第三章 亀裂
Google AI Studioで専用のアプリを作り、プロットを読み込ませて作った和風ホラー小説です。
3-1【進路】
七月も中旬を過ぎ、根守の村は暴力的なまでの湿気と熱気に包まれていた。
窓の外では、蝉の鳴き声が耳鳴りのように響いている。ジジジ、ジジジ、と油で揚げられるようなその音は、谷底の集落に逃げ場なく反響し、ただでさえ重苦しい空気をさらに加熱させていた。
だが、教室内は意外なほどに賑やかだった。
昼休みを告げるチャイムが鳴ると同時に、張り詰めていた空気が弾け、生徒たちは一斉に机を動かし始めたのだ。
「やった、今日卵焼き入ってる!」
「見て見て、母ちゃんが作った煮物、色が変なんだけど」
「お前んち、またそれかよー」
下級生たちは口々に叫びながら、それぞれの仲良しグループで机をくっつけ合う。小学一年生から中学三年生までが同居するこの複式学級では、昼食の時間はさらに、学年の垣根を超えた無邪気な交流の場となっていた。
もうすぐ夏休みだ。子供たちの浮き足立つ心は、村を覆う重苦しい湿気さえも一時的に忘れさせているようだった。
私たち中学三年生の四人も、いつものように窓際で机を向かい合わせていた。
この村には給食センターなどという気の利いたものはない。全員が家から持参した弁当を広げている。
「あら、莉桜さんのお弁当、今日は冷凍食品ではありませんのね」
ふわりと、花の香りがした。
御子柴麗華さんが、漆塗りの重箱のような弁当箱を広げながら、鈴を転がすような声で言った。中には彩り豊かな煮物やだし巻き卵が、隙間なく、そして幾何学的なほど整然と詰められている。
「うん、お母さんが早起きして作ってくれたの。村の婦人会で教えてもらった、って」
私は愛想笑いを浮かべながら、プラスチックの弁当箱の蓋を開けた。中身は地味な茶色の炒め物だが、麗華さんの豪華な弁当と比べられると少し恥ずかしい。
「素敵ですわ。お母様の愛情を感じます」
麗華さんはにっこりと微笑むと、音一つ立てずに優雅に箸を動かした。
彼女の周りだけ、まるで避暑地の別荘のような空気が流れている。額に汗を浮かべている私とは対照的に、麗華さんの白い肌には汗ひとつない。
「……ん、おいしい」
隣では、神代沙夜が小さな口でサンドイッチを頬張っていた。彼女の弁当はいつも質素だ。神社の忙しい朝に、さっと作れるものばかり。
「慧くんは? 今日もおにぎり?」
私が尋ねると、窓際で文庫本を読んでいた神代慧くんが、視線だけをこちらに向けて肩をすくめた。
「ああ。食べるのが楽だからな」
彼はアルミホイルに包まれた巨大なおにぎりを二つ、無造作に机の上に置いている。中身は梅干しだろうか。彼の実利主義な性格がよく表れていた。
四人で囲む食卓。周囲の下級生たちの笑い声。
一見すれば、どこにでもある田舎の学校の、平和なランチタイムだ。
けれど、私は知っている。この穏やかな光景が、薄氷の上に成り立っていることを。
私の手首には何もないが、他の三人の手首には、赤茶けた『根緒』が巻かれている。それが時折、箸を動かすたびに視界に入り、私に「異物」であることを突きつけてくるのだ。
「そういえば」
麗華さんが、口元をハンカチで上品に拭いながら言った。その何気ない動作に、ふと鋭いものが混じる。
「進路希望調査票、もう提出なさいまして? 牛松先生が、今日中に集めたいとおっしゃっていましたけれど」
彼女の視線が、私の机の中からはみ出していた白い紙に向けられる。
そこには、私の拙い文字で、第一志望の高校名が記されていた。
『県立 北野高等学校』
この村からバスと電車を乗り継いで二時間近くかかる、市内の進学校だ。そこに通うとなれば、必然的にこの村から出て、下宿生活を送ることになる。
それは、私が両親と相談し、そして何より私自身が切望した「出口」への切符だった。
「あ、うん。一応、書いたよ」
私は努めて明るく答えた。周囲の喧騒に紛れさせてしまいたかった。
「あら……北野高校ですか」
麗華さんは私の手元を覗き込み、目を細めた。その瞳の奥には、値踏みするような光が宿っている。
「莉桜さんなら、きっと合格できますわ。東京にいらした頃の学力があれば、問題ありませんものね」
「そんなことないよ。こっちに来てから勉強遅れてるし……」
「ご謙遜を。でも、おめでとうございます」
「え?」
「だって、夢が叶うのでしょう? 都会の空気が恋しいと、ずっと『根の帳』にも書いていらっしゃいましたもの」
心臓が跳ねた。
麗華さんの口調は柔らかい。祝福の言葉のように聞こえる。けれど、その裏には鋭利な棘が潜んでいた。
『根の帳』。あの交換日記で、私は必死に村への愛着を書き連ねてきたはずだ。けれど、彼女は見抜いていたのだ。行間の滲みや、筆圧の乱れから、私の「逃亡願望」を。
「……ありがとう」
私は掠れた声で礼を言うしかなかった。
「いいなあ、莉桜ちゃん」
隣から、蚊の鳴くような声が聞こえた。
沙夜だ。彼女は食べかけのサンドイッチを包みに戻し、儚げな瞳で私を見ていた。
「北野高校、制服可愛いんだよね。セーラー服じゃなくて、ブレザーで……。図書室もすごく大きくて、映画に出てくるみたいなんだって」
沙夜の声には、純粋な憧れが滲んでいた。
先日の日曜日、二人で出かけた村の雑貨屋で、色あせたファッション誌を読んでいた時の顔と同じだ。
私は胸が締め付けられる思いで、彼女の手を握りたくなった。
「沙夜も、一緒に行こうよ」
喉まで出かかった言葉を、私は必死に飲み込んだ。
言ってはいけない。それは、この場所では禁句だ。
沙夜の左手首には、太く、どす黒い『根緒』が巻かれている。それは彼女の細い手首に食い込み、血管を締め上げるように脈打って見えた。
「沙夜さんは、当然、こちらに残りますわよね」
麗華さんが、確認するまでもない事実として、さらりと告げた。
沙夜は小さく肩を震わせ、俯いたまま頷く。
「……うん。お父様が、通信制の高校に籍を置きながら、神社の手伝いをしなさいって」
「素晴らしいことですわ。神代家の巫女として、虚空様にお仕えする。この村の女子にとって、これ以上の誉れはありません」
麗華さんはうっとりとした表情で、自分の手首の『根緒』を撫でた。
「私も、父の仕事を手伝いながらこの村に残ります。私たちは、この根守の大地と一蓮托生。根を張り、養分を吸い上げ、そしていつか土へと還る。……ねえ、沙夜さん。私たちはこれからもずっと一緒よ」
麗華さんの手が伸び、沙夜の手に重ねられた。
白い肌と白い肌の接触。しかし、その間には赤茶けた『根緒』が、まるで二人の血管を繋ぐパイプのように介在している。
沙夜の顔から、血の気が引いていくのが見えた。
それは友情の確認ではない。逃亡を許さないという、鎖の確認だ。
周囲では、下級生たちが「カブトムシ取りに行こうぜ!」と笑い合っている。その明るさが、逆に私の孤独を際立たせた。
私だけが逃げる。私だけが、この息詰まる湿気から解放される。
その罪悪感が、胃の腑で冷たい鉛となって固まった。
沙夜を置いていくのか。あんなに悲しそうな目をしている親友を、この檻の中に置き去りにして。
『助けて』
いつか聞いた、幻聴のような沙夜の声が蘇る。
私は衝動的に、口を開いていた。
この重苦しい空気を変えたい。私だけが特別なのではないと、誰かに証明してほしい。
視線の先には、窓際でおにぎりを頬張る慧くんがいた。
彼なら。彼なら、私と同じ側にいてくれるはずだ。
