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第五章 踏み絵

Google AI Studioで専用のアプリを作り、プロットを読み込ませて作った和風ホラー小説です。


5-1【授業】


九月も下旬に差し掛かっているというのに、根守の湿度は一向に下がる気配を見せなかった。

むしろ、秋の長雨が降り続くことで、空気はより一層重く、粘着質なものへと変質していた。窓ガラスの外では、霧雨が灰色のカーテンのように垂れ込め、校庭の風景をぼんやりと滲ませている。

教室内は、水槽の底に沈んでいるかのように静かだった。

湿気を吸って膨張した木造校舎は、時折、ミシリ、ミシリと関節を鳴らすような音を立てる。そのたびに、私の左手首が呼応するように熱を持った。


根緒ねお』。

数日前、御子柴麗華さんによって私の手首に施された、赤茶けた契約の証。

日が経っても、その違和感は消えるどころか、増していた。

皮膚と繊維の隙間に、じっとりと汗が溜まる。痒い。無性に掻きむしりたい衝動に駆られるが、私はそれを意志の力でねじ伏せた。

「外してはいけない」

「外せば、守られない」

その呪言が、私の生存本能と結びつき、手首への接触を禁じていた。

私は右手でペンを握りしめ、教科書の隅に意味のない線を走らせることで気を紛らわせた。

今の私は、もう「よそ者」ではない。

『根緒』を巻いて、私はこの村の細胞の一つとして認められたのだ。両親のあの異様な笑顔も、村人たちの粘っこい視線も、すべては私を受け入れた証なのだ。

そう思い込むことでしか、崩れそうな精神を保つことはできなかった。


「さて、今日の二時間目は『郷土史』の時間にするよ」


教壇に立った牛松先生が、好々爺然とした笑顔で宣言した。

普段なら算数や国語が行われる時間だ。しかし、この村の教育課程において、教科書に載っている知識よりも優先されるべきものがあることを、私はすでに嫌というほど学んでいた。

先生の手元には、いつもの出席簿や教科書はない。

代わりに、古びた桐の箱が置かれていた。

大きさは、一升瓶が入る木箱ほどだろうか。表面は黒ずみ、角は摩耗して丸くなっている。箱の蓋には、墨で何か文字が書かれていたが、擦れて判読できない。ただ、そこから漂う微かな匂い――防虫剤と、あの独特な腐葉土の甘ったるい匂い――が、私の鼻腔を刺激した。


「皆さん、教科書を片付けなさい。今日は、もっと大切な勉強だ」


先生の声は、どこか浮き足立っていた。

まるで、とっておきの秘密を孫たちに教える老人のように、瞳の奥に狂信的な光を宿している。

クラスメイトたちが、一斉に動く。

ガタガタと机の中に教科書を押し込む音。その動作には一糸乱れぬ統一感があり、私だけが半拍遅れて慌てて教科書を閉じた。

肩越しに見えた後ろの席の沙夜が、不安げに私を一瞥したのが分かった。

彼女の顔色は、雨空と同じように優れない。長く美しい黒髪が、湿気で少し重たげに肩にかかっている。彼女の視線は、教卓の上の桐箱に釘付けになっていた。

恐怖。

沙夜の瞳にあるのは、明確な恐怖だった。

彼女は知っているのだ。あの箱の中身を。これから始まる授業の意味を。


「根守の歴史は、虚空様ウロサマと共にあります」


牛松先生は、うやうやしく桐の箱に手をかけた。

教室の空気が、ぴんと張り詰める。

窓際で頬杖をついていた神代慧くんが、ゆっくりと視線を教卓へ向けた。その表情からは感情が読み取れないが、組まれた指先が白くなるほど強く握りしめられているのが見えた。

私の右隣、御子柴麗華さんだけが、恍惚とした吐息を漏らして微笑んでいる。

「もちろんですわ、先生。虚空様に見守られているからこそ、私たちはこれまで生きてこられた。そしてこれからも虚空様のもと、生きていくのですわ」

彼女の言葉に、牛松先生は深く頷いた。

「ああ、そうだね。それに今年は十五歳の子供が四人も揃った。虚空様もお喜びだ。だからこそ、君たちには本当の意味で『聞く』耳を持ってもらわねばならん」


先生の手が、桐箱の蓋をスライドさせた。

木と木が擦れ合う、シュウ、という乾いた音が静寂に響く。

中から取り出されたのは、一本の奇妙な物体だった。

長さは三十センチほど。太さは大人の手首くらいだろうか。

一見すると、ただの木切れに見える。

けれど、その表面は滑らかに研磨されており、長年人の手で撫で回されたことによる黒光りするごとき艶を帯びていた。

形は歪で、直線ではない。緩やかにねじれ、うねっている。

それはまるで、苦悶する人間の喉元のようにも、あるいは何かを絞め殺そうとする蛇のようにも見えた。

中心部分は空洞になっており、筒状の構造をしているようだ。


「これは『響木ひびきぎ』と言う」


先生は、それを壊れ物でも扱うように両手で掲げた。

「ただの木ではないぞ。これは、遥か昔、虚空様からいただいた御神体の一部だ。嵐の夜、虚空様が自ら枝を落とし、我々に授けてくださったものなのだ」

響木ひびきぎ

私はそのようなものがあるとは聞いていた。

だけど今の話を聞く限り、『響木』とは複数存在する物なのかという疑問も生まれた。

いつだったか。

まだ梅雨の最中、曇り空の川沿いを歩いていた時。

私の記憶の底から、一人の男の姿が浮上してくる。

半袖の開襟シャツを着た、中年の男性。彼は川のほとりにしゃがみ込み、何かの木筒を耳に当てていた。

必死な形相で。何かを聞き取ろうとするように。

あるいは、許しを請うように。

あの時、彼が持っていたのも、これと同じようなものだったのではないか?


「先生」


私は無意識のうちに手を挙げていた。

自分でも驚くほど、心臓が早鐘を打っていた。この教室で質問をすることは、藪蛇をつつく行為に等しい。けれど、反射的に上げてしまった声は取り消せない。

牛松先生が、慈愛に満ちた、しかし爬虫類のように冷たい目で私を見た。

「なんだね、莉桜ちゃん」

「あ、あの……その『響木』というのは、村にたくさんあるものなんですか?」

私の質問に、教室がざわついた。

麗華さんが、手で口元を隠しながら、くすりと笑う気配がした。

「たくさん? まあ、莉桜さんったら」

牛松先生は、困ったような、それでいて憐れむような表情で首を振った。

「いいかい、莉桜ちゃん。虚空様は唯一無二の存在だ。その御身体の一部であるこの『響木』もまた、この世に二つとない尊いものなんだよ」

「で、でも……」

私は言葉に詰まった。

では、私が見たあの男性は何だったのか。

彼は確かに、木筒を持っていた。そして、その手首には『根緒』が何重にも巻かれていた。

私の混乱を見透かしたように、先生は目を細めた。

「ああ、もしかして、誰かが似たようなものを持っているのを見たのかな?」

「……はい。川の近くで、男の人が……」

「可哀想に」

先生は、吐き捨てるように言った。

その声色の急激な変化に、私は肩を震わせた。

先ほどまでの好々爺の仮面が剥がれ落ち、そこには狂信者特有の、異端に対する侮蔑の色が浮かんでいた。

「それはね、莉桜ちゃん。『贋作がんさく』だよ」

「贋作……?」

「心が弱い者は、虚空様との繋がりを見失う。そうなると、不安でたまらなくなるんだ。だから、その辺の杉やひのきを削って、形だけ似せた偽物を作る。それを耳に当てて、聞こえもしない声を聞こうとするんだよ」

