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第十一章 虚空

Google AI Studioで専用のアプリを作り、プロットを読み込ませて作った和風ホラー小説です。

11-1【入定】


ドン、ドン、ドン――。


腹の底を突き上げるような太鼓の音が、私の意識を強引に現在へと引き戻した。

まぶたの裏に残っていた木漏れ日の映像が、硝子細工のように粉々に砕け散る。

甘いクレープの匂いも、遠い日の約束も、すべてが暗い泥の中に沈んでいく。

目を開ければ、そこにあるのは無慈悲な夜だった。

粘りつくような湿気を含んだ風が、頬を撫でる。

耳をつんざくのは、ヒョロロロ……という、甲高く、神経を逆なでするような龍笛の音色。

それはまるで、地獄の底から亡者たちを呼び寄せる合図のように、絶え間なく鳴り響いていた。


「あ……」

口から漏れたのは、言葉にもならない呼気だった。

視界の先、松明の炎が揺らめくその向こうに、巨大な虚空様がそびえ立っている。

脈打つ樹皮。蠢く枝葉。

そして、その根元にぽっかりと口を開けた、底知れぬ闇。

空洞ウロ

その中に、沙夜が立っていた。

白装束を身にまとい、意識の感じられない虚ろな表情のまま、彼女は静かにたたずんでいる。

さっきまでの回想の中の、あどけない笑顔はもうどこにもない。

そこにいるのは、ただ「器」として磨き上げられた、美しい供物だった。


「かしこみ、かしこみもまおす――」

神主である慧くんの父親が、朗々とした声で祝詞を上げ始めた。

儀式が、進んでいる。

止まらない。止められない。

私の思考が恐怖で凍りつくのと反比例して、左手首の『根緒』が灼熱した鉄のように熱を持ち、脈動を早めていく。

ドクン、ドクン、ドクン。

全身の血が逆流するような感覚。

足元が崩れ落ちるようなめまいに襲われ、私は膝から崩れ落ちそうになった。


「しっかりなさい、莉桜さん」

ふわりと、甘い香りが鼻孔をくすぐった。

倒れかけた私の体を、横から伸びてきた手が優しく、けれど強引に支える。

麗華さんだった。

彼女の腕は、白磁のように冷たく、それでいて万力のような力強さで私を拘束していた。

「……麗華、さん……」

私がすがるように見上げると、彼女は完璧な角度で微笑んでいた。

その笑顔には、一点の曇りもない。

友人が死地へ赴こうとしていることへの悲しみなど微塵もなく、ただ神聖な儀式を執り行う執行者としての、厳粛な喜びだけが満ちている。

彼女は私の体を支えたまま、親族たちが並ぶ列の最前列へと私を誘導した。

逃がさない。

目を逸らすことも許さない。

彼女の指先が、私の二の腕に食い込む。


「ちゃんと沙夜さんを見なさい」

麗華さんが、私の耳元に唇を寄せて囁いた。

その声は、甘い毒のように鼓膜から脳髄へと染み渡っていく。

「これが、最後ですのよ」


最後。

その二文字が、鋭利な刃物となって私の心臓を貫いた。

最後?

沙夜を見るのが?

沙夜と話すのが?

沙夜という人間が、この世界に存在しているのが?

嫌だ。

そんなの、嫌だ。

私の脳内で、警報音が鳴り響く。

ここで沙夜を見送ってしまえば、彼女は永遠にいなくなってしまう。

「物理的な死」以上の、もっとおぞましい「完全な消滅」が彼女を待っている。

根守村の伝承。人柱。虚空様の糧。

恐怖が爆発し、理性のタガが外れた。


私は、自分の肩を抱いている麗華さんの腕を、両手で強く握り返した。

爪が彼女の着物越しに食い込むのも構わず、なりふり構わずしがみついた。

「やめさせて……っ!」

喉が引きつり、悲鳴のような声が出る。

「麗華さん! 麗華さんならできるでしょう!? お願い、止めて!」

麗華さんは動じない。ただ、憐れむような目で私を見下ろしている。

その静けさが、私をさらに追い詰める。

「沙夜が……友達が、殺されちゃうんだよ!!」

私は叫んだ。

この期に及んで「殺される」という言葉を口にすることは、この村では最大のタブーだ。

けれど、そんなことを気にしている場合ではなかった。

私の絶叫は、管絃の轟音にかき消され、周囲の村人たちの耳には届かないかもしれない。

でも、麗華さんには届くはずだ。

彼女は沙夜の幼馴染だ。

いくら狂信的だとしても、同じ十五歳の、血の通った人間のはずだ。

「お願い……助けてあげて……っ」


その時だった。

私の必死の懇願を受けた麗華さんの顔に、異変が起きた。

能面のように完璧だったその表情が、ふと、揺らいだのだ。

眉間が微かに寄り、唇がわななき、瞳の奥にさざ波のような動揺が走る。

それは、ほんの一瞬のことだった。

瞬きをするよりも短い時間。

けれど、私は確かに見た。

彼女の聖女の仮面の下から、人間らしい苦悩と、悲痛な叫びのようなものが、泥のように溢れ出しそうになるのを。

(……え?)

麗華さんも、苦しいの?

本当は、止めたいの?

