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第十二章 切断

Google AI Studioで専用のアプリを作り、プロットを読み込ませて作った和風ホラー小説です。

12-1【崩壊】


世界が、反転していた。

私の網膜に焼き付いているのは、あの漆黒の闇と、そこから吐き出された血塗れの『根緒』だけだ。

それなのに、耳に入ってくるのは爆発的な歓喜の渦だった。

「おお……おおお!」

「虚空様が、お認めになった!」

「これで村は救われたぞ!」

数百人の男たちが拳を突き上げ、女たちが涙を流して抱き合っている。

その光景は、地獄の釜の蓋が開いたようであり、同時に天国への扉が開かれたようでもあった。彼らの顔に浮かんでいるのは、純粋無垢な喜びと、極限の緊張から解放された安堵だ。

誰一人として、沙夜の名を呼ぶ者はいない。

誰一人として、一人の少女が物理的に圧殺され、咀嚼され、消滅したという事実を嘆く者はいない。

彼らが見ているのは「沙夜」ではない。「供物」だ。

正しく捧げられ、正しく消費された、尊い供物。

「素晴らしい……なんて素晴らしい夜なんだ!」

親族たちの声が、遠い。

水槽の外から聞こえているようだ。

私の鼓膜は、あの「音」を拒絶するために機能を停止してしまったのかもしれない。

グシャリ。メリメリ。ジュルル。

脳内でリフレインする破壊音と捕食音だけが、今の私にとっての唯一の現実だった。

視界がぐにゃりと歪む。

揺らめく松明の炎が、踊り狂う人々の影を長く伸ばし、それらがすべて黒い化け物のように見えた。

私は慧くんを見た。

彼は親族たちに無理やり立たされ、虚空様の前から引き離されていく。。

数人の男たちに囲まれ、肩を掴まれているが、抵抗する様子もなかった。

その背中は小さく、まるで中身をすべてくり抜かれた抜け殻のようだった。

彼の足元には、引きちぎられた白衣の切れ端が落ちている。

彼もまた、終わってしまったのだ。

神代家の跡取りとして、兄として、必死に抗い続けた彼の戦いは、圧倒的な暴力と狂気の前で、塵のように踏み潰されたのだ。

「莉桜さん」

立ち尽くす私の肩には麗華さんの手がそっと添えられる。

「儀式はまだ終わっていませんわ。さあ、こちらで沙夜さんと虚空様をお見送りいたしましょう」

耳元でささやかれる慈愛に満ちた声。

心も体も動かなくなってしまった私は、麗華さんに支えられて親族たちの列に戻される。

沙夜を15歳の少女ではなく、供物としてしか見ていない人間たちの中に加わる。それは吐き気がするほどおぞましいことだが、もう抗う気力はない。

「莉桜さん、沙夜さんの選択をほめてあげてください。焦がれた未来を閉ざしても、沙夜さんは虚空様をほおってはおけなかった。その優しさを、認めてあげてください」

空っぽの頭と心に、麗華さんの声が染み込んでくる。だが、受け入れられない。受け入れられるわけがない。どんなに言葉を飾ろうとも、沙夜は犠牲にされたのだ。村の信仰という目に見えない暴力によって、虚空様という怪物への餌にされたのだ。

にらみ返す程の気力はなかった。

それでも麗華さんの顔を視界の端にとらえる。

そこには、いつもの聖母のような笑顔はなかった。

今にも泣き出しそうな、儚く淡い微笑み。それは沙夜が浮かべた表情によく似ていた。


「鎮まれ」

私と慧くんが虚空様の前から引き離されると神主である慧くんの父親が、厳かに声を上げた。

その一言で、熱狂の渦が波が引くように静まり返る。

「これより、昇神しょうじんの儀を執り行う。虚空様にお戻りいただくのだ。心して送るがよい」

神主は乱れた狩衣を正すこともなく、再び祭壇の前に立った。

祝詞が始まる。

それは、招き入れた神を元の場所へ帰すための儀式だという。

馬鹿げている。

神は帰ってなどいない。目の前の巨木の中に、どす黒い満足感とともに居座っているではないか。

沙夜を喰らい、その養分を吸い上げて、さらに肥え太った怪物が、私たちを見下ろしているではないか。

「かけまくも畏き――」

朗々とした声が、夜気に溶けていく。

私は、ただ立ち尽くしていた。

涙も出なかった。叫ぶ気力もなかった。

私の心は、沙夜と一緒にあの洞の中で砕け散ってしまったのかもしれない。

ここに立っているのは、高村莉桜という形をした、空っぽの容器だけだ。

儀式は、淡々と進んだ。

榊が振られ、塩が撒かれ、柏手が打たれる。

その一つ一つの動作が、沙夜の死を「確定事項」として塗り固めていく作業のように思えた。

もう、取り返しがつかない。

もう、二度と会えない。

「以上をもって、『根合わせ』を終了とする!」

神主が高らかに宣言した。

再び、拍手が巻き起こる。

パチ、パチ、パチ、パチ……。

乾いた音が、山頂の冷たい空気を震わせる。

それは、私たちが完全に敗北したことを告げる音だった。


「さあ、参りましょう。山を降りますわよ」

麗華さんが、私の肩を抱いた。

その手は温かく、そして強固だった。

最後まで、この「美しい物語」の登場人物として振る舞いなさい。

そう言われている気がした。

私は操り人形のように足を動かした。

感覚のない足が、黒い土を踏む。

一歩進むごとに、背後の虚空様が遠ざかっていく。

沙夜を飲み込んだまま、沈黙する巨木。

振り返りたかった。

もう一度だけ、あの洞の中を確認したかった。もしかしたら、何かの間違いで、沙夜がそこにうずくまっているのではないか。

けれど、麗華さんの腕がそれを許さなかった。

彼女は私に体重を預けるようにして、強引に前を向かせたまま歩き出した。

「慧、立て」

神主が、息子を見下ろして言った。

慧くんは反応しない。

「立てと言っている。神代の端くれなら、最後まで務めを果たせ」

冷酷な命令。

慧くんはゆっくりと顔を上げた。

その顔は泥と涙でぐしゃぐしゃに汚れ、目は焦点が合っていなかった。

「……沙夜……」

掠れた声で、妹の名を呼ぶ。

「沙夜は、神になったのだ。誇りに思え」

神主はそう吐き捨てると、近くにいた男たちに目配せをした。

男たちが慧くんの両脇を抱え、無理やり立たせる。

慧くんは抵抗しなかった。されるがままに引きずられ、列の後ろへと連れて行かれる。

私たち四人――いや、三人――は、村人たちの列に囲まれるようにして、山を降り始めた。


帰りの石段は、登る時よりもさらに滑りやすく、危険だった。

松明の明かりだけが頼りの暗闇の中、私たちは無言で下っていく。

私の前を、神主が歩いている。

その背中は、大役を果たした達成感に満ちていた。自分の娘を犠牲にしたことへの悔恨など、微塵も感じられない。

私の隣には麗華さん。

彼女は時折、抱えている『根緒』ギュッと握りしめ、硬い表情で見つめている。

そして、後ろからは慧くんが引きずられる音が聞こえてくる。

ズザッ、ズザッ、という足音が、まるで死体を引きずっている音のように響く。

周囲の村人たちは、口々に感想を言い合っていた。

「いやあ、見事だったなぁ」

「あんなにはっきりと虚空様のお姿を拝めるとは」

「これでまた数十年は安泰だ」

「神代の巫女さんも、立派な最期だった」

明るい声。弾んだ声。

日常会話の延長のようなトーンで語られる、狂気の内容。

彼らにとって、これは「祭り」なのだ。

ハレの日なのだ。

誰かが死んだことよりも、自分たちが助かったこと、村が守られたことの方が、遥かに重要で、喜ばしいことなのだ。

吐き気がした。

この空気の中にいるだけで、肺が腐っていくような気がした。

私は口元を手で覆い、込み上げてくる酸っぱいものを必死で飲み込んだ。


どれくらい歩いただろうか。

永遠にも思える時間を経て、ようやく神社の明かりが見えてきた。

石段を降り切ると、そこには鉄の扉が待っていた。

禁足地と俗世を隔てる、境界線。

神主が扉を閉め、重い南京錠をかける。

ガチャン、という金属音が、決定的な終わりを告げた。

もう、二度と入れない。

沙夜は、あちら側に閉じ込められたのだ。

永遠に。

「皆様、お疲れ様でございました」

神主が振り返り、深々と頭を下げた。

「これにて、全ての儀式は終了いたしました。虚空様の御加護があらんことを」

親族たちが一斉に礼をする。

その顔は、どれも晴れやかだった。

私は、足の力が抜けてその場にへたり込みそうになった。

けれど、麗華さんが私を支え、耳元で囁いた。

「しっかりなさい、莉桜さん。まだ、お出迎えがありますわ」

お出迎え?

