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第四章 契約

Google AI Studioで専用のアプリを作り、プロットを読み込ませて作った和風ホラー小説です。

4-1【決定】


九月に入ったというのに、根守の暑さは衰えるどころか、その粘度を増していた。

暦の上では秋だというのに、山間に滞留した湿気は逃げ場を失い、腐葉土の発酵熱を孕んで村全体をじっとりと包み込んでいる。呼吸をするたびに、肺の中にカビの胞子が根を張っていくような錯覚を覚える。

蝉の声は、じりじりと油を煮るような盛夏のそれから、命を削り落とすような悲痛な響きへと変わっている。カナカナカナ、と夕暮れに響くひぐらしの声は、神経を逆なでする金属音のようで、私の耳の奥にこびりついて離れない。


この夏休み、私は自室という名の殻に閉じこもり続けていた。

一階のリビングから聞こえてくる両親の会話が、日に日に噛み合わなくなっていくのを感じていたからだ。父は仕事の話をしなくなり、母は料理の味付けを濃く、黒くするようになった。彼らが交わす言葉の端々に、「虚空様」や「務め」といった単語が混じるたび、私は耳を塞ぐように参考書に向かった。

この村から出るためには、勉強をして、村外の進学校に受かるしかない。その一心だけが、私を正気に繋ぎ止める唯一の命綱だった。


息が詰まるような日々の中で、唯一の救いは沙夜との僅かな逢瀬だった。

村の大人たちの目が届かない神社の裏手、木陰のベンチで、私たちは言葉少なに過ごした。

「莉桜、これ」

沙夜が差し出してくれた、よく冷えたラムネの瓶。二人でビー玉を落とす音だけが、夏の青空に涼やかに響いた。彼女といる時だけは、この村の重力が少しだけ弱まる気がした。巫女としての宿命を背負わされた彼女もまた、私と同じように、言葉にできない閉塞感を抱えていたからだろうか。

けれど、そんな束の間の安息も、始業のチャイムと共に終わりを告げた。


二学期が始まって数日。

教室の空気は、夏休み前とは明らかに異質に変質していた。

あの「根のねのとばり」による相互監視は、休暇中も途切れることなく続いていた。回覧板のように各家庭を回るそのノートには、誰がどこで何をしていたか、誰の目が「泳いでいた」かが克明に記されていた。顔を合わせない時間こそが疑心暗鬼を育て、インクの染み一つ、文字の掠れ一つにまで「異端」の兆候を探り合うような、陰湿な緊張感を生んでいたのだ。


「――ええ。今年は、格別です」


教壇に立った牛松先生が、上気した顔で言った。

いつもなら好々爺然とした柔和な瞳が、今日は熱病に浮かされたようにぎらついている。

黒板には、極太のチョークで『秋季例大祭』と書かれていた。

その文字の横に、さらに大きく、赤いチョークで書き加えられた言葉がある。


『根合わせ(ねあわせ)』


その四文字を見た瞬間、教室の空気が、ぴんと張り詰めた弦のように硬直したのが分かった。

私の後ろで、沙夜が小さく身じろぎをした気配を感じる。

前の席では慧くんが教科書に視線を落としたまま、石像のように固まっている。

そして私の右隣、御子柴麗華さんだけが、恍惚とした吐息を漏らしていた。


「皆さん、喜んでください。今年の秋祭りは、ただの祭りではありません」

牛松先生の声が、震えている。感動で、あるいは畏怖で。

「虚空様より、お告げがありました。今年は十五歳の子供がこの根守に揃っている。これは数年ぶりのことです。よって、本祭の夜に『根合わせ』の儀を執り行うこととなりました」


『根合わせ』

初めて聞く言葉だった。けれど、その響きには、本能的に忌避したくなるような、粘着質な響きがあった。

「先生、『根合わせ』って……何をするんですか?」

私は恐る恐る手を挙げた。

この教室において、質問はしばしば「無知という名の罪」と見なされる。けれど、得体の知れない恐怖が、私に沈黙を許さなかった。

牛松先生は、慈愛とも憐憫ともつかない奇妙な表情で私を見た。

「ああ、そうか。莉桜ちゃんは東京から来たから、知らないのも無理はないね」

先生はゆっくりと教壇を降り、私の机の前まで歩いてきた。

腐った土と、古い線香の匂いが鼻をつく。

「『根合わせ』というのはね、私たちが本当の意味で一つになるための、神聖な儀式なんだよ。十五歳という、大人と子供の境目にある魂を、虚空様の根と結び合わせる。そうすることで、君たちは永遠にこの根守の一部となり、守られることになる」


永遠に、一部となる。

その言葉が、呪詛のように鼓膜を叩く。

「素晴らしいことですわ、莉桜さん」

麗華さんが、椅子を回転させてこちらを向いた。

その美しい顔には、一点の曇りもない完璧な微笑みが張り付いている。けれど、その瞳孔は開ききっているように見えた。

「私たち四人は選ばれたのです。神代家の双子、御子柴の娘、そして……外から招かれたあなた。四つの魂は『根』によって完全な輪を描くことができる。虚空様がお腹を空かせて待っていらっしゃるわ」


お腹を空かせて。

その表現に、背筋が粟立った。

神を敬う言葉ではない。まるで、捕食者に餌を与えるような言い草だ。

「待ってくれ、麗華」

慧くんが、低く鋭い声を上げた。

彼は顔を上げず、教科書の端を指先が白くなるほど強く握りしめている。

「莉桜は関係ないだろう。彼女は『根緒ねお』を持っていない。正式な氏子じゃないんだ。儀式に参加する資格はないはずだ」

慧くんの声には、必死に感情を押し殺したような響きがあった。

それは私を庇うための論理武装だ。この村のルールに則って、私を除外しようとしてくれている。

しかし、麗華さんは鈴を転がすような声で笑った。

「あら、慧さんったら。まだそんなことを仰るの? 『資格』なら、もう十分にあるではありませんか」

麗華さんは立ち上がり、私の机に手をついた。

長い黒髪が、生き物のように私の頬を撫でる。

「莉桜さんは、この三年間で根守の空気を吸い、根守の水を飲み、根守の土から採れた作物を食べて育ちました。体の中はもう、私たちと同じ成分で満たされているのよ。それに……」

彼女は顔を近づけ、私の耳元で囁いた。

甘い花の香りの奥に、鉄錆の臭いが混じっている。

「『根の帳』に、あんなに素晴らしい決意を書いてくださったじゃありませんか。『根を張りたい』『心を一つにしたい』って。あれが嘘だったなんて、まさか仰いませんわよね?」


心臓が早鐘を打つ。

あれは、書かされた言葉だ。拒絶すれば排除されるという恐怖の中で、魂を削りながら書き連ねた媚びと嘘。

けれど、文字にしてしまった以上、それはこの村では「真実」として固定される。

「う、嘘じゃ……ない、よ」

掠れた声で、私は答えるしかなかった。

ここで否定すれば、私は「根腐れ」として処理される。その予感が、喉元に冷たい刃物を突きつけられているように鮮明だった。

「ほら、ごらんなさい」

麗華さんは満足げに身体を起こし、教室全体を見渡した。

「莉桜さんも望んでいるのよ。私たちと、本当の家族になることを」

「よかったね、莉桜ちゃん!」

「すごいよ、根合わせに出られるなんて!」

下級生たちが、無邪気な歓声を上げて拍手をする。

パチ、パチ、パチ、パチ。

乾いた音が教室に反響する。彼らの笑顔は純粋で、だからこそ残酷だった。彼らにとって、この儀式に参加することは最高の名誉であり、それを疑うことなどあり得ないのだ。

沙夜だけが、蒼白な顔で俯いていた。

彼女の細い肩が、小刻みに震えているのが見えた。彼女は知っているのだ。『根合わせ』の本当の意味を。巫女として育てられた彼女だけが知る、絶望的な真実を。


チャイムが鳴った。

それは授業の終わりを告げる音ではなく、逃げ場のない檻の鍵が閉まる音のように聞こえた。


***


放課後、私は逃げるように校舎を出た。

慧くんと沙夜は、麗華さんに連れられて「儀式の打ち合わせ」という名目で職員室に残っていた。

私だけが、蚊帳の外に置かれているようで、同時に標的としてロックオンされたような、居心地の悪い焦燥感に駆られていた。


通学路の坂道を下りながら、私は異変を感じて足を止めた。

村の様子がおかしい。

いつもなら、この時間は農作業を終えた村人たちが談笑していたり、夕餉の支度をする煙が立ち上っていたりするはずだ。

けれど、今日は人の気配が異様に濃く、そして忙しない。

道沿いの家々の軒先に、注連縄しめなわが張り巡らされている。

神社の鳥居にかかっているような、聖域を示す結界。

だが、その注連縄は、私の知っているものとは違っていた。

わらの色ではない。

黒く、重く、タールを塗り込めたような色。

そして、そこに挟み込まれている紙垂しでは、白ではなく、血のような赤色だった。

黒い縄と、赤い紙。

その毒々しいコントラストが、村全体を禍々しい祝祭の場へと変貌させていた。


「……莉桜ちゃん、おかえり」


不意に、横合いから声をかけられた。

びくりと肩を震わせて振り向くと、道端の畑に、雑貨屋の店主である村井源造さんが立っていた。

いつもなら店の奥で死んだように座っている彼が、今日は泥だらけの作業着を着て、畑の土を掘り返している。

「あ、源造さん……こんにちは」

努めて明るく挨拶をするが、引きつった笑顔になる。

源造さんの目は、私を見ていなかった。私の背後、遥か遠くにある忌み山の頂を見つめている。

その瞳は濁り、焦点が合っていない。

「いよいよだなぁ。いよいよ、根合わせだ」

源造さんは、くわを握りしめ、うわごとのように呟いた。

「今年は豊作だ。供物がいいからなぁ。虚空様もお喜びになる。わしらも、精一杯準備せにゃならん」

「あの、お店は……?」

「店? ああ、そんなものはどうでもいい」

彼は吐き捨てるように言った。

「金など、物など、何の価値もない。虚空様と一つになること、それだけが重要なんじゃ。根が腐らぬよう、土を耕し、水をやり、悪い虫を駆除する。それだけが、わしらの生きる意味じゃよ」