先生は、手元の『響木』を愛おしそうに撫でた。

「だが、そんなものはただの木屑だ。魂が入っていない。根が通っていない。偽物にすがれば縋るほど、その者の心は腐っていく。……君が見たその男も、きっと今はもう、この村にはいないだろうね」


背筋に、氷水を浴びせられたような寒気が走った。

いない。

その言葉の持つ意味が、物理的な転居ではないことを、私は本能的に悟った。

あの男性は、排除されたのだ。

偽物に縋るしかなかった孤独と、それを許さない村のシステムによって。

「本物は、これだけだ」

先生の声が、厳かに響く。

「この『響木』の中には、虚空様の息吹が通っている。空洞ウロは、あの山頂の御神木のウロと繋がっているんだ。だから、これを耳に当てれば、虚空様の御声みこえが聞こえる」

先生は、教卓の前に進み出た。

「ただし、誰にでも聞こえるわけではないぞ」

彼は生徒一人一人の顔を、ねっとりと舐めるように見渡した。

「心が清らかな者。疑いを持たぬ者。そして、村と『根』で深く繋がっている者だけが、そのありがたい御声を聞くことができるのだ」


踏み絵だ。

私の直感が、警鐘を鳴らした。

これは歴史の授業ではない。信仰心のテストだ。

聞こえなければ、どうなる?

あの川辺の男性のように、「心が弱い」「腐っている」と見なされるのか?