彼女の視線の先、鳥居の向こう側を見る。

そこには、黒い人だかりがあった。

山に登ることが許されなかった、残りの村人たちだ。

老人、女、子供。

数百人の村人が、固唾を飲んで私たちを待っていたのだ。

彼らは、降りてきた私たち――神主や親族たちの明るい表情を見て、一瞬で状況を悟ったようだった。

「おお……!」

「成功したんだ!」

「戻ってきたぞ!」

歓声が上がる。

拍手が巻き起こる。

安堵のため息が、大きな風となって境内に吹き荒れる。

彼らもまた、恐怖していたのだ。

儀式が失敗することを。村が滅びることを。自分たちが「根腐れ」として処分されることを。

だからこその、この爆発的な安堵。

「よかった、よかった」と涙を流し、互いの肩を叩き合う姿は、まるで戦争から生還した兵士を迎える家族のようだった。

残酷な安泰。

その平和が、一人の少女の惨たらしい死の上に成り立っていることなど、誰も気にしていない。

知っていて、なお喜んでいるのだ。

(……おかしいよ)

私は心の中で呟いた。

(みんな、おかしいよ……人殺しだよ……)

けれど、その言葉は誰にも届かない。

この村では、私の倫理観こそが「狂気」であり、「異端」なのだから。


神主が、鳥居の前に進み出た。

村人たちの視線が一斉に集まる。

彼は両手を広げ、演説を始めた。

「皆の者! 喜ぶがいい! 虚空様は、我らの願いを聞き届けてくださった!」

ワアッ、と歓声が上がる。

「巫女、神代沙夜は、見事にその役目を果たした。恐れることなく、迷うことなく、自ら虚空様の懐へと飛び込み、人柱としての責務を全うしたのである!」

神主の声は、誇らしげだった。

「虚空様は、彼女を受け入れられた。その証拠に、これを見よ!」

彼は振り返り、麗華さんを手招きした。

麗華さんは優雅に進み出ると、手に持っていた『根緒』を高く掲げた。

かがり火の光を受けて、血と脂にまみれた輪がぬらりと光る。

「おお……!」

「根緒だ! 輪のままの根緒だ!」

「奇跡だ、奇跡じゃ!」

村人たちがひれ伏す。

拝む者、震える者、叫ぶ者。

集団ヒステリーのような熱狂が、境内を支配していく。

「沙夜の魂は、今まさに虚空様と一つになり、この根守の地を隅々まで満たしている。我々は守られたのだ! 未来永劫、この地は安泰である!」

神主の宣言に、村人たちは酔いしれた。

美しい物語。

残酷な真実を覆い隠し、自分たちを正当化するための、完璧なフィクション。

沙夜の苦しみも、痛みも、恐怖も、すべてが「崇高な自己犠牲」として美化され、消費されていく。

私は、吐き気をこらえるので精一杯だった。

視界が回る。

音と光が混ざり合い、脳を直接かき回すような不快感。

もう、限界だった。

「こい!」

神代家の男たちが、慧くんを抱えるようにして母屋の方へと連れて行くのが見えた。

慧くんは抵抗しなかった。

ただ、首だけを動かし、虚ろな目で私を見た。

そして、唇を微かに動かした。

『い き ろ』

そう言ったように見えた。

次の瞬間、彼は人波にのまれて見えなくなった。

私と慧くんは、ここで分断された。

「さあ、莉桜さん。あなたのご両親も待っていますわ」

麗華さんが、私の手を取った。

彼女は私を引いて、人混みの中へと進んでいく。

村人たちが道を開ける。

「莉桜ちゃん、偉かったねぇ」

「よくやった、よくやった」

「あんたも今日から、本当の村の子だ」

口々に浴びせられる称賛の言葉。

彼らの手首には、一様に『根緒』が巻かれている。

無数の赤茶けた紐が、目の前で揺れる。

それは私を歓迎しているようでいて、同時に「お前も逃がさない」と絡みついてくる触手のようにも見えた。

人混みの向こうに、両親の姿があった。

二人は、一番前で待っていた。

父は黒いスーツ、母は黒い着物を着ている。

その顔を見て、私は足を止めた。

笑っていなかった。

周りの村人たちのように、狂喜乱舞しているわけでも、興奮しているわけでもなかった。

二人は、ただ静かに泣いていた。

「莉桜……!」

母が駆け寄ってきた。

麗華さんが、私の手を母に渡す。

「お母様。莉桜さんは、立派にお役目を果たされましたわ。沙夜さんを最後まで支え、見届けられました」

「……ありがとうございます。御子柴様」

母は麗華さんに深く頭を下げた。

父もまた、無言で頭を下げる。

その姿は、いつもの卑屈な態度とは少し違っていた。

もっと切実で、必死な、「親」としての姿に見えた。

麗華さんはいつもの聖母の微笑みで頷くと、「それでは、ゆっくりお休みになってください」と言い残し、神代家の方へと戻っていった。

取り残された私と、両親。

周囲の喧騒から切り離されたような、奇妙な静寂が私たちを包んでいた。

「莉桜」

父が、私の肩に手を置いた。

その手は震えていた。

「……無事で、よかった」

絞り出すような声だった。

「怖かっただろう。辛かっただろう……。すまなかったな」

父の目から、涙がこぼれ落ちた。

母が私を抱きしめる。

「ごめんね、莉桜。ごめんね……。怖い思いをさせて……」

母の体温が、冷え切った私の体に伝わってくる。

線香の臭いではない。

昔の、東京にいた頃の、優しい母の匂いがした気がした。

私は混乱した。

どうして?

昨日はあんなに楽しそうだったのに。

私を「器」だと言って、笑っていたのに。

儀式が成功したのだから、もっと喜ぶべきじゃないの?

