日までここに机があったのなら。

埃の積もり方に違いがあるはずだ。机の脚があった部分には、擦れた跡や、重みで凹んだ跡が残っているはずだ。

私は歩く速度を落とし、床を凝視した。

ない。

何もない。

埃はうっすらと、均一に積もっている。

まるで、何十年も前から、ここには何も置かれていなかったかのように。

周囲の床板との色の差もない。日焼けの跡もない。

「……そんな――」

喉の奥で、乾いた音が漏れた。

物理的に不可能だ。

昨日の放課後から今朝までの、わずか半日足らず。

その短時間で、机を撤去するだけならまだしも、床の経年劣化の具合まで完全に周囲と馴染ませることなんて、できるはずがない。

床板を張り替えた? いや、それなら逆に新しすぎて目立つはずだ。

これは「古い」のだ。最初からこうだった、という顔をして、古びているのだ。


めまいがした。

世界がぐにゃりと歪み、私を嘲笑っている。

私の記憶の方が間違っているのだろうか。

山崎和也なんて生徒は、最初からいなかったのではないか。

私は東京から来て、環境の変化によるストレスで、存在しないクラスメイトの幻覚を3年近く見ていたのではないか。

「……っ」

胃の腑から酸っぱいものがこみ上げてくる。

自分の正気を疑うこと。それは、死ぬことよりも恐ろしい、自己の崩壊だ。

私は震える手で、壁に掛けられた黒板消しのクリーナーに掴まった。

何か、痕跡はないか。

彼がいた証拠。彼が存在した証明。

視線が、壁に貼られた当番表に向く。

模造紙にマジックで書かれた、掃除当番の割り当て表。

『一班:神代慧、高村莉桜、……』

『二班:御子柴麗華、……』

目で追う。文字の羅列を、必死で追う。

ない。

「山崎」の文字がない。

修正液で消された跡もない。上から紙を貼って隠した跡もない。

最初から、その人数でレイアウトされ、書かれている。

紙は少し黄ばみ、画鋲の穴は錆びている。作り直したばかりの新しい紙ではない。

四月当初から、ずっとそこにあった紙だ。


「……うそ」

私は後ずさり、背中で掃除用具入れの扉を叩いた。

ガシャン、とモップの柄がぶつかる音が響く。

数人の生徒がこちらを振り向いたが、すぐに興味なさそうに視線を戻した。

彼らにとって、私はただの「掃除用具入れの前にいる人」でしかない。

そこに「消えたクラスメイトの亡霊」を探している狂人は映っていない。


思考が軋む。

論理が悲鳴を上げる。

人間の手で、ここまで完璧な隠蔽工作ができるだろうか。

村人全員で口裏を合わせることはできるかもしれない。机を運び出すこともできるかもしれない。

でも、物質についた時間の痕跡まで、一夜にして書き換えることなんて。

あるいは、これは集団催眠なのか。

私が見ているこの「空白」も、「古い当番表」も、すべて『根緒』を通じて脳に見せられている幻覚なのか。

それとも――。

「もしかして、本当に……」

私の口から、禁断の言葉がこぼれ落ちそうになる。

もしかして、本当に、虚空様が消したのではないか。

神隠し。

いや、そんな生易しいものではない。

存在の剪定。

この村という巨大な樹木にとって、不要な枝葉を切り落とし、その傷口を樹皮で覆って癒着させ、最初から枝などなかったかのように修復する作用。

それが『根腐れ』の処置。


「高村さん?」

不意に、背後から声をかけられた。

心臓が口から飛び出しそうになるほど跳ねた。

恐る恐る振り返ると、そこにいたのは健太くんだった。和也くんと一番仲が良かったはずの、六年生の男の子。

彼は不思議そうに私を見上げている。

「そこで何してるの? 掃除の時間じゃないよ」

悪気のない、あどけない表情。

私は彼の肩を掴み、揺さぶりたい衝動に駆られた。

『忘れたの? 和也くんのこと、忘れたの? 昨日まで一緒に将棋してたじゃない!』

そう叫んで、彼の目を覚まさせたかった。