「で、でも、慧くんも村から出るんだよね?」
私の声は、賑やかな教室の雑音に紛れることなく、奇妙なほどはっきりと響いた。
沙夜が顔を上げる。
麗華さんの手が、ぴたりと止まる。
私は縋るような思いで、慧くんの背中に言葉を投げ続けた。
「慧くん、この前言ってたじゃない。市内の進学校受けるって。……だから、神代家の人だって、外に出ることはあるんだよ。ねえ、慧くん?」
同意を求めた。
「よそ者」の私だけでなく、村の最上位である神代家の人間も外へ出る。その事実があれば、沙夜だって、あるいは他の誰かだって、自由になれる可能性があるのではないか。
そんな、浅はかな希望だった。
その瞬間、世界が凍りついた。
比喩ではない。
さっきまで騒がしかった下級生たちの声が、潮が引くようにピタリと止んだのだ。
箸を動かす音も、笑い声も、机を揺らす音も、すべてが消失した。
残ったのは、窓の外でジジジ、ジジジと鳴き続ける蝉の声だけ。
教室中の視線が、一斉に私たちのテーブルに向けられている。無邪気だった子供たちの瞳から感情が抜け落ち、ガラス玉のような無機質な光を宿して、じっとこちらを見つめている。
そして何より、目の前の麗華さんの表情が消えていた。
先ほどまでの、お嬢様らしい優雅な微笑みさえも消え失せ、そこには底知れぬ「無」があった。
彼女はゆっくりと、首を回して私を見た。
その瞳孔が開いている。黒目が、ありえないほど大きい。
「……莉桜さん?」
鈴を転がすような声。けれど、その音色はひどく低く、地底から響いてくるようだった。
「今、なんと仰いました?」
「え……あ、だから、慧くんも……」
言い直そうとして、唇が震えた。
本能が警鐘を鳴らしている。私は、踏んではいけない虎の尾を、全力で踏み抜いてしまったのだと。
「神代家の方が、村を出る? 村を、捨てる?」
彼女は独り言のように呟いた。
その言葉に合わせて、教室の空気が圧縮される。無数の不可視の根が、慧くんの四肢に絡みつき、椅子に縫い付けていくような幻覚が見えた。
「ありえませんわ」
麗華さんの声が、震えていた。怒りで。あるいは、恐怖で。
「神代家は、根守の要。虚空様の声を聞き、私たちを導く祭祀の一族。その跡取りである慧さんが、この地を離れる? 根を断ち切る? ……そんなこと、あってはなりません」
麗華さんは、ゆっくりと目を閉じ深く息を吐くと同時に肩からも力を抜いた。
「ええ、ええ、本当にありえませんわ。ですが、それも一時的なこと。神職になるには致し方ないこと。……ええ、十分に承知しています」
麗華さんは必死に自分を抑えるように苦しげに言った。
彼女にとって、この村の秩序は絶対だ。
「本来なら、神代家の血というだけで虚空様に仕える神職としての資格は十分なもの。時代が変わっても、それは不変なものなのです。それなのに……」
落ち着いていた肩がまた震えだし、眉間には苦し気なしわが歪む。
麗華さんにとって、たとえ一時的であっても神代家の人間が村から離れることは世界の理に反すること。決してあってはならないことなのだ。
「一時的に仕方なく。そうですよね? 慧さん。莉桜さんは勘違いなさっているようですが」
再び深く息を吐き、当然のことを聞くように慧くんに声をかける。その言葉にはみじんの疑いも感じられない。
沙夜が、青ざめた顔でうつむいている。
騒いでいた下級生も人形のように動きを止めて慧くんの返事を待つ。
私は自分の失言の重さに、血の気が引いていくのを感じた。
もしかしたら私は今、慧くんの逃げ道を決定的に潰してしまったのではないか?
「……うるさいな」
凍りついた静寂を切り裂いたのは、気怠げな、しかしよく通る少年の声だった。
慧くんが、ゆっくりと椅子を回転させ、こちらを向いた。
その表情には、焦りも、恐怖もなかった。ただ、退屈な時間を中断された時のような、深い倦怠感だけが張り付いている。
彼は飲みかけのお茶を置くと、頬杖をついて麗華さんを見上げた。
「声が大きいよ、麗華。頭に響く」
「あら、それは失礼。でも、勘違いは正して差し上げないと」
「莉桜の言ってることは、半分正解で、半分間違いだ」
慧くんは、私のほうを一瞥もしなかった。
まるで、そこに私が存在しないかのように。あるいは、関われば私まで巻き添えにすると判断したかのように。
彼は淡々と、事務的な口調で続けた。
「俺は確かに、村外の高校を受験する。だが、それは村を捨てるためじゃない」
「ええ、ええ、もちろんです」
麗華さんは正しい答えが返ってくることに満足げに微笑んだ。
慧くんは溜息を一つつき、黒板の上に掲げられた『虚空様』の写真を指差した。
「神職の資格を取るためだ。 本格的に神職に就くには、大学で専門の課程を修めなきゃならない。國學院か、皇學館か。どちらにせよ、今のままじゃ学力が足りない。だから進学校に行って、勉強するんだ」
それから慧くんは、クラスの他の子たちにも言い聞かせるように付け足した。
「昔は麗華の言う通り、神代家というだけでよかったけど、今の世の中は資格がものをいう。何かあった時に他所から余計な口出しされないためにも、きちんとした資格は持っていた方がいいってな。これは親父の決めたことだ」
彼の言葉は、あまりにも流暢だった。
淀みなく、論理的で、そして完璧にこの村の理屈に合致している。
「外に出るのは、あくまで修行のためだ。より深く、より正しく、虚空様の教えを理解し、この村を守るために力をつける。”君”の信仰に反するものじゃないだろ? 麗華」
慧くんの瞳が、冷ややかに麗華さんを射抜いた。
それは、狂信者に対して、より高位の教義を突きつけるような、圧倒的な「正論」の暴力だった。
麗華さんはいつもの微笑でうなずいた。
「はい。”村”の信仰、”虚空様”のためですよね」
「俺はいずれ戻ってくる。神代の跡取りとして、この村の『根』となるために。そのための準備期間だ。……莉桜、君の進学とは違うんだ」
慧くんはそう言い捨てると、再び窓の方へ向き直り、文庫本を開いた。
完璧な演技だった。
私には分かっていた。彼が机の下で握りしめている拳が、白くなるほど震えていることを。
「戻ってくる」と宣言することで、自らの逃げ道を完全に塞いだのだ。
沙夜を守るために。そして、余計なことを口走った私を守るために。
「説明の手間をかけて申し訳ありませんでした、慧さん」
麗華さんは、深々と頭を下げた。
そして顔を上げると、誇らしげに聖女の微笑みを私に向けた。
「莉桜さん。誤解を招くような言い方は、控えてくださいね。クラスの方たちが不安になってしまいますから、それと、言葉が足りないと心まで足りないと思われてしまいますよ?」
「……ごめんなさい」
私は謝るしかなかった。
麗華さんは満足げに頷くと、自分の席に座り直した。
「でも、慧さんの口から直接言葉にしていただくと安心いたしますわ。慧さんがどれほど村のことを考えてくださっているか感じられますもの。さすが神代家の跡取り。これからもずっと虚空様に見守られたこの村は安泰ですわね」
彼女はうっとりと呟き、再び重箱に箸を伸ばした。
教室の空気が、弛緩する。
止まっていた時間が、唐突に動き出した。
「あっ、それうまそう。もらい!」
「おい、それ俺のウインナーだぞ!」
下級生たちが、何事もなかったかのように食事を再開し、笑い声を上げ始める。蝉の声も、再びうるさく鳴き始めた。
そのあまりに鮮やかな切り替わりに、私は目眩を覚えた。
さっきの静寂は幻だったのか?