「……お父さん? お母さん?」

私の問いかけに、二人は答えなかった。

ただ、私を壊れ物のように抱きしめ、背中をさすり続けた。

その時、私は気づいた。

二人の瞳の奥に、あのおぞましい光が残っていないことに。

虚空様への信仰。村への同調。

それらが消えていた。

今、狂気の下に押し込められていた「親としての情」が、何らかの理由であふれ出したのだ。

娘が生きて帰ってきた。

「供物」にならずに済んだ。

その安堵だけが、今の二人を突き動かしている。

それは救いなのだろうか。

それとも、より深い絶望なのだろうか。

彼らは私を愛している。けれど、それ以上に「村」を恐れている。

もし私が「根腐れ」だと判定されれば、彼らはどうするだろう?また私を切り捨てるだろうか……。

「可哀想に」「村のためだ」と言いながら。

この優しさは、虚構の上に成り立つ脆い砂の城なのだろうか。

「……帰ろう。家に」

父が言った。

「ああ、そうね。温かいものを食べさせてあげなきゃ」

母が涙を拭い、無理やり笑顔を作った。

私は両親に挟まれ、支えられるようにして歩き出した。

背後では、まだ万歳三唱が続いている。

「虚空様万歳!」

「根守村万歳!」

その声は、夜空に吸い込まれ、こだまとなって谷底に響き渡っていた。

私は一度だけ、振り返った。

暗闇の中にそびえ立つ、忌み山。

その頂上で、巨大な影が蠢いた気がした。

満腹になった怪物が、ゲップをするように枝葉を揺らしている。

私の左手首が、ズキンと痛んだ。

皮膚の下に埋まった金属の蓋が、私に告げている。

まだ終わっていない、と。

私は生き残った。

けれど、心の一部はあの洞の中に置き去りにされたままだ。

沙夜と一緒に、永遠の闇の中に。

私は空を見上げた。

分厚い雲の切れ間から、月が見えた気がした。

けれどそれは、沙夜の瞳のように白く濁り、何も映していない虚ろな目玉のようだった。

世界が、音を立てて閉じていく。

私はその閉じた世界の中で、両親の手を握り返し、一歩を踏み出した。

きっと逃げる場所など、どこにもないのだろう。



12-2【残影】


儀式が終わった翌日から、私の家の中の空気は一変していた。

まるで、長い悪夢から覚めたかのように、あるいは強力な催眠術が解けたかのように、両親は「正気」を取り戻していたのだ。

朝、台所から聞こえてくる包丁の音には、あの狂気じみた高揚感も、粘着質な祈りの響きもなかった。ただ、淡々とした日常のリズムだけがあった。

けれど、その背中は小さく丸まり、何かに怯えているように見えた。


「……莉桜、おはよう」

食卓に着くと、母が恐る恐る声をかけてきた。

その顔色は土気色で、目の下には深いクマが刻まれている。数日前まで浮かべていた、あの張り付いたような能面の笑みはどこにもない。

「おはよう」

私は機械的に返事をし、席に着いた。

目の前には、トーストとサラダ、そしてコーヒーが並んでいた。

根守村に来てから強要されていた、土の匂いのする煮物や、どろりとした芋粥ではない。東京にいた頃の、当たり前の朝食。

父は新聞を広げていたが、その目は文字を追っていなかった。ただ一点、虚空を凝視し、手元のコーヒーカップが微かに震えていた。


「……なぁ、莉桜」

父が、絞り出すような声で言った。

「私たちは……一体、何をしていたんだろうな」

その問いかけに、私はスプーンを動かす手を止めた。

「どうしてあんな……あんな異常なこと、素晴らしいだなんて思っていたんだろう。神代さんや御子柴さんの言うことが、すべて正しいと……まるで、頭の中に霧がかかっていたみたいだ」