先日『根緒』を受け入れたばかりの私に、また新たな試練が課されるのか。

私は机の下で、左手首を強く握りしめた。

『根緒』の感触が、脈打つように主張する。

「逃げられないぞ」と。


「まずは、私が手本を見せよう」


牛松先生は、響木を両手で包み込むように持ち、ゆっくりと右耳に当てた。

教室中が、固唾を飲んで見守る。

雨音さえも遠のいたような、完全な静寂。

先生は目を閉じ、口を半開きにして、中空の一点を凝視した。

数秒が、数時間にも感じられる。

やがて、先生の喉がゴクリと鳴った。

「あ……あぁ……」

漏れ出た声は、恍惚に濡れていた。

老いた顔の皺が、快楽に歪むように深くなる。頬が紅潮し、閉じた瞼の下で眼球が激しく動いているのが見て取れた。

それは、神聖な祈りの姿というよりは、何かおぞましい薬物を摂取した中毒者の反応に近かった。

「聞こえる……聞こえます、虚空様……」

先生はうわ言のように呟きながら、膝から崩れ落ちそうになる体を教卓で支えた。

「なんという……なんという慈悲深いお声だ……。ああ、私の体の中に、根が……根が広がっていく……」

ビクン、ビクン、と先生の肩が跳ねる。

演技なのだろうか。

いや、あまりにも真に迫っている。脂汗が額に浮き出し、呼吸が荒くなっている。

先生には、本当に「何か」が聞こえているのだ。

それが神の声なのか、それとも自己暗示による幻聴なのかは分からない。

けれど、その姿が放つ圧倒的な「事実」が、教室の空気を支配していた。


「素晴らしい……」

麗華さんが、うっとりとした声で呟いた。

彼女の目は、先生ではなく、その手にある『響木』に釘付けになっている。

「先生の清らかな心に、虚空様が応えてくださったのですね」

彼女の言葉が合図となったかのように、他の生徒たちも一斉に感嘆の声を上げた。

「すげえ……」

「牛松先生、泣いてるぞ」

「本当に聞こえるんだ」

下級生たちの無邪気な反応が、外堀を埋めていく。

「聞こえるのが当たり前」「聞こえることは素晴らしい」。その空気が、コンクリートのように固まっていく。


先生は、しばらくの間、痙攣けいれんするように震えていたが、やがてゆっくりと『響木』を耳から離した。

その顔は、憑き物が落ちたように穏やかで、しかし瞳孔はまだ開ききっていた。

「……ああ、すまない。あまりの尊さに、我を忘れてしまった」

先生はハンカチで額の汗を拭うと、満足げに微笑んだ。

そして、『響木』を大切そうに胸に抱くと、熱っぽい視線を私たち生徒に向けた。

その視線は、教育者のものではなく、獲物を見定めた捕食者の、あるいは未知の快楽を勧める売人のそれだった。


「みんなにも分かっただろう? 虚空様は、常に我々を見守っておられる。この『響木』を通せば、その息吹を感じることができるんだ」

先生は一歩、生徒たちの席に近づいた。

「これは、選ばれた者だけの特権ではない。根守に生きる、我々全員に与えられた祝福なのだ」

先生の声が、熱を帯びて高まっていく。

「ああ、早く君たちにも体験してもらいたい。この素晴らしい一体感を。心が震え、魂が根と溶け合う、あの至福の瞬間を!」

先生は恍惚とした表情で、教室全体を見渡した。

「これから一人ずつ、この『響木』を手に取ってもらおうと思う。大丈夫、心配はいらないよ」

先生の視線が、一瞬だけ私に止まった気がした。

「心が一つになっていれば、必ず聞こえる。聞こえないはずがないんだ。……そうだね、莉桜ちゃん?」


心臓が、早鐘を打つ。

胃の奥から、酸っぱいものがこみ上げてくる。

逃げ場はない。

それは予告であり、宣告だった。

「聞こえない」と言えば、あの川辺の男と同じ末路が待っている。

今すぐに、私は私の耳を、心を、この村の狂気にチューニングしなければならない。

嘘をついてでも。

いや、嘘を真実だと思い込むまで、自分を壊してでも。


「楽しみにしておきなさい。虚空様も、君たちに声を届かせるのを心待ちにしているはずだからね」


牛松先生の歪んだ笑顔と、黒光りする『響木』のねじれた木目が、私の網膜に焼き付いて離れない。



5-2【選別】


牛松先生の手にある『響木ひびきぎ』が、黒光りする生き物のようにうねるように見えた。

先生はそれを慈しむように、あるいは壊れ物を扱うように両手で支え持ち、最前列の席へと歩み寄る。

そこには、小学二年生の男の子、タカシくんが座っていた。

彼は、先生が近づいてくるにつれて背筋を伸ばし、膝の上で小さな拳を握りしめている。その表情は、これから予防接種を受ける子供のように強張っていた。

「さあ、タカシくん。まずは君からだ」

先生の声は、砂糖を煮詰めたように甘く、そして逃げ場のない粘度を持っていた。

「虚空様は、子供の純粋な心が大好きだからね。きっと素晴らしいお声を聞かせてくださるよ」

差し出された木箱から、タカシくんがおずおずと『響木』を取り出す。

大人の手首ほどの太さがあるその木片は、小学二年生の手にはあまりに大きく、重たげに見えた。

ねじれた形状。黒ずんだ表面。

どこからどう見ても、ただの古い木切れだ。中が空洞になっているだけの、植物の残骸。

タカシくんは助けを求めるように周囲を見回した。

けれど、誰も彼と目を合わせようとはしなかった。上級生たちは一様に視線を伏せ、あるいは黒板の上の虚空様の写真を凝視している。

この教室には今、「沈黙」という名の共犯関係が成立している。

「ほら、耳に当ててごらん」

先生に促され、タカシくんは震える手で『響木』を右耳に当てた。

教室中が息を呑む音が重なる。

雨の音が遠のき、静寂が質量を持って彼にのしかかる。

一秒。二秒。三秒。

タカシくんの眉が、困ったようにハの字に歪む。

その反応が、真実を物語っていた。

聞こえないのだ。

当然だ。それはただの木なのだから。物理的に考えて、空気が通る風切り音くらいはするかもしれないが、人の声や神の意志など聞こえるはずがない。

「……聞こえるかい?」

先生の声色が、一段低くなった。

その変化に、タカシくんの肩がビクリと跳ね上がる。

先生の目は笑っていた。けれど、その瞳の奥にある光は、出来の悪い部品を検品する工場の検査官のように冷徹だった。

「心が一つなら、聞こえるはずだよ。タカシくんは、まさか『あちら側』を向いているわけじゃないよね?」

あちら側。

その言葉が出た瞬間、タカシくんの顔から血の気が引いた。

この村で育った子供にとって、その言葉が何を意味するか。それは「死」や「追放」と同義語として刷り込まれている恐怖の概念だ。

タカシくんの呼吸が荒くなる。

彼は必死に瞼を閉じ、木筒を耳に押し付けた。痛いほどに、強く、強く。

「……き、こ……」

小さな唇が震える。

「……聞こえます」

蚊の鳴くような声だった。

しかし、その一言が落ちた瞬間、教室の空気が劇的に変化した。

牛松先生の顔が、瞬時に好々爺のそれへと戻り、破顔したのだ。

「おお! 聞こえたか! よかった、よかったねぇタカシくん!」

先生は大袈裟に手を叩き、タカシくんの頭を撫で回した。

「なんて言っておられた?」

「え、えっと……」

タカシくんは視線を泳がせ、そして搾り出すように言った。

「……いい子だね、って。……これからも、みんなと仲良くしなさい、って」

それは、大人が子供に期待する模範解答そのものだった。

あるいは、彼自身が今、最も大人たちに言われたい言葉だったのかもしれない。

「素晴らしい!」

先生が感嘆の声を上げると、教室中から拍手が巻き起こった。

パチ、パチ、パチ、パチ。

乾いた音が、湿った空気を震わせる。

タカシくんは安堵のため息をつき、へなへなと椅子に座り込んだ。その額にはびっしりと脂汗が浮き、まるでマラソンを完走した後のように憔悴しきっていた。

嘘だ。

私は机の下で、爪が食い込むほど拳を握りしめた。

彼は何も聞いていない。ただ、恐怖に屈して、大人が望む答えを口にしただけだ。

けれど、この空間では「事実」など何の意味も持たなかった。

タカシくんが「聞こえた」と言い、先生がそれを「承認」した。そのプロセスを経た瞬間、嘘は真実へと書き換えられ、彼は「根守の正当な構成員」としての地位を保証されたのだ。

これは、聴力検査ではない。

踏み絵だ。

村への忠誠心と、自分を偽ってでも集団に同化できるかどうかの適性検査。

『響木』は、次の生徒へと手渡された。


次は、小学四年生の女の子だった。

彼女はタカシくんの様子を見て学習したのだろう。

『響木』を受け取ると、すぐに耳に当て、数秒も経たないうちに満面の笑みを浮かべた。

「聞こえます! ゴウゴウって、風みたいな音が! 虚空様が笑ってるみたい!」

「おお、そうかそうか。素直な心には、よく響くんだねぇ」

先生は目を細め、満足げに頷く。

演技だ。

あどけない笑顔の裏で、彼女は必死に計算し、演じている。

そうしなければ、タカシくんのように追い詰められると悟ったからだ。

子供たちの生存本能が、この異様な儀式を円滑に進めていく。

『響木』は列を巡り、次々と生徒たちの手に渡っていく。

「聞こえます」

「温かい声です」

「僕の名前を呼んでくれました」

誰一人として、「聞こえない」と言う者はいなかった。

みんな、恍惚とした表情を作り、見えない神を賛美する。

その光景は、集団催眠の実験現場を見せられているようで、吐き気を催すほどグロテスクだった。

彼らは本当に聞こえているわけではない。

けれど、「聞こえているふり」を全員がすることで、そこに「音」が存在するという強固な虚構リアリティを作り上げているのだ。

もし、ここで私が「聞こえない」と言えばどうなるか。

それは単に音が聞こえないということではなく、この教室全員の「演技」を否定し、彼らの努力と忠誠を愚弄することになる。

全員を敵に回すことになる。

(……怖い)