一縷の望みが、私の胸に灯りかけた。

しかし、次の瞬間。

彼女はふっと息を吸い込み、瞬きを一つした。

それだけで、すべてが消えた。

苦悩も、動揺も、人間らしささえも。

彼女の顔は、再びあの「聖母のような慈愛に満ちた微笑み」へと塗り替えられていた。

まるで、最初から何も感じていなかったかのように。

あるいは、自分の心そのものを鋼鉄の意志でねじ伏せ、封印してしまったかのように。


「殺されるのではありませんわ、莉桜さん」

麗華さんは、諭すように言った。その声には、微かな揺らぎさえもなかった。

「沙夜さんは虚空様のもとへ行き、一つになられるのです。永遠に守られ、永遠に生き続けるのです。それは死ではなく、昇華なのです」

「……うそ……」

「嘘ではありません。これが、この村の真実です」

彼女は私の肩を抱く手に、さらに力を込めた。

「見届けるのです。それが、残された私たちの務め。……そして、沙夜さんへの一番の祝いになるのですよ」

拒絶。

完璧な拒絶だった。

彼女はもう、こちらの言葉を聞く耳を持っていない。

彼女の中では、沙夜の犠牲はすでに「確定した正義」であり、それを疑うことこそが悪なのだ。

一瞬見せたあの苦痛の表情は、私の見間違いだったのだろうか。

それとも、彼女の人間としての最後の良心が上げた、断末魔の叫びだったのだろうか。

どちらにせよ、もう彼女にすがることはできない。

絶望が、冷たい鉛となって胃の腑に落ちた。


誰にも、沙夜を救えない。

この場にいる数百人の村人たち全員が、沙夜の死を望み、それを祝福している。

巨大な悪意なき狂気の奔流。

その中で、私一人が小石のように声を上げても、何一つ変えられない。


「う……ううぅ……ッ!!」

獣の唸り声のような音が聞こえ、私は弾かれたように視線を巡らせた。

慧くんだった。

神社の神職たち、そして村の男たち数人に取り押さえられ、地面に顔を押し付けられている。

「離せ……ッ! 離せよオオオッ!!」

彼は必死にもがいていた。

白衣は泥にまみれ、袴は破れかけている。

整った顔立ちは土と涙と鼻水でぐしゃぐしゃになり、充血した目は血走っていた。

「沙夜! 逃げろ! 行くな!!」

喉が張り裂けんばかりの絶叫。

けれど、その体は男たちの暴力的な力によって完全に封じ込められている。

一人が慧くんの背中に乗り、もう一人が彼の髪を掴んで地面に叩きつける。

「静かにせんか! 罰当たりが!」

「神代の恥さらしめ!」

罵声と共に、容赦のない拳が慧くんの脇腹に叩き込まれる。

「がっ……は……っ」

慧くんの口から、苦悶の息が漏れる。

それでも彼は、泥を噛みながら、必死に顔を上げようとしていた。

その視線は、ただ一点、沙夜の方だけを向いている。

「沙夜……頼む……行かないでくれ……」

理知的な彼が、プライドも何もかもかなぐり捨てて、ただ妹の命を乞うている。

その姿はあまりにも痛ましく、そして無力だった。

神代家の跡取りである彼でさえ、このシステムの前では無力なのだ。

誰も助けられない。

神も、仏も、ここにはいない。

いるのは、飢えた怪物と、それに餌を与える狂信者たちだけだ。


私の全身が、恐怖でガタガタと震え始めた。

歯の根が合わず、カチカチと音を立てる。

視界が涙で歪み、世界が溶けていく。

そんな私の絶望をよそに、儀式は淡々と、厳かに進行していく。


ピーヒョロロ……。

笛の音が、一段と高く、鋭くなる。

太鼓のリズムが早くなり、心臓を直接殴打するような振動に変わる。

「さあ、参られよ。御身おんみの懐へ」

神主の声が響く。

虚空様の洞の中に静かに立つ沙夜。

彼女は、慧くんの叫び声が聞こえていないかのように、あるいは聞こえていてももう戻れないと悟っているかのように、背筋を伸ばして立っている。

その顔は、蝋細工のように白く、美しかった。

感情の一切が抜け落ちた、完全なる虚無。

彼女はもう、恐怖すら感じていないのかもしれない。

自我が崩壊し、ただ「役割」を遂行するためだけの自動人形になってしまったのかもしれない。

「……沙夜」

私の口から、掠れた声が漏れる。

行かないで。

そっちはだめ。

そこは、温かい神様の懐なんかじゃない。

冷たくて、暗くて、何もかもを溶かしてしまう消化器官だ。

けれど、私の声は彼女には届かない。

洞の中の闇が、一段と濃く、深くなっていくような気がした。

白装束の裾が、洞の闇に吸い込まれる。

黒髪が、闇に混ざる。

虚空様の洞の中は、外の闇よりもさらに濃密な、絶対的な漆黒に満たされていた。

光を吸い込み、音を吸い込み、命を吸い込む、ブラックホールのような穴。

そこから漂うのは、腐葉土と鉄錆の混じった、あの『黒脂くろやに』の濃厚な臭気。

沙夜の姿が、闇に溶けていく。

輪郭が曖昧になり、白さが濁り、やがて見えなくなる。


「掛けまくもかしこき、根守の大神――」

神主が、洞の中の沙夜に向かって、朗々と祝詞を捧げ始めた。

それは祈りではない。

完了の合図だ。

供物が正しく捧げられ、胃袋の中に収まったことを確認する、残酷な確認作業。

「今ここに、清らかなる魂を捧げたてまつる。御身の血肉となりて、我らが里を永久とわに守り給え」

村人たちが一斉に平伏する。

地面に額を擦り付け、狂ったように祈りの言葉を唱え始める。

その異様な光景の中で、私だけが立ち尽くしていた。

麗華さんに支えられなければ、その場に崩れ落ちていただろう。

終わる。

沙夜がいなくなる。

もう二度と、あの日差しの中で都会へのあこがれを話すことも、笑い合うこともできない。

私の親友が、あんなわけのわからない穴の中で、独りぼっちで、何かに変えられてしまう。

「いや……いやぁ……」

涙が溢れて止まらない。

左手首の『根緒』が、喜び勇むようにドクンと跳ねた。