いや、違う。私の心臓はまだ早鐘を打ったままだし、冷や汗が背中を伝っている。
私は見てしまった。麗華さんが箸を動かすその手首の『根緒』が、先ほどよりも強く、赤黒く変色しているように見えたのを。
そして、窓際の慧くんの背中が、賑やかな教室の中で、絶望的に孤独に見えたのを。
「……ごちそうさまでした」
沙夜が、ほとんど手をつけていないサンドイッチを片付け始めた。
彼女は一度だけ、私を見た。
その瞳には、責める色はなかった。けれど、そこにあったのは深い悲しみと、諦めだった。
『私は行けない』
声に出さない拒絶が、私の胸に突き刺さる。
私たちは四人で一つのテーブルを囲み、周りは子供たちの笑い声で溢れている。
けれど、私たちの間には、もう決して埋まらない深いクレバスが口を開けていた。
***
職員室で昼食をとっていた牛松先生が、昼休みの終了を告げるベルを鳴らしながら入ってきた。
その音は、湿気を吸って鈍く歪んでいるように私には聞こえた。
教卓についた牛松先生がクラスのみんなを見渡して口を開く。
「さて、掃除の時間だ。みんな、心を込めて床を磨きなさい。床の汚れは心の汚れ。曇りなき眼で、己の根元を見つめ直すように」
「はい、先生!」
生徒たちが元気よく唱和する。
私も慌てて立ち上がり、掃除用具入れへと向かう。
雑巾がけをする私の手は、震えが止まらなかった。
床板の節目が、無数の目となって私を見上げている。
『お前は逃げるのか』
『お前だけが助かるのか』
『置いていくのか』
幻聴が、脳内でリフレインする。
ふと、視界の端で、麗華さんが私の進路希望調査票を指先で弾くのが見えた。
彼女は優雅に微笑みながら、小声で、けれどはっきりと私に聞こえるように囁いた。
「北野高校……素敵な夢ですわね。でも、莉桜さん。根のない草花は、どこへ行っても枯れる運命ですのよ。……お気をつけあそばせ」
彼女の言葉は、予言のように私の耳にこびりついた。
私は逃げられないのかもしれない。
物理的に村を出たとしても、この村の「根」は、どこまでも私を追いかけてくるのではないか。
バケツの中で雑巾を絞ると、水が赤黒く濁って見えた。
それは泥水ではなく、古い血の色をしていた。
3-2【沈黙】
教室の掃除は、喧騒の中で行われていた。
「こら、走らないの! 埃が舞うでしょう」
「だってタカシくんが雑巾投げてくるんだもん!」
小学二年生の男の子たちが、キャッキャと高い声を上げて机の間を駆け抜けていく。
ここは小中併設の複式学級だ。育ち盛りの子供たちが一斉に動き回れば、静寂など望むべくもない。箒が床を掃く音、机を引きずる重い音、そして子供たちの無邪気な笑い声が、古い木造校舎に反響してワンワンと唸っていた。
「莉桜ちゃん、そこ退いてー! ここ拭くから!」
「はいはい、ごめんね」
小学四年生の女の子が、弾けるような笑顔で私の足元へ雑巾がけをしてくる。
私は慌てて教壇の方へ避難しながら、愛想よく微笑み返した。
「綺麗になったね、偉い偉い」
「えへへ、でしょ!」
彼女たちは屈託なく私に接してくれる。そこに悪意はないし、疎外感もない。表向きは、私はすっかりこの根守村の学校に馴染んだように思えてくる。
けれど、この明るさが、私には時々ひどく不気味なものに感じられた。
彼らの手首には、例外なくあの赤茶けた『根緒』が巻かれている。あどけない笑顔と、呪術的な手枷。そのチグハグさが、私の平穏をじわじわと侵食する。
私は教壇の脇にある大きなゴミ箱を持ち上げた。
ずしり、と重い。中には、午前中の授業や休み時間に出た大量の紙くず、お菓子のゴミ、鉛筆の削りカスが詰め込まれている。
「莉桜さん、それ重くないですか? 手伝いましょうか」
近くにいた下級生の男の子が、心配そうに声をかけてくれた。
「ううん、大丈夫。ありがとうね。……沙夜、ちょっといい?」
私は黒板消しを叩いていた沙夜に声をかけた。
彼女は手を止め、舞い散るチョークの粉を払うと、小さく頷いて近づいてくる。
「うん、行こうか」
「行ってらっしゃーい!」
子供たちの明るい声に見送られ、私たちはゴミ箱の取っ手を片方ずつ持って廊下へと出た。
廊下に出た瞬間、教室の喧騒がふっと遠のいた気がした。
代わりに肌にまとわりついてきたのは、濡れた真綿で首を絞められるような、じっとりとした湿気だ。
私たちは外履きに履き替え、校舎の外へ出る。
そこには、暴力的な夏の日差しが待ち構えていた。
昨日の雨が嘘のように晴れ渡っているが、それは爽やかな夏空ではない。地面に含まれた水分が太陽熱で炙り出され、空気そのものが熱湯のように煮えたぎっている。
ジジジ、ジジジ……。
油で揚げられるような蝉の鳴き声が、脳の芯まで響いてくる。
「……暑いね」
「うん。息をするだけで、肺が重くなりそう」
沙夜が額に滲んだ汗を手の甲で拭う。
その動作で、彼女の左手首に巻かれた太く黒ずんだ『根緒』が揺れた。私の何もない、白々しい手首と並ぶと、私たちは全く別の生き物であるかのように見えた。
私たちは無言のまま、校舎の裏手、雑木林との境界線にある焼却炉へと歩いた。
アスファルトの照り返しが痛い。足元から立ち上る陽炎の向こうで、村の景色がゆらゆらと歪んで見える。
扇状に広がる家々の屋根。その要の位置で村のすべてを見下ろすようにそびえ立つ、鬱蒼とした忌み山。
どこへ行っても、あの山からは逃げられない。そんな強迫観念が、背中に冷や汗を滲ませる。
焼却炉は、赤茶けた鉄の塊となって口を開けていた。
私はゴミ箱を地面に置くと、大きく息を吐いた。
周囲に人の気配はない。聞こえるのは蝉の声と、遠くの水路の音だけ。教室の子供たちの無邪気な視線も、麗華さんの監視するような笑顔もない。
今しかない。
私は焼却炉の重い鉄の扉を開け、ゴミを火の中へ放り込んだ。カサカサと音を立てて、紙くずが炎に巻かれていく。
その炎を見つめながら、私は意を決して口を開いた。
「ねえ、沙夜」
私の声は、炎の爆ぜる音にかき消されそうなほど小さかった。
「さっきの話……お昼の時の。進路のことだけど」
沙夜の手が止まる。
「……本当に、それでいいの?」
「それでいいって、通信制のこと?」
「ううん。違う。……ずっと、この村にいるってこと」