父の声は震えていた。

自分の記憶にある言動と、現在の倫理観との乖離に、脳が悲鳴を上げているようだった。

「私もよ……」

母が顔を覆った。

「あの子が……沙夜ちゃんが、あんなことになるのに。私、笑ってた。拍手をして、よかったねって……。人間じゃないわ。どうかしていたのよ」

母の指の隙間から、嗚咽が漏れた。

彼らは思い出したのだ。

あの夜、自分たちがどんな場所にいたのか。何に加担したのか。

村人たちの狂気的な歓喜。沙夜という一人の少女が、物理的に消滅したという事実。そして、それを「奇跡」として崇め奉った自分たちの姿。

それらが鮮明な記憶として蘇り、常識的な思考を取り戻した彼らを内側から苛んでいるのだ。


「莉桜」

母が私の手を取った。その手は氷のように冷たく、汗ばんでいた。

「あなたは……大丈夫なの? 何か、されたりしていない? 体は? 心は?」

母の瞳には、深い罪悪感と、娘を失うことへの根源的な恐怖が宿っていた。

かつて私を「器」と呼び、「供物」として差し出したのと同じ口が、今は私の身を案じている。

その落差に、私はめまいを覚えた。

「……大丈夫だよ」

私は短く答えた。

「食べてるし、寝てるし。学校にも行けるよ」

嘘ではなかった。

私は生きていた。心臓は動き、肺は酸素を取り込み、胃は食物を消化している。

ただ、それだけだった。

「そう……そうね。無理はしないでね。何かあったら、すぐに言うのよ」

母は縋るように私の手を握りしめた。

私はその手を、握り返すことも、振り払うこともしなかった。

ただ、自分の手首にある『根緒』の感触だけが、皮膚の下で冷たく主張していた。

両親は戻ってきた。

けれど、私の心はもう、どこにも戻れない場所に置き去りにされていた。

沙夜がいない世界で、正気でいることになんの意味があるのだろう。

私は冷めたコーヒーを流し込み、空っぽの体を引きずって家を出た。


冬の足音が近づくにつれ、根守の空気はより一層冷たく、重くなっていった。

学校での日々は、まるで色のないフィルムを見せられているようだった。

私の前の席。慧くんの席は、空席のままだった。

私の後ろの席。沙夜の席も、空席のままだった。

二つの空白が、私の前後で黒い穴のように口を開けている。そこから吹き付ける見えない隙間風が、私の背筋を凍らせた。

クラスメイトたちは、誰もその「空白」に触れようとはしなかった。

沙夜がいなくなったこと。慧くんが来なくなったこと。

それらは「終わったこと」として処理され、日常の中に埋没していた。

「莉桜さん、このプリントを後ろの棚にお願いできますか?」

休み時間、御子柴麗華さんが私に声をかけた。

彼女の態度は、以前のような狂信的な圧力を潜めていた。

信仰の話も、虚空様の話も下級生を諭すときに多少交えるぐらい。沙夜のことは……一言も口にしない。

ただ、クラスのまとめ役として、あるいは良き世話役として、淡々と学級運営をこなしている。

「……うん」

私がプリントを受け取ると、麗華さんは「ありがとうございます」と微笑んだ。

その笑顔は完璧だった。

あまりにも完璧すぎて、不気味だった。

彼女の中では、もうすべてが完結しているのだ。

沙夜は神になり、村は救われ、日常が戻ってきた。だから、これ以上何も語る必要はない。

そんな無言の圧力だけが、彼女の美しい所作の端々から滲み出ていた。

私は逃げるように席を立ち、プリントを棚に置いた。

教室の後ろには、あの掃除用具入れがある。

かつて山崎和也くんがうずくまっていた場所。

今はもう、誰も彼を覚えていない。

そして沙夜もまた、彼らの記憶の中で「清らかな伝説」へと書き換えられ、人間としての輪郭を失いつつある。

私は自分の席に戻り、じっと机の木目を見つめた。

思考を止めなければ。

深く考えると、叫び出したくなる。

私はロボットだ。プログラム通りに動き、反応し、時間を消費するだけの機械だ。

そう言い聞かせることでしか、この教室の空気に耐えることはできなかった。


空っぽな日々が淡々と消化され、冬休みが来た。

根守村の冬は陰鬱だ。雪はあまり降らないが、冷たい雨とみぞれが交互に降り注ぎ、地面はずっとぬかるんでいる。

お正月を迎えても、家の中に華やいだ空気はなかった。

両親は、まるで喪に服すかのように静かに過ごしていた。

おせち料理も、初詣もなかった。

ただ、コタツに入り、テレビの特番を流し見しながら、時折不安そうに私の方を見るだけだった。

「莉桜、顔色が悪いわ。もっと食べなさい」

「寒くないか? ストーブの灯油を足そうか」

彼らの気遣いは痛々しいほどだった。

自分たちが娘を追い詰めたという自責の念と、またいつ自分たちが「狂気」に飲み込まれるかもしれないという恐怖。

二人はそれに怯えながら、必死で「普通の親」であろうとしていた。

私はそんな二人を見るのが辛くて、ほとんどの時間を自室で過ごした。

ベッドに横たわり、天井のシミを数える。

目を閉じれば、あの洞の闇が広がる。

耳をすませば、あの租借音が蘇る。

だから私は、何も見ず、何も聞かず、ただ時間が過ぎ去るのを待った。

私の左手首の『根緒』は、冬の寒さで硬化し、より一層強く私の腕を締め付けていた。

それは、私がまだ許されていないことの証だった。


三学期が始まった。

久しぶりに登校した教室は、冷え切っていた。

ストーブが焚かれているが、暖気は天井の方に溜まり、足元は底冷えがする。

自分の席に向かうと、前の席に人影があった。

「……」

神代慧くんだった。

彼は机の上で両手を組み、じっと黒板を見つめていた。

「……慧くん」

私が声をかけると、彼はゆっくりとこちらを向いた。

その顔を見て、私は息を呑んだ。

やつれていた。

頬はこけ、眼窩が落ち窪んでいる。制服の襟元から覗く首筋は、折れそうなほど細い。

まるで、生命力を根こそぎ吸い取られた老人のようだった。

「……おはよう」

慧くんの声は、枯れ木の擦れる音のように乾いていた。

「おはよう。……久しぶり、だね」

「ああ」

それきり、会話が途切れた。

何を話せばいいのか分からなかった。

「元気だった?」なんて聞けるわけがない。「大丈夫?」という言葉も、あまりに空虚だ。

私たちは無言で見つめ合った。

彼の瞳の奥には、私と同じ色があった。

深い喪失と、諦めと、そして消えることのない恐怖。

私たちは共犯者であり、そして生存者だった。

「あら、慧さん。今日から登校ですのね」

教室の入り口から、鈴を転がすような声がした。

麗華さんだった。

彼女は新しいコートを脱ぎながら、軽やかな足取りでこちらに近づいてくる。

その肌は冬の寒さにも負けず、白桃のように瑞々しい。慧くんとは対照的に、生命力に溢れていた。

「体調はもうよろしいの? 神代のおじ様も心配なさっていましたわよ」

麗華さんは慧くんのやつれた顔を見ても、眉一つ動かさなかった。

まるで、わかり切っていたかのように。あるいは、彼が「個」としての苦悩を抱えていることなど、全て知り尽くしているかのように。

「……ああ。迷惑をかけた」

慧くんは視線を逸らし、短く答えた。

「よかったわ。これから年度末に向けて、神社の事務仕事も忙しくなりますもの。次期当主として、しっかりと務めを果たしていただかないと」

麗華さんは事務的な口調でそう言うと、慧くんの席の横を通り過ぎ、自分の席に着いた。

沙夜のことは、一言も触れなかった。

慧くんが休んでいた理由も、その憔悴の原因も、すべて「既定路線」として処理された。

私には彼女のその徹底した態度は、清々しいほどに残酷に見えた。

慧くんが、ふと私の方を向いた。

誰にも気づかれないほどの、わずかな動作。

「……莉桜」

唇だけで、私の名を呼ぶ。

「放課後、渡したいものがある」

ささやくような声。

けれど、その言葉には、重い決意のようなものが込められていた。

私は無言で頷いた。


放課後のチャイムが鳴ると、クラスメイトたちは部活や委員会へと散っていった。

麗華さんも、「今日は母の付き添いで、婦人会の寄り合いに呼ばれていますので」と言い残し、優雅に教室を出て行った。

教室には、私と慧くんだけが残された。

「行こう」

慧くんが立ち上がる。

私たちは無言のまま廊下に出た。

人気のない渡り廊下。夕暮れの光が差し込み、床に長い影を落としている。

かつて、ここで「共犯の契約」を結んだ場所だ。

慧くんは立ち止まり、制服のポケットから一通の封筒を取り出した。

白い、何の変哲もない封筒。

けれど、それを見た瞬間、私の心臓が早鐘を打った。

「……これは?」

聞かなくても分かっていた。

分かっていて、聞かずにはいられなかった。

「沙夜の、遺書だ」

慧くんは淡々と言った。

「遺書……」

その単語が、呪いのように空気を震わせる。

あの日。あの儀式の夜。

沙夜が闇に飲まれる直前の光景が、フラッシュバックする。

『バイバイ』と動いた唇。

そして、その後の、あの音。

目の前が暗くなる。床が歪み、吸い込まれそうになる。

「っ……」

私がよろめくと、慧くんがとっさに私の腕を掴んで支えた。

「しっかりしろ」

彼の指は、痛いほど強く食い込んだ。

「……ごめん」

私は荒い息を吐きながら、体勢を立て直した。

慧くんは私から手を離すと、改めて封筒を差し出した。

「あいつの部屋を整理していたら、机の引き出しの奥から出てきた。……お前宛てだ」

「私に……?」

「ああ」

慧くんの顔が、苦痛に歪んだ。

「沙夜があの時、何を考えていたのか。本当に村のために死んだのか、それとも……」

彼は言葉を詰まらせ、首を振った。

「俺の分もあった。内容の大半はお前のと一緒だと思う。沙夜が残した最後の言葉だ。けど……俺には……もう何が真実なのか分からない。……そこに書かれていることは、お前が判断してくれ」

彼は封筒を私の手に押し付けると、逃げるように背を向けた。

「慧くん!」

私が呼んでも、彼は振り返らなかった。

足早に廊下を歩き去っていく。その背中は、罪悪感と喪失感に押しつぶされそうに小さかった。

私は一人、薄暗い廊下に取り残された。

手の中の封筒が、鉛のように重い。

ここには、沙夜の最後の言葉がある。

検閲されていない、塗り替えられていない、本当の沙夜の心が。

私は封筒を胸に抱きしめた。

涙が滲んでくるのをこらえ、私はそれを鞄の奥深くにしまい込んだ。


夜。

私は自室の机に向かい、封筒を取り出した。

部屋の電気は消し、スタンドライトの明かりだけをつけている。

窓の外では、しとしとと冷たい雨が降っていた。

封筒の隅には、見慣れた丸文字で『莉桜へ』と書かれている。

震える指で、封を切る。

中から、数枚の便箋が出てきた。

可愛い猫のイラストが描かれた便箋。

いつか雑貨屋で、「これ可愛いね」と一緒に笑い合った、あの便箋だ。

私は深呼吸をして、最初の一行に目を落とした。


『莉桜へ』


繊細で沙夜らしい温かみを感じる文字に、胸が締め付けられる。

しかし読み始めてすぐに私も慧くんと同様、困惑した。沙夜の言葉を疑う気はない。でも、これは本当なの?