けれど、私の左手首が、焼けるように熱くなった。

『よくできました』

あの声が、脳裏をよぎる。

もしここで和也くんの名前を出せば、私は「よくできなく」なる。

「異物」に戻る。

そして次は、私が「空白」になる。


「……ううん、なんでもないの」

私は引きつった笑顔で答えた。

「ちょっと、考え事してただけ」

「ふうん。変なの」

健太くんは興味を失ったように肩をすくめると、ポケットからメンコを取り出し、床に叩きつけた。

パチン。

乾いた音が、和也くんの机があったはずの「空白」に響く。

彼は、友人が消滅したその場所で、平然と遊び始めたのだ。

その光景を見た瞬間、私の中で決定的な何かが折れた。

この村の「正しさ」は、私の倫理観や常識を遥かに超えた場所にある。

ここでは、人の命よりも、個人の尊厳よりも、「全体の調和」という名のフィクションを維持することの方が、物理法則よりも優先されるのだ。


私はふらふらと自分の席に戻った。

途中、窓際の席に座る慧くんと目が合った。

彼は本を読んでいたが、ページをめくる手が止まっていた。

その視線は、私を通り越し、虚空を見つめているようだった。

彼は気づいている。

私が何を確認しに行き、何を見つけられなかったのかを。

そして、彼もまた、沈黙を選んでいることを。

慧くんの顔色は、昨日よりもさらに悪く、生気がない。まるで蝋人形のように血の気が引いている。

彼も戦っているのだ。

目の前の「現実」と、脳内の「記憶」との乖離に。

発狂しないように、必死で理性の堤防を支えているのだ。


私は席に着き、自分の机の中を探った。

教科書、ノート、筆箱。

見慣れた私の持ち物。

その中に、一冊の藍色のノートがあった。

『根の帳』。

私は震える手でそれを開いた。

ページを遡る。

和也くんが「根腐れ」を疑われるきっかけになった、あの日の記述。

『一昨日、あなたは『感謝して過ごしました』と書きました。でも、その日の放課後、あなたは裏山の方を見て、舌打ちをしていましたね?』

麗華さんがそう糾弾した、その証拠となるページ。

あるはずだ。

和也くんの筆跡で書かれた、悲痛な弁明や、あるいはSOSが。

ページをめくる指が滑る。

あった。

日付は三日前。

担当者の名前は――。

『担当:神代 沙夜』

私は息を呑んだ。

違う。順番が違う。あの日、和也くんの次は私だったはずだ。沙夜の番ではなかった。

私は文字を目で追った。

沙夜の、細く、頼りなげな筆跡。

『今日は雨が降って、少し寒かったです。でも、虚空様のおかげで、教室は暖かく感じました。みんなと勉強できて、幸せです』

当たり障りのない、模範的な文章。

その次のページは、私。

『今日、体育の時間に……』

そこからページを前後にめくっても、和也くんのページがない。

破り取られた痕跡もない。

ノートの綴じ糸を確認する。緩んでいない。紙の枚数も不自然ではない。

最初から、山崎和也という人間がこの交換日記に参加していなかったかのように、ページが繋がっている。


「ひっ……」

短い悲鳴が漏れた。

私はノートを取り落とした。

バサリ、と音を立ててノートが床に落ちる。

その音に、数人のクラスメイトが振り返った。

その視線。

無機質で、観察するような目。

「どうしたの? 莉桜さん」

右隣から、鈴を転がすような声。

麗華さんだ。

彼女は優雅に頬杖をつき、私を見て微笑んでいた。

「手が滑ってしまいましたか? 大切な『根の帳』ですのに」

彼女の瞳の奥には、底知れない闇が広がっている。

彼女は知っている。私が何を確認したのか。

そして、この改竄された世界に私がどう反応するかを、楽しんでいるのだ。

「……ごめんなさい。ちょっと、手が滑って」

私は慌ててノートを拾い上げた。

指先が冷たい。

拾い上げたノートが、まるで呪いのアイテムのように重く感じられる。