言ってしまった。喉の奥がひりつく。それは、この村では決して口にしてはいけないタブーに触れるような感覚だった。
沙夜はゆっくりと顔を上げた。その瞳は、燃え盛る炎の色を映しているはずなのに、どこまでも暗く、冷たい沼のように淀んでいる。
「……お父様が、そうしなさいって。巫女は村から出ちゃいけないの。根守の地を守るために、虚空様にお仕えしなきゃいけないから」
「でも!」
私は一歩踏み出した。
「沙夜、前に言ってたじゃない。東京のクレープを食べてみたいって。可愛い服着て、映画館行ってみたいって。あの時の沙夜、すごく楽しそうだった。……あれが、本当の沙夜なんでしょ?」
沙夜の瞳がわずかに揺れた。先日の日曜日、雑貨屋で見せたあの年相応の少女の顔。あれこそが、彼女の本心だと信じたかった。
「私ね、第一志望、北野高校にしたの。あそこならバスで通えるし、下宿だってできる。……沙夜、一緒に行こうよ」
私は彼女の手を握ろうとした。
けれど、その手は空を切った。沙夜が、音もなく一歩後ずさったからだ。
「……無理だよ」
「無理じゃないよ! 慧くんだって受けるんでしょ? 三人で一緒に行こうよ。この村から出る方法は、あるんだよ」
私は必死だった。
もし沙夜が村に残ると決めてしまったら、私は親友を見捨てて、自分だけが安全圏へと逃げることになる。そんな罪悪感に耐えられる自信がなかった。
「一緒に行こうよ、沙夜。……私、沙夜と離れたくない」
沙夜は、泣き出しそうな顔で私を見ていた。
その視線は、私の顔ではなく、私の手首――何もない、空白の手首に向けられていた。
そして、彼女は自分の左手首を右手で強く握りしめた。そこにある『根緒』が、白い肌に食い込む。
「……莉桜は、いいな」
ぽつりと、吐息のような声が漏れた。
「え?」
「莉桜には、根がないから。……どこへでも行ける。風に乗って飛んでいく種みたいに」
「沙夜だって……」
「私には、あるの」
沙夜は自嘲気味に笑った。その笑顔は、ひび割れた能面のように痛々しかった。
「根が、あるの。……深くまで張ってる。もう、抜けないくらい」
彼女は視線を、焼却炉の向こう、鬱蒼と茂る森へと向けた。
「聞こえるの。……最近、ずっと」
「え……?」
「土の下から。ゴウゴウって。……『行くな』って。『お前はここの土になるんだ』って。虚空様の声が、根っこを伝って、私の血管の中に入ってくるの」
沙夜の瞳孔が、わずかに開いているように見えた。
熱気のせいではない。彼女が見ているのは、私ではない「何か」だ。
「沙夜……?」
「ごめんね、莉桜。……私は、行けない」
沙夜は、私の誘いを拒絶したのではない。
物理的に、あるいは精神的に、既に「固定」されてしまっているのだという事実を、淡々と告げただけだった。
彼女の足元から見えない根が生え、地面深くと結びつき、養分を吸い上げられている――そんな幻覚が見えた気がして、私は息を呑んだ。
パチン、と焼却炉の中で何かが爆ぜた。
その音で、私たちは我に返った。
「……そろそろ、戻らなきゃ」
沙夜が、いつもの仮面を被り直したように無表情に戻る。
「うん……そうだね」
私はそれ以上、何も言えなかった。空になったゴミ箱を二人で持ち、来た道を戻り始める。
行きよりも、ゴミ箱はずっと重く感じられた。
中身は空っぽのはずなのに、そこには「諦念」という名の、鉛のように重い塊が詰まっているようだった。
教室の前に戻ると、中からはまだ賑やかな声が聞こえていた。
「先生、終わりましたー!」
「よーし、じゃあ机を戻そうか」
ガララ、と引き戸を開ける。
湿った空気が澱む教室の中で、子供たちは相変わらず元気に走り回っていた。
その喧騒の向こう、窓際で黙々と机の列を微調整していた慧くんが、顔を上げた。
彼は私と沙夜を交互に見ると、その視線は、うつむき気味の沙夜の表情へと止められた。
そして、すべてを察したように、短く息を吐いた。
「……ゴミ、多かったか?」
慧くんの声は低く、周囲の明るさから浮いていた。
けれど、その瞳の奥には、私に向けた微かな咎めるような光と、沙夜に向けた痛ましいほどの慈悲が混ざっていた。
「……うん。ちょっと、燃えにくくて」
私は下手な嘘をついた。
沙夜は私の後ろで、無言のまま自分の席へと歩いていく。
慧くんは、持っていた雑巾を机の上に置くと、誰にも聞こえないような声で呟いた。
「……無駄なんだよ」
「え?」
「燃やしても、燃やしても。……根っこは残る」
彼は私の顔を見ずに、窓の外、あの忌み山の方角を見つめていた。
「表面だけ綺麗にしても、下で繋がってる限り、逃げられないんだ」
それは掃除の話をしているようで、明らかに私たちの運命を暗示していた。
慧くんの横顔には、15歳の少年とは思えないほどの深い疲労と、諦めが刻まれている。
「皆様、お掃除ご苦労様でした」
不意に、教室の前方から鈴を転がすような声が響いた。
麗華さんだ。
彼女は教壇に立ち、完璧な笑顔で私たちを見渡していた。その手には、日直用の黒いファイルが抱えられている。下級生たちが「麗華さーん!」と寄っていくのを、彼女は女神のように優しく撫でている。
「教室が綺麗になると、心まで洗われるようですわね。虚空様も、きっとお喜びですわ」
彼女の視線が、ふと私と沙夜を捉える。
「あら、沙夜さん。少し顔色が優れないようだけれど、外の暑さに当てられたのかしら?」
心配そうに眉を下げるその表情は、どこまでも慈愛に満ちている。
けれど、私には分かっていた。彼女は、私たちが外で何を話していたのか、その「空気」を嗅ぎ取っているのだ。
「……大丈夫。少し、眩しかっただけ」
沙夜が掠れた声で答える。
「そう。それならよかったわ。……さあ、午後の授業が始まりますよ。席に着いて、心を鎮めましょう」
麗華さんの言葉は、教師の号令よりも絶対的な響きを持っていた。
あんなに騒いでいた子供たちも、彼女の一言で素直に席に着く。
私は椅子に座り、机の下で自分の左手首を強く握りしめた。
滑らかな皮膚の感触。ここには何もない。まだ、何もない。
けれど、沙夜の言った「根が血管の中に入ってくる」という言葉が、呪いのように頭から離れなかった。
私は恐怖を振り払うように顔を上げ、黒板を見つめた。
そこには、日直である麗華さんの端正な文字で、今日の目標が書かれていた。