動揺しながらさらに先を読む。だんだんと私の目から涙が溢れ出した。

文字が滲む。

拭っても、拭っても、後から後から涙が溢れてくる。

そこに書かれていたのは、呪詛でもなければ、狂信的な言葉でもなかった。

ただ、一人の十五歳の少女の、あまりにも切実で、あまりにも優しい本音だった。

私への感謝。

一緒に過ごした時間への愛着。

そして、私を巻き込みたくないという、悲痛な願い。

彼女はずっと、分かっていたのだ。

自分の運命も。この村の狂気も。

その上で、私を守るために、あの笑顔を作り続けていたのだ。

便箋の最後に書かれた言葉が、私の胸をえぐった。

何気ない会話。気軽なさそい。それらを沙夜は一体どんな気持ちで聞いていたのだろう……。

もしかしたら私は、沙夜に対してものすごく残酷なことをしていたのかもしれない。

私は便箋を胸に押し当て、声を殺して泣いた。

部屋の闇の中に、私の嗚咽だけが響いていた。

いつまでも、いつまでも。

窓の外では、根守の雨が、世界を黒く塗りつぶすように降り続いていた。



12-3【虚空様】


一月も半ばを過ぎると、根守の冬は底冷えするような静寂に包まれる。

雪は降らない。ただ、氷雨を含んだ重い風が谷底を吹き抜け、家々の隙間を縫うようにして低い唸り声を上げているだけだ。


私の家の居間には、いくつもの段ボール箱が積み上げられていた。

ガムテープを貼る乾いた音が、静まり返った家の中に響く。

「これで、大体終わりだな」

父が腰を伸ばし、ふう、と息を吐いた。

その背中は、以前よりも一回り小さくなったように見える。けれど、その瞳に宿っていた狂信的な光は消え、代わりに深い疲労と、娘を守ろうとする必死な理性の光が戻っていた。

「莉桜、忘れ物はない?」

母が心配そうに私を見る。

「うん。大丈夫」

私は短く答えた。

父の転勤が決まったのだ。

表向きは、父が以前から希望していたキャリアアップのための異動ということになっている。けれど実際は、父が多方面に頭を下げ、コネを使い、半ば強引に勝ち取った「逃走」のための切符だった。

私たちは、この村を出る。

あの忌まわしい儀式から二ヶ月。両親は、憑き物が落ちたように正気を取り戻していた。そして、自分たちが娘に対して行った仕打ち――私を「器」と呼び、生贄の儀式に加担しようとしたこと――を思い出し、戦慄したのだ。

彼らはもう、一刻も早くこの土地を離れたがっていた。

私も同じだ。

この家に染みついた線香と腐葉土の臭い。窓の外から常に監視しているような、あの巨大な山影。それら全てから解放されることに、安堵を感じていないわけがない。

けれど。

積み上げられた段ボール箱を見つめていると、胸の奥に冷たい鉛のような塊が沈んでいくのを感じた。

寂しさ。

恐怖の対象でしかなかったこの村を去ることに、私は一抹の寂しさを感じているのだ。

それは、この土地への愛着などではない。

ただ、沙夜さやという少女が生きて、笑って、そして消えていったこの場所に、私の心の一部が置き去りにされているからだ。


翌日、学校でささやかな送別会が開かれた。

ストーブの上で沸かされたヤカンのシュンシュンという音だけが、教室の暖かさを演出している。

「高村さん、東京に行っても元気でね」

「手紙書くからね」

クラスメイトたちが口々に別れを惜しんでくれる。

彼らは純粋だ。悪意など微塵もない。

山崎和也くんが消えたことも、沙夜が生贄になったことも、彼らの中ではすでにきれいな物語として処理されているか、あるいは記憶の底に封印されている。

だからこそ、彼らの笑顔は残酷なほどに眩しかった。

私は引きつりそうになる頬を必死に持ち上げ、愛想笑いを繰り返した。

「ありがとう。みんなも、元気で」

当たり障りのない言葉。

もう、深く関わることはない。私は今日で、この「箱庭」から出ていくのだから。


「莉桜さん」

凛とした声が、教室の空気を震わせた。

御子柴麗華さんだ。

彼女は、クラスメイトたちの輪を割って、私の前へと歩み寄ってきた。

その姿は、いつものように完璧だった。制服のプリーツスカートには一点の乱れもなく、長い黒髪は艶やかに光り、その顔には聖女のような慈愛に満ちた微笑みがたたえられている。

彼女は私の両手をそっと包み込んだ。

その手は温かく、そして恐ろしいほどに柔らかかった。

「お元気で。根守村で過ごした日々が、莉桜さんのこれからの人生の糧になることを祈っていますわ」

彼女の言葉は、美しい定型句のようだった。

そこには、かつて私に向けられていた執着も、監視の鋭さも、狂信的な熱量も感じられない。

ただ、事務的に、けれど最大限の礼儀を持って、異物を送り出そうとしている管理者としての態度。

私は身構えた。

虚空様ウロサマはどこに行っても見守ってくださいます」――いつものように、そう言われると思っていたからだ。呪いのようなその言葉を、最後に刻み付けられるのだと。

けれど、麗華さんはそれ以上何も言わなかった。

ただ静かに微笑み、私の手を離した。

「……さようなら、麗華さん」

「ええ。ごきげんよう」

彼女は満足げに頷くと、踵を返し、自分の席へと戻っていった。

その背中は、「もうあなたは自由です」と語っているようだった。

儀式は成功した。村は安泰だ。だから、役目を終えた余所者よそものには興味がないのだ。その徹底した切り替えが、私には人間味のない冷徹さに思えて、背筋が寒くなった。

(ごめん、沙夜。私はやっぱり麗華さんが怖い)

「莉桜ちゃん」

次に声をかけてきたのは、担任の牛松うしまつ先生だった。

白髪交じりの好々爺然とした顔をくしゃりと歪め、名残惜しそうに私を見ている。

「寂しくなるねぇ。東京へ行っても、勉強頑張るんだよ」

「はい。先生も、お元気で」

私は頭を下げた。

先生は私の肩に手を置き、ポンポンと優しく叩いた。

その手は、ゴツゴツとしていて、土の匂いがした。

「大丈夫だよ、莉桜ちゃん」

先生は、私の顔を覗き込み、慈愛に満ちた声で言った。

「虚空様の根は、どこまでも伸びるからね。たとえ東京へ行っても、海の向こうへ行っても、大地がある限り根は繋がっている。……きっと莉桜ちゃんにも、ずっと感じられるよ。虚空様の御心が」