私の肉に食い込み、骨をきしませながら、それは勝ち誇ったように脈打っている。

お前も見たな。

お前も共犯だ。

もう逃げられないぞ、と。

神主の祝詞が、クライマックスへと向かう。

その声に合わせて、虚空様の枝葉がざわざわと蠢き、満足げな吐息のような風が、洞の奥から吹き出してきた。



11-2【咀嚼】


涙で滲んだ視界の中で、世界がどろりと溶解していく。

とめどなく溢れる涙は、もはや悲しみによるものではない。眼球を内側から圧迫するような恐怖と、生物としての根源的な拒絶反応が、私の涙腺を壊してしまったのだ。

歪んだ視界の先で、松明の炎が生き物のようにのたうち回っている。その赤黒い揺らめきは、これから行われる惨劇を予祝して踊り狂う、異界の精霊のようにも見えた。


唐突に、音が止んだ。

耳をつんざくような龍笛の悲鳴も、腹の底を殴りつける太鼓の轟音も、見えない巨人が糸を断ち切ったかのようにプツリと途絶えた。

訪れたのは、真空のような、耳鳴りのする静寂だった。

ただ、湿った夜風が木々の枝葉を揺らすざわめきと、興奮した村人たちの荒い鼻息、そして数千もの視線が織りなす粘着質な熱気だけが、その場に残されている。


場が静まったのを確認した神主である慧くんの父親が、虚空様に向かって厳かに二礼二拍手一礼する。

彼は虚空様のうろの前に立ち、朗々とした声で祝詞の続きを紡ぎ始めた。

「大神の御心みこころ、ここに極まれり。我らが捧げし清らかなる魂を、御身のふところ深くへと招き入れたまえ」

神主の声は、谷底から吹き上げる風のように、重く、低く、そしてどこか湿り気を帯びて響き渡る。

「これより、聖なる岩戸を閉ざす。巫女は内にて祈りを捧げ、大神の糧となりて、永久とわに村の安寧を護るいしずえとならん」


その言葉が、麻痺しかけた私の脳に浸透するのに数秒を要した。

岩戸を、閉ざす。

内にて、祈りを捧げる。

それは「殺す」という意味ではない。

生き埋め。あるいは、即身仏。

沙夜は今すぐにその首を刎ねられるわけでも、心臓を突かれるわけでもない。あの暗い洞の中に閉じ込められ、水も食料も断たれたまま、生きたまま時間をかけて神に同化していくのだという宣告だった。


(……え?)

私はハッとして、袖口で乱暴に涙をぬぐった。

視界がクリアになる。

恐怖で凍り付いていた思考の歯車が、軋み音を立てながらも急速に回り始めた。

殺されない。

今すぐには、死なない。

ということは――。


私は反射的に、地面にねじ伏せられている慧くんを見た。

彼もまた、顔を上げていた。

泥にまみれ、数人の男たちに手足を抑え込まれ、着物は乱れきっている。けれど、その瞳には理性の光が戻っていた。むしろ、極限状態における冷徹な計算の色が宿っていた。

目が合う。

距離は離れている。言葉を交わすこともできない。

けれど、私には彼が何を考えているのか、痛いほどに伝わってきた。双子の兄である彼が、妹の生存可能性を諦めるはずがない。

『生きている』

『生きてさえいれば、チャンスはある』

慧くんの目が、そう語っていた。


絶望のどん底から、細い糸のような希望が垂れ下がってきた気がした。

そうだ。生きたまま閉じ込められるのなら、後で助け出すことができる。

儀式が終われば、村人たちの異常な熱気も冷める。監視は緩むはずだ。

ここは山頂だ。見張りが二十四時間体制でつくとしても、数人程度だろう。

慧くんは神代家の跡取りだ。この山の地理も、警備の配置も、きっと把握できる。

私だって、どんな手を使ってでも協力する。

洞を塞ぐ岩や木材をどかせば、沙夜を連れ戻せる。

この狂った村から、夜闇に紛れて逃げ出すことができる。


(助けられる……!)

私の胸の内で、希望が熱い塊となって膨れ上がった。

さっきまでの、腰が抜けるような無力感が嘘のように消えていく。

今は耐える時だ。

ここで私達が暴れて儀式を妨害すれば、今度こそ本当に「その場での処刑」が行われてしまうかもしれない。最悪の場合、『根腐れ』として私や慧くんまで消され、沙夜を助ける者がいなくなってしまう。

今は従順なふりをして、彼らを安心させるんだ。

そして、彼らが勝利に酔いしれ、油断したその瞬間に、私たちは沙夜を奪い返す。


慧くんが、抵抗をやめた。全身の力を抜くのが見て取れた。

押さえつけていた男たちが、「観念したか」と鼻を鳴らし、少しだけ拘束を緩める。

慧くんは無言で頷き、地面に伏したまま、泥の中で拳を握りしめた。

それは敗北のポーズではない。次なる戦いに向けた、力強い決意の表れだった。


「これより洞を閉じ、これをもって献饌けんせんとする」

神主の号令と共に、控えていた親族たちが動き出した。

彼らはあらかじめ用意されていた丸太や注連縄、大岩を抱え、洞の入り口へと運んでいく。

テキパキとした動き。迷いのない手順。

それはまるで、これから行われることが神聖な儀式ではなく、単なる土木工事であるかのような即物的な光景だった。

それが逆に、私には救いに見えた。

物理的な封鎖なら、物理的に破壊できる。

神秘の力などない。ただの物理現象だ。

私は、麗華さんに肩を抱かれ拘束されたまま、その作業を凝視した。


立ち働く男たちの隙間から、洞の奥が見える。

松明の明かりが届かない、脂のような漆黒の闇。

その境界線に、沙夜が立っていた。

白装束が、闇に浮いている。

彼女はもう、こちらを見ていないと思っていた。

憑りつかれたように心が消え、人形のようにただそこに立っているだけなのだと思っていた。


けれど。

ふと、沙夜が動いた気がした。

私は目を凝らした。

男たちが丸太を積み上げようとする、その一瞬の隙間。

沙夜が、顔を上げていた。

彼女の瞳が、真っ直ぐに私を捉えていた。


(沙夜……!)