『一蓮托生』
その四文字が、まるで私たちへの宣告のように、黒い黒板の中で白く浮き上がっていた。
3-3【警告】
じっとりと汗ばんだ制服のブラウスが、背中に張り付いて不快だった。
村の入り口へと続く下り坂を、私は一人で歩いていた。
アスファルトから立ち上る陽炎が、視界をゆらゆらと歪ませている。道端の雑草は熱気でぐったりと萎れ、その緑色は毒々しいほどに濃い。
耳の奥では、油で揚げられるような蝉の鳴き声が、絶え間なく響き続けている。
ジジジ、ジジジ……。
その音は、私の思考を麻痺させ、この村の湿った空気に同化させようとする催眠術のようだった。
数分前、いつもの分かれ道で私は三人と別れた。
「ごきげんよう、莉桜さん」
麗華さんの完璧な微笑み。
「……また明日」
沙夜の消え入りそうな声。
そして、慧くんの無言の背中。
彼らは「上」へ。私は「下」へ。
物理的な距離は数メートルずつしか離れていかないはずなのに、彼らの姿があっという間に遠ざかり、別の世界の住人になってしまったような疎外感が、胸の奥に鉛のように沈殿していた。
一人になると、途端に心細さが押し寄せてくる。
誰かに見られている気配。
民家の雨戸の隙間から。生垣の陰から。あるいは、道端のお地蔵さんのうつろな瞳から。
私は逃げるように歩調を早めた。
けれど、足が重い。靴底に粘りつくアスファルトの感触が、私を引き留めようとしているようだ。
脳裏に蘇るのは、今日の午後の授業の合間、あのけだるい教室で交わされた、短い会話だった。
***
5時間目の授業が終わった直後のことだった。
「では、日直の御子柴さん。日誌を持って職員室に来なさい」
牛松先生が、教壇で出席簿を脇に抱えながら言った。
「はい、先生」
麗華さんが優雅に立ち上がる。彼女が動くと、ふわりと甘い花の香りが漂い、教室の澱んだ空気が一瞬だけ華やぐ。
「皆様、少しの間、席を外しますわね。沙夜さん、小学組の方たちをお願いしてよろしいかしら」
「う、うん……わかった」
沙夜が小さく頷く。
麗華さんは満足げに微笑むと、先生の後について教室を出て行った。
ガララ、と引き戸が閉まる音が、やけに大きく響いた。
その瞬間、教室の空気がほんのわずかに弛緩したのが分かった。
まるで、見えない重石が取り除かれたかのように。
下級生たちが一斉にざわめき出し、沙夜の元へと駆け寄っていく。
「沙夜お姉ちゃん、あやとりしよう!」
「僕の折り紙見てよ!」
沙夜は困ったように、けれど少し嬉しそうに眉を下げ、子供たちに連れられ相手をし始めた。彼女の周りだけ、柔らかな時間が流れている。
私は自分の席で、次の授業の準備をするふりをしながら、教科書を広げていた。
視線を感じて顔を上げると、いつの間にか、窓際の席から慧くんがこちらを見ていた。
彼は文庫本を片手に持ったまま、音もなく立ち上がると、私の席のそばまで歩いてきた。
その足取りは自然で、あくまで雑談をしに来たかのような雰囲気だった。
けれど、私の机の横に立った彼の瞳には、いつもの冷ややかな光とは違う、切迫した色が宿っていた。
「……莉桜」
周囲の喧騒に紛れるほどの、低い声。
私はびくりと肩を震わせ、彼を見上げた。
慧くんは私を見ているようで、見ていなかった。その視線は私の背後の黒板や、壁の木目を彷徨っている。
「さっきの掃除の時間のことだ」
彼は手元の文庫本に視線を落としたまま、唇だけで言葉を紡ぐ。
「沙夜に、余計なことを吹き込んだな」
心臓が跳ねた。
ゴミ捨て場でのことだ。私が沙夜に「一緒に行こう」と言ったこと。
誰にも聞かれていないはずだった。周りには誰もいなかった。それなのに、なぜ。
「……見てたの?」
「想像がつくと言っているんだ」
慧くんは冷たく言い放つ。
「お前の顔には書いてある。『私は正しいことをしている』『可哀想な友達を救ってあげたい』。そういう、安っぽい正義感がな」
図星を突かれ、私は言葉に詰まった。
安っぽい正義感。そうかもしれない。私はただ、沙夜と一緒にいたくて、彼女にも広い世界を見てほしくて。
「で、でも……沙夜だって、本当は外に行きたいって思ってる。雑貨屋さんの時だって、あんなに楽しそうに……」
「それがどうした」
慧くんが私の言葉を遮った。
声の温度が、氷点下まで下がる。
「あいつが何を思い、何を願おうと、関係ないんだよ。この村では」
彼はふっと息を吐き、窓の外へと視線を向けた。
そこには、霧に煙る忌み山がそびえ立っている。
「神代家は、あの山の一部だ。根守の土壌から栄養を吸い、あの巨木に奉仕するためだけに存在している。個人の意志なんてものは、最初から組み込まれていない」
「そんなの……おかしいよ」
私は震える声で反論した。
「沙夜は人間だよ。道具じゃない。慧くんだって、本当はそう思ってるんでしょ? だから、外の高校を受けるんでしょ?」
慧くんの目が、すっと細められた。
彼は一歩、私に近づいた。机の角に手を置き、私を威圧するように身を乗り出す。
「勘違いするな。俺が外に出るのは、あくまで修行だ。神代の跡取りとして相応しい力をつけるためのな」
それは、昼休みに麗華さんに言った言葉と同じだった。
けれど、今の彼の表情には、あの時のような余裕はない。
「いいか、莉桜。これは忠告だ」
彼は声をさらに潜め、私の耳元で囁くように言った。
「これ以上、深入りするな。沙夜を巻き込むな。お前が『善意』で差し伸べた手は、この村じゃ『凶器』になる」
「凶器……?」
「そうだ。お前が沙夜に希望を見せれば見せるほど、彼女は今の境遇に耐えられなくなる。それは『根腐れ』の始まりだ。……腐った枝がどうなるか、お前も知っているだろう?」
背筋に冷たいものが走った。
切り落とし。排除。
『根腐れ』というワードが、私の頭の中で不吉な妄想を膨らませていく。
「まさか……沙夜を、どうするつもり?」
「俺じゃない。この村のシステムがするんだ」
慧くんは苦しげに顔を歪めた。
「この村のシステムは、異物を許さない。少しでも規格から外れたものは、容赦なく剪定される。神代の人間だろうが、関係ない。いや、神代だからこそ、より厳しく監視されているんだ」
彼は机の上に置いた左手に、ぐっと力を込めた。
爪が白くなるほどに、机の端を握りしめている。