胃の腑が冷たくなる。

私の番が近づいてくる。

次々に『響木』が手渡される音、その乾燥しきった人の皮をこするような軽い音が、死刑執行のカウントダウンのように聞こえる。

私の左手首に巻かれた『根緒』が、ドクンと脈打った気がした。

まるで、「お前も早くこちら側に来い」と急かすように。皮膚の下の血管を締め付け、私の心臓のリズムを狂わせていく。


「次は、御子柴さんだね」

先生の声が、ひときわ恭しく響いた。

私の右隣。クラスのカーストの頂点に君臨する、御子柴麗華さんの番だ。

彼女は優雅に立ち上がり、前の席の生徒から『響木』を受け取った。

その手つきは、汚れたものを触るのを躊躇うようなそれまでの生徒たちとは違い、まるで失われた体の一部を取り戻すかのように愛おしげだった。

「失礼いたします」

麗華さんは鈴を転がすような声で言い、ゆっくりと『響木』を耳に当てた。

そして、目を閉じる。

長い睫毛が震え、陶器のような白い頬に、微かに朱が差す。

その表情は、演技とは思えないほど官能的で、神聖な恍惚に満ちていた。

教室中の視線が、彼女の一挙手一投足に釘付けになる。

静寂。

今までとは質の違う、重く、濃密な静寂が支配する。

窓の外の雨音さえもが、彼女の邪魔をしないように息を潜めているようだ。

麗華さんの唇が、僅かに開く。

「……ああ」

漏れ出た吐息は、甘く、熱を帯びていた。

「……はい。……はい。……存じております」

彼女は、誰かと会話をしていた。

誰もいないはずの虚空に向かって、親しげに、そして敬虔けいけんに言葉を交わしている。

「皆様も、同じ心でございます。……ええ。根は深く、強く……」

彼女の左手首にある『根緒』が、生き物のように蠢いた気がした。

赤茶けた組紐が、彼女の白い肌に食い込み、同化している。

彼女には、本当に聞こえているのかもしれない。

あるいは、彼女自身の脳が作り出した幻聴が、あまりにも鮮明すぎて現実を凌駕しているのか。

どちらにせよ、今の彼女は「人間」ではなかった。虚空様の代弁者であり、この狂った村そのものだった。

やがて、麗華さんはゆっくりと『響木』を耳から離した。

その瞳は潤み、うっとりとした余韻に浸っている。

「……素晴らしいお声でした。いつにも増して、力強く、私たちを包み込んでくださるような……」

彼女は牛松先生に微笑みかけると、教室全体を見渡した。

「皆様にも、この感動が伝わっていると信じていますわ」

その言葉は、同意を求めるものではなく、決定事項の確認だった。

「聞こえるわよね?」という無言の圧力が、優雅な微笑みの裏から放射されている。

クラスメイトたちは、操り人形のように一斉に頷いた。

「さあ、次は慧さんですわ」

麗華さんは『響木』を、前の席の神代慧くんに手渡した。

慧くんは、読んでいた文庫本を伏せ、無表情でそれを受け取った。

彼の手は、微かに震えていた。

先日の放課後、彼は私に言った。『あんなもの、ただの植物だ』と。

彼は知っている。これがただの木切れであることを。この儀式が、集団ヒステリーの産物であることを。

理知的で、現実主義者の彼にとって、この茶番に加担することはどれほどの屈辱だろうか。

けれど、彼は神代家の跡取りだ。

この村の信仰の象徴ともいえる彼が「聞こえない」などと言えば、村の秩序は崩壊する。そして何より、人質のように囚われている妹の沙夜がどうなるか分からない。

慧くんは、覚悟を決めたように目を閉じ、『響木』を耳に当てた。

その横顔は、能面のように感情が削ぎ落とされていた。

数秒の沈黙。

彼の喉仏が、ごくりと上下する。

「……聞こえる」

低く、抑揚のない声。

「……山が、呼んでいる。根を張れ、と」

それは、あまりにも的確で、そして無難な答えだった。

信仰を否定せず、かといって麗華さんのような狂信的な演技もしない。最低限の義務を果たすための、ギリギリの妥協点。

「さすがは慧さんですわ」

麗華さんが満足げに柏手を打つ。

慧くんは『響木』を耳から離すと、逃げるようにそれを後ろの席へ――。

「莉桜の前に、まず、お前が聞いておけ」

『響木』を持つ慧くんの手が、私を通り越して沙夜へと伸ばされた。

振り返った彼の瞳と、一瞬だけ目が合った。

その瞳の奥には、諦めと、深い自己嫌悪の色が沈んでいた。

『すまない』

そう言われた気がして、私は胸が締め付けられる思いがした。

彼でさえ、抗えないのだ。

この圧倒的な「空気」の前では、理性も、真実も、無力でしかない。

沙夜に先に手渡すのは、彼なりのせめてもの時間稼ぎだったのかもしれない。

私が覚悟を決める時間のための。


カタリ――と、後ろの席で沙夜が席を立つ音がした。

私の隣の麗華さんとの間に、顔をうつむけた彼女が進み出る。

細く白い腕が伸ばされ、『響木』は沙夜の手に渡った。

私の、親友。

彼女の細い指が、震えながら木筒を掴んでいる。

顔色は、死人のように青白い。

彼女は巫女だ。神代家の娘だ。

誰よりも鮮明に、誰よりも深く、神の声を聞くことを期待されている存在。

けれど、私には分かっていた。

彼女が一番、この村の嘘に傷つき、怯えていることを。

沙夜は、泣き出しそうな顔で『響木』を見つめていた。

耳に当てることさえ、恐ろしいようだった。

「沙夜ちゃん?」

牛松先生が、急かすように名を呼ぶ。

その声には、僅かな苛立ちが含まれていた。巫女である彼女が躊躇うことは、儀式の進行を妨げる「ノイズ」となるからだ。

「……は、はい」

沙夜はビクリと肩を震わせ、慌てて『響木』を耳に押し当てた。

彼女の黒髪が揺れ、その隙間から見える耳が赤くなっている。

彼女は目を堅く瞑り、唇を噛み締めている。

聞こえない音を聞こうとして、必死に耳を澄ませているのではない。

嘘をつくための勇気を、必死に掻き集めているのだ。

「……き、こえ……ます」

消え入りそうな声。

「……虚空様が……お喜び、です……」

それは、誰に向けた言葉だったのだろう。

先生にか。村人たちにか。それとも、自分自身を納得させるための言葉だったのか。


牛松先生の好々爺然とした顔がさらに深く、くしゃり、と歪んだ。

「うん、うん。沙夜ちゃんは虚空様の巫女様なんだから、きっと私らより強く、深く御声が聞こえているんだろう」

その声は、すでに決定していることのただの確認。

聞こえて当然。

先生にとっては、巫女である沙夜が「聞こえない」なんてことは、想像することすらできない、ありえないことなんだろう。

沙夜はぐったりと項垂れ、魂が抜けたように動かなくなった。

手の中にある『響木』だけが、彼女の手汗で濡れ、黒光りしている。


沙夜がゆっくりと顔を上げた。

その手には、あの忌まわしい木筒が握られている。

「……莉桜」

彼女の声は、涙で湿っていた。

ごめんね。

そんな声が聞こえた気がした。

彼女は震える手で、『響木』を私の机の上に置いた。

ゴトッ。

重く、鈍い音がした。

ただの木のはずなのに、そこには鉛のような質量が詰まっているように感じられた。

私の目の前に、それが鎮座している。

ねじれた木目。磨き上げられた表面。そして、ぽっかりと口を開けた空洞。

その闇の奥から、腐葉土の臭いが漂ってくる。

教室中の視線が、私に集中する。

突き刺さるような、何十もの眼球。

牛松先生の、爬虫類のような粘着質な視線。

麗華さんの、期待と監視が入り混じった冷ややかな微笑み。

慧くんの、見ていられないというように伏せられた目。

沙夜の、絶望に染まった瞳。

そして、クラスメイトたちの、異物を品定めするような無機質な目。

『聞こえるよな?』

『まさか、聞こえないなんて言わないよな?』

『お前はもう、根緒を巻いたんだ』

『こっち側の人間なんだ』

無言の声が、圧力となって私を押し潰そうとする。

空気が薄い。

湿度が上がり、肺の中が水で満たされていくような息苦しさ。

私は震える右手を伸ばし、『響木』を掴んだ。

冷たい。

そして、ぬるりとしている。

前の人たちの手汗と、脂と、そして何か得体の知れない粘液が染み込んでいるような、生理的な不快感。

持ち上げると、ずしりと重く感じる。

私はそれを、ゆっくりと右耳に近づけた。

心臓が、早鐘を打つ。

ドクン、ドクン、ドクン。

左手首の『根緒』が、それに呼応して締め付けを強める。

(聞こえるわけがない)

理性が叫ぶ。

(ただの木だ。中身なんてない。空洞だ)

けれど、本能が警告する。

(聞こえなければ、殺される)

(聞こえなければ、消される)

(あの川辺の男のように)

(初めから、いなかったかのように)