ヒュッ、と喉の奥で音が鳴った。

先生は笑っていた。

心からの善意で、教え子の未来を祝福するように、満面の笑みを浮かべていた。

けれど私には、それがこの世で最も恐ろしい呪詛に聞こえた。

逃げられない。

どこへ行っても、お前はこの土から逃れることはできない。

私の顔が引きつり、体が硬直する。

「あ、ありがとう、ございます……」

私は逃げるように先生から離れた。

左手首の『根緒ねお』が、ドクンと脈打った気がした。


放課後。

私は教室を出て、昇降口へと向かった。

けいくんが、下駄箱の前で待っていた。

彼は窓枠に肘をつき、ぼんやりと外の雨を眺めていた。その横顔は、以前よりもさらに痩せこけ、老成したような静けさを纏っていた。

「……慧くん」

私が声をかけると、彼はゆっくりとこちらを向いた。

「帰るのか」

「うん。……慧くんも、元気でね」

気の利いた言葉なんて、何一つ出てこなかった。

私たちは「共犯者」だった。けれど、何も成し遂げられなかった敗北者同士でもあった。

慧くんは、私の言葉に小さく頷いた。

「ああ。元気で」

「……うん」

それだけだった。

これ以上の言葉は、今の私たちには必要なかった。

沙夜の遺書を受け取った数日後の会話が、脳裏に蘇る。


   *


『俺は、残るよ』

誰もいない放課後の教室で、慧くんは淡々と言った。

『残って、どうするの?』

『親父について、神職の勉強をする。それから、神代の当主としての帝王学的なものもな』

彼の目は、死んでいなかった。

儀式の夜、絶望に打ちひしがれていた時の、あの虚無の瞳ではない。

そこには、冷たく、鋭く研ぎ澄まされた、復讐者のような暗い炎が燃えていた。

『俺が正式に神代家の当主になり、この村の決定権をすべて握る。……そうなるまで、何年かかるか分からない。十年か、二十年か』

彼は窓の外、雨に煙る忌み山を睨みつけた。

そこには、村のすべてを見下ろす巨木が、黒い影となって鎮座している。

『だけど、必ずその時は来る。俺が当主になったその日、俺はあの木を切り倒す』

『慧くん……』

『あれは神なんかじゃない。ただの化け物だ。……村人の恐怖と依存心が生み出した、寄生植物だ。俺は、俺の人生をかけて、この村からあの呪いを根絶やしにする』

彼の拳が、白くなるほど強く握りしめられていた。

それは、妹を救えなかった兄が、残りの生涯のすべてを費やして挑む、孤独で壮絶な戦いの宣言だった。


   *


「……じゃあね」

私は短く告げ、靴を履き替えた。

慧くんは、私が校舎を出ていくまで、ずっとその場で見送ってくれていた。

その視線に背中を押されるように、私は雨の中へと走り出した。


校門の前には、父の車が待っていた。

荷物はすでに積み込まれている。

私は助手席に乗り込み、濡れた髪をタオルで拭いた。

「終わったか?」

運転席の父が聞いた。

「うん。……行こう、お父さん」

「そうか。よし、出発するぞ」

エンジンがかかる。

車はゆっくりと動き出し、見慣れた木造校舎を、そして灰色の空の下に沈む根守の集落を背に走り出した。

ワイパーが、フロントガラスを叩く雨粒を忙しなく拭い去っていく。

私は、膝の上に置いた通学鞄を開けた。

その中には、一通の封筒が入っている。

『莉桜へ』と、可愛らしい丸文字で書かれた、沙夜からの最後の手紙。

慧くんから受け取った沙夜の遺書。

受け取った夜に読んで以来、私は書かれていた内容についてずっと考えていた。

まだ、全ては受け入れられない。

私は震える指で、封筒を開ける。中に入っているのは数枚の便箋。

いつか村の雑貨屋で、「これ可愛いね」と二人で笑い合った、猫のイラストが描かれた便箋だった。

車が山道に入り、緩やかにカーブを切る。

私は深呼吸をして、再び最初の一行に目を落とした。


『莉桜へ

 この手紙を読んでいるということは、私はもういなくなってしまった後だね。

 ごめんね。勝手にいなくなって。

 でも、どうしても伝えておきたかったことがあるの』


文字は、驚くほど落ち着いていた。

繊細で、温かみのある、いつもの沙夜の筆跡。

そこには、呪詛も、狂気もなかった。


『私ね、ずっと聞こえていたの。虚空様の声が。

 みんなは「慈愛に満ちた御声」だなんて言うけれど、私にはそうは聞こえなかった。

 あれは、泣き声だったよ。

 「お腹が空いた」「寂しい」「もっと欲しい」って、ずっと泣いてた』


私は息を呑む。

沙夜は、知っていたのだ。

あの巨木の正体が、神様などではなく、ただ飢え続ける怪物であることを。


『昔、おばあちゃんから聞いたことがあるの。最初の人柱になった女の子は、村を恨んでなんかいなかったって。

 村のみんなを助けたくて、自分から埋められたんだって。

 村のみんなも、最初はただ感謝して、その木を大切にしていただけだったんだよ』


文字を追うごとに、根守村の信仰の真実が浮き彫りになっていく。

それは、私が想像していたような「太古からの呪い」ではなかった。

もっと人間臭く、そして悲しい、変質の歴史。


『でも、人間って弱いから。

 雨が降らないと「助けて」ってすがる。病気が流行ると「守って」って祈る。

 そうやって、何十年もの間、村のみんなの「依存」と「執着」を吸い続けて、木は大きくなったの。

 みんなの重すぎる想いが魂になって、木に宿ってしまったんだと思う。

 だから虚空様は、あんなに大きくて、あんなに飢えているの。

 村のみんなが、「神様」という檻に閉じ込めて、怪物にしてしまったんだよ』


神が人を作ったのではない。人が、自分たちの都合のいいように神を作り、そしてその神に食い殺されそうになっている。

それが、根守村の正体だった。


『私、そんな虚空様を見てると、怖いのと同じくらい、かわいそうだなって思っちゃうんだ。

 誰かがそばに行って、なだめてあげなきゃいけないんだなって。

 だから、巫女の役目は私がやるね。

 これは私が選んだことだから、莉桜は絶対に、自分のせいだなんて思わないでね』


視界が滲んだ。

涙が、便箋の上にポタリと落ちる。

「かわいそう」。

沙夜は、あんな怪物を、あんな自分を食い殺そうとする存在を、憐れんでいたのだ。

その優しさが、痛かった。

あまりにも純粋すぎて、この村の泥沼には眩しすぎた。


『莉桜。

 私、莉桜が来てくれて、本当によかった。

 莉桜といる時だけは、私は「巫女様」じゃなくて、ただの「神代沙夜」になれたよ。

 あの日、雑貨屋でファッション誌を見たこと。

 下校途中に、恋バナをしたこと。

 莉桜が教えてくれた「外の世界」の話は、どれもキラキラしていて、私の宝物だよ』


文字が滲んで読めない。

私は手で涙を拭い、続きを読んだ。


『莉桜と友達になれて、対等の女の子として接してもらえて、本当に嬉しかった。

 ありがとう。

 一緒に高校に行けなくて、ごめんね。

 一緒にやりたかったこと、いっぱいあったのにな』


手紙の最後は、少しだけ文字が震えているように見えた。


『私は、この村と虚空様を捨てられない。

 でも、莉桜には生きてほしい。

 広い世界で、自由に、私の分まで笑っていてほしい。

 

 追伸

 麗華のこと、あまり悪く思わないでね。

 たぶん、麗華にも聞こえていたんだと思う。虚空様の声が。

 御子柴家はもともと、神代の巫女の妹が嫁いだ家だから。

 麗華も巫女の血筋なんだよ。

 麗華が厳しく信仰を強要していたのは、そうやってみんなの信仰心を高めて、虚空様の飢えを少しでも満たそうとしていたんじゃないかな。

 あの子も、必死に村を守ろうとしていたんだと思う。

 ……不器用だよね、私たち』


麗華さんの、あの完璧な笑顔の下にあったもの。

儀式の夜、一瞬だけ見せた苦痛の表情。

彼女もまた、この巨大なシステムの一部として、必死に役割を演じていたに過ぎないのだ。

誰も悪くない。

誰もが、村を守ろうとして、必死に狂っていただけなのだ。


そして、手紙はこう結ばれていた。


『莉桜と一緒に、クレープ食べてみたかったな。

 

 さようなら。大好きだよ』


「う……うぅ……」

私は便箋を胸に抱きしめ、声を殺して泣いた。

車窓の外を、杉林が飛ぶように過ぎ去っていく。

クレープ。

たったそれだけの願い。

15歳の女の子なら、誰でも叶えられるはずの、ささやかな願い。

それすらも許されなかった沙夜の運命が、悔しくて、悲しくて、どうしようもなかった。

「莉桜、どうした? 気分が悪いのか?」

父が心配そうにバックミラー越しに見てくる。

「ううん……なんでも、ない」

私は鼻をすすり、顔を上げた。

泣いていてはいけない。

沙夜は、私の幸せを願ってくれた。私が「外の世界」で生きることを、肯定してくれた。

なら、私は生きなければならない。

この村の記憶を、沙夜という親友がいた証を、私が背負って生きていくんだ。


左手首が、熱い。

『根緒』が、最後の抵抗をするように、私の手首を締め付けている。

ドクン、ドクン。

まるで、「行くな」とすがるように。

あるいは、「お前はまだ我らの一部だ」と主張するように。

私は涙を拭き、左手首を睨みつけた。

赤茶けた、醜い組紐。

沙夜を縛り付け、殺し、そして私をここまで追い詰めた、呪いの象徴。

(もう、いらない)

私は右手の親指を『根緒』の内側に強引にねじ込んだ。

皮膚が擦れ、血が滲む。構わない。

私は口を開け、手首の『根緒』に食らいついた。

ガリッ。

歯が、硬い繊維に当たる。

鉄錆と、腐葉土の味が口の中に広がる。あのお神酒と同じ、吐き気のする味。

けれど、私はひるまなかった。

顎に力を込める。

ギリギリと、歯が繊維を断ち切っていく音が頭蓋骨に響く。

痛い。

歯茎から血が出る。手首の皮膚も裂けているかもしれない。

でも、心の痛みよりはずっとマシだ。

「んんッ……!」

私は獣のように唸り、首を振って食いちぎった。

ブチリッ!