「お前は『よそ者』だ。良くも悪くも、根がない。だからこそ、無責任に夢を語れる。だがな、俺たちは違う。生まれた時から、あの木の根に絡めとられているんだ」
「……慧くんは、怖くないの?」
私は思わず尋ねていた。
「虚空様のこと。信じてないふりをしてるけど、本当は……」
「信じてないふり、じゃない」
慧くんは私の言葉を否定した。その口調には、自分自身に言い聞かせるような強さがあった。
「信じていないんだ。あんなもの、ただの植物だ」
彼は窓の外の忌み山を睨みつけた。
「樹齢千年? 根守の大神? ……馬鹿げてる。ただの巨大なクスノキだ。維管束があり、光合成をし、土から水を吸い上げる。それだけの有機物だ。神性なんてない。意思なんてない。ただそこに生えているだけの、木だ」
科学的で、即物的な言葉。
それは、この村の信仰を真っ向から否定する冒涜だった。
もし麗華さんが聞いていたら、即座に形相を変えて激昂しただろう。
けれど、私は見てしまった。
「ただの植物だ」と吐き捨てる、慧くんのその手が。
机の端を握りしめる左手が、小刻みに震えているのを。
カタ、カタ、カタ……。
微かな音が聞こえるほどに、彼の震えは止まらなかった。
それは、武者震いなどではない。
生理的な、どうしようもない恐怖の発露だった。
言葉では否定しても、理屈で武装しても、彼の身体(細胞)は知っているのだ。
あの巨木が、ただの植物ではないことを。
この村のすべてを支配し、監視し、生殺与奪の権を握る絶対的な捕食者であることを。
慧くんは自分の手の震えに気づくと、ハッとしたように右手を添えてそれを押さえつけた。
そして、何事もなかったかのように私に向き直る。
顔色は蒼白だったが、瞳の奥には必死に理性を繋ぎ止めようとする光があった。
「……とにかく、警告はしたぞ」
彼は早口で言った。
「お前がこの村で無事に過ごしたいなら、そして沙夜を壊したくないなら、大人しくしていろ。『根の帳』には適当なことを書いて、麗華に合わせて笑っていればいい。……受験が終われば、お前は自由になれるんだから」
「慧くん……」
「沙夜にかまうな。俺にもだ」
言い捨てると、彼は逃げるように自分の席へと戻っていった。
直後、廊下から麗華さんと先生の話し声が聞こえてきた。
教室の引き戸が開く。
「お待たせいたしました」
麗華さんが戻ってきた。その手には黒い表紙の日誌と、数枚のプリントが抱えられている。
彼女は教室を見渡し、私の顔を見て、そして窓際の慧くんの背中を見た。
「あら? 教室が少し、静かですわね」
彼女は小首をかしげ、鈴を転がすような声で言った。
「まるで、悪いことをしていた子供たちが、先生が帰ってきた途端に黙り込んだみたい」
その目は笑っていなかった。
私は息を飲み、視線を机の上の教科書に落とした。
心臓が早鐘を打っていた。慧くんの震える手が、網膜に焼き付いて離れなかった。
***
坂道を下りきり、公務員宿舎のある通りへと差し掛かった。
夕暮れが迫り、谷底の村は急速に薄暗くなっていく。
私は立ち止まり、振り返った。
はるか後方、扇の要に位置する忌み山が、黒いシルエットとなって村を見下ろしている。
山頂の巨木が、風に揺れてざわざわと蠢いているように見えた。
『ただの植物だ』
慧くんの言葉を反芻する。
そうだ。あれは木だ。ただの木だ。
それなのに、どうしてこんなにも怖いのだろう。
どうして、慧くんの手はあんなにも震えていたのだろう。
「……帰ろう」
私は独りごちて、自宅へと急いだ。
道端の暗がりで、いつか見た幻覚の根がうごめいたような気がした。
地下深くに張り巡らされた根が、私の足音を聞きつけ、位置を特定しようとしている。そんな妄想が頭をもたげる。
私は自分の左手首を右手で強く握りしめた。
そこにはまだ、何も巻かれていない。
滑らかな肌の感触。
けれど、その空白が、今はたまらなく無防備で、恐ろしいものに思えた。
家の明かりが見えてきた。
けれど、そこはもう安息の場所ではない。
両親の瞳から光が消え、村の言葉しか話さなくなってしまった家。
私は深呼吸をし、強張った頬を緩めて、愛想笑いの仮面を被り直した。
「ただいま」
玄関の扉を開ける。
家の中からは、煮物の甘辛い匂いと、微かな線香の香りが漂ってきた。
奥の居間から、父と母の声が聞こえる。
「ああ、お帰り。莉桜」
「お帰りなさい。遅かったわね」
二人の声は明るかった。けれど、その抑揚のなさが、まるで録音テープを再生しているかのように空虚に響く。
「……うん、ちょっと掃除が長引いて」
私は靴を脱ぎながら、嘘をついた。
嘘をつくたびに、心のどこかが腐り落ちていくような気がした。
「そうか。掃除は大事だ。心を磨くことだからな」
父が新聞から顔を上げずに言った。
「皆様にご迷惑をおかけしていないでしょうね? 御子柴さんのお嬢さんとは、仲良くできているのかい?」
母が台所から顔を出して尋ねる。その目は、私の全身を舐めるように観察している。
「うん、大丈夫。仲良くしてるよ」
「そう、ならいいのよ。安心したわ」
母はにっこりと笑った。
その笑顔は、麗華さんのものによく似ていた。
「ご飯にする前に、手を洗ってらっしゃい。……ああ、それと」
母は何気ない口調で付け加えた。
「さっき、御子柴さんの奥様からお電話があったのよ」
心臓が凍りついた。
「え……?」
「秋祭りのことよ。今年の秋祭りは、特別なんですって。莉桜ももう三年目だし、そろそろ『役割』をいただけるかもしれないわね」
母の声は弾んでいた。
「よかったわねえ、莉桜。これでやっと、私たちも本当の意味で、この村の一員になれるのよ」
私は何も言えなかった。
ただ、曖昧に頷くことしかできなかった。
慧くんの警告が、呪いのように蘇る。
『お前が善意で差し伸べた手は、凶器になる』
そして、彼の手の震え。
『ただの植物だ』と言いながら、誰よりもその力を恐れていた彼の姿。
私は洗面所に入り、蛇口をひねった。
冷たい水が勢いよく流れ出し、排水溝へと吸い込まれていく。
鏡の中の自分と目が合った。
顔色は青白く、目の下には隈ができている。
「……逃げなきゃ」
小さな声で呟いた。
誰に対しての言葉なのか、自分でもわからなかった。
沙夜を連れて? 一人で?