これはただの日記ではない。

歴史修正主義の道具だ。

この村にとって都合の悪い事実を塗りつぶし、綺麗な嘘でコーティングするための装置。


私は悟った。

『根腐れ』とは、村八分のことではない。

存在の抹消。

歴史からの削除。

山崎和也は、「いなくなった」のではない。「最初からいなかった」ことにされたのだ。

そして、それを成立させるために、私たち全員の記憶と認識が、今この瞬間も書き換えられようとしている。

もし私がここで、「和也くんのページがない!」と叫べばどうなるか。

私は「存在しない人間の幻覚を見ている狂人」として処理されるだろう。

そして明日には、私の机が消え、下駄箱の名札が消え、両親の記憶から「高村莉桜」という娘の存在が消えるのだ。

「高村莉桜? 知らないなあ。うちは最初から子供なんていなかったよ」

笑顔でそう語る両親の姿が、脳裏に浮かぶ。

その手首には『根緒』が巻かれ、虚空な瞳で空を見上げている両親の姿が。


吐き気がした。

世界が回る。

教室の湿った空気が、私の肺を押し潰す。

私は机に突っ伏した。

左手首を、額に押し当てる。

『根緒』の脈動が、頭蓋骨に響く。

ドクン、ドクン。

『よくできました』

『その調子だ』

『受け入れろ』

『山崎などいない』

『最初から、いなかった』

幻聴が、私の記憶をレイプしていく。

過去を食い荒らし、新しい事実を植え付けていく。

抗おうとすればするほど、頭が割れるように痛い。

(違う……いた……和也くんはいた……)

私は心の中で必死に唱える。

(将棋が好きで、本が好きで、大人しくて……)

でも、その顔が思い出せない。

どんな顔をしていたっけ?

眼鏡をかけていた? ほくろがあった?

靄がかかったように、記憶の解像度が落ちていく。

恐怖で思考が麻痺し、自己防衛本能が「忘れること」を選ぼうとしている。


ふと、机の下で何かが足に当たった。

消しゴムだ。私がさっき落としたノートと一緒に落ちたのだろうか。

私はそれを拾おうと、手を伸ばした。

その時、床の板目の隙間に、何かが挟まっているのが見えた。

小さな、銀色の光。

私は周囲を警戒しながら、それを爪先で掻き出した。

それは、シャープペンの芯のケースの蓋だった。

小さく、踏まれてひしゃげた、金属の蓋。

見覚えがある。

和也くんが使っていた、青いシャープペン。彼は授業中、手癖でよくその蓋をカチカチと弄っていた。

ゴミだ。

掃除のときに見逃された、ただのゴミ。

虚空様の完璧な「掃除」から漏れた、唯一の遺留品。

私はそれを握りしめた。

金属の冷たさと、尖った感触が、掌に痛みを走らせる。

その痛みだけが、真実だった。

彼はいた。

ここにいた。

生きて、呼吸をして、悩んで、苦しんで、ここにいたのだ。

涙が滲んだ。

けれど、私はそれを拭うことさえできなかった。

泣けば、「何に対して泣いているのか」を問われるからだ。

いない人間のために泣くことは、狂気の沙汰だからだ。


私は、ひしゃげた蓋をポケット深くにねじ込んだ。

これはお守りだ。

私が狂わないための。

この村の狂気に飲み込まれ、私自身が加害者にならないための、最後の砦。

けれど、同時に理解してしまった。

この小さなゴミ一つを残して、彼は完全に消化されたのだと。

根守という巨大な捕食者に。

そして私は今、その捕食者の一部として、彼の消失を肯定し、栄養として吸収しているのだ。

「……うっ」

胃液が喉までせり上がる。

私は口元を手で覆い、必死で嚥下した。

苦い味が広がった。

それは、共犯者の味だった。


6-4【確信】


夜の帳が下りると、根守村は巨大な水底へと沈んでいく。

窓の外では、秋の長雨が執拗に降り続いていた。屋根を叩く音は、バラバラという乾いた音ではなく、ボタ、ボタ、と粘り気のある泥を投げつけられているような、重苦しい響きを帯びている。