鈍い音と共に、『根緒』が切れた。

締め付けが消える。

数ヶ月間、私の体を蝕み、支配していた圧力が、嘘のように消失した。

私は窓を開けた。

冷たい冬の風が、車内に入り込んでくる。

それは、根守の湿った空気とは違う、乾いた、自由の風だった。

私は切れた『根緒』を掴み、窓の外へと放り投げた。

「さよなら!!」

風に煽られ、『根緒』が後方へと飛んでいく。

その時。

切れた『根緒』の断面から、キラリと光る小さなものが飛び出したのが見えた。

銀色の、小さな金属片。

私が『根緒』の中に隠し通していた、山崎和也くんの遺品。シャーペンの芯の蓋。

それは、回転しながら光を反射し、根守の闇の中へと吸い込まれていった。

彼もまた、これで解放されたのだろうか。

それとも、この村の土に還り、永遠に眠るのだろうか。

分からない。

けれど、私はもう振り返らない。

車は山道を抜け、トンネルへと入っていく。

暗いトンネルの向こう側に、白く輝く出口が見えた。

私は涙で濡れた顔を上げ、その光を真っ直ぐに見つめた。

左手首には、赤黒いあざと、歯形から滲む血が残っている。

それは一生消えない傷跡になるかもしれない。

それでも、私は生きていく。

沙夜が憧れた外の世界で、私は私の足で、歩いていくんだ。



12-4【エピローグ】


都心の製菓専門学校の実習室は、甘く、暴力的なほどの芳香に満ちていた。

オーブンから吐き出されるバニラと焼き菓子の匂い。湯煎されたチョコレートの濃厚な香り。そして、ボウルの中で泡立てられる生クリームの、乳脂肪分を含んだ重たい甘さ。

それらは互いに主張し合い、混ざり合い、換気扇の唸りを物ともせずに部屋中の空気を飽和させている。

かつて私が忌み嫌っていた、あの腐葉土と湿気の臭いとは対極にある世界。

人工的で、衛生的で、そして何よりも「幸せ」を象徴する香り。


「高村さん、ジェノワーズ(スポンジ生地)の焼き上がり、完璧ね。きめ細かくて弾力もある」

講師の女性が、私の焼いたスポンジを指で軽く押しながら言った。

戻ってきた生地の感触に、彼女は満足げに頷く。

「ありがとうございます」

私はマスクの下で微笑み、頭を下げた。

「やっぱり高村さんは筋がいいわ。計量も正確だし、何より作業が丁寧。生地への触れ方が、まるで壊れ物を扱っているみたいに優しいもの」

先生の言葉に、周囲のクラスメイトたちが「いいなー」「莉桜、また褒められてる」と茶化すような声を上げる。

そこに悪意はない。

嫉妬や、足を引っ張ろうとする陰湿な視線もない。

ただ、同じ夢を目指す仲間としての、明るい羨望があるだけだ。


私は、コックコートの袖をまくり上げ、新しいボウルを用意した。

ステンレスの作業台に、冷たい銀色が鈍く光る。

ここには、泥も、カビも、得体の知れない粘液もない。すべてが清潔で、管理され、光に満ちている。

窓の外には、冬の乾いた青空が広がっている。

ビル風が強く吹いているけれど、そこには湿気を含んだ重さはない。肌を刺すような寒さも、ここでは心地よい刺激でしかなかった。


あれから、三年が過ぎた。

私は高校受験を乗り越え、今はこうしてパティシエを目指して専門学校に通っている。

両親とは、東京に戻ってきてから一度も「あの村」の話をしていない。

まるで、根守村での三年間など存在しなかったかのように、私たちは「普通の家族」を演じている。父は新しい職場で精力的に働き、母は趣味の生け花教室に通い始めた。

食卓には洋食が並び、テレビのバラエティ番組を見て笑い合う。

あの日々が嘘のような、平穏な日常。

けれど、ふとした瞬間に両親が見せる、何かに怯えるような目つきや、過剰なほど私を気遣う態度に、決して消えることのない傷跡を感じることはあった。

それでも、私たちは生きていかなければならない。

蓋をして、見ないふりをして、コンクリートで固められた安全な大地の上を、歩いていかなければならないのだ。


「次はフルーツのカットね。イチゴとフランボワーズ、コンポート用の準備をお願い」

先生の指示に、私は「はい」と短く答えた。

冷蔵庫から、真っ赤な果実が入ったケースを取り出す。

鮮やかな赤色。

瑞々しく、生命力に溢れた色。

私はその赤色を見るたびに、胸の奥がキュッと締め付けられるような感覚を覚える。


パティシエになろうと思った理由は、あまりにも安直で、そして誰にも言えないものだった。

『莉桜と一緒にクレープ食べてみたかったな』

沙夜の遺書に残された、最後の一文。

あんなにもささやかで、切実な願い。

それを叶えてあげることは、もう二度とできない。彼女はこの世にいないのだから。

けれど、せめて私が甘いものを作る人になれば、お菓子を作る技術を身につければ、彼女の魂に報いることができるのではないか。

いつか、彼女のために最高のクレープを焼いて、供えることができるのではないか。

そんな、贖罪にも似た思いつきだった。


最初は、ただの感傷だったかもしれない。

けれど、実際に生地を混ぜ、クリームを泡立て、フルーツを飾り付ける作業に没頭していると、私は不思議な安らぎを感じるようになった。

小麦粉や砂糖といったバラバラの材料が、私の手によって一つの形になり、誰かを笑顔にする「美味しいもの」へと生まれ変わる。

そのプロセスは、あの村で体験した「個を消して全体の一部になる」という狂気とは真逆の、創造的な行為だった。

私はここで、私自身を取り戻している。

自分の手で何かを生み出し、自分の足で立ち、自分の人生を選び取っている。

そう実感できる瞬間だけが、私を過去の悪夢から遠ざけてくれた。


慧くんのことは、何も知らない。

あの後、彼がどうなったのか。高校へ進学したのか、それとも宣言通り村に残って戦い続けているのか。

連絡先も交換していなかったし、手紙を書く勇気もなかった。

彼と関わることは、あの村と再び繋がることを意味する。

私は逃げたのだ。

彼一人をあの地獄に残して、自分だけ安全な場所へと逃げ出したのだ。

その罪悪感は、時折、真夜中にふと目覚めた時に、鉛のように重くのしかかってくる。

けれど、今の私にはどうすることもできない。

ただ、彼が生きていること――「正気」を保ったまま、生き延びていることを祈るしかなかった。


「莉桜、ピューレにする分、もう潰しちゃっていい?」

同じ班の子が、ボウルいっぱいのイチゴを持って尋ねてきた。

「うん、お願い。……あ、待って。私がやるよ」

私はゴムベラを置き、彼女からボウルを受け取った。

「え、いいの? 結構力いるよ?」

「ううん、やりたいの。無心になれるから」

私は笑顔でそう答えた。

嘘ではない。

果実を潰す作業は、どこか破壊的で、それでいて新しい形へと変化させる重要な工程だ。その感触が好きだった。


私はボウルを作業台に置き、マッシャーを握った。

熟れたイチゴが、山盛りに積まれている。

ヘタを取り除かれた果実は、無防備なほどに赤く、柔らかい。

私はマッシャーを押し当てた。

グシャリ。

果肉が崩れる音がした。

水分をたっぷりと含んだ繊維が断ち切られ、中から果汁が溢れ出す。

甘酸っぱい香りが、一気に立ち上る。

グシャ、グチュ。

さらに力を込める。

形を留めていた果実が、次々と原形を失い、赤い液体と固形物が混じり合ったドロドロの何かへと変わっていく。


その時だった。

ふと、鼻先をかすめた匂いに、私は手を止めた。

甘いイチゴの香りではない。

もっと青臭い、湿った森の匂い。

雨に濡れた腐葉土と、古びた樹皮の、あの独特な発酵臭。

(……え?)