わからない。けれど、ここにいてはいけない。
水音が、ゴウゴウと耳の奥で響く。
それは排水管を流れる水の音ではなく、地下深くから響く、巨大な何かの呼吸音のように聞こえた。
私は濡れた手で顔を覆い、その場にしゃがみ込んだ。
指の隙間から見える手首には、まだ『根緒』はない。
けれど、目に見えない無数の根が、すでに私の足首に絡みつき、じわじわと締め上げられているような感覚が消えることはなかった。
3-4【予兆】
居間に入ると、湿気た煎餅のような臭いが充満していた。
ちゃぶ台の上には、すでに夕食が並べられている。
父は定位置に座り、テレビのニュースを見ていた。画面の中では、東京のビル火災のニュースが流れている。アナウンサーの緊迫した声が聞こえるが、父の目は虚ろで、本当にそれを見ているのかどうかも定かではない。
「お父さん、早かったんだね」
「ああ。今日は役場の空調が壊れてな。蒸し風呂みたいで仕事にならんから、皆早めに切り上げたんだ」
父が視線を画面に向けたまま言った。
父の声には、かつての覇気はない。東京にいた頃、仕事の話をする時の父は、もっと生き生きとしていたはずだ。それが今では、村の湿気に当てられてふやけた紙のように、頼りなく、輪郭がぼやけてしまっている。
今日の夕食は、山菜の煮物と、川魚の塩焼き、そして胡瓜の酢の物だった。
母が台所からおひつを持って現れる。
「手、洗った? 今日はワラビがたくさん手に入ったのよ。婦人会の集まりで、御子柴さんの奥様から頂いたの」
「……そう。美味しそうだね」
私は努めて明るい声を出した。
御子柴さんの奥様。麗華さんのお母さんだ。その名前を聞いただけで、胃の腑が冷たくなる。
母は私の茶碗に白米をよそいながら、鼻歌交じりに言った。
「御子柴さんの奥様は本当に親切な方よ。よそ者の私たちにも、こうして村の恵みを分けてくださるんだもの。ありがたいわよねえ、あなた」
「ああ、そうだな。感謝しなきゃいかん」
父が機械的に相槌を打つ。
私は黙って箸を持った。
ワラビの煮物を口に運ぶ。
醤油と砂糖で濃く味付けされているはずなのに、口の中に広がるのは、あの腐葉土のような土の味だった。
噛むたびに、ジャリ、ジャリ、と砂を噛んでいるような錯覚に陥る。
「どうしたの、莉桜? 口に合わない?」
母が心配そうに顔を覗き込んでくる。
「ううん、美味しいよ。ちょっと、お腹空きすぎてたから」
嘘をついて、白米と一緒に煮物を流し込む。
喉を通る時、何かの幼虫を飲み込んでいるような不快感があり、私は思わず胸元を押さえた。
テレビの音だけが、静かすぎる食卓に流れている。
普段なら、学校での出来事や、テレビの話題で会話が弾むはずの時間だ。
けれど、今日の空気は違った。
見えない膜が、私たち三人を包み込んでいる。あるいは、分断している。
父も母も、私のことを見ていない。彼らの意識は、ここではないどこか、もっと巨大な「何か」に向けられているような気がした。
「そういえば」
唐突に、母が箸を置いた。
その音が、やけに大きく響き、私はびくりと肩を震わせた。
母は立ち上がり、仏壇の脇にある棚から、一枚の板を持ってきた。
回覧板だ。
プラスチックのクリップボードに、数枚のプリントが挟まれている。村の連絡事項や、行事の予定、熊の出没情報などが書かれた、何の変哲もない回覧板。
けれど、母がそれをちゃぶ台の上に置いた時、私はそれが黒いタールで塗られた死刑執行書のようにも見えた。
「今日、これが回ってきたのよ」
母の声のトーンが、一段低くなった。
「秋祭りの準備についての連絡と一緒に、ちょっと気になることが書いてあってね」
私は箸を止めた。心臓が早鐘を打ち始める。
「……何が?」
「ほら、ここ」
母が指さした箇所を目で追う。
わら半紙に、ガリ版刷りの文字が並んでいる。インクの滲んだ、丸みを帯びた文字。おそらく、役場の誰かか、あるいは神代家が作成したものだろう。
『村内各位
夏越の祓も過ぎ、いよいよ秋の大祭に向けて身を清める時期となりました。
村民の皆様におかれましては、日々、根守の大神への感謝を忘れず、心安らかにお過ごしのことと存じます。
さて、近頃、神代家の巫女様のお心を乱すような、不届きな振る舞いが見受けられるとの報告が、虚空様の元へ届いております。
巫女様は、来るべき祭儀において、神の依代となる大切なお体です。
そのお心にさざ波を立てることは、すなわち根守の地を揺るがすことに他なりません。
外からの風を吹き込み、清浄な空気を濁すことのないよう、各家庭におかれましても、十分にご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます』
読み終えた瞬間、全身の血が引いていくのが分かった。
「外からの風」。
「不届きな振る舞い」。
名前こそ書かれていないが、それが誰を指しているのかは明白だった。
私だ。
今日、沙夜と二人で焼却炉へ行ったこと。
雑貨屋でアイスを食べながら、東京の話をしたこと。
「一緒に高校へ行こう」と誘ったこと。
すべてが、筒抜けだったのだ。
あの時、周囲には誰もいなかったはずだ。聞こえるはずのない会話、見られるはずのない光景。
それなのに、なぜ。
『根が、あるの。……深くまで張ってる』
沙夜の言葉が蘇る。
地面の下、壁の中、天井裏。この村のあらゆる場所に張り巡らされた「根」が、私の言葉を吸い上げ、虚空様へと、そして村人たちへと伝達しているのだろうか。
「莉桜」
母が私を呼んだ。
顔を上げると、母は真顔で私を見ていた。
怒っているのではない。心配しているのでもない。
ただ、確認作業を行う検査官のような、無機質な目だった。
「あなた、心当たりないわよね?」
「え……?」
「神代さんの娘さん、沙夜ちゃんと仲良くさせてもらってるでしょう? まさかとは思うけれど、あなたが彼女に、変なことを吹き込んだりしていないわよね?」
「へ、変なことって……」
声が震える。喉が渇いて、言葉がうまく出てこない。
「例えば、村の教えに背くようなこととか。彼女の役割を否定するようなこととか」
母の目が、じっとりと私の瞳の奥を覗き込んでくる。
逃げ場がない。
ここで「心当たりがある」と言えば、私は自ら罪を認めることになる。
けれど、「ない」と言えば、それは明白な嘘になる。そしてこの村では、嘘はすぐに見透かされる。
「……ないよ」
私は、精一杯の虚勢を張って答えた。
「私はただ、沙夜と友達として話してるだけだよ。学校のこととか、勉強のこととか……」
「そう。それならいいのよ」
母は表情を崩さなかった。安堵の色も浮かばない。
「でもね、莉桜。火のない所に煙は立たないの。こういう回覧板が回るってことは、誰かが何かを見ているってことなのよ」
「……誰かって、誰よ」
「村の目よ。虚空様の目よ」
母は当然のことのように言った。
「私たちはね、この村に住まわせてもらっているの。よそ者の私たちがここで平穏に暮らすには、村の和を乱さないことが一番大事なの。分かってるわよね?」
その言葉に、私はカッとなった。