源造さんは、ニタリと笑った。

歯の抜けた口の中が、暗い洞窟のように見える。

「莉桜ちゃんも、気をつけるんじゃよ。悪い虫がつかんようにな。お前さんは、これから虚空様と正式に繋がるんじゃから」

繋がる。

その言葉に、胃の腑が冷たくなる。

私は人間だ。木の根じゃない。

そう叫びたいのに、声が出ない。

源造さんは再び鍬を振り上げ、地面に突き立てた。

ザクッ、ザクッ、という湿った音が、まるで生き物の肉を断つ音のように響く。

私は耐え切れず、その場から駆け出した。


アスファルトの坂道を転がるように走りながら、私は周囲の家々を見た。

どの家も、窓を開け放ち、家中の空気を入れ替えている。

庭先では、老人たちが黙々と何かを煮炊きしている。強烈な異臭が漂ってくる。

それは、いつもの煮物の匂いではない。

もっと生臭く、薬草と泥を煮詰めたような、鼻の奥を刺激する臭い。

針葉樹から分泌される黒っぽい樹脂『黒脂くろやに』の臭いだ。

村人たちは、仕事も、日常も、生活のすべてを放棄して、ただひたすらに「儀式」のためだけに動いていた。

その姿は、女王蜂に奉仕する働き蜂のように統率され、個人の意志など微塵も感じられない。

狂っている。

この村は、もう私の知っている「田舎の村」ではない。

巨大な一つの生き物と化し、その胃袋の中で私たちを消化しようと待ち構えているのだ。


息を切らして公務員宿舎にたどり着いた時、日はすでに西の山陰に隠れようとしていた。

薄暗い玄関の前で、私は乱れた呼吸を整える。

夏休みの間、私はずっと部屋に閉じこもっていた。両親と顔を合わせるのが怖かったからだ。

でも、家の中なら、まだ大丈夫なはずだ。

お父さんとお母さんは、東京の常識を持っている。この狂った空気から、私を守ってくれるはずだ。

そう自分に言い聞かせ、震える手でドアノブを回した。


「ただいま」


返事はない。

家の中は薄暗く、明かりもついていない。

嫌な予感がして、私は靴も脱がずに廊下を走った。

「お父さん? お母さん?」

居間の襖を開ける。

そこには、異様な光景が広がっていた。


ちゃぶ台の上には、夕食の準備などされていなかった。

代わりに、大量の半紙と、墨汁、そして赤と黒の布切れが散乱している。

父は、ワイシャツの袖をまくり上げ、鬼気迫る表情で筆を走らせていた。

普段の、疲れ切った無気力な父ではない。目は爛々と輝き、額には脂汗が滲んでいる。

「……素晴らしい。これなら、神代様も納得されるはずだ」

父が書いているのは、回覧板で見たような祝詞のりとのような文言だった。

しかし、その文字は整然としたものではなく、紙面をのたうち回る蛇のように歪んでいる。

「お父さん……?」

私が声をかけると、父は弾かれたように顔を上げた。

「おお、莉桜か! 遅かったじゃないか」

父の声は、不自然なほど明るく、そして大きかった。

「見てくれ、これを。役場の仕事なんて放り出して、昼からずっと書いていたんだ。今年の祭りは、我が家にとっても一世一代の晴れ舞台だからな!」

「仕事……行かなかったの?」

「仕事? そんな些末なことはどうでもいいんだよ」

父は、先ほどの源造さんと全く同じ言葉を口にした。

背筋が凍る。

「お父さん、何言ってるの……? 公務員でしょ? 仕事に行かなきゃ……」

「馬鹿を言うな!」

父が突然、机を叩いて立ち上がった。

墨汁の瓶が倒れ、黒い液体が畳に広がる。それが、生き血のように見えた。

「公務員? 東京? そんな肩書きが、この根守で何になる! ここで生きるということは、根守のことわりに従うということだ。私たちは今まで、よそ者として肩身の狭い思いをしてきた。だが、今回の儀式でお前が役割を果たせば、私たちは晴れて『根』の一部になれるんだ!」

父の両手は、墨で黒く汚れていた。

その手が、私の肩を掴む。

「喜べ、莉桜。お前は選ばれたんだ。あの大いなる虚空様と繋がれるんだぞ。これ以上の幸福があるか!」

父の顔が近づく。

その瞳孔は開ききり、私の姿など映していない。彼が見ているのは、自身の保身と、集団に同化することへの歪んだ渇望だけだ。


「あら、莉桜。帰っていたのね」


台所の奥から、母が現れた。

母の手には、真っ赤な布が握られていた。

彼女はそれを丁寧に縫い合わせている。

「お母さん……それ、何?」

「何って、あなたの晴れ着よ」

母は、うっとりとした表情で赤い布を頬に寄せた。

「『根合わせ』の儀式で着るの。白無垢じゃなくて、この赤無垢を着て、虚空様の元へ嫁ぐのよ。素敵でしょう?」

赤無垢。

それは、死に装束のようにも、返り血を浴びた花嫁衣裳のようにも見えた。

「嫌だ……そんなの、着たくない」

私は後ずさりした。

「何言ってるの、莉桜」

母の声が、すっと低くなる。

「御子柴の奥様が、わざわざ布地を分けてくださったのよ。『莉桜ちゃんには赤が似合うわ』って。あの方のご厚意を無にするつもり? 私たち家族を、また村八分にするつもりなの?」

母の目が、爬虫類のように細められる。

「あなた、まさか『根腐れ』を起こしているんじゃないでしょうね?」


根腐れ。

その単語が出た瞬間、部屋の空気が真空になったように重くなった。

父が、掴んでいた私の肩に爪を食い込ませる。

「……莉桜。お前、まさか学校で変なことを言ったりしていないだろうな」

「違う、私は……」

「心は一つだ」

父が、呪文のように唱えた。

「心は一つ。疑いは毒。秘密は罪。私たちは、根守の根の一部だ。腐った部分は、切り落とさなければならない」

父の手が、私の首筋へと伸びる。

「お前は、腐っていないよな? 父さんと母さんの大事な娘だもんな?」

「……はい」

私は、震える声で答えるしかなかった。

「腐って、いません……」

「そうよ、いい子ね」

母が近づいてきて、私の頭を撫でた。

その手は氷のように冷たく、そして古い油のような臭いがした。

「さあ、ご飯にしましょう。今日はご馳走よ。精をつまらなきゃね。儀式の夜まで、身体を清めないといけないから」

母が食卓に並べたのは、山盛りの白米と、真っ黒に煮しめられた何かだった。

それは、昼間に村中で嗅いだ、あの異臭を放っていた。

「いただきましょう」

両親は、揃って手を合わせ、一心不乱に黒い塊を口に運び始めた。

私は箸を持つ手が震えて止まらなかった。

テレビは消えている。外からは、遠くで響く太鼓の音と、無数の虫の羽音だけが聞こえてくる。


逃げ場は、もうどこにもなかった。

学校も、通学路も、そして家の中さえも。

村全体が巨大な繭となり、その中で私たちは、狂気という名の消化液に溶かされようとしている。

私は、涙を堪えて、黒い煮物を口に運んだ。

舌の上で、泥と鉄の味が広がった。

飲み込むたびに、私の中の「東京の私」が死んでいく音がした。


窓の外では、忌み山のシルエットが、夜の闇に溶け込みながら、巨大な腕を広げて私たちを見下ろしていた。

その枝葉がざわざわと揺れる音が、私にはこう聞こえた。


『逃がさない』

『逃がさない』

『お前は、我らのものだ』



4-2【贈呈】


目が覚めた時、私は自分が誰なのか、一瞬わからなかった。

泥の中に深く沈んでいた意識が、浮力を持たない鉛のようにゆっくりと浮上してくる。

天井の木目が見える。見慣れたシミがある。ここは私の部屋だ。

けれど、体の感覚がおかしい。

手足の先が自分のものとは思えないほど重く、皮膚の内側に冷たい粘土を詰め込まれたような違和感がある。


昨夜、どうやってベッドに入ったのだろう。

記憶の糸を手繰り寄せようとするが、プツリと途切れている。

父が怒鳴り、母が冷たい目で私を見下ろし、それから……。

それから、どうした?