『響木』の開口部が、私の耳を覆った。

外界の音が遮断され、ゴーッという低い閉塞音が響く。

それは、貝殻を耳に当てた時に聞こえるような、血流の音だ。

ただの、物理現象だ。

それ以外には、何も聞こえない。

無音。

圧倒的な、虚無。

神の声などない。あるのは、私の鼓膜を打つ自分の脈拍の音だけ。

「……どうだい、莉桜ちゃん」

遠くから、水の中を通して聞こえるような、くぐもった先生の声がした。

「虚空様の御声が、聞こえるだろう?」

私は目を開けたまま、視界の端で麗華さんを見た。

彼女は、微笑んでいた。

「聞こえますわよね? 莉桜さんはもう、私たちと深く繋がっているのですから」

その笑顔は、「正解」を強要していた。

もしここで首を横に振れば、その瞬間に私の居場所はなくなる。

『根の帳』に書かれた私の言葉も、先日巻かれた『根緒』も、すべてが嘘だったと断罪される。

「根腐れ」の烙印を押され、排除される。

恐怖が、喉元までせり上がってくる。

酸っぱい胃液の味。

私は口を開いた。

言葉が出ない。

唇が乾いて張り付いている。

引きつる喉から必死に声を出す。

「……き……聞こえます」



5-3【嘘】


「……聞こえます」


乾いた唇から零れ落ちたその言葉は、私の意思ではなかった。

恐怖に縮み上がった脳髄が、生存本能という名の回路をショートさせ、ただ生き延びるためだけに吐き出させた信号音に過ぎなかった。


その瞬間、私の中で何かが、決定的な音を立てて崩れ落ちた。

パリン、という硬質な音ではない。

もっと鈍く、湿った音。

腐りかけた建物の土台が、自重に耐えきれずにグズリと潰れるような、取り返しのつかない崩壊の感触が胸の奥で響いた。


「おお――! 聞こえたか、莉桜ちゃん!」


牛松先生の声が弾んだ。

その歓喜に満ちた声は、水底に沈んだ私には遠く、くぐもって聞こえた。

先生は両手を広げ、まるで迷える子羊が無事に群れへと戻ってきたことを祝福する牧師のように、顔を紅潮させている。

教室中の空気が、ふっと緩んだ。

先ほどまで私の喉元に突きつけられていた無数の見えない刃が、一斉に鞘に収められたような気配。

張り詰めていた緊張の糸が切れ、代わりに温かく、粘着質な安堵が教室を満たしていく。


「よかった! 本当によかった!」

「莉桜ちゃんも仲間だね!」

「虚空様が見ていてくださったんだ!」


拍手の音。歓声。

牛松先生が、満足げに何度も頷いている。

麗華さんが、聖母のような慈愛に満ちた目で私を見つめている。

私は『響木』を耳から離せなかった。

離してしまえば、この安っぽい安堵感が消え、絶望的な現実が襲ってくる気がしたからだ。

耳の奥で、ゴーッという血流の音が鳴り響いている。

それは、私の血液が腐り、根守の色に染まっていく音のように聞こえた。

私はもう、戻れない。

この嘘を真実にするまで、私は演じ続けなければならない。

死ぬまで、この村の狂気の一部として。

机の下で、左手首の『根緒』が、ねっとりと私の肌に吸い付いた。

『ようこそ』

幻聴が、今度は脳内に直接響いた気がした。

それは虚空様の声ではない。

私自身の、敗北の声だった。


さざ波のように広がる乾いた、軽い拍手の音

肉を持たない骨と骨がぶつかり合うような、空虚なリズム。

私は右手に持った『響木』を、力なく膝の上に下ろした。

木筒はただの木筒だった。中身などない。空っぽの空洞があるだけだ。

そこから聞こえたのは、神の声でも、風の音でもない。

私自身の、敗北の音だけだった。


「……す、ごいです……。とっても、大きな……音が……」


私はさらに嘘を重ねた。

一度堰を切った嘘は、もう止まらなかった。

保身のために、媚びるために、私はありもしない幻聴をでっち上げ、彼らの狂気に迎合していく。

涙が溢れた。

それは感動の涙に見えただろうか。

それとも、虚空様の慈愛に触れた歓喜の涙に見えただろうか。

牛松先生やクラスメイトたちの目には、そう映っているはずだ。

けれど、これは私の魂が流す血だった。

プライドも、理性も、東京にいた頃の自分も、すべてが崩れ落ち、泥の中に沈んでいく。


「……私のことを、呼んでいます。……ずっと、待っていた、と……」


自分の口から紡がれる言葉が、ひどく他人のもののように感じられた。

まるで、誰かが用意した台本を読まされているようだ。

あるいは、左手首に巻かれた『根緒』が、私の声帯を操り、村にとって都合の良い言葉を喋らせているのかもしれない。

そう思うと、急に吐き気がこみ上げてきた。

胃の腑が裏返りそうなほどの自己嫌悪と、生理的な拒絶感。

けれど、私はそれを笑顔という仮面の下に押し殺し、震える息を吐き出した。


「素晴らしい。実に見事だ」


牛松先生が感極まったように何度も頷いている。

その瞳は潤み、皺だらけの顔は法悦に浸っていた。

踏み絵は私で最後。

『響木』を返さなければならない。


私はふらつく足取りで立ち上がった。

足の裏が地面についている感覚がない。

まるで雲の上か、あるいは底なし沼の上を歩いているような浮遊感。

一歩、また一歩と教卓へ近づくたびに、体が重くなっていく。

重力が増したわけではない。

私という存在が空っぽになり、その空洞に教室の澱んだ空気が流れ込んできているのだ。


『響木』を持つ手が震える。

汗で滑りそうになるそれを、私は両手で恭しく支え持った。

ただの木片のはずなのに、そこには鉛のような質量が詰まっているように感じられた。

嘘の重さ。罪悪感の重さ。

そして、この村の狂気を肯定してしまったことへの、逃げ場のない絶望の重さ。


「どうぞ……先生」


私は『響木』を差し出した。

牛松先生はそれを、まるで生まれたばかりの赤子を受け取るように、優しく、慎重に受け取った。

先生の指先が私の手に触れる。

冷たく、乾いた老人特有の皮膚。

けれど、その奥には異様な熱量が渦巻いていた。

先生は『響木』を胸に抱くと、愛おしそうに頬ずりをした。


「ありがとう、莉桜ちゃん。虚空様も、君に声を届けられてお喜びだ。これで君も、名実ともに我らの同志だ」


同志。

その言葉が、呪印のように私の胸に焼き付く。

私は深く頭を下げた。

顔を上げることができなかった。

上げれば、先生のその狂気じみた笑顔を直視することになるからだ。


「さあ、席にお戻り」


先生の優しい声に促され、私は踵を返した。

教卓から自席までの、わずか数メートルの距離。

それが、果てしなく遠い道のりに思えた。

視線を上げると、そこには地獄のような光景が広がっていた。


クラスメイトたちが、一様に私を見ていた。

小学二年生のタカシくんも、四年生の女の子も、その他の子たちも。

全員が、判で押したような笑顔を浮かべている。

口角を不自然に吊り上げ、目は笑っていない。

黒目の奥に光はなく、ただ「異物が正常に処理された」ことへの安堵と、監視の光だけが宿っている。

それは人間が見せる表情ではなかった。

精巧に作られた蝋人形か、あるいは人間の皮を被った別の生き物が、模倣しているような笑顔。


その異様な群衆の中で、二人だけが違っていた。


窓際の席。

神代慧くん。

彼は、机の上で組んだ両手に額を押し当て、顔を伏せていた。

けれど、私には見えた。

白くなるほど強く握りしめられた拳が、小刻みに震えているのを。

歯を食いしばり、何かを耐えている背中の筋肉の強張りを。

彼は見ないようにしているのではない。

直視できないのだ。

私が屈服し、魂を売り渡す瞬間を。

そして、それを止めることができなかった自分自身の無力さを、彼は噛み締めているのだ。

その苦渋に満ちた姿だけが、この狂った教室の中で唯一、人間らしい感情に見えた。


そして、もう一人。

私の席の後ろ。

神代沙夜。

彼女は、泣き出しそうな顔で私を見つめていた。

大きな瞳が揺れ、唇はわなないている。

その表情には、安堵など微塵もなかった。

あるのは、深い悲しみと、共鳴する痛み。

彼女は知っているのだ。

嘘をつくことがどれほど苦しいか。

見えないものを見え、聞こえないものを聞こえると言わなければならないことが、どれほど自分自身を傷つけるか。

彼女はずっと、その痛みに耐えてきた。

巫女として。村の象徴として。

だからこそ、私が同じ沼に足を踏み入れたことが、彼女にとっては耐え難い悲劇だったのだ。


(ごめんね、沙夜)