しとしと、じめじめと。

アスファルトを叩く硬質な音ではない。腐った土が水分を限界まで吸い込み、飽和したスポンジから汁が漏れ出すような、粘着質な水音。それが家の外壁を濡らし、屋根を打ち、私の部屋の窓ガラスを内側から曇らせていく。


私は自室の電気もつけず、学習机のスタンドライトの明かりだけを頼りに、息を潜めていた。

部屋の空気は、水を含んだ綿のように重い。

壁のシミが、天井の木目が、じっと私を見下ろしている。

家の中にいても、安息の場所などない。この家そのものが、すでに村という巨大な生物の消化器官の一部として機能しているのだから。


私は震える手で、学生鞄の底から『根のねのとばり』を取り出した。

藍色の和紙で装丁された、分厚いノート。

表紙に記された筆文字が、生き物のようにうねって見える。

今日、私が持ち帰る当番だった。


私は、恐る恐る表紙をめくった。

甘ったるい線香の香りと、防虫剤の樟脳しょうのうの臭いが鼻をつく。

ページを繰る。

四月。五月。六月。

クラスメイトたちの筆跡が、日替わりで並んでいる。

「今日は体育でドッジボールをしました」

「虚空様のおかげで、給食のパンが美味しかったです」

「掃除の時間に、誰々さんがサボっていました」

無邪気な報告と、陰湿な密告が混在する、この村の縮図のような記録。

私はページをめくる速度を上げた。

探しているのは、山崎和也くんの文字だ。

少し右上がりの、角ばった癖のある字。

彼が書いたページが、必ずあるはずだ。

「……ない」

四月のページが終わる。五月に入る。

ない。

教室で確認した時と同様、どこにもない。

「そんな、はずは……」

私は焦ってページを戻し、最初から一行ずつ指で追い始めた。

日付を確認する。四月十日、十一日、十二日……。

日付は一日も欠けることなく、連続している。

担当者の名前を確認する。

神代慧、神代沙夜、御子柴麗華……そして、高村莉桜。

その後に続くはずの名前がない。

山崎和也の順番が来るはずの日は、別の生徒が担当していたことになっている。

修正液で消された跡も、カッターで削り取られた跡もない。

ページが破り取られた形跡もない。ノートの綴じ糸を確認するが、緩みひとつなく、紙の枚数も不自然ではない。

まるで、最初から「山崎和也」というパーツを抜いた状態で、このノートという世界が完成されていたかのように。


教室でも突きつけられた――完璧な矛盾――


「うっ、ぷ……」

口元を押さえ、私は机に突っ伏した。

吐き気が止まらない。

怖い。

背筋に、氷水を流し込まれたような悪寒が走る。

物理的に不可能だ。

昨日の今日で、ノートを一冊丸ごと書き写して偽造した?

いや、それにしては紙が古びている。手垢の汚れや、インクの滲み具合、時間の経過による紙の劣化まで、すべてが「本物」だ。

これは、改竄かいざんではない。

歴史の修正。

存在の抹消。

この村は、一人の人間を「なかったこと」にするために、物理的な痕跡だけでなく、時間の連続性さえも書き換えてしまったというのか。それとも、私たちが毎日書いているこの『根の帳』さえも、虚空様の根が張り巡らされたこの村においては、ただの細胞の一部であり、都合が悪くなれば代謝するように抜け落ちるものに過ぎないのか。


私は自分の頭を抱えた。

こめかみがズキズキと脈打つ。

(私が、おかしいの?)