私は顔を上げた。

実習室の景色は変わらない。明るい蛍光灯、銀色の調理器具、談笑するクラスメイトたち。

けれど、私の感覚だけが、急速に「あちら側」へとスライドしていく。

室内の湿度が、急激に上がった気がした。

肌にまとわりつくような、ねっとりとした空気。

換気扇の回る音が、遠くで響く低い風鳴りのように聞こえる。

ゴウ、ゴウ、ゴウ……。

視界の端が、薄暗く陰る。

目の前のボウルの中身が、ただのイチゴのピューレには見えなかった。

鮮やかな赤色が、黒ずんで見える。

鉄の臭いがする。

血液と、泥と、何かの粘液が混ざり合った、あの夜の臭い。


グシャリ。

私の手が、勝手に動いた。

マッシャーの下で、何かが潰れる感触。

それは果実ではなかった。

もっと硬い、骨のようなものが砕け、その周りの柔らかい肉が弾け飛ぶ感触。

メリメリ、グチュッ。

耳の奥で、音がした。

あの夜。

松明の炎が揺れる山頂で、巨大な虚空様の洞の中から響いてきた、あの咀嚼音。

沙夜が。

私の大切な友達が、生きたまま圧縮され、すり潰され、ただの養分へと還元されていった音。


「……ッ」

吐き気がこみ上げた。

胃の中身が逆流しそうになるのを、私は必死で口を閉じて堪えた。

冷や汗が背中を伝う。

指先が震え、マッシャーを取り落としそうになる。

違う。

これはイチゴだ。ただのフルーツだ。

私は東京にいる。ここは製菓学校の実習室だ。

あんな村は、もう遠い過去の記憶の中にしかないんだ。

自分に言い聞かせる。

けれど、五感にこびりついた記憶は、理性では制御できない。

ボウルの中の赤い液体が、脈打っているように見えた。

ドクン、ドクン。

私の心臓のリズムに合わせて、波紋が広がっていく。

そこから、無数の細い根が伸びてきて、私の指に絡みつこうとしている錯覚。

美味うまい』

『甘い』

『満ちる』

脳内に、直接響く声。

数千、数万の「根」が共有する、おぞましい満腹感と歓喜の歌。


「莉桜? どうしたの? 顔色悪いよ」

隣にいた友人が、心配そうに私の顔を覗き込んだ。

その声で、世界が揺り戻された。

森の匂いが消え、甘いバニラの香りが戻ってくる。

ドロドロの肉塊に見えていたボウルの中身は、ただのイチゴのピューレに戻っていた。

「……ううん、なんでもない。ちょっと、立ちくらみがしただけ」

私はマッシャーを置き、台に手をついて深呼吸をした。

「貧血? 無理しないでね」

「ありがとう。大丈夫、もう平気」

私は引きつった笑顔を作り、自分の左手首を右手で強く握りしめた。


コックコートの袖の下。

そこには、赤茶けた『根緒』はない。

三年前、村を出る車の中で引きちぎり、窓から投げ捨てたからだ。

けれど、その代わりに、消えない痕跡が残っていた。

親指の腹で、手首の内側を撫でる。

皮膚の下に、硬いしこりのようなものがある。

あざだ。

赤黒く沈着した、小さな痣。

それは、かつて私が『根緒』の中に隠し持っていた、山崎和也くんの遺品――ひしゃげたシャーペンの芯の蓋――が、何度も私の皮膚を傷つけ、肉に食い込んだ跡だった。

何度も、何度も。

恐怖に襲われるたびに、私はこの場所を押し、金属の角を肉に突き立ててきた。

その痛みが、私を正気に戻してくれた。

その痛みが、過去が幻覚ではなかったことを証明してくれた。

そして今も、この傷跡は私の体の一部として、確かにここに存在している。


ズキン。

古傷が痛んだ。

いや、痛みではない。

もっと深く、神経の奥底を直接撫でられるような、懐かしい痺れ。

まるで、見えない『根緒』が、今もまだそこに巻き付いていて、私の脈拍を確かめているかのような感触。


(逃げ切れた)

私はそう思っていた。

物理的に距離を置き、新しい生活を築き、過去を過去として処理することで、私はあの呪縛から解放されたのだと。

でも、本当にそうだろうか。

ふとした瞬間に蘇る、あの森の匂い。

果実を潰すたびにフラッシュバックする、肉が砕ける感触。

そして、左手首に残る、消えない刻印。

私は、本当に「外」に出られたのだろうか。

それとも、あの村という巨大な根系は、地下深く、見えない場所を通ってここまで伸びてきていて、私という末端をまだ繋ぎ止めているのだろうか。


――チリン、チリン――

鈴の音がした気がした。

実習室の喧騒の裏側で、微かに、けれどはっきりと。

私は手を止めた。

周囲の音が、遠のいていく。

クラスメイトたちの笑い声も、ボウルと泡立て器がぶつかる金属音も、水の中に沈んだようにくぐもって聞こえる。

その静寂の中で、声がした。

耳からではない。

頭蓋骨の内側、脳の芯から響いてくる声。


『……莉桜』


心臓が、大きく跳ねた。

聞き間違えるはずがない。

透明で、儚くて、けれど誰よりも芯の強かった、あの声。

かつて私が、世界で一番大切に思っていた親友の声。


『……聞こえますか?』


それは、あのうろの中から響いてくるような、恐ろしい地響きのような声ではなかった。

風の音でも、虫の音でもない。

神のふりをした怪物の声でもない。

ただの、十五歳の少女の声。

優しく、懐かしく、そしてどこか寂しげな、沙夜の声だった。


私は、ゆっくりと顔を上げた。

窓の外の青空が、一瞬だけ、あの日の忌み山の深い緑色に見えた気がした。

恐怖はなかった。

不思議なほど、心は凪いでいた。

ああ、そうか。

私は理解した。

私は逃げたんじゃない。

連れてきたんだ。

あの日、あの瞬間、私は魂の一部をあの洞の中に置いてきたのと引き換えに、沙夜の一部を私の中に受け入れたのだ。

私の血管の中を、彼女の記憶が流れている。

私の鼓動のリズムで、彼女も息をしている。

私たちは、「根」で繋がっている。

物理的な距離など関係なく、時間さえも超えて。

それは呪いかもしれない。一生解けない、死の契約かもしれない。

けれど今の私には、それがたまらなく愛おしく、そして心地よかった。


私は、左手首の痣をそっと指でなぞった。

そこにあるはずのない温もりが、じんわりと広がっていく。

まるで、誰かが私の手首を優しく握り返してくれているかのように。


私は口元を綻ばせた。

誰に見せるためでもない、私自身の心からの微笑み。

それはもしかしたら、あの日の麗華さんが浮かべていた微笑みと、よく似ていたのかもしれない。

けれど、そんなことはどうでもよかった。


私は、心の中で、あるいは微かに唇を動かして、答えた。


「聞こえてるよ。沙夜」


甘いお菓子の香りと、微かな腐葉土の匂いが混じり合う教室で、私は再びマッシャーを握りしめた。

私の日常は続く。

この、見えない根に絡め取られたままの体で。

沙夜と共に。

虚空の果てまで。


(了)


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