夕飯は食べたのだろうか。お風呂には入ったのだろうか。

思い出そうとすると、脳の奥でノイズが走る。まるで、古いビデオテープに別の映像を上書きした後のように、私の記憶の領域が荒らされ、塗りつぶされている感覚。

ただ、口の中には、鉄錆と古い土を混ぜ合わせたような、あの嫌な味が残っていた。


「……起きなきゃ」


声に出してみたが、それは私の声というより、喉の奥から漏れ出た空気の摩擦音に近かった。

体を起こす。

ずしり、と内臓が下へ下へと引っ張られる。

重力が増したわけではない。私という器の中に、私ではない「何か」が満たされつつあるのだ。

その「何か」は、私の意思とは無関係に、この村の引力に従おうとしている。


制服に着替える動作も、まるで操り人形のようにぎこちなかった。

鏡を見る。

そこに映っているのは、高村莉桜という少女の形をした抜け殻だ。目の下の隈は濃く、頬はこけ、瞳からは光が失われている。

けれど、不思議と恐怖は薄かった。

恐怖を感じるための気力さえも、昨夜の空白の時間に吸い取られてしまったのかもしれない。

あるいは、恐怖を感じることさえ許されない段階に、私は足を踏み入れてしまったのか。


一階へ降りると、両親はすでに食卓についていた。

「おはよう、莉桜」

「おはよう、お父さん、お母さん」

挨拶は交わされた。けれど、そこには何の温度もなかった。

父は新聞を読み、母は味噌汁をすする。昨夜の狂乱が嘘のように、平穏で、そして完璧に「根守の住人」として完成された食卓の風景。

彼らはもう、昨日のことを謝ることも、蒸し返すこともしないだろう。

私という「異物」を矯正するプロセスは、彼らにとって日常の一部となり、正しい行いとして消化されてしまったのだ。

私は何も食べずに、逃げるように家を出た。


外気は相変わらず湿り気を帯びていて、肌にまとわりつく。

九月の半ばだというのに、蝉の声はまだ止まない。ジジジ、ジジジ……と、油で揚げられるような音が、鼓膜にへばりついてくる。

通学路の坂道を登る足取りは、鉛を引きずっているように重い。

アスファルトの下から、道端の草むらから、無数の根が私の足音を聞きつけている気がする。

『逃がさない』

『逃がさない』

昨夜聞いた幻聴が、風の音に混じってリフレインする。

私の体は、もう私のものじゃないのかもしれない。

この村という巨大な胃袋の中で、消化液に溶かされ、形を変えられ、やがてあの大木の一部として再構成されるのを待つだけの、肉の塊。


校門をくぐり、下駄箱で上履きに履き替える。

その動作一つ一つが、自分の意志で行っているのか、それとも誰かに「させられている」のか、区別がつかなくなっている。

廊下の床板が、私の重みで軋む。

「キィ、キィ」

その音は、私を歓迎するようにも、嘲笑うようにも聞こえた。


教室の引き戸を開ける。

淀んだ空気が、顔にぶつかってきた。

「おはよう」

条件反射で言葉が出た。

教室内には、すでに数人の生徒がいた。彼らは談笑していたが、私が入った瞬間に一瞬だけ視線を向け「おはよう」と声を返し、すぐに何事もなかったかのように会話に戻る。

その視線に含まれる「観察」の色。

私がまだ「こちら側」に来ていないことを確認し、同時に、もうすぐ「あちら側」へ堕ちることを期待しているような、粘着質な目。


「……莉桜」


席に着こうとした時、後ろから小さな声がした。

沙夜だ。

「おはよう。沙夜」

彼女は机の上で手を組み、祈るような姿勢で座っていた。

顔を上げ、私を見る。その大きな瞳が、不安げに揺れている。

「顔色、すごく悪いよ。……大丈夫?」

沙夜の声は震えていた。

彼女には分かるのだ。私が今、どんな状態にあるのか。

昨夜、私の家で何が起きたのか具体的なことは知らなくても、私が削り取られ、摩耗し、ギリギリのところで形を保っていることが、彼女には見えている。

親友だからこそ、あるいは、同じようにこの村に魂を縛り付けられた生贄同士だからこそ、共鳴してしまう痛み。


私は頬の筋肉を無理やり持ち上げ、笑顔を作った。

引きつっているかもしれない。不自然かもしれない。

それでも、笑わなければならなかった。

ここで泣き言を言えば、沙夜まで巻き込んでしまう。彼女を不安にさせ、彼女の心を乱してしまう。それは、この村では罪になる。

「大丈夫。ちょっと寝不足なだけ。……私は、大丈夫だよ、沙夜」

嘘だった。

何一つ大丈夫ではない。

けれど、今の私にできるのは、この薄っぺらい仮面を被り続けることだけだ。

沙夜は悲しげに眉を寄せ、何か言いたげに唇を動かしたが、結局何も言わずにうつむいた。

彼女の細い肩が、小刻みに震えているのが見えた。


チャイムが鳴った。

予鈴ではない。始業のチャイムだ。

その音と共に、廊下から足音が近づいてくる。

いつもの牛松先生の、少し足を引きずるような足音。

そしてもう一つ、カツ、カツ、と硬質な音を立てる、軽やかな足音。

心臓が、嫌なリズムで跳ねた。


ガララ、と引き戸が開く。

教室の空気が、ぴんと張り詰める。

入ってきたのは、予想通り牛松先生だった。

そして、そのすぐ後ろに、御子柴麗華さんが続いていた。


麗華さんは、自分の席には戻らなかった。

当然のように教壇へ上がり、牛松先生の隣に並んで立つ。

その立ち姿は、まるでこの教室の支配者が誰であるかを誇示するかのようだった。

制服のプリーツスカートには一点の乱れもなく、長い黒髪は湿気を含んで艶やかに光っている。

彼女は教室全体を見渡し、そして、私を見て微笑んだ。

聖母のような、慈愛に満ちた微笑み。

けれどその瞳の奥には、獲物を追い詰めた狩人のような、冷酷な光が宿っている。


「起立」

麗華さんの凛とした声が響く。

私たちは弾かれたように立ち上がり、礼をする。

「着席」

再び座る。その一連の動作が、軍隊のように統率されている。

私は椅子に座り直しながら、冷や汗が背中を伝うのを感じていた。

何かが始まる。

私の意思を無視して、決定的な何かが。


牛松先生が、好々爺然とした顔をくしゃりと歪めて笑った。

「えー、皆さんに、今日はとてもめでたい知らせがあります」

先生の声は弾んでいた。

まるで孫の成長を喜ぶ祖父のように、純粋な喜びを含んでいる。それが余計に不気味だった。

「先ほど神代家、御子柴家の許可のもと、職員会議にて正式に決定した。今年の秋祭り、そして『根合わせ』の儀についてだ」

先生は一呼吸置き、もったいぶるように言葉を切った。

そして、慈しむような目で私を見た。

「高村莉桜さん」

名前を呼ばれ、私はビクリと肩を震わせた。

「は、はい」

掠れた声で返事をする。

クラス中の視線が、私に突き刺さる。

「君の『根合わせ』への参加が、認められたよ」


教室が、しんと静まり返った。

『根合わせ』

昨日、黒板に書かれた赤い文字。十五歳の子供たちが、虚空様の根と結び合わされるという儀式。

それに、私も参加する。

それはつまり、私がもう「よそ者」ではなくなるということ。

逃げることも、隠れることも許されない、この村の細胞の一つとして組み込まれるということ。


「素晴らしいことですね、莉桜さん」

麗華さんが、鈴を転がすような声で言った。

彼女は手元に持っていた、白木の箱をうやうやしく持ち上げた。

桐の箱だ。高級な和菓子が入っているような、あるいは、大切な骨董品を収めるような箱。

しかし、その箱からは、微かにあの臭いが漂っていた。

腐葉土と、鉄錆と、古いお香が混じったような、根守の臭い。


「本来なら、この村で生まれ育った者しか『根合わせ』には参加できません。けれど、莉桜さんのこれまでの行い、そして『根の帳』に記された真摯な言葉が、虚空様のお心に届いたのです」