思考が、歪んだ方へと滑り落ちそうになる。

(和也くんなんて、最初からいなかったんじゃないの? 私が、東京での生活のストレスで、架空のクラスメイトを作り出していただけなんじゃないの?)

そう考えれば、すべて辻褄が合う。

誰も彼を覚えていないことも。机がないことも。ノートに名前がないことも。

私が狂っているだけ。

そう認めてしまえば、この恐怖から解放される。

「違う……」

私は首を振った。

「違う、違う、違う!」

狂ってたまるか。


「いやだ……消えたくない……」

理性で反発しても、本能が消失を恐怖する。

涙が滲む。

私は必死に、自分が正気であることを証明する何かを探した。

この狂った世界の中で、私だけが覚えている「真実」の欠片を。

制服。

ハンガーにかけられた、セーラー服のポケット。

私はふらつく足取りで立ち上がり、制服に縋りついた。

ポケットの中に手を突っ込む。

指先に触れる、冷たくて硬い感触。

それを掴み出し、机の明かりの下にかざした。

机の上に置く。

カツン、と小さな金属音が、静まり返った部屋に響いた。

ひしゃげた、銀色の蓋。

シャープペンの芯のケースの蓋だ。

和也くんが授業中、手癖でカチカチといじっていたもの。

何度も落とし、踏まれ、歪んでしまった、小さなゴミ。

私はそれを拾い上げた。

親指と人差し指でつまみ、強く力を込める。

歪んだ金属のふちが、指の腹に食い込む。

痛い。

鋭い痛みが、神経を伝って脳髄に届く。

「いたんだ……やっぱり、いたんだよ……」

私はひしゃげた蓋を握りしめ、嗚咽を漏らした。

彼はいた。生きていた。悩んで、苦しんで、手首を掻きむしって、泣いていた。

幻覚なんかじゃない。

狂っているのは私じゃない。この村だ。

この痛みだけが、真実だ。

この小さなゴミだけが、彼がこの世に存在していたことの、唯一の証明だ。

彼はいた。

あの教室で息をして、悩んで、苦しんで、そして「助けて」と叫んでいた。

それを「なかったこと」になど、させてたまるか。


けれど、確信すると同時に、絶望的な理解が私を襲った。

この村は、ここまでやるのだ。

一人の人間を排除するために、物理的な存在だけでなく、記録も、記憶も、その痕跡のすべてを消し去る。

『根腐れ』の剪定。

それは単なる村八分ではない。存在の抹消だ。

村という巨大な有機体にとって、異物は消化され、養分となるか、あるいは排泄されて跡形もなくなるか、そのどちらかでしかない。

和也くんは、消化されたのだ。

そして、その事実は、村人全員の「総意」という名の強固な現実によって上書きされた。

もし私が、明日学校で「この蓋を見て! これが和也くんがいた証拠だよ!」と叫んだとしたら、どうなるだろう。

彼らはきっと、哀れむような目で私を見るだろう。

「可哀想に、莉桜ちゃん。誰の落とし物かも分からないゴミを拾って、幻覚を見ているのね」と。

そして、その日の夕方には、私の机が消える。

私の下駄箱の名札が消える。

『根の帳』から私の名前が消え、両親の記憶から「娘」の存在が消える。

私は、最初からいなかったことになる。


ガタガタと、震えが止まらなくなった。

歯の根が合わない。

怖い。死ぬことよりも、消えることよりも、自分の存在が誰の記憶にも残らずに塗りつぶされてしまうことが、たまらなく怖い。

私は机の上の、銀色の蓋を見つめた。

これをどうすればいい?