私は心の中で謝った。

あなたを一人にしないと言ったのに。

一緒に強くなろうと言ったのに。

私は弱かった。

恐怖に負け、あなたと同じ場所まで堕ちてきてしまった。


私は引きつった頬を必死に持ち上げ、弱々しい笑みを沙夜に向けた。

それが今の私にできる、精一杯の虚勢だった。

足を引きずるようにして、自分の席まで戻る。

椅子の背もたれに手をかけ、ゆっくりと腰を下ろした。

硬い座面の感触が、私を現実に繋ぎ止める唯一の錨のように感じられた。


後ろの席から、衣擦れの音がした。

沙夜だ。

彼女が身を乗り出し、私の背中に近づいてくる気配がする。

先生や他の生徒に気づかれないよう、息を殺して。


「……莉桜」


耳元で、蚊の鳴くような声がした。

震えている。

泣いているのかもしれない。


私は前を向いたまま、唇だけで言葉を紡いだ。

後ろを振り返ることは許されない。

今はまだ、教室中の視線が私に注がれているからだ。


「……大丈夫だよ」


嘘だった。

何一つ、大丈夫なんかじゃなかった。

心臓は早鐘を打ち続け、冷や汗が背中を伝っている。

嘘をついてしまった罪悪感が、内臓を食い荒らしている。

けれど、そう言うしかなかった。

沙夜を安心させるため?

違う。

自分自身に言い聞かせるためだ。

大丈夫だ。私はまだ壊れていない。私はまだ私だ。

そう思い込まなければ、今にも叫び出してしまいそうだったからだ。


「……ごめんなさい」


沙夜の返事は、吐息のような儚さだった。

謝らないで。

あなたが謝ることなんて何もない。

悪いのは、この村だ。この空気だ。

そう言いたかったけれど、言葉は喉の奥に詰まって出てこなかった。


「さて」


教卓に戻った牛松先生が、パン、と手を叩いた。

乾いた音が教室の空気を震わせ、私と沙夜の間に見えない壁を作った。

先生は満足げに頷き、桐の箱に『響木』を丁寧に収めると、慈愛に満ちた瞳で私たちを見渡した。


「みんな、今日は本当に素晴らしい授業だった。全員が虚空様の御声を聞くことができた。これは奇跡だ。いや、必然と言ってもいい」


先生の声は、熱を帯びていた。

それは単なる教師の言葉ではなく、信徒たちを導く教祖の説法のように響いた。


「私が初めてこの『響木』を手にしたのは、今の君たちと同じくらいの年頃だったよ」


先生は遠い目をして、懐かしそうに語り始めた。

窓の外の雨空を見上げ、過去の記憶を手繰り寄せるように。


「あの頃の私も、迷いがあった。若さゆえの過ちで、外の世界に憧れを抱いたこともあった。自分はこの村に縛られているのではないか、もっと自由な場所があるのではないかとな」


先生の言葉に、私はハッとした。

この好々爺然とした先生にも、かつては私と同じような葛藤があったのだろうか。

「異物」としての自分を持て余し、もがいていた時期があったのだろうか。


「だが、そんな迷いは、虚空様の御声を聞いた瞬間に消え失せたよ」


先生はうっとりと目を細めた。


「あの深く、力強い響き。大地の底から湧き上がり、天へと昇っていくような生命の鼓動。それを聞いた時、私は悟ったんだ。自分という個などちっぽけなものだ。この大いなる根守の一部となり、永遠の循環の中に身を委ねることこそが、真の幸福なのだと」


先生の言葉は、美しく装飾されていた。

けれど、その本質にあるのは「個の死」だ。

思考を停止し、自我を捨て、ただの細胞として生きることへの礼賛。

それを「幸福」と呼ぶ狂気。


「君たちも感じただろう? あの御声が体に染み渡る時、不安や孤独が溶けていくのを。自分一人ではない、みんなと繋がっているという絶対的な安心感を」


先生は両手を広げ、教室全体を抱きしめるような仕草をした。


「虚空様は慈愛そのものだ。我々を見守り、養い、そして最後にはその懐へと迎え入れてくださる。君たちも今日、その約束を交わしたんだ。もう迷うことはない。疑うこともない。ただ信じて、根を張ればいいんだよ」


先生の熱弁に、クラスメイトたちが大きく頷く。

その目には涙さえ浮かんでいる者もいた。

彼らは本気で感動しているのだ。

自分たちが神に選ばれ、守られているという物語に酔いしれているのだ。

その光景は、私にとってどんなホラー映画よりも恐ろしかった。

ここには悪意はない。

あるのは純粋すぎる「善意」と「信仰」だけだ。

だからこそ、誰も止めることができない。

誰も間違いだと気づくことができない。


私は先生の話を、右から左へと聞き流そうと努めた。

これ以上、あの言葉を脳に入れたくなかった。

聞けば聞くほど、私の嘘が真実へと書き換えられていく気がしたからだ。

『聞こえた』という嘘が、『聞こえたことにする』という合意に変わり、やがて『本当に聞こえた』という記憶に改竄されていく。

人間の脳は、認知的不協和を解消するために、事実の方を歪めることができるという。

私も、そうなってしまうのだろうか。

いつか牛松先生のように、恍惚とした表情で「虚空様の声が聞こえる」と語るようになってしまうのだろうか。


(嫌だ……)


私は机の下で、左手首を強く握りしめた。

『根緒』の感触。

湿った、生き物のような組紐。

それが私の脈動に合わせて、ドクン、ドクンと鼓動している。

まるで、「お前はもうこちらのものだ」と囁くように。


心の中で、激しい自問自答が渦巻いていた。

私は嘘をついた。

魂を売った。

屈服した。

その事実は消えない。

どんなに取り繕っても、私は今日、決定的に自分を殺したのだ。


崩れ落ちた精神の欠片を、必死にかき集めようとする。

けれど、指の隙間からサラサラと零れ落ちていく。

「高村莉桜」という形が、保てなくなっていく。


この村で生きていくこと。

それは、嘘を真実に変えることだ。

狂気を正気と信じ込むことだ。

自分を殺し、村という巨大な怪物の一部品として機能することだ。

それが「大人になる」ということなのだろうか。

それが「社会に適応する」ということなのだろうか。


(私は、いつまで私でいられるの?)