麗華さんはゆっくりと教壇を降り、私の机の前まで歩いてきた。

カツ、カツ、カツ。

その足音が、処刑台へのカウントダウンのように聞こえる。

私の心臓は早鐘を打ち、呼吸が浅くなる。

逃げ出したい。

机を蹴り飛ばし、教室を飛び出し、山を駆け下りて逃げたい。

けれど、体は金縛りにあったように動かなかった。

足元から見えない根が生え、床下へと深く潜り込み、私をこの場所に縫い留めているような感覚。


麗華さんが私の目の前で止まる。

甘い花の香りの奥に、どす黒い腐臭が混じっている。

「おめでとう、莉桜さん。これであなたも、私たちの本当の仲間かぞくです」

彼女はそう言って、白木の箱の蓋を開けた。


中には、真っ赤な布が敷かれていた。

その中央に、とぐろを巻くように鎮座しているものがあった。

『根緒』。

村の人々が、生徒たちが、そして沙夜が、例外なく手首に巻いている、あの組紐。

けれど、間近で見るそれは、単なるミサンガやアクセサリーとは異質だった。

赤茶けた色は、染料の色ではない。

乾燥した血管のような、あるいは干からびたミミズのような、生々しい色合い。

植物の繊維で編まれているはずなのに、どこか動物的な、有機的な質感を持っている。

表面には微細な毛羽立ちがあり、それ一本一本が、触れるものの皮膚に食い込もうと蠢いているようにさえ見えた。


「さあ、手を出して」

麗華さんが、優しく、しかし拒絶を許さない声で促す。

私は膝の上で、両手を固く握りしめていた。

出したくない。

これを受け取ってしまったら、私は私でなくなってしまう。

東京にいた頃の私、自由だった私、未来を夢見ていた私は死に、根守村の養分として生きるだけの存在になってしまう。

「……莉桜さん?」

麗華さんが小首をかしげる。

その目は笑っていない。

『出しなさい』

『受け入れなさい』

『拒絶は許さない』

無言の圧力が、物理的な重みとなって私にのしかかる。

周囲の空気も変質していた。

クラスメイトたちの視線が、好奇心から監視へと変わる。

牛松先生が、満足そうに頷いている。


ふと、視界の端に沙夜の姿が映った。

彼女は両手で口元を覆い、蒼白な顔で私を見ていた。

その瞳には、絶望と、恐怖と、そして「ごめんね」という謝罪の色が浮かんでいる。

彼女は知っているのだ。この『根緒』が何を意味するのか。これを巻かれることが、どれほどの呪縛となるのかを。

そして、前方の席。

慧くんが、机の上で拳を握りしめているのが見えた。

爪が皮膚に食い込み、血が滲みそうなほど強く。

彼は前を向いたまま、振り返ろうとしない。背中が微かに震えている。

彼もまた、耐えているのだ。

ここで声を上げれば、私だけでなく、彼自身も、そして沙夜も破滅するということを理解しているから。


誰も助けてくれない。

誰も、この儀式を止めることはできない。

父も、母も、先生も、友達も。

この村という巨大な生き物の前では、個人の意思など木の葉一枚ほどの重さもないのだ。


「……はい」

私は、掠れた声で答え、立ち上がった。

そして自分の意思とは裏腹に、左手がゆっくりと持ち上がる。

まるで、見えない糸で吊り上げられているかのように。

震える手が、麗華さんの前に差し出される。

手首の内側の、白く無防備な皮膚が露わになる。

そこは今まで、私が「よそ者」であることの証であり、同時に「自由」であることの最後の砦だった場所。

そこに、烙印が押される。


麗華さんは満足げに微笑むと、箱から『根緒』を取り出した。

その指先が『根緒』に触れた瞬間、ジュワリ、と湿った音がした気がした。

彼女は私の左手首を、冷たい指で掴んだ。

氷のように冷たく、それでいて湿り気を帯びた指先。

「痛くないわよ。ただ、少しだけ……繋がるだけ」

彼女は呪文のように囁きながら、私の手首に『根緒』を巻き付けた。


ザラリとした感触。

乾いた樹皮のような、それでいて生温かい肉のような、不快な感触が肌を這う。

一巻き、二巻き。

麗華さんの指が、複雑な手順で結び目を作っていく。

それは単なる結び目ではなく、呪術的な封印のようだった。

きゅっ、と締め上げられる。

「っ……」

私は小さく息を呑んだ。

痛い。

物理的な締め付けではない痛みが、手首から走った。

まるで、無数の小さな針が皮膚を突き破り、血管の中に侵入してくるような鋭い痛み。

『根緒』の繊維が、私の脈動に合わせて収縮し、一体化しようとしている。


「これで、完了です」

麗華さんが手を離す。

私の左手首には、赤茶けた『根緒』が巻き付いていた。

それは私の白い肌の上で、毒々しいほどの存在感を放っていた。

異物。

けれどそれは、もう体の一部のように馴染み始めていた。

ドクン、ドクン。

手首の脈拍に合わせて、『根緒』が微かに脈打っているように見える。

私の血を吸い、私の体温を奪い、代わりにこの村の「教え」を血液の中に流し込んでくるパイプ。


パチ、パチ、パチ、パチ……。

乾いた音が、教室に響き渡った。

拍手だ。

クラスメイトたちが、無表情のまま、機械的に手を叩いている。

牛松先生も、目を細めて拍手をしている。

「おめでとう、莉桜ちゃん。おめでとう」

「おめでとう、高村さん」

「よかったね、仲間だね」

口々に発せられる祝福の言葉。

けれどその響きは、平坦で、抑揚がなく、まるで録音されたテープを再生しているようだった。

彼らの目は笑っていない。ただ、儀式が滞りなく完了したことへの安堵と、異物が排除(同化)されたことへの確認作業を行っているだけだ。


その拍手の音の中で、私は自分の左手首を見つめ続けていた。

視界が歪む。

手首に巻かれた『根緒』から、幻覚が溢れ出してくる。

赤茶けた紐がほどけ、無数の細い根となって伸びていく。

根は私の腕を這い上がり、肘を超え、肩へと達する。

皮膚の下に潜り込み、筋肉の繊維に絡みつき、骨に根を張りながら、私の体を侵食していく。

『逃がさない』

『お前は我らのものだ』

『心は一つ』

『根を張れ』

『根を張れ』

脳内に直接響く声。

根は首筋を這い上がり、耳の穴から脳髄へと侵入する。

そして、左胸へ。

肋骨の隙間をすり抜け、心臓へと到達する。

ドクン。

心臓が鷲掴みにされる感覚。

冷たく、湿った根が、私の心臓に深く突き刺さり、養分を吸い上げ始める。


「あ……あ……」

私は呼吸を忘れ、立ち尽くしていた。

もう逃げられない。

物理的にも、精神的にも。

この『根緒』は、私と虚空様を繋ぐへその緒であり、私をこの土地に縛り付ける鎖だ。

これを外そうとすれば、きっと私の心臓は止まる。

あるいは、根が暴れ出し、私の体を内側から食い破るだろう。


「莉桜さん?」

麗華さんが、私の顔を覗き込む。

その顔が、歪んで見えた。

彼女の顔の皮膚の下でも、無数の根が蠢いているのが見えた気がした。

「嬉しいでしょう? これで、寂しくないわね」

彼女は私の肩を抱き、耳元で囁いた。

「もう、一人じゃないのよ」


その言葉は、救済のようであり、死刑宣告のようでもあった。

私はガタガタと震えながら、曖昧に頷くことしかできなかった。

教室中に響く拍手の音が、私を閉じ込める檻の格子が閉まる音のように聞こえた。

視界の隅で、沙夜が机に突っ伏し、耳を塞いでいるのが見えた。

彼女には聞こえているのだ。

私の魂が砕け散り、根守の養分として吸収されていく音が。


私は左手首を右手で押さえた。

『根緒』の感触。

それは私の脈動と完全に同期し、二度と離れないことを主張していた。

私は、高村莉桜ではなくなった。

根守村の一部。虚空様の末端。

思考が白く塗りつぶされていく。

恐怖さえも、急速に麻痺していく。

ああ、これが「安らぎ」なのかもしれない。

考えることをやめ、抵抗することをやめ、ただ大きな流れに身を任せることの、おぞましい安らぎ。


私はゆっくりと顔を上げ、クラスメイトたちに向かって、引きつった笑みを返した。

拍手の音が、さらに大きくなった気がした。



4-3【拘束】


拍手の音が、潮が引くように止んだ。

乾いた残響だけが、湿気を含んだ教室の空気に吸い込まれて消えていく。


私はまだ、左腕を上げたまま立ち尽くしていた。

まるで、見えない糸で天井から吊り下げられた操り人形のように。あるいは、屠殺場へ運ばれる家畜が、所有者の焼印を押された直後のように。


視線の先には、私の左手首がある。

そこにはもう、昨日までの頼りない空白はない。

赤茶けた、太く、醜悪な組紐。

根緒ねお』。

それが、私の白かった肌の上に、毒々しいほどの存在感を放って鎮座している。


「……っ」


息を吸おうとして、肺がうまく広がらないことに気づいた。

肋骨の内側まで、目に見えない根が入り込み、締め付けているような圧迫感がある。

教室中の視線が、私の左手首の一点に集中していた。

それは祝福の眼差しであり、同時に「確認」の眼差しでもあった。異物が、正しく処理されたか。規格外の部品が、正しく矯正されたか。彼らはその整合性を確かめ、安堵しているのだ。


「よくお似合いですわ、莉桜さん」


目の前で、御子柴麗華さんが微笑んでいた。

その笑顔は、どこまでも慈愛に満ちている。聖母像が浮かべるような、一切の曇りもない完璧な笑みだ。だが、至近距離で見上げる彼女の瞳の奥には、温度というものが存在しなかった。あるのは、標本箱にきれいに収まった昆虫を眺めるような、無機質な満足感だけだ。


彼女の白魚のような指先が、再び私の手首に触れた。

びくり、と筋肉が反射的に収縮する。

麗華さんの指は氷のように冷たいのに、彼女が巻き付けた『根緒』だけが、嫌な生温かさを帯びていた。それは私の体温を吸って温まったというよりは、紐そのものが熱を発しているような、有機的な温もりだった。