私は心の中で叫んだ。

助けるから。絶対に、助けに来るから。

待ってて。お願いだから、心を強く持って。

私の必死の思いを込めた視線を、彼女はしっかりと受け止めたようだった。


その時、異変が起きた。

それまで能面のように無表情だった沙夜の顔に、表情が戻ったのだ。

恐怖ではない。

絶望でもない。

彼女の唇が、ふわりと緩んだ。

頬に微かな赤みが差し、瞳に温かい光が宿る。

それは、私たちがまだ何も知らず、ただの親友同士として笑い合っていた頃の、あの陽だまりのような微笑みだった。


雑貨屋で、ファッション誌を覗き込んでいた時の顔。

「クレープ食べたいな」とはにかんだ時の顔。

そして、「莉桜がいてくれたから頑張れた」と言ってくれた時の、あの優しいぬくもりを感じる顔。


なぜ?

どうして今、そんな顔をするの?

これから暗い穴の中に閉じ込められるのに。

冷たい土の底で、孤独と恐怖に震えることになるのに。

私の思考が停止する。

沙夜のその笑顔は、あまりにも場違いで、そしてあまりにも美しすぎた。

この世の残酷さをすべて洗い流してしまうような、純粋無垢な輝き。

泥と血と狂気にまみれたこの儀式の場で、彼女だけが、唯一の「清浄」としてそこにあった。

いや、違う。その清浄さは、どこか人間離れしていた。

この世への未練を断ち切った者だけが浮かべる、彼岸の微笑み。


沙夜が、ゆっくりと右手を上げた。

小さく、振る。

まるで、下校時のあの分かれ道で「また明日」と言う時のように。

そして、彼女の唇が動いた。

声は聞こえない。

けれど、私にはその言葉がはっきりと分かった。

スローモーションのように動く唇の形が、私の脳裏に直接刻み込まれる。


『バイバイ。莉桜』


別れの言葉。

「またね」ではない。

「助けて」でもない。

永遠の決別を告げる、最期の挨拶。


(違う……違うよ、沙夜!)

私は首を振った。

そんな顔をしないで。そんなことを言わないで。

これは終わりじゃない。始まりなんだ。

私たちがこの村から逃げ出し、自由になるための作戦の始まりなんだ。

だから、さよならなんて言わないで。


私は叫ぼうとした。

「待って」と声を張り上げようとした。

けれど、私の声帯が震えるよりも早く、世界が変貌した。


バクン!!!!


爆発音のような、けれど硬質な衝撃音が空気を叩いた。

地面が揺れる。

私の鼓膜が、キーンと悲鳴を上げる。

何が起きたのか、一瞬理解できなかった。

封鎖作業をしていた男たちが、弾かれたように後ずさる。

神主が、目を見開いて硬直している。

私の隣で、麗華さんが息を呑む気配がした。


目の前の光景が、信じられなかった。

虚空様の洞。

大人一人が余裕で入れるほど大きく裂けていたはずのその入り口が、閉じていた。

岩で塞がれたのではない。

丸太で覆われたのでもない。

左右の樹皮が、まるで巨大な二枚貝が口を閉ざすように、あるいは肉食獣が顎を閉じるように、一瞬にして癒着していたのだ。


それは植物の動きではなかった。

木の皮の下にある筋肉が収縮したような、醜悪で、生物的な速度だった。

さっきまでそこにあった空洞が、傷口が塞がるように消滅している。


ゴゴゴゴゴ……。

巨木全体が、低く唸りを上げている。

地面の下から、腹の虫が鳴るような振動が靴底を通して伝わってくる。

違う。

これは封印ではない。

捕食だ。


「さ……沙夜……?」

私の口から、乾いた音が漏れた。

思考が追いつかない。

植物が、あんな速度で動くはずがない。

あんな風に、物理的に閉じるはずがない。

だとしたら、あれは幻覚?

お神酒の薬が見せている、悪い夢?

そうだ、きっとそうだ。あんなこと、ありえるわけがない。

沙夜はまだあの中にいて、驚いているはずだ。入り口がいきなり暗くなったから、怖がっているはずだ。


「ひっ……」

静まり返った山頂に、誰かの引きつった悲鳴が響いた。

全員が、動けなかった。

村人たちも、これが予定された演出なのか、それとも異常事態なのか判断がつかず、ただ呆然と巨木を見上げている。

静寂。

圧倒的な、死の静寂。


その静寂を破ったのは、音だった。

巨木の内部から響いてくる、異質な音。


グシャリ。


濡れた雑巾を絞り上げるような、水っぽい音。

続いて、


メリメリメリ……バキッ、グチュッ。


硬いものが四方八方から圧迫され、耐えきれずに砕ける音と、柔らかいものが弾けて中身が飛び散るような音が、混ざり合って響いた。

それは決して大きな音ではなかった。

分厚い樹皮に遮られ、くぐもった、低い音だった。

けれど、その音の「質」が、私の本能に直接訴えかけてきた。


あれは、木のきしむ音ではない。

岩が擦れる音でもない。

水分をたっぷりと含んだ、有機的な物体が、抗えない力で圧縮され、原型を留めないほどに磨り潰されていく音だ。


「あ……」

私の脳裏に、鮮明なイメージが浮かび上がった。

閉じた洞の中。

逃げ場のない暗闇。

蠢く内壁。

柔らかい肉が、硬い樹皮に押し付けられる。

骨が悲鳴を上げ、ボキリと折れる。

肺が潰れ、呼吸ができなくなる。

内臓が破裂し、血液が体外へと噴き出す。

あの美しい顔が、陽だまりのような微笑みが、グシャグシャに歪み、ただの肉塊へと変わっていく。


(やめて……やめて……!)