持っているだけで、それは「異端」の証拠になる。

見つかれば、私は「根腐れ」だ。

捨てなければ。

今すぐに、窓から投げ捨てて、闇の中に葬らなければ。

私は蓋を掴み、窓際へと走った。

カーテンを開ける。

窓ガラスの向こう、雨に煙る闇の中に、黒々とした忌み山のシルエットが浮かび上がっている。

その頂上。

風もないのに、あの巨木が枝を広げ、ワサワサと揺れているのが見えた気がした。

『見ているぞ』

脳内に、声が響く。

『お前の手の中にあるものを、我らは知っている』

私は息を呑み、カーテンを閉め切った。

捨てられない。

窓を開ければ、外の空気が入ってくる。あの濃密な、監視の気配を含んだ空気が、部屋の中に充満してしまう。

それに、捨ててしまったら、私は本当に狂ってしまうかもしれない。

彼がいたという唯一の証拠を手放せば、私は完全に村の論理に飲み込まれ、自分自身を保てなくなる。

「……隠さなきゃ」

私は部屋を見回した。

どこに隠せばいい?

机の引き出し? 本棚の裏?

だめだ。この家にはプライバシーなどない。母は掃除という名目で、私の部屋の隅々まで監視しているはずだ。

『根の帳』に「隠し事は罪」と書かれていた通り、物理的な隠し場所など、この村には存在しない。

私は視線を、自分の左手首に落とした。

『根緒』。

赤茶けた、太い組紐。

私の皮膚に食い込み、脈打っている、呪いの契約書。

ここなら。

灯台下暗し。もっとも危険で、もっとも彼らが疑わない場所。

私は震える指で、『根緒』と皮膚の隙間を押し広げた。

湿った紐の裏側は、ぬるりとしていて、生き物の粘膜のようだ。

そこに、ひしゃげた金属の蓋を押し込む。

「っ……!」

冷たい金属が肌に触れ、異物感に鳥肌が立つ。

紐がきつく締まり、蓋の角が皮膚に突き刺さる。

痛い。

動くたびに、蓋が肉を抉るような鋭い痛みが走る。

けれど、これでいい。

この痛みがある限り、私は忘れない。

和也くんのことを。そして、私がまだ「こちら側」に完全には染まりきっていないということを。

これは、私だけの秘密の墓標だ。


私は再び机に向かい、スタンドライトの下で『根の帳』を広げた。

今日は私の番だ。

何かを書かなければならない。

白紙で出すことは許されない。「書くことがない」ということは、「心を閉ざしている」とみなされるからだ。

鉛筆を持つ手が、小刻みに震える。

何を書けばいい?

和也くんのこと?

『今日、和也くんの席がなくなっていました。どうしてですか?』

そんなことを書けば、即座にアウトだ。

では、嘘を書くのか?

『今日も平和な一日でした』

そんな白々しい嘘は、麗華さんに見透かされる。彼女はもっと、深い服従を求めている。

私の魂を切り売りし、村の養分として差し出すような言葉を。


私は左手首を押さえた。

蓋の痛みが、私に警告している。「屈するな」と。

けれど、生存本能が叫んでいる。「書け」と。

生き残るためには、私は私を殺さなければならない。

言葉という刃物で、自分の心を切り刻み、綺麗な形に整えて、皿の上に盛り付けなければならない。

鉛筆の先を、紙に押し付ける。

削ったばかりの芯が削れ、黒い粉が広がる。

それは、腐敗の始まりのように見えた。


『今日は、一日中雨が降っていました。

湿気が多くて、少し気分が重かったです』


当たり障りのない書き出し。

でも、これでは足りない。もっと、「根」に寄り添わなければ。


『でも、教室で皆と過ごしていると、不思議と安心しました。

私たちは、みんな繋がっているんだなと感じました』


嘘だ。

安心なんてしていない。恐怖で吐き気がしていた。

繋がっているなんて思いたくない。

けれど、書く手は止まらない。まるで、左手首の『根緒』が私の神経をジャックし、勝手に文字を紡いでいくようだ。


『牛松先生のお話を聞いて、改めて虚空様の偉大さを知りました。

私のような、外から来た未熟な人間でも、受け入れてくださる慈愛の深さに、胸が熱くなりました』


胸が熱い?