答えのない問いが、頭の中で反響する。

窓の外では、雨が降り続いていた。

灰色のカーテンが世界を覆い隠し、逃げ場のない閉塞感を演出している。

雨音に混じって、遠くからジジジ、ジジジと蝉の声が聞こえた。

季節外れの、狂った蝉の声。

それは私の耳の奥にこびりつき、思考を削り取っていくノイズのようだった。


「では、この授業はここまで。日直さん、号令を」


牛松先生の声で、授業が終わった。

私は機械的に立ち上がり、「ありがとうございました」と頭を下げた。

自分の声が、自分のものではないようだった。

空っぽの体に、村の空気が満ちていく。

私はゆっくりと顔を上げた。

黒板の上に掲げられた、虚空様の写真。

その中の巨木が、枝を広げて笑っているように見えた。


『よくできました』


脳内に、直接響く声。

幻聴だと分かっている。

けれど、それはあまりにも鮮明で、甘美な響きを持っていた。

私は眩暈を覚え、机に手をついた。

もう、抵抗する気力さえ残っていなかった。

ただ、深く、暗い虚空の底へと沈んでいくだけだ。

そこはきっと、何も考えなくていい、安らかな場所なのだろう。


私の左手首の『根緒』が、ねっとりと肌に吸い付いた。

その温もりが、今の私には唯一の救いのように感じられてくる。



5-4【自壊】


生きるためだ。

この村で、この教室で、明日も明後日も息をしていくためには、これしかなかったのだ。

私は何度も心の中でそう唱えた。呪文のように、あるいは鎮痛剤を飲み込むように、必死に自分自身へ言い聞かせる。

けれど、理性で組み上げた防波堤は、胃の腑からせり上がってくる吐き気の前ではあまりにも脆かった。


嘘をついた。

決定的な、取り返しのつかない嘘を。

『聞こえます』

あの乾いた唇から漏れ出た言葉が、私の内側で反響し続けている。それはまるで、自らの魂を切り売りする契約書に署名をした音のようだった。

私は机の下で、両手をきつく握りしめた。爪が手のひらに食い込み、痛みで意識を現実に繋ぎ止めようとする。だが、左手首に巻かれた『根緒』の感触が、その痛みさえも鈍らせていた。

赤茶けた組紐は、私の脈動に合わせてドクンドクンと蠢き、嘘をついた罪悪感さえも養分として吸い上げている気がした。


(私は、汚れてしまった)


東京にいた頃の私なら、こんな理不尽な同調圧力には屈しなかったはずだ。おかしいことはおかしいと、少なくとも心の中では拒絶できていたはずだ。

けれど今はどうだ。

保身のために幻聴を捏造し、あろうことか、あの牛松先生の狂気じみた笑顔に安堵さえ覚えてしまった。

「仲間」として認められた瞬間の、あの粘着質な温かさ。

それに浸ってしまった自分が、何よりもおぞましかった。


――チリン、チリン――


牛松先生がベルを鳴らす。

昼休みを告げるその音は、私にとって休息の合図ではなく、新たな尋問の始まりを告げるゴングだった。


「莉桜さん、一緒にお昼にしましょう」


甘い花の香りと共に、御子柴麗華さんが私の机の前に立った。

逃げ場はない。

私は顔を引きつらせながら、弁当箱を取り出した。

机をくっつけ合う。いつもの光景だ。けれど、そこにある空気の密度は、昨日までとは劇的に変化していた。

私と麗華さん、そして沙夜と慧くん。四人で囲む食卓。

周囲の下級生たちは、遠巻きにこちらを見ている。そこには、「選ばれた者たち」への畏敬の念が含まれているようだった。


「本当に、素晴らしい体験でしたわね」


麗華さんが重箱のような弁当箱を広げながら、夢見心地な声で言った。

その頬は上気し、瞳は潤んでいる。演技には見えない。彼女は本気で、先ほどの授業に感動しているのだ。

「莉桜さんに『根緒』を巻いたことは正解でしたわ。虚空様の御声を聞くことができたことが何よりの証拠ですもの。私、自分のことのように嬉しくて」

「……あ、ありがとう」

私は箸先を見つめたまま、短く答えた。

「正直なところ、少し心配しておりましたのよ。莉桜さんは都会からいらしたでしょう? だから、根守の空気や音の響きに馴染んでも、虚空様の御声が聞こえるようになるには、もう少し時間がかかるのではないかと」

麗華さんは卵焼きを口に運び、優雅に咀嚼する。

「でも、それは私の杞憂でしたわね。莉桜さんの心は、もうすっかり澄み切っていらした。だからこそ、虚空様も莉桜さんに応えてくださったのですわ」


彼女の言葉は、純粋な称賛の形をとっていた。

けれど私には、それが鋭利な刃物のように感じられた。

「心が澄み切っている」。その言葉が、嘘で塗り固められた私の心臓を正確に突き刺してくる。

もしここで私が「実は聞こえなかった」と言えば、この称賛は瞬時に軽蔑と殺意へ変わるだろう。彼女の笑顔が、能面のような無表情へと変貌する様が容易に想像できた。


「ねえ、莉桜さん」


不意に、麗華さんが身を乗り出した。

至近距離にある彼女の顔。整いすぎたその造作が、今はひどく恐ろしい。

黒曜石のような瞳が、私の奥底にある真実を暴こうとするかのように、じっとりと覗き込んでくる。


「どんなお声でしたの?」


心臓が跳ね上がった。

「え……?」

「虚空様の御声ですわ。人によって、聞こえ方は違うと申しますでしょう? 牛松先生は『根が広がる音』だと仰いました。私は……そう、まるで母の胎内にいるような、温かい鼓動の音でしたわ」

麗華さんはうっとりと目を細め、左手首の『根緒』を愛おしげに撫でた。

そして再び、興味津々といった様子で私を見る。

「莉桜さんには、どのように届きましたの? どんな音色で、どんなお言葉で、あなたを受け入れてくださったのかしら?」


尋問だ。

これは、親愛の情に基づく会話ではない。

私がついた嘘の整合性を確かめるための、逃げ場のない異端審問だ。

背中を冷たい汗が伝う。

喉が渇き、舌が上顎に張り付く。

何と答えればいい?

何と言えば、彼女は満足する?