「これであなたも、名実ともに根守の一員です。虚空様も、さぞお慶びでしょう」


麗華さんの声は、甘い毒のように耳から入り込み、脳髄を痺れさせていく。

私は、笑わなければならなかった。

ここで顔を引きつらせたり、涙を流したりしてはいけない。それは「拒絶」を意味する。拒絶は「根腐れ」の兆候であり、排除の対象となる。

私は、口角を持ち上げる筋肉に意識を集中させた。頬がピクピクと痙攣しそうになるのを必死で抑え込み、眼球の表面に張り付いたような乾いた笑顔を作る。


「……ありがとう、ございます。麗華さん」


自分の声が、他人のもののように聞こえた。

喉の奥で、何かが決定的に壊れる音がした気がした。

それはプライドかもしれないし、東京にいた頃の私というアイデンティティかもしれない。あるいは、人としての尊厳そのものだったのかもしれない。


「ふふ。素直でいい子」


麗華さんは満足げに目を細めると、まるで愛玩動物を愛でるように、私の頭を一度だけ撫でた。

その手つきは優しかったが、同時に絶対的な主従関係を刻印する行為でもあった。

彼女はゆっくりと私の前から離れ、自分の席へと戻っていく。その背中は、この教室の、いや、この村の支配者としての威厳に満ちていた。


私はガタガタと震える膝を叱咤し、椅子に座り込んだ。

硬い木の座面の感触が、現実感を伴って腰に伝わる。

けれど、左手首の感覚だけが、現実から遊離していた。


机の上に置いた左手。

視界に入るたびに、心臓が早鐘を打つ。

『根緒』は、単なる植物の繊維を編んだ紐のはずだ。

それなのに、肌に触れている部分は、まるで濡れたナメクジが這っているかのように湿り気を帯びて感じられた。

じとり、とした不快感。

繊維の一本一本が微細な棘となって、毛穴から皮膚の下へと潜り込もうとしているような、生理的な嫌悪感が全身を駆け巡る。


(重い……)


物理的な重さは数グラムしかないはずだ。

なのに、左腕全体に鉛のかせを嵌められたように重い。

机の天板に押し付けられた手首が、そこから動かせない。まるで、机の木目を通して、床下の根と繋がり、そのまま大地の底へと縫い付けられてしまったかのように。


「では、授業を始めようか」


教壇に戻った牛松先生が、何事もなかったかのように声を上げた。

その声は弾んでいた。迷える子羊を群れに戻した牧師のように、晴れやかな響きを含んでいる。

クラスメイトたちも、一斉に黒板の方を向く。

教室の空気が、弛緩していた。

先ほどまでの、私という異物を排除しようとする張り詰めた緊張感は消え失せ、代わりに「仲間」を受け入れた温かくも粘着質な一体感が漂い始めていた。


私はその空気の変化を、肌で感じ取っていた。

安堵。

そう、これは安堵だ。

吐き気がするほどの自己嫌悪の裏側で、私は確かに、安堵していたのだ。


もう、睨まれない。

もう、試されない。

もう、「色が違う」と囁かれない。

この赤茶けた首輪を受け入れたことで、私は「こちら側」に来たのだ。守られる側へ。監視される側へ。養分として吸われる側へ。

それは自由の放棄であり、魂の敗北だった。けれど、あの孤独な恐怖に晒され続けることに比べれば、この家畜の安堵は、なんと甘美で、楽なのだろう。


不意に、前から視線を感じた。

恐る恐る顔を上げることはできなかった。けれど、分かっていた。

慧くんだ。

彼の視線が、肩越しに私に突き刺さっている。

いつもの冷ややかな、けれど理知的な光を宿した瞳ではないだろう。

軽蔑か。失望か。それとも、共犯者になり下がった私への憐憫か。

彼の視線は、熱を帯びた刃物のように、私をじりじりと焼いた。


そして、後ろの沙夜。

彼女の気配が、極限まで薄くなっている。

息を殺し、存在を消そうとしているかのように。

私は彼女に振り返ることができなかった。

彼女は知っているのだ。この『根緒』の意味を。

私が今、足を踏み入れた泥沼の深さを。

親友であるはずの彼女が、私を止めることもできず、ただ沈んでいく様を見送るしかない絶望を、私は想像することしかできなかった。


授業の内容は、全く頭に入ってこなかった。

牛松先生が黒板に書く「秋季例大祭」の文字が、ゲシュタルト崩壊を起こして意味のない記号の羅列に見える。

私の意識は、左手首の一点に拘束されていた。


ズキン、ズキン。

脈打つたびに、『根緒』が呼応するように締まる気がした。

錯覚だ。分かっている。

けれど、その感覚はあまりにもリアルだった。

血管の膨張に合わせて、植物の蔓が収縮する。私の血流を感知し、そのリズムを学習しているかのように。

皮膚と紐の隙間に、じっとりと汗が溜まる。

その汗さえも、『根緒』が吸い上げているような気がした。

私の水分、私の体温、私の生気。それらが、この細い管を通して、どこか遠くにある巨大な何かへと送られている。


『逃がさない』


昨夜聞いた幻聴が、脳内でリフレインする。

あの時は風の音だと思った。

けれど今は違う。

この手首から、直接脳に響いてくる。

骨を伝い、神経を食い荒らし、私の思考中枢に直接語りかけてくる。


『お前は我らのものだ』

『根を張れ』

『根を張れ』


私は机の下で、右手の爪を左手の甲に立てた。

痛みで正気を保とうとする。

けれど、痛みさえもが鈍く、遠い。

私の体はもう、私だけのものではなくなってしまったのだという実感が、冷たい恐怖となって胃の腑に落ちていった。


          *


チリン、チリン……。

牛松先生が鳴らす昼休みを告げるベルの音が、水底で聞くように歪んで響いた。

先生が教室を出て行くと同時に、張り詰めていた空気が一気に弾けた。

下級生たちが、わっと私の机の周りに集まってくる。


「莉桜ちゃん、見せて見せて!」

「わあ、すごい。新品だ!」

「赤くてかっこいい!」


小学二年生の男の子たちが、無邪気な瞳を輝かせて私の左手首を覗き込む。

彼らの手首にも、同じ『根緒』が巻かれている。けれどそれは、長く使い込まれ、黒ずみ、肌の一部のように馴染んでいる。

私の『根緒』だけが、鮮血のように赤く、異様なほどに真新しい。


「よかったねえ、莉桜ちゃん」

「これで仲間外れじゃないね」


四年生の女の子が、嬉しそうに言った。

その言葉に、悪意は微塵もない。純粋な祝福だ。

だからこそ、残酷だった。

彼らにとって、この首輪をつけないことは「可哀想なこと」であり、つけることは「幸せなこと」なのだ。その価値観の断絶が、私を打ちのめす。


「……うん。ありがとう」


私は引きつった笑顔で頷くしかなかった。

子供たちの小さな手が、私の左腕に伸びてくる。

ペタペタと触られるたびに、鳥肌が立った。

彼らの手は温かい。けれど、その温かさが『根緒』に伝わると、紐の中で何かが蠢くような感触が返ってくる。


「触らないであげて」


凛とした声が、喧騒を切り裂いた。

子供たちがびくり、として手を引っ込める。

麗華さんが、優雅な動作でこちらに歩み寄ってきていた。

彼女は子供たちを叱るわけでもなく、ただ諭すように微笑んでいる。


「莉桜さんの『根緒』は、まだ巻かれたばかりで馴染んでいないの。根付いたばかりの苗木と同じ。むやみに触ると、根が驚いてしまうわ」


根が、驚く。

その表現に、背筋が凍った。

彼女はやはり、これを「生き物」として扱っている。


「みなさん、お弁当の時間でしょう? 早くしないと、お昼を食べ損ねてしまいますわよ」

「はーい……」


麗華さんの言葉は絶対だ。子供たちは素直に散らばり、それぞれの机を合わせ始めた。

机の周りには、私と、麗華さんだけが残された。

窓際の席では、慧くんが本を読んでいるふりをして顔を伏せている。沙夜は、痛ましいものを見るような目で、遠巻きにこちらを見ていた。


麗華さんは、私の机に手をつき、顔を近づけた。

ふわりと、甘い花の香りが漂う。

けれどその奥には、常にあの鉄錆と腐葉土の臭いが潜んでいる。


「莉桜さん」

「……はい」

「『根緒』の着け心地は、いかが?」


試すような問いかけ。

私は喉を鳴らし、必死で言葉を探した。

「気持ち悪いです」「外したいです」などと言えるはずがない。


「少し……きついです。締め付けられるような感じで……」

「ええ、そうでしょうね」


麗華さんは満足げに頷いた。


「それは、虚空様があなたを抱きしめてくださっている証拠よ。愛されているの。痛みは、愛の深さだと思ってちょうだい」


愛。

この村では、痛みも、束縛も、監視も、すべてが「愛」という言葉でコーティングされる。

その欺瞞に吐き気を催しながらも、私は頷くことしかできない。


「それと、莉桜さん。大切なことをお伝えしておかなくてはなりません」


麗華さんの声のトーンが、一段低くなった。

周囲の子供たちの笑い声が、不自然なほど遠くに聞こえる。

彼女の黒曜石のような瞳が、私の網膜に焼き付く。


「この『根緒』は、一度結んだら、二度と解いてはなりません」


「……え?」


「外してはいけないの。お風呂に入る時も、寝る時も。片時も離さず、肌身につけていなくてはならない。それが『契約』です」


予想はしていた。

村の人々が全員、常につけているのを見ていたから。

けれど、改めて言葉にされると、その「永遠」の重みがのしかかる。


「もし……外したら?」

「あら」


麗華さんは、きょとんとした顔をした。

まるで、そんな質問が出ること自体が想定外だというように。


「外す? なぜ? そんなことをする必要がどこにありますの?」

「い、いえ、例えば……切れてしまったり、汚れてしまったり……」

「切れることはありません」


彼女は断言した。


「この『根緒』は、虚空様の御神体の一部をいただいて編まれたもの。人の手で引きちぎることなどできませんわ。刃物でも、そう簡単には切れない。……いえ、もし無理やり切ろうとすれば……」