違う。胃が焼けるように痛いだけだ。

吐き出される言葉の一つ一つが、私の尊厳を汚していく。

文字を書くたびに、私の中の「高村莉桜」が削り取られ、ただの「村の細胞」へと置換されていく。


『先日いただいた根緒も、もうすっかり肌に馴染んでいます。

最初は少し痛かったけれど、今はもう、体の一部みたいです。

ドクン、ドクンと、虚空様の鼓動が聞こえるようです』


嘘だ。

痛い。今も、蓋が食い込んで痛い。

でも、そう書かなければならない。

この痛みは「馴染んでいる証拠」なのだと、自分自身をも騙さなければならない。


『聞こえます。

私にも、聞こえるようになりました。

山が呼ぶ声が。根が水を吸い上げる音が。

虚空様の御声が、はっきりと聞こえます』


気がつくと、私は同じ言葉を繰り返していた。

行を変え、文字の大きさを変え、紙面を埋め尽くすように。


『聞こえます』

『聞こえます』

『私は感謝しています』

『この村が大好きです』

『ずっとここにいたいです』

『根を張りたいです』

『心を一つにしたいです』


文字が乱れていく。

ミミズがのたうち回るような、不気味な筆跡。

これは私の字ではない。

何かに取り憑かれた者が書いた、狂気の記録だ。

けれど、手は止まらない。

涙が溢れて、紙面に落ちる。水分を吸った紙がふやけて歪む。

その歪みを見て、私はハッとした。

まるで、人の顔に見える。

和也くんの、泣き顔に見える。

「ごめんなさい……」

私は嗚咽を漏らしながら、その歪みの上から、さらに文字を重ねた。


『排除しなければなりません』


自分が何を書いたのか、一瞬理解できなかった。

けれど、手は躊躇いなく動く。


『腐った部分は、切り落とさなければなりません。

全体を生かすために。

私は、綺麗な根になりたいです。

濁りのない、真っ直ぐな根に』


書き終えた瞬間、鉛筆が手から滑り落ちた。

私は肩で息をしながら、自分が書いた文章を見下ろした。

そこにあるのは、完璧な「服従」の誓いだった。

そして、かつてのクラスメイトを見捨て、自分だけが助かろうとする「裏切り」の告白だった。

これでいい。

これで、私は助かる。

明日の朝、このノートを麗華さんに提出すれば、彼女はきっと満足げに微笑んでくれるだろう。

「よくできました、莉桜さん」と。

そして私は、また一日、生き延びることができる。


ふと、左手首が熱を持った。

金属の蓋の痛みが、不思議と遠のいていく。

代わりに、ドクン、ドクンと、あの重く湿った拍動が強くなる。

『よくできました』

脳内に、直接響く声。

それは幻聴なのか、それとも私の願望が生み出した妄想なのか。

あるいは、本当に「彼ら」が、私の書いた文字を通して、私を承認したのか。

窓の外で、雷が鳴った。

紫色の閃光が、一瞬だけ部屋の中を照らし出す。

窓ガラスに映った私の顔は、泣き腫らした酷い顔をしていた。

けれど、その口元だけが、不自然に吊り上がって笑っていた。

私は、私ではなくなっていく。

その感覚に、私は恐怖よりも、どこか甘美な陶酔を覚え始めていた。

思考を放棄する安らぎ。

大きな流れに身を任せる快楽。

私はそっとノートを閉じ、紐を結んだ。

「……おやすみなさい、虚空様」

誰に聞かせるわけでもなく、私は呟いた。

部屋の明かりを消すと、闇が私を優しく包み込んだ。

雨音はもう、不快ではなかった。

それは、私を眠りへと誘う、母の子守唄のように聞こえた。

左手首の『根緒』の中で、隠したはずの金属の蓋が、ゆっくりと溶けてなくなっていくような気がした。


(第六章 完)

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