私は耳を塞いだ。

聞きたくない。

あんな音、聞きたくない。

あれが沙夜だなんて、信じたくない。

けれど、音は止まらない。


ジュル、ジュルル。


何かをすするような音。

巨木が、溢れ出した体液を、血液を、命そのものを、貪欲に飲み干していく音。

根が脈打つ。

ドクン、ドクン、ドクン。

私の左手首に巻かれた『根緒』が、それに共鳴するように激しく跳ねた。

熱い。

火傷しそうなほど熱い。

『根緒』を通して、歓喜の波動が伝わってくる。

美味うまい』

『甘い』

『満ちる』

数千、数万の「根」が共有する、おぞましい満腹感。

それが私の血管に流れ込み、脳髄を犯していく。


「嘘だ……」

私の唇が震える。

「嘘だ、嘘だ、嘘だ……!」

助けるはずだった。

連れ出すはずだった。

いつか一緒にクレープを食べて、笑い合うはずだった。

それなのに。

あんな、あんな音になってしまうなんて。


その時、獣の咆哮のような絶叫が、夜空を引き裂いた。


「ああああああああああああああッ!!!!」


慧くんだった。

彼は地面に爪を立て、泥をかきむしりながら、喉が張り裂けんばかりに叫んでいた。

「沙夜! 沙夜ぁぁぁぁッ!!」

彼は跳ね起きた。

拘束が解けていることなど気にも留めず、巨木に向かって突進する。

「返せ! 返せよ! 妹返せえええええッ!!」

彼は閉ざされた樹皮に取り付き、拳で殴り、爪で引っ掻いた。

「開けろ! 開けろよ! 畜生、畜生ォッ!!」

けれど、巨木はびくともしない。

ただ、圧倒的な質量でそこに存在し、満足げに沈黙しているだけだった。

慧くんの爪が剥がれ、指先から血が滴る。

その血さえも、樹皮が吸い込んでいくのが見えた。

「ああ……ああ……」

慧くんは樹皮に額を打ち付け、崩れ落ちた。

「嘘だろ……頼むよ……沙夜……」


彼の喉から絞り出されたのは、言葉にならない慟哭だった。


「ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ッ!!!!!!」



11-3【遺物】


絶叫は、唐突に途切れた。

まるで、見えない巨大な手が慧くんの口を塞いだかのように、あるいは、その喉の奥から発せられるべき空気が尽き果てたかのように。


地面に突っ伏した慧くんの背中が、痙攣したように一度だけ大きく跳ね、そして動かなくなった。

泥にまみれた白衣。引き裂かれた袴。

彼は気絶したわけではないようだった。ただ、魂が肉体という器からごっそりと抜け落ちてしまったかのような、完全なる脱力。

絶望という言葉さえ生温かい、絶対的な虚無が彼を押し潰していた。


そして、あの音も止んだ。

グシャリ、メリメリという、硬いものが砕け、水分を多く含んだ柔らかいものが弾ける音。

ジュル、ジュルル、という、何かを貪り啜るような水音。

鼓膜を犯し、脳髄をかき乱していたその不快な咀嚼音が、嘘のようにピタリと止まったのだ。


訪れたのは、耳鳴りがするほどの静寂だった。

風の音もしない。虫の声もしない。

数百人の村人が取り囲んでいるはずなのに、衣擦れの音ひとつ聞こえない。

ただ、濃厚な死の気配と、甘ったるい腐臭だけが、山頂の空気を重く淀ませていた。


ゴチャリ……。

腹の底に響くような低い振動音と共に、事態が動く。

閉ざされていた虚空様のうろが、再び動き始めたのだ。

左右から癒着していた樹皮が、ゆっくりと、剥がれるように開いていく。

その動きは植物のそれではない。満腹になった捕食者が、満足げに口を開けるような、生々しく緩慢な動作だった。


「あ……」

私の喉から、ひきつった呼気が漏れた。

開かないで。

見たくない。

あの中にあるはずのものを、見たくない。

沙夜だったもの。

あんなに優しくて、あんなに温かかった私の親友が、原形を留めない肉塊に変えられてしまった姿なんて、見たくない。


私は反射的に目を閉じようとした。

けれど、できなかった。

瞼が凍りついたように動かない。恐怖が生存本能を凌駕し、私に「直視せよ」と命じていた。

あるいは、隣で私を支えている麗華さんの指が、私の二の腕に深く食い込み、逃げることを許さなかったからかもしれない。


洞が、完全に開いた。

松明の炎が揺らめき、その内部を照らし出す。


「…………え?」


私の唇が、意味のない音を紡いだ。

そこには、何もなかった。

ひしゃげた死体も、飛び散った肉片も、鮮血の海も。

あると想像していた地獄絵図は、そこにはなかった。


あるのは、ただの闇。

底知れぬ、深い闇。

地面には黒い土が広がり、壁面にはゴツゴツとした樹皮が脈打っているだけ。

沙夜がいない。

白装束の少女の姿が、どこにもない。

彼女が身につけていた衣服の切れ端さえ、髪の毛一本さえ、残っていなかった。