「根が広がる音」と言えば、先生の真似だと思われるかもしれない。「鼓動」と言えば、彼女の模倣だと見透かされるかもしれない。

正解がわからない。

この村における「正解」は、常に私の想像の範疇を超えた場所にある。


「あ、あの……」

震える声で、私は必死に言葉を紡いだ。

頭の中が真っ白になる。焦燥感だけが募り、視界が明滅する。

何か言わなければ。何か、もっともらしい嘘を。

「……風、のような……」

口から出任せだった。

「風?」

麗華さんが小首をかしげる。その目の光が、すっと細くなる。

「は、はい。風の音……みたいな。でも、ただの風じゃなくて、もっと……深くて、重たい……」

私は昨夜、帰り道で聞いた不気味な風鳴りの音を思い出しながら、必死に描写を継ぎ接ぎした。

「土の底から、吹き上げてくるような……それでいて、優しく包み込んでくれるような……」

「まあ」

麗華さんが感嘆の声を上げた。

「土の息吹……素晴らしいですわ。やはり莉桜さんは、この土地に愛されていらっしゃるのね」

彼女は満足げに微笑んだ。

合格だ。

首の皮一枚で繋がった安堵感と同時に、激しい自己嫌悪が押し寄せる。

私はまた、嘘を重ねた。

神聖な体験談を捏造し、彼女の歓心を買うために、自分の中の大切な何かを切り売りした。

心が削れていく音がする。

ガリガリと、精神の形が歪められ、空洞になっていく音。


「それで? お言葉は?」

麗華さんの追及は終わらない。

「虚空様は、何と仰いましたの?」

「えっと、それは……」

「教えてくださらない? 私たち、もう家族同然なのですもの。隠し事はなしよ?」

隠し事はなし。

そのキーワードが、呪いのように私を縛る。

私は箸を握る手に力を込めすぎて、指先が白くなっているのを感じた。

「……『待っていた』と」

私は、先ほど教室で口走った言葉を繰り返した。

「ずっと、待っていた……ようやく、繋がれた、と……」

「素敵……!」

麗華さんは両手を合わせ、瞳を輝かせた。

「なんて慈愛に満ちたお言葉でしょう。そうよ、虚空様はずっと待っていらしたの。あなたが心を開き、私たちと一つになる瞬間を」


彼女は私の左手を取り、両手で包み込んだ。

彼女の手は氷のように冷たいのに、私の手首にある『根緒』だけが、火傷しそうなほど熱く脈打っている。

「よかったわね、莉桜さん。これであなたは、もう孤独ではありませんわ。どんな時も、虚空様が見ていてくださる。私たちがついている。……永遠に」


永遠に。

その言葉の響きは、甘い蜜のように聞こえて、底なし沼への招待状だった。

私の魂が、少しずつ、確実に死んでいく。

嘘をつくたびに、私という「個」の輪郭が溶け出し、この村の澱んだ空気に同化していく。

拒絶反応を示すはずの胃袋さえも、今はただ重く沈黙している。

ああ、こうやって「成れ」ていくのだ。

両親のように。牛松先生のように。

思考を放棄し、嘘を真実だと思い込み、狂気の中に安らぎを見出す怪物に。


「……麗華、がっつくな」


不意に、低い声が割って入った。

窓際で黙々と食事をしていた慧くんだ。おにぎりを置き、呆れたように麗華さんを見ている。

「莉桜が困ってるだろう。ただでさえ初めての体験で消耗してるんだ。根掘り葉掘り聞くのは無粋だぞ」

それは、今のこの状況で唯一、まともな理屈だった。

慧くんは私を助けようとしてくれている。

その瞳には、私への憐憫と、諦めにも似た色が宿っていた。彼は知っているのだ。私が嘘をついていることを。そして、その嘘をつかざるをえなかった私の弱さを。


けれど、麗華さんは悪びれる様子もなく、鈴を転がすように笑った。

「あら、慧さんったら。無粋だなんて心外ですわ」

彼女は私の手を握ったまま、慧くんに向き直る。

「私はただ、喜びを分かち合いたいだけですのよ。虚空様は、外から来た莉桜さんのような方でも、こんなにも温かく受け入れてくださる。その寛容さ、偉大さを、改めて噛み締めておりましたの」

「……ほどほどにしておけと言ってるんだ」

「ふふ、慧さんは心配性ね。でも大丈夫よ。莉桜さんも、嬉しそうですもの。ねえ?」

麗華さんが同意を求めてくる。

私は反射的に、慧くんから視線を逸らし、麗華さんに向かって頷いてしまった。

「う、うん……嬉しい、よ」

自分の声が、遠くから聞こえる。

慧くんが、痛ましげに顔を歪めたのが視界の端で見えた。

彼は小さく舌打ちをすると、再び窓の外へと視線を逃がした。

誰も、止められない。

神代家の跡取りである彼でさえ、この暴走する善意と信仰の前では無力なのだ。

私は孤立無援だった。

いや、違う。

私は今、かつてないほど「歓迎」されているのだ。

麗華さんの冷たい手が、私の手を優しく撫でる。

「莉桜さんは素直でいい子。その清らかな心があれば、きっとすぐに『根』の根幹にも触れることができますわ」

彼女の言葉は、毒のように甘く、そして温かい。

心が疲弊しきっていた私は、その毒に身を委ねたくなってしまう衝動に駆られた。

もう、抗わなくていいのではないか。

こんなに苦しい思いをして嘘をつき続けるくらいなら、いっそ本当に信じてしまった方が楽なのではないか。

『根』の根幹。

そこはきっと、暗くて、静かで、何も考えなくていい場所なのだろう。

私は曖昧に微笑み、麗華さんの手に自分の手を重ねた。

左手首の『根緒』が、ねっとりと肌に吸い付く。

その不快感さえも、今は心地よい拘束感のように思えてくる自分が怖かった。


***


昼食後、教室はいつものように掃除の時間を迎えていた。

私は箒を手に、床を掃いていた。

ザッ、ザッ、という単調なリズムが、麻痺しかけた思考をゆっくりと揺り動かす。

窓の外は、相変わらず鉛色の雲が垂れ込めている。

雨は降っていないが、空気中の水分が飽和状態で、景色全体が水槽の中のようにぼやけて見えた。


「……莉桜」


背後から、遠慮がちな声がした。

振り返ると、沙夜が立っていた。

彼女の手には雑巾が握られている。その手は白く、細く、そして微かに震えていた。

「沙夜……」

私は彼女の顔を直視できなかった。

彼女は知っている。

私が『響木』の音など聞いていないことを。

彼女自身もまた、聞こえない音を聞こえると偽り、その苦しみを背負い続けてきたのだから。

沙夜の大きな瞳が、私を捉える。

そこには、かつて私に向けてくれていた親愛の情や、微かな憧れの色はなかった。

あるのは、深く、底知れない悲しみだけ。


「莉桜も……聞こえてしまったの?」


その問いかけは、あまりにも静かで、残酷だった。

「聞こえたふりをしたのか」と責めるわけでもなく、「本当に聞こえたのか」と疑うわけでもない。

ただ、事実として。

私が「あちら側」へ行ってしまったことへの、弔いのような響きを持っていた。


もし私が「嘘だよ」と言えば、彼女は救われるだろうか。

それとも、共犯者が増えたことに安堵するだろうか。

あるいは、この教室の中でそんな本音を口にすることの危険性を案じて、さらに怯えるだろうか。


私は唇を噛んだ。

言葉が出ない。

肯定も否定も、今の私には選ぶことができなかった。

肯定すれば、私は狂人になる。

否定すれば、私は罪人になる。

どちらに転んでも、私はもう、昨日の私には戻れない。


「……ごめん」


結局、口から出たのは謝罪だった。

何に対する謝罪なのか、自分でもわからなかった。

嘘をついたことか。

彼女を一人残して、楽な方へ逃げようとしていることか。

それとも、友人として対等でいられなくなってしまったことへの、別れの言葉なのか。


沙夜は悲しげに眉を寄せた。その時ほんの一瞬だけ、安堵のような表情が見えた気がした。

ふっと、沙夜が視線を落とす。

長い睫毛が、彼女の瞳の光を隠す。

「ううん……いいの。莉桜が無事なら、それで」

彼女は小さく首を振り、雑巾がけをするために床に膝をついた。

その背中は、以前よりもずっと小さく、頼りなく見えた。

彼女は諦めているのだ。

私が村の論理に飲み込まれ、精神的な死を迎えつつあることを悟り、それを受け入れようとしているのだ。


私は立ち尽くしていた。

左手首の『根緒』が、ズキンと痛む。

それは、私が人間としての尊厳を手放し、敗北者へと向かうことを告げる痛みだった。

窓の外で、カラスが鳴いた。

その声は、嘲笑うように、あるいは哀れむように、いつまでも耳に残った。


(第五章 完)

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