麗華さんは言葉を切り、私の左手首に視線を落とした。

そして、愛おしそうに『根緒』を指先でなぞる。


「根は、土から引き抜かれれば死んでしまいます。手首から外された根緒もまた、死んでしまう。……そして、根緒と繋がっていたあなたも、ただでは済まないでしょうね」


「ただでは、済まない……?」


「村の皆さんは言います。『根緒』を失くした者は、魂の緒が切れるのだと。心臓が止まるか、あるいは発狂するか。……それに、何より」


彼女は再び顔を上げ、にっこりと微笑んだ。

その笑顔は、この世で最も美しい死刑宣告だった。


「『根緒』を持たない者は、この村にはいられません。衣食住、すべてのコミュニティから切り離される。誰とも口を利いてもらえない。誰も助けてくれない。存在しないものとして扱われる。……分かりますわね? 莉桜さん」


村八分。

いや、それ以上の完全な抹殺。

私の脳裏に、なぜか、いつか川で見た男の人の姿がよぎった。

彼もまた、何かを失ったのだろうか。


「はい……分かります」

「よろしい。あなたは賢い方だわ。これからは、その『根緒』があなたのお守りであり、命綱です。大切になさってね」


麗華さんはそう言い残すと、優雅に身を翻し、自分の席へと戻っていった。

私は一人、取り残された。

教室内はランチタイムの和やかな空気に包まれている。

私たち4人も、机をくっつけてお弁当を広げていた。

お弁当箱を開ける音、卵焼きを交換する声、テレビの話題で盛り上がる笑い声。

その平和な光景の中にいながら、私は透明なカプセルに閉じ込められたような孤独を感じていた。


いや、孤独ではない。

左手首には、常に「彼ら」がいる。

私は自分の左手首を右手で強く握りしめた。

じわり、と染み出すような湿り気。

布ではない。革でもない。

やはりこれは、生きた組織のような弾力を持っている。


「……うっ」


不意に、強烈な吐き気が込み上げてきた。

私は口元を手で覆い、俯いた。

お弁当を食べる気になど、なれなかった。

胃の腑には、鉛のような重たい塊が居座っている。

それは恐怖であり、そして、認めがたい安堵だった。


私はもう、よそ者ではない。

この村の細胞の一つとして、組み込まれたのだ。

「外してはいけない」という掟は、呪いのように私を縛る。

けれど同時に、それは「外されなければ、守られる」という約束でもあった。


思考が、甘い方へと流れていく。

もう、抵抗しなくていいのではないか?

慧くんのように無理に抗ったり、沙夜のように苦しんだりせず、ただこの流れに身を任せてしまえば、楽になれるのではないか?

麗華さんの言う通り、これは「愛」なのかもしれない。

歪んで、狂っていて、息が詰まるような愛。

でも、孤独に震えるよりはマシなのではないか?


『そうだ。その通りだ』


また、声がした。

今度ははっきりと、左手首から這い上がってきた声が、鼓膜の内側を震わせた。

低い、男のような、女のような、無数の声が重なったような響き。


『受け入れろ。委ねろ。我らは一つだ』


私はガタガタと震えながら、机の下で左手首をかきむしった。

痒い。

『根緒』が触れている皮膚の下が、猛烈に痒い。

まるで、無数の細かい根が、毛穴を押し広げて肉の中へと侵入し始めているような、耐え難い痒みだった。

爪を立てて皮膚をこする。

けれど、『根緒』はびくともしない。肌に食い込み、一体化しようとしている。


「莉桜……?」


恐る恐るかけられた声に、私は弾かれたように顔を上げた。

いつの間にか、沙夜が悲私を見つめていた。

彼女の手には、小さなおにぎりが握られている。

彼女の顔色は、私と同じくらい蒼白だった。

その瞳が、私の左手首に釘付けになっている。

悲痛な色。

「どうして」と責めるような、あるいは「ごめんね」と謝るような、痛々しい眼差し。


「沙夜……」


名前を呼ぼうとして、声が掠れた。

私は慌てて左手を机の下に隠した。

親友に見られたくなかった。

この、隷属の証を。

魂を売り渡した契約の証を。


「……あ、あのね、莉桜ち」


沙夜は震える唇を開いた。


「無理、しないでね。……痛かったら、冷やすといいよ。最初は……みんな、腫れるから」


彼女はそれだけ言うと、逃げるように視線を手元のおにぎりにそらした。

私は呆然と髪で隠れた沙夜の顔を見る。

最初は、みんな、腫れる。

彼女もまた、この通過儀礼を経てきたのだ。

巫女として生まれた彼女は、物心ついた時からこの首輪を嵌められ、拒絶反応に苦しみながら、それでも受け入れるしかなかったのだ。


私は机の下で、隠した左手をそっと見た。

麗華さんの言葉と、沙夜の言葉が、頭の中でぐるぐると回る。

『愛されているの』

『痛かったら、冷やすといいよ』


皮膚が赤くただれ始めている。

ミミズ腫れのように盛り上がった肉が、『根緒』を飲み込もうとしているように見える。

異物を取り込むための炎症反応。

私の体は、拒絶しているのか、それとも順応しようとしているのか。


ズキン。

また一つ、大きく脈打った。

その拍動は、ドクン、ドクンという人間の心音とは違っていた。

もっとゆっくりとした、地底のマグマが蠢くような、あるいは巨木が水を吸い上げるような、重厚で粘着質なリズム。

ググッ、と手首が勝手に動いた気がした。

私の意思ではない。

『根緒』が、私の神経に干渉し、操ろうとしているかのような感覚。


怖い。

たまらなく怖い。

けれど、もう遅い。

私はこの教室の中で、一人だけ浮いていた「異物」ではなくなった。

周囲の子供たちの笑い声が、今は心地よくさえ感じる。

彼らと同じリズムで、同じ方向を向いて、同じ空気を吸っている。

その一体感が、麻薬のように私の恐怖を和らげ、思考を麻痺させていく。


(外してはいけない……)


私は呪文のように心の中で繰り返した。


(外したら、死ぬ。外さなければ、生きられる)


窓の外では、九月の重い空気が澱んでいる。

蝉の声が、ジジジ、ジジジと、油で揚げるような音を立てていた。

その音は、私の手首に巻き付いた『根緒』が、肉を焦がし、同化していく音のようにも聞こえた。


私はゆっくりと、深く息を吐き出した。

肺に入ってくる空気は、カビと腐葉土の臭いがした。

以前はあんなに嫌悪していたその臭いが、今は不思議と、体の奥深くに馴染んでいくのが分かった。


私はもう、逃げられない。

そして、逃げたくないのかもしれない。

そんな恐ろしい思考は、木から落ちて腐った果物の腐汁が地面に広がるように、私の心の中に広がり始めていた。



4-4【幻触】


その日の授業の記憶は、水底に沈んだ泥のように酷く曖昧だった。

窓の外で数の減った油蝉の鳴く声と、牛松先生の単調な読経のような声が混ざり合い、意識の膜を隔てて遠く響いていたことだけは覚えている。黒板に書かれた数式も、歴史の年号も、私の脳を素通りして虚空へと消えていった。