「な、……」

私の前で、神主である慧くんの父親が、腰を抜かしたように後ずさった。

その顔は恐怖に引きつり、目は限界まで見開かれている。

「馬鹿な……消えた……? まさか、骨まで……?」

神主の口から漏れた言葉は、私の理解を遥かに超えていた。

骨まで。

数分前までそこに立っていた人間が、骨まで残さず、完全に消化されたというのか。

そんなことが、物理的にあり得るはずがない。

どんな猛獣だって、どんな科学薬品だって、これほど短時間に、痕跡一つ残さず人間を消滅させることなんてできないはずだ。


けれど、目の前の「不在」が、冷酷な事実として突きつけられている。

異常だ。

この村は狂っていると思っていたけれど、目の前で起きている現象は、狂気というレベルさえ超えていた。

人知を超えた、真の怪異。

私たちは、触れてはいけないものに触れてしまったのだ。


凍りついた時間の中で、ふいに気配が動いた。

私の右肩を抱いていた拘束が、ふっと緩む。

御子柴麗華さんだ。

彼女は私から手を離すと、音もなく一歩、前へ踏み出した。

「麗華、さん……?」

私の呼びかけは、彼女には届かなかった。

彼女は迷いのない足取りで、ぽっかりと口を開けた虚空様の洞へと歩み寄っていく。

その姿には、恐怖も、動揺もなかった。

黒地に彼岸花が咲き乱れる振袖が、夜風に揺れる。

彼女だけが、この異常な状況を正しく理解し、受け入れているかのような、神々しいまでの落ち着きを払っていた。


麗華さんは、洞の入り口で立ち止まった。

そして、泥で汚れることも厭わず、優雅な所作でその場に屈み込んだ。

彼女の視線は、洞の中の地面の一点に注がれている。

そこには何もないはずだ。

私には、黒い土しか見えていない。

けれど、彼女には見えているようだった。

彼女の白魚のような指が、そっと地面に伸びる。

黒い土の上に落ちている「何か」を、愛おしそうに摘み上げる。


彼女が立ち上がる。

ゆっくりと、私たちの方へ振り返る。

その手には、泥と、どす黒い粘液にまみれた、小さな輪っかが握られていた。


赤茶けた、組紐。

根緒ねお』。


私の心臓が、早鐘を打った。

沙夜のものだ。

彼女が生まれた時から、片時も離さず左手首に巻いていた、あの『根緒』だ。

麗華さんはそれを、まるで聖遺物でも扱うかのように、両手で恭しく掲げた。

松明の明かりが、その濡れた表面を照らし出す。

ポタ、ポタ、と黒い雫が垂れる。

それは泥水ではない。

鉄錆の臭いがする、あの『黒脂くろやに』と、そして鮮やかな赤色が混じり合った、不吉な液体だった。


私の視線は、その『根緒』の形状に釘付けになった。

輪。

ちぎれていない。

結び目は固く閉ざされたまま、完全な円環を保っている。


思考が、軋みを上げて回転する。

『根緒』は、手首に巻くものだ。

一度結べば、二度と解いてはならない「契約」の証。

沙夜の手首は細かったけれど、それでも拳よりは細くない。

物理的に考えて、手首から『根緒』が抜け落ちることはあり得ない。

結び目を解くか、紐を切断するか。

そのどちらかしか、外す方法はないはずだ。


けれど、目の前の『根緒』は切れていない。

解かれてもいない。

きれいな輪の形のまま、そこに存在している。


では、どうやって外れたのか。

答えは一つしかない。

中身がなくなったのだ。

『根緒』が巻かれていた「手首」そのものが、消失したのだ。


「あ……あぁ……」

私の脳裏に、先ほどの音が蘇る。

グシャリ。メリメリ。ジュルル。

あれは、沙夜の体が圧搾され、骨が砕け、肉が液状になるまで磨り潰された音だったのだ。

固形の肉体が、流動体へと変質し、巨大な根に吸い上げられ、あるいは地面に染み込んで消滅した。

後に残ったのは、消化されなかった植物の繊維――この『根緒』だけ。


「ご覧なさいませ」

麗華さんの声が、朗々と響き渡った。

それは、勝利宣言だった。

「虚空様は、巫女様を受け入れられました。その清らかなる魂も、肉体も、一滴の血、一欠片の骨に至るまで、あますことなく愛し、飲み干してくださったのです!」

彼女の顔は、恍惚に紅潮していた。

友人が跡形もなく消滅したことへの悲しみなど、微塵もない。

あるのは、儀式が完璧に成就したことへの、法悦ほうえつのみ。


「見よ! この輪のままの『根緒』こそが、その証拠!」

麗華さんは血塗れの『根緒』を高く掲げ、叫んだ。

「人の手によって外されたものではありません。引きちぎられたものでもありません。虚空様が、巫女様を認めすべてを受け入れた、奇跡の証なのです!」


その言葉が、引き金となった。

それまで恐怖と緊張に凍りついていた数百人の村人たちが、一斉に息を吹き返したのだ。

「おお……おおお!」

「受け入れられた! 虚空様が、お認めになった!」