恐怖が、一瞬にして怒りへと変わる。
「和を乱すって、何? 私は普通に話してるだけだよ。沙夜だって、普通の女の子だよ。巫女とか、依代とか言う前に、一人の人間なんだよ!」
私の大声に、父がビクリと反応した。
箸を置き、ゆっくりとこちらを向く。
「莉桜。声を荒らげるな」
「だって、おかしいよ! 沙夜にだって、自分の人生を選ぶ権利はあるはずでしょ? 高校に行きたいとか、外の世界を見たいとか、そういう気持ちを持つことの何が悪いの? それを『心を乱す』なんて言い方、ひどいよ!」
私は一気にまくし立てた。
ずっと胸の内に溜め込んでいた澱が、決壊したダムのように溢れ出す。
「お父さんもお母さんも、東京にいた時はこんなじゃなかったじゃない! もっと自由で、私の話だってちゃんと聞いてくれた。なんでこの村に来てから、そんなにビクビクしてるの? なんで言いなりになるの?」
「莉桜!」
父がちゃぶ台を叩いた。
食器が跳ね、味噌汁が少しこぼれる。
父の顔は赤黒く充血していたが、その目は怒りよりも、もっと深い恐怖に支配されているように見えた。
「滅多なことを言うんじゃない! 誰が聞いているか分からないんぞ!」
「聞いてたっていいよ! 私は間違ったことなんて言ってない!」
「間違っている!」
父は叫んだ。
「お前のその考え方こそが、間違いなんだ! 『個人の権利』だの『自由』だの、そんなものはここでは毒なんだよ!」
父は立ち上がり、私の肩を掴んだ。その指が、痛いほどに食い込む。
「いいか、よく聞け。郷に入っては郷に従えだ。私たちは、この村の『根』の一部にならなきゃいけないんだ。お前が勝手なことをして、根を腐らせたらどうなると思う? 私たち家族全員が、ここにはいられなくなるんだぞ!」
「いられなくなればいいじゃない! こんな村、出ていけばいいよ!」
「出られるわけがないだろう!」
父の絶叫が、狭い居間に響き渡った。
その声には、私の知らない絶望が含まれていた。
「……え?」
私は呆然と父を見上げた。
父は、はあはあ、と荒い息を吐きながら、何かに憑かれたように首を横に振った。
「出られないんだ……もう、遅いんだ……」
父の手から力が抜ける。
ドサリ、と座布団の上に崩れ落ちると、父は両手で顔を覆った。
「吸われたんだよ……気力も、金も、魂も……全部、あの山に……」
「あなた、しっかりして」
母が冷ややかな声で言った。
父の背中をさすることもしない。ただ、無感情に父を見下ろしている。
そして、ゆっくりと私の方へ顔を向けた。
その顔を見て、私は息を呑んだ。
母の瞳から、光が消えていた。
黒目が、不自然なほどに大きい。まるで、カメラのレンズのように、感情を持たずに私という物体を記録しているだけの目。
口角だけが、器用に持ち上がっている。
「莉桜。お父さんを困らせてはいけないわ」
母の声は、甘ったるく、そしてとてつもなく冷たかった。
「沙夜ちゃんに自由があるなんて、そんな可哀想なこと、二度と言ってはいけませんよ」
「……可哀想?」
「ええ、そうよ。だって、彼女は選ばれたのよ? 根守の大神様に愛された、特別な存在なの。個人の自由なんてちっぽけなものより、もっと素晴らしい、村全体と一つになる喜びを与えられたのよ。それを否定するなんて、あなたこそ、なんて残酷な子なのかしら」
母の言葉は、日本語のはずなのに、意味が理解できなかった。
論理が、根本からねじ曲がっている。
「一つになる喜び」。
それは、個の消滅を意味する言葉だ。
母は、それを「幸福」だと信じているのか。それとも、そう信じ込まされているのか。
「お母さん……?」
私が震える声で呼ぶと、母はにっこりと笑った。
その笑顔は、麗華さんのものと瓜二つだった。
完璧で、美しく、そして仮面のように張り付いた笑顔。
「いいこと、莉桜。あなたはまだ、根が張っていないから不安定なのよ。だから、悪い考えが頭をもたげるの。でも大丈夫。お母さんたちが、ちゃんと守ってあげるから」
母の手が伸びてくる。
私の頬に触れる。
その手は、氷のように冷たかった。
「これからは、もっと村の行事に参加しましょうね。もっと皆さんと触れ合って、心を一つにしましょう。そうすれば、あなたもきっと分かるわ。虚空様の素晴らしさが」
ぞわり、と背筋に悪寒が走った。
違う。
これは、私の知っている母ではない。
私の大好きだった、優しくて、料理が上手で、冗談を言って笑う母は、もうここにはいない。
目の前にいるのは、村の教義を再現するだけの、精巧な人形だ。
そして、父も。
かつて私を守ってくれた大きな背中は、今や恐怖に押し潰され、小さく震えているだけだ。
家の中に、味方はいない。
その事実は、鋭利な刃物となって私の胸をえぐった。
学校だけではない。村の中だけではない。
私が唯一安らげるはずのこの家さえも、すでに「根」によって侵食され、飲み込まれてしまっていたのだ。
壁の染みが、天井の木目が、すべて無数の目となって私を見下ろしている。
『見ているぞ』
『聞いているぞ』
『お前は異物だ』
『早く混ざれ』
『腐る前に、混ざれ』
幻聴が、耳の奥でささやく。
「……ごめんなさい」
私は、蚊の鳴くような声で言った。
これ以上、ここにいてはいけない。この空気を吸い続けていたら、私も狂ってしまう。
「私、気分が悪いから……部屋に戻るね」
「そう。しっかり休みなさい。明日の学校でも、 皆さんに迷惑をかけないようにね」
母は、最後まで「皆さん」のことしか言わなかった。
私は逃げるように居間を出て、階段を駆け上がった。
自室に飛び込み、扉を閉め、鍵をかける。
そんなものでは何の防壁にもならないと知りながら、そうせずにはいられなかった。
ベッドの上にうずくまり、膝を抱える。
自分の左手首を、右手で強く握りしめた。
そこには何もない。
村の人たちが持っている『根緒』は、私にはない。
その空白が、今夜は特別に恐ろしく感じられた。
根がないから、私は自由だと思っていた。
けれど、違う。
根がないから、私はどこにも繋がれない。
誰とも共有できない。
この巨大な、狂った有機体のような村の中で、私だけが消化されるのを待つ異物として、たった一人で浮遊しているのだ。
「……助けて」
声に出しても、誰にも届かない。
窓の外では、夜の闇に沈んだ忌み山が、黒い巨人のようにそびえ立っている。
その頂で、樹齢千年の怪物が、枝を揺らして笑っているような気がした。
私の家族を奪い、友人を奪い、そして次は私を飲み込もうと、大きな口を開けて待っている。
回覧板の文字が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
『外からの風を吹き込み、清浄な空気を濁すことのないよう』
それは明確な警告だった。
そして、その警告が私の両親を通じて発せられたことに、逃れようのない絶望があった。
包囲網は、完成しつつある。
外堀は埋められ、両親は洗脳され、私は完全に孤立した。
秋祭りの足音が、死刑執行人の足音のように、ひたひたと近づいてくるのが聞こえるようだった。
(第三章 完)