ただ一つ、鮮明な現実としてそこにあったのは、左手首に巻き付いた感触だけだった。

湿り気を帯びた植物の繊維が、脈打つ血管の上でじっとりと皮膚に吸い付いている。時折、それが生き物のように収縮し、私の血流を阻害するような錯覚に襲われた。


チリン、チリン……。


牛松先生が鳴らす放課後を告げるベルの音が、水面から顔を出した時のように、唐突に私の意識を現実へと引き戻した。

ハッとして顔を上げると、教室はすでに下校の喧騒に包まれていた。

私は机に突っ伏していたのだろうか。額に嫌な汗をかいている。

視界がぐらりと揺れた。


「莉桜さん、帰りましょうか」


頭上から降ってきた鈴を転がすような声に、私はビクリと肩を震わせた。

見上げると、麗華さんが完璧な微笑みを浮かべて私を見下ろしていた。逆光で表情の陰影が濃くなり、その瞳の奥だけが暗い井戸の底のように光を吸い込んでいる。

彼女の背後には、鞄を持った沙夜と、窓の外に目を向けている慧くんが立っていた。


「……う、うん」


私は操り人形のように頷き、鞄に教科書を詰め込んだ。

拒否権などない。

今日、私は「贈呈式」を経て、正式に彼女たちの「仲間」になったのだから。


四人で並んで廊下を歩く。

いつもの風景だ。何度も繰り返してきた放課後の光景。

けれど、空気の密度は以前とはまるで違っていた。

私の左手首にある『根緒』が、三人の手首にあるそれと見えない糸で共鳴し、私をこの集団に縫い留めているような閉塞感。


「本当によかったわ。これで莉桜さんも、名実ともに根守の一員ですもの」


昇降口で靴を履き替える間も、麗華さんの口調は弾んでいた。

彼女は私の左手首に視線を落とし、愛おしそうに目を細めた。

まるで、手塩にかけて育てた花壇の花を愛でるような目つきだった。


「最初は少し違和感があるかもしれませんけど、すぐに慣れますよ。肌の一部みたいに馴染んで、着けていないと不安になるくらいになりますから」

「……そう、なのかな」

「ええ。ねえ、沙夜さん?」


麗華に同意を求められ、沙夜がびくりと体を強張らせた。

彼女は今にも泣き出しそうな顔で私を一瞬だけ見て、すぐに視線を逸らした。その唇は何かを言いたげに震えていたけれど、結局、小さな声で「……うん」とだけ答えた。

沙夜の左手首にも、古びて色の濃くなった『根緒』が巻かれている。それは彼女が生まれた時から、その身を縛り続けてきた鎖だ。


校舎を出ると、九月の半ばだというのに、湿り気を帯びた熱気が全身にまとわりついた。

空は低く、鉛色の雲が垂れ込めている。

私たちは無言でいつもの通学路を歩く。

先頭を歩く麗華さんの足取りは軽い。対照的に、慧くんの足取りは重く、その背中には隠しきれない苛立ちと無力感が滲んでいた。

彼は時折、ポケットに入れた拳を強く握りしめているようだった。きっと、爪が掌に食い込むほどの強さで。けれど、彼は一度も振り返らず、私に言葉をかけることもなかった。

ここで私を気遣う言葉をかければ、それは「信仰への疑い」とみなされる。

彼は賢い。だからこそ、残酷なまでに沈黙を守るしかなかった。


いつもの分かれ道に差し掛かる。

村の最奥、忌み山へと続く上り坂と、私の家がある村の入り口へと続く下り坂。

ここで、私たちは別れる。


「では、また明日」


麗華が立ち止まり、優雅に手を振った。

その動作に合わせて、彼女の左手首の『根緒』が揺れる。

沙夜も、慧くんも、立ち止まって私を見る。

三人は「上」へ。私は「下」へ。

けれど、その境界線はもう曖昧になっていた。私の左腕にあるこの赤茶けた組紐が、私を「上」へと、あの忌み山の頂へと、見えない力で引き寄せているのを感じる。


「……また、明日」


私が掠れた声で返すと、麗華さんは満足げに微笑み、踵を返した。

三人の背中が、坂道を登っていく。

夕闇に沈みゆく村の奥へと吸い込まれていくその姿は、まるで墓場へと帰っていく亡霊の行列の一部に見えた。


三人の姿が見えなくなるまで、私は動けなかった。

一人になった瞬間、堰を切ったように恐怖が溢れ出した。

足が震える。

左手首が、鉛のように重い。

たかだか数グラムの植物の繊維。それなのに、その重さは私の重心を狂わせ、地面へと、根守の地中深くへと私を引きずり込もうとしている。


私は逃げるように、自分の家へと続く道を歩き出した。

アスファルトのひび割れから顔を出す雑草。道端に放置された錆びたガードレール。

見慣れたはずの通学路が、今日はひどく歪んで見えた。


「……おかえり」


不意に、粘着質な声が鼓膜を撫でた。

心臓が跳ね上がる。

道沿いの畑で、農作業をしていた老婆が顔を上げていた。

腰の曲がった、小柄な老婆。いつもなら、私が挨拶をしても無視するか、じろりと睨みつけるだけの相手だ。よそ者の私を、異物を見る目で排除していた村人の一人。

けれど、今日は違った。


老婆はくわの手を休め、深く刻まれた皺の奥にある濁った瞳で、私をじっと見つめていた。

その視線は、私の顔ではなく、胸元で握りしめた左手首に注がれている。

そして、口元だけで笑った。

ヒヒ、と喉の奥で空気が漏れるような音。

好意的な笑みではない。かといって、敵意でもない。

それは、仲間を見つけた時の安堵と、自分と同じ沼に落ちた者を歓迎する、くらい共感の色だった。


「よう似合っとるよ」


老婆はしわがれた声でそう言うと、満足げにまた鍬を振るい始めた。

背筋に冷たいものが走る。

今まで向けられていた冷淡な拒絶のほうが、まだマシだった。

「よそ者」として弾かれているうちは、私はまだ「個」でいられた。

けれど、今の視線は違う。

私という輪郭が溶かされ、村という巨大な泥の中に混ざり合うことを許された、おぞましい「承認」の視線。


私は会釈もできずに、その場から早足で立ち去った。

息が苦しい。

吸い込む空気のすべてに、腐葉土と線香の匂いが混じっている気がする。

逃げ場がない。

すれ違う村人たちが、皆、一様に私を見る。

軽トラックの窓から、民家の生垣の隙間から、商店の薄暗いガラス戸の向こうから。

数えきれないほどの目が、私の左手首を確認し、そして「納得」の色を浮かべて視線を外す。

『確認』されたのだ。

私がもう、異物ではなくなったことを。

この村の細胞の一つとして、規格品として処理されたことを。


胃の腑から酸っぱいものがこみ上げてくる。

私は口元を片手で覆いながら、必死で足を動かした。

早く家に帰りたい。

家に入って、鍵をかけて、この視線を遮断したい。

東京にいた頃の家具に囲まれて、お父さんとお母さんの顔を見て、自分がまだ「高村莉桜」であることを確かめたい。

そこだけが、この狂った世界に残された唯一の安全地帯なのだから。


公務員宿舎が見えてきた時、私は溺れかけた人間が水面を見つけたように息を吐いた。

コンクリート造りの無機質な建物。壁には雨染みで黒いカビが浮いているけれど、それでもこの村の木造建築よりは、幾分か「外」の匂いがする場所。

私はかけより、玄関のドアノブを掴んだ。

ガチャリ、とドアノブが回る音が、ひどく頼りなく響く。


「ただいま」


玄関に入り、すぐに鍵を閉める。

チェーンロックもかける。

外の世界を、村の空気を、すべて遮断するように。

靴を脱ぎ捨て、廊下を走る。

家の中は薄暗かった。夕方の西日が差し込んでいるはずなのに、窓ガラスが汚れているのか、それとも空気が澱んでいるのか、全体的にセピア色の膜がかかったように見える。


台所から、トントン、と包丁の音が聞こえてきた。

煮物の甘辛い匂いと、魚を焼く煙の匂い。

日常の匂いだ。

私は強張っていた肩の力を少しだけ抜いた。


「お母さん?」


居間の襖を開ける。

ちゃぶ台の上には、すでに夕食が並べられていた。

筑前煮、焼き魚、冷奴、そして山盛りの白米。

父はすでに座布団に座り、ビール瓶を手酌で傾けていた。テレビはついているが、音量は最小に絞られている。ニュースキャスターが口をパクパクと動かしているだけで、内容は頭に入ってこない。


「おお、莉桜か。お帰り」


父が顔を上げた。

その顔を見て、私は足を止めた。

父の顔色が、妙に良かったのだ。

ここ数ヶ月、父はずっと疲れていた。役場の仕事になじめず、村八分の疎外感に悩み、眉間には常に深い皺が刻まれていた。顔色は土気色で、目の下には濃い隈があったはずだ。

それなのに、今の父の肌は艶々としていて、瞳は不自然なほど爛々(らんらん)と輝いている。

まるで、憑き物が落ちたような、あるいは、別の何かに憑かれたような明るさ。


「お帰りなさい、莉桜」


台所から母がおひつを抱えて出てきた。

母もまた、満面の笑みを浮かべている。

東京にいた頃の、上品で優しかった母の笑顔ではない。口角が耳まで裂けそうなほど吊り上がり、目尻の皺が深く刻まれた、能面のような笑顔。

その表情は、なぜか麗華さんの笑顔に、よく似ていた。


「……ただいま。お父さん、お母さん、なんか……いいことあったの?」


私は努めて明るい声を出そうとしたが、喉がひきつって掠れた音しか出なかった。

違和感が、警報のように脳内で鳴り響く。

何かがおかしい。

この明るさは異常だ。

昨夜までの、重苦しい沈黙に包まれた食卓はどこへ行ったの?


「ああ、いいことだとも!」


父がビールをあおり、高らかに笑った。

「今日、役場で、神代家からのお言葉を頂いたんだ。『高村さん、いつもご苦労様です。これからは村のために、共に力を尽くしましょう』とな」

「まあ、素敵。私の方もよ。婦人会の集まりで、御子柴さんの奥様が私の隣に座ってくださったの。『今まで寂しい思いをさせてごめんなさいね。これからは家族同然よ』って、手を取ってくださったわ」


母がちゃぶ台におひつを置き、うっとりとした表情で両手を合わせた。

家族同然。

その言葉を聞いた瞬間、教室で麗華さんに言われた言葉が蘇る。

『これであなたも、名実ともに根守の一員です』

『私たちは家族同然なんだから』


「よかったな、莉桜。これでもう、我々はよそ者じゃない。この村に、しっかりと根を下ろすことができたんだ」


父が感極まったように言う。

根を下ろす。

その言葉の響きが、私の足元から這い上がってくるような寒気を連れてくる。


「さあ、座りなさい。今日はご馳走よ。お祝いなんだから」


母に促され、私は逃げるように自分の席に座った。

座布団の感触が、やけに生々しい。

目の前の料理から立ち上る湯気が、私の顔を撫でる。

美味しそうな匂いのはずなのに、なぜか鼻の奥がつんとするような、鉄錆の臭いが混じっている気がした。


「いただきます」


両親が声を揃えて手を合わせる。

その時、二人の手首が視界に入った。


「……あ」


私の喉から、空気が漏れた。

時が止まったように、視線が釘付けになる。

父の左手首。

母の左手首。

そこには、赤茶けた、太く醜悪な組紐が巻かれていた。


『根緒』だ。


私と同じ。

教室で、麗華さんに巻き付けられたものと同じ。

乾燥した血管のような、あるいは干からびたミミズのような、あの組紐が、両親の手首にも巻かれていた。


「どうしたの? 莉桜」


私の視線に気づいた母が、不思議そうに首を傾げた。

そして、自分の左手首に視線を落とし、愛おしそうにその紐を撫でた。


「ああ、これ? 素敵でしょう。御子柴さんの奥様が、『歓迎の印』だって、私の手首に結んでくださったのよ。お父さんも、神代家から許可を頂いて、上司の方に巻いてもらったそうよ」