「奇跡だ! 奇跡だ!」

どよめきが、さざ波のように広がり、やがて巨大な歓声となって山頂を揺るがした。

男たちは拳を突き上げ、女たちは涙を流して拝んでいる。

先ほどまでの死のような静寂が嘘のように、狂喜乱舞の渦が巻き起こった。


「ありがたや、ありがたや……」

「これで村は安泰だ」

「虚空様、万歳!」


醜悪だった。

あまりにも、醜悪だった。

一人の少女が、たった十五年の人生を、こんな理不尽な形で奪われたのだ。

痛みと、恐怖と、孤独の中で、グチャグチャにすり潰されて殺されたのだ。

それなのに、彼らは笑っている。

感動して泣いている。

「よかった」「救われた」と、手を取り合って喜んでいる。


「う……うう……」

私の喉から、獣のような唸り声が漏れた。

違う。

違う。

これは「救済」なんかじゃない。ただの「捕食」だ。

あなたたちが崇めているのは神様なんかじゃない。人間を肥料にするだけの、ただの化け物だ。

そう叫びたかった。

麗華さんに飛びかかり、あのおぞましい『根緒』を奪い取り、地面に叩きつけてやりたかった。

「ふざけるな!」と、この狂った祝祭をぶち壊してやりたかった。


けれど、体は動かなかった。

指一本、動かせなかった。

圧倒的な絶望が、私の神経を焼き切っていた。

怒りよりも、悲しみよりも先に、「理解」してしまったからだ。

この村には、人間の言葉は通じないのだと。

私が何を叫ぼうと、彼らの「喜び」には届かない。

彼らにとって、沙夜の死は「悲劇」ではなく「ハッピーエンド」なのだ。

物語の結末が決定的に食い違っている相手に、言葉など意味を持たない。


私は、崩れ落ちることもできずに立ち尽くしている。

体に力が入らないのに、石のようにこわばって、固まっている。

視界の端で、慧くんがまだ地面に伏しているのが見えた。

彼は顔を上げていなかった。

歓声が上がった瞬間、彼は体を小さく震わせ、そして動かなくなった。

彼もまた、理解したのだろう。

「輪のままの根緒」の意味を。

妹が、もうこの世のどこにもいないという事実を。

彼が守りたかったものは、もう、灰の一粒さえ残っていないのだと。


「素晴らしい……なんと素晴らしい夜でしょう」

麗華さんが、私の前に歩み寄ってきた。

彼女は血と脂にまみれた『根緒』を大切そうに両手で包み込み、胸に抱いている。

その瞳は、星空のようにキラキラと輝いていた。

「莉桜さん。私たち、見届けましたね。沙夜さんが立派にお勤めを果たすところを」

彼女は私の顔を、覗き込んでくる。

「泣かないで。これは名誉なことなのです。沙夜さんは、私たちの中で、そして虚空様の中で、永遠に生き続けるのですから」

「泣かないで」という彼女の顔には、いつもの聖母のような微笑みが浮かんでいる。

違うのは、目じりから溢れた涙がほほを濡らしていること。

「泣かないで」と言う、麗華さん自身が泣いていること。


私にはその涙が、周りの親族たちと同様の歓喜の涙に見えた。

彼女の指先が、慈しむように私の頬に触れた。

そこには、沙夜の血がついていたかもしれない。虚空様の粘液がついていたかもしれない。

けれど、私にはそれを払いのける気力さえ残っていなかった。


私はただ、虚ろな目で彼女を見つめ返すことしかできなかった。

麗華さんの背後には、巨大な虚空様がそびえ立っている。

その枝葉が、夜風を受けてざわざわと揺れた。

美味うまい』

『美味かった』

『次は誰だ』

そんな声が聞こえた気がした。

私の左手首の『根緒』が、呼応するようにドクンと脈打つ。

お前もだ、と。

お前もいつか、こうなるのだと。


周囲の歓声が、遠のいていく。

世界が、色を失っていく。

私は、ただの抜け殻となって、その場に立ち尽くしていた。

沙夜。

ごめんね。

助けられなかった。

沙夜の痛みも、恐怖も、何一つ分かってあげられなかった。

そして今、沙夜の死を喜ぶこの狂った輪の中で、私は息をしている。

生きてしまっている。


私の心の中で、何かが完全に壊れる音がした。

それは、沙夜の体が砕けた音よりも、ずっと静かで、そして致命的な音だった。



11-4【虚無】


麗華さんの手が、私のほほを包み込んでいる。

その掌は温かく、柔らかく、そして恐ろしいほどに優しかった。

「参りましょう、莉桜さん。私たちの役目は終わりましたわ」

耳元で囁かれる声は、労り(いたわり)に満ちていた。まるで、大仕事を終えた功労者を讃えるかのように。あるいは、壊れかけた人形をショーケースに戻そうとするかのように。

彼女は本当に、心からそう思っているのだ。

友人の死を見届け、その証拠品である血塗れの『根緒』を掲げながら、彼女は至上の幸福を感じている。狂気などではない。彼女の中では、これが正義であり、愛であり、真理なのだ。