「ああ。これはただの飾りじゃないぞ。この村の人々との絆の証だ。これをつけているだけで、体が軽くなったような気がするんだ。不思議だなあ、力が湧いてくるようだ」


父が左手を握ったり開いたりして、その感触を確かめている。

『根緒』が脈打つように、父の筋肉の動きに合わせて収縮しているように見えた。


「莉桜も、今日学校で頂いたんでしょう? 見せて頂戴」


母の目が、私の左手を捉える。

逃げられない。

私は震える手で、テーブルの下に隠していた左手をゆっくりと出した。

袖口から、赤茶けた紐が覗く。


「まあ! お揃いね!」


母が歓声を上げた。

その声は無邪気で、だからこそ残酷だった。

パチパチパチ、と母が手を叩く。

父も満足そうに頷き、柏手かしわでのように手を打った。


「よかった、よかった。これでお前も一人前だ。学校でも、もう辛い思いをしなくて済むな」

「そうよ。これからはみんな一緒。心は一つよ」


心は一つ。

その言葉が、呪文のように食卓を支配する。

両親の笑顔が、歪んでいく。

彼らの輪郭がぼやけ、背景の薄暗い壁に溶け込み、そして村全体の巨大な影と同化していくように見えた。

目の前にいるのは、私を育ててくれた優しい両親ではない。

「根守村」という巨大な怪物の、末端器官に成り下がった何かだ。


「……う、れしい……」


私は嘘をついた。

そうしなければ、この場で食い殺されると思ったからだ。

唇が引きつり、笑顔の形を作る。

頬の筋肉が痙攣する。

両親はそれに気づかない。気づくはずがない。彼らはもう、私の心なんて見ていないのだから。彼らが見ているのは、私の手首にある『根緒』と、それが象徴する「服従」だけなのだ。


「さあ、冷めないうちに召し上がれ」


母が箸を取る。

父もビールを置き、箸を伸ばす。

私は吐き気をこらえながら、白米を口に運んだ。

味がしない。

砂を噛んでいるようだ。

咀嚼するたびに、口の中でジャリ、ジャリと音がする。

ふと、父の手首を見る。

箸を動かすたびに、『根緒』が手首の皮膚と擦れ合い、まるで皮膚の下に潜り込もうとしているかのようにうごめいて見えた。

父の血管が浮き上がり、その色がどす黒く変色している気がする。

あの紐から、何かが注入されているのではないか。

村の教え、狂気、そして虚空様の養分となるための毒素が、父の体内に送り込まれているのではないか。


「美味しいわねぇ、このワラビ」


母がうっとりとした声で言う。

その口元には、黒い煮汁がついていた。

それが、血に見えた。

古い、酸化した血の色。


私は箸を置いた。

これ以上、ここにはいられない。


「……ごちそうさま。私、ちょっと疲れたから、先に休むね」


「あら、もう? 学校で色々あったものね。興奮して疲れたんでしょう」

「ゆっくり休みなさい。明日はもっと素晴らしい日になるぞ」


両親の言葉を背中で受け止めながら、私は逃げるように居間を出た。

廊下に出ると、背後から両親の楽しげな笑い声が聞こえてきた。

その声は、無機質なノイズとなって私の耳を犯した。


***


自室に入り、扉を閉める。

鍵をかける。

けれど、その金属音が、今の私にはあまりにも無力に感じられた。

敵は外にいるのではない。

家の中に、そして、私の体そのものに、すでに侵入しているのだから。


私はベッドの端に座り込み、荒い息を吐いた。

部屋の電気をつける気にもなれなかった。

窓の外からは、夜の闇に沈んだ忌み山のシルエットが、黒い巨人のようにそびえ立っているのが見える。

あの山が、私を見ている。

この部屋の壁も、天井も、床も、すべてがあの山の根と繋がっている。


左手首が熱い。

『根緒』が巻かれた部分が、火傷をしたように熱を帯びている。

じっとりとした汗が、皮膚と紐の間に溜まっている。

痒い。

痛い。

気持ち悪い。


「外したい……」


私は掠れた声で呟いた。

外さなきゃいけない。

これを着けていたら、私は私でなくなってしまう。

お父さんやお母さんのように、あの笑顔で、狂ったことを口走る人形になってしまう。

東京にいた頃の記憶も、沙夜との思い出も、慧くんの警告も、すべて塗りつぶされてしまう。


私はふらつく足取りで勉強机に向かった。

引き出しを開ける。

筆箱の中から、ハサミを取り出す。

銀色の刃が、窓からの月明かりを反射して鈍く光った。


「切るんだ」


自分に言い聞かせる。

これはただの紐だ。

植物の繊維を編んだだけの、ただの物質だ。

呪いなんてない。

神様なんていない。

慧くんが言っていたじゃないか。『あんなもの、ただの植物だ』って。

だから、切れるはずだ。

切って、燃やして、トイレに流してしまえばいい。


私は右手にハサミを握りしめた。

左手を机の上に置く。

震えが止まらない。

ハサミの刃先が、カチカチと机に当たって音を立てる。


『外してはいけない』


脳内に、麗華さんの声が響く。


『それは契約です』

『外せば、魂の緒が切れる』


「うるさい……!」


私は首を振って、声を振り払おうとした。

ハサミの刃を開く。

赤茶けた組紐を、刃の間に挟む。

ただの紐だ。

ただの紐。


私は目を閉じ、手に力を込めた。


その瞬間だった。


「ギャアアアアッ!!」


私の口から、絶叫がほとばしった。

激痛。

閃光のような痛みが、左手首から脳天へと突き抜けた。

ハサミが床に落ちる。

私は左手首を押さえ、その場にうずくまった。


痛い。痛い痛い痛い痛い。

切れた。

手首が切れた。

血管が、神経が、骨が、断ち切られた。


私は脂汗を流しながら、恐る恐る左手を見た。

血が噴き出しているはずだ。

手が床に転がっているかもしれない。


けれど。


月明かりの下、私の左手はそこにあった。

白い肌。

そして、そこに巻かれた赤茶けた『根緒』。

傷ひとつなかった。

血の一滴も流れていなかった。

組紐には、ハサミの傷跡さえついていなかった。


「……え?」


幻痛。

いや、違う。

これは幻覚なんかじゃない。

私の神経が、脳が、この『根緒』を「自分の体の一部」だと認識してしまっているのだ。

紐を切ろうとした行為を、脳は「自分の手首を切断する行為」として処理し、防衛本能として激痛信号を送ったのだ。


『馴染んでいる』


麗華さんの言葉が蘇る。


『血管の中に根が入り込み、一体化しようとしている』


嘘じゃなかった。

比喩じゃなかった。

この紐は、もう私の皮膚と癒着し、神経と接続し、私の肉体の一部として機能し始めている。

寄生。

いや、同化。


私は床に落ちたハサミを見つめた。

もう二度と、拾い上げることはできないと悟った。

次に刃を当てれば、私はショック死するかもしれない。

それほどの痛みが、私の体に刻み込まれてしまった。


「あ……ああ……」


絶望が、黒いタールのように心を満たしていく。

逃げられない。

物理的に、逃げられない。

この村を出ても、この紐を外すことはできない。

死ぬまで、いや、死んでも、私はこの根に縛られ続けるのだ。


涙が溢れてきた。

悔しさでも、悲しさでもない。

完全なる敗北の涙だった。


ふと、左手首の『根緒』が、ドクン、と脈打った気がした。

私の鼓動ではない。

もっとゆっくりとした、地底深くから響いてくるような、重く、力強い鼓動。

それが、私の脈拍を上書きしていく。

私の血流を支配し、私の呼吸をコントロールし始める。


(聞こえる……)


耳の奥で、音がした。

風の音ではない。

虫の声ではない。

無数の人間が、声を潜めて囁き合うような音。

地中の根を伝って、何千、何万という意識が、私の脳内に流れ込んでくる。


『ようこそ』

『こっちは温かいよ』

『もう寂しくない』

『心は一つ』

『心は一つ』


両親の声が聞こえた気がした。

麗華さんの声も。

牛松先生の声も。

そして、まだ幼い子供たちの声も。


私はガタガタと震えながら、膝を抱えた。

私の個が、消えていく。

「高村莉桜」という輪郭が、根守の闇に溶かされていく。

恐怖が薄れていくのが、何よりも怖かった。

安らぎが、温かい泥のように私を包み込んでいく。


「……助けて、沙夜……慧くん……」


最後に残った理性が、友人の名前を呼んだ。

けれど、その声はあまりにも小さく、部屋の闇に吸い込まれて消えた。


窓の外で、忌み山の巨木がざわざわと枝を揺らした。

その音は、新しい養分を得たことへの、満足げな吐息のように聞こえた。

私の左手首の『根緒』が、ぎゅっと締め付けられる。

それはまるで、私を決して離さないという、親愛なる抱擁のようだった。


(第四章 完)

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