その完璧なまでの自己完結した世界が、私には堪らなく恐ろしかった。


私は、彼女の手を振り払う気力さえなかった。

ただ、幽霊のようにふらりと体をよじった。

私のほほから、麗華さんの手が滑り落ちる。

抵抗の意思を示したわけではない。水が指の隙間からこぼれ落ちるように、私という存在の輪郭が希薄になり、彼女の拘束をすり抜けただけだ。

麗華さんは一瞬だけ痛まし気に目元をゆがめたが、すぐに慈母のような微笑みを浮かべて頷いた。

「そうですね。お別れをしたいのですね」

違う。

お別れなんてしたくない。

そんな綺麗な言葉で、この惨劇をラッピングしないでほしい。

けれど、言葉は喉の奥で泥のように詰まって出てこない。


私は足を引きずり、一歩を踏み出した。

地面は黒い土と、松明の燃えかすで汚れている。

草履越しに足袋の裏から伝わる感触は、どこまでも不快で、ぬるりとしていた。

一歩進むごとに、膝が折れそうになる。

重力が増したわけではない。私の中身が空っぽになって、気圧差で押し潰されそうになっているのだ。


目の前には、慧くんがいた。

彼は泥の中に膝をつき、両手を地面についたまま、彫像のように動かなくなっていた。

白衣は汚れきり、袴は無残に裂けている。

先ほどまで燃え上がっていた怒りも、絶叫も、今はもうない。

魂が根こそぎ引き抜かれた抜け殻だけが、そこに置き去りにされていた。

私は彼に声をかけることもできず、その横に立った。


そして、覗き込んだ。

虚空様の、うろの中を。


そこには、何もなかった。

沙夜の姿も。

引きちぎられた衣服の切れ端も。

飛び散ったはずの肉片も。

何ひとつ、残っていなかった。

あるのは、どこまでも深く、光を吸い込むような漆黒の闇と、湿った黒い土だけ。

強烈な腐葉土の匂いと、鉄錆の臭いが鼻をつく。

それは、食事を終えたばかりの胃袋の臭いだった。


「……あ」

私の口から、空気の漏れるような音がした。

本当に、いないんだ。

あんなに近くにいたのに。

あんなに温かかったのに。

数分前まで、私に微笑みかけ、手を振ってくれた沙夜が。

物理的に、原子レベルで、この世界から消滅してしまった。


ガクガクと膝が震え、もう自分の体重を支えきれなかった。

私は慧くんの横で、崩れ落ちるように膝をついた。

泥が跳ね、私の黒い着物を汚す。

けれど、そんなことはどうでもよかった。

目の前の「虚無」が、私を飲み込んでいく。


終わった。

全部、終わった。

助けるという誓いも。一緒に逃げるという計画も。

未来も、希望も、約束も。

すべてがこの巨大な樹木に吸い上げられ、咀嚼され、養分に変えられてしまった。

全部、奪われた。


「…………」

叫びたかった。

ふざけるなと、返せと、泣き叫んで地面を叩きたかった。

けれど、あまりに巨大すぎる絶望は、人間から「叫ぶ」という機能さえも奪い去るらしい。

声が出ない。

感情が追いつかない。

心が、ぱっくりと割れて、そこから何かがとめどなく流出していく感覚だけがある。


熱い雫が、頬を伝った。

一滴、また一滴。

それは堰を切ったように溢れ出し、顎を伝って地面に黒い染みを作っていく。

私は瞬きもせず、ただ洞の闇を見つめたまま、涙を流し続けた。

悲しいという感情すら、今の私には上等すぎる気がした。

ただ、体の一部がもぎ取られた生理現象として、涙だけが止まらなかった。


闇の中に、沙夜の面影を探す。

けれど、浮かんでくるのは、死に装束の彼女ではなかった。

私の脳裏に、走馬灯のように溢れ出したのは、彼女と過ごした何気ない、けれど輝くような日常の断片だった。


『ねえ、莉桜。東京ってどんなところ?』

雑貨屋の雑誌棚の前。薄汚れた窓ガラスを通した陽の光を受けて、色素の薄い瞳を輝かせていた沙夜。

『原宿にはね、クレープっていうお菓子があって、休日になるとすごい人なんだよ』

私がそう教えると、彼女は想像もつかないという顔で、けれど憧れをいっぱいに詰め込んだ顔で言った。

『すごいなぁ。お祭りみたいだね』

違うよ、沙夜。

お祭りなんかじゃない。

東京では、それが日常なんだよ。

休日に友達と待ち合わせをして、派手な服を着て、甘いお菓子を食べ歩く。

ショーウィンドウに飾られた流行りの服を見て、「あれ可愛い」「これ欲しい」と無責任に言い合う。

疲れたらファーストフード店に入って、何時間でも他愛のないおしゃべりをする。

そんな、取るに足らない時間。

私が東京にいた頃は、「退屈だ」とさえ思っていた、当たり前の休日。


『可愛い服のお店がいっぱいあって、一日中見てても飽きないんだよ』

私が身振り手振りで話すと、沙夜は自分の着ている地味な服の裾をぎゅっと握りしめて、はにかむように笑った。

『私、一度でいいから、そういう可愛い服、着てみたい』

その願いは、あまりにもささやかだった。

13歳や15歳の女の子なら、誰だって持っている、誰だって叶えられるはずの願い。

お母さんにねだって、あるいは自分のお小遣いを貯めて、駅ビルの店で買う。ただそれだけのこと。

なのに。

沙夜にとっては、それが命がけの、決して手の届かない夢物語だったのだ。


『家族そろってのご飯、楽しそうだね』

私が何気なく話した夕食の団らんの話に、沙夜は寂しげな目を向けた。

『うちは、お父様が忙しいから……ご飯はいつも、慧と二人だけ』

温かい湯気。テレビのバラエティ番組の音。今日あった出来事を話して笑い合う食卓。

私がたまに「鬱陶しい」と感じてしまうような両親との時間さえ、沙夜にとっては宝石のように眩しいものだった。


ごめんね。

ごめんね、沙夜。

私は、何も分かっていなかった。

私にとっての当たり前の日常が、どれほど尊いものだったのか。

沙夜がどれほど、その「当たり前」に焦がれていたのか。

私は沙夜に、「外の世界」の輝きを見せびらかして、残酷な希望を抱かせてしまっただけだったんじゃないの?

クレープも、映画も、可愛い服も。

何一つ、叶えてあげられなかった。

連れ出してあげることも、守ってあげることもできなかった。

私がしたことといえば、恐怖に負けて嘘をつき、沙夜を一人ぼっちにして、最後にはこうして、沙夜が食い殺されるのを特等席で見届けることだけ。


「……ぅ、ぁ……」

喉の奥から、空気が漏れるような音がした。

涙が止まらない。

私の涙が地面に落ち、泥と混ざり合う。

その泥は、さっきまでここに立っていた沙夜が踏みしめていた土だ。

もしかしたら、沙夜の体液が混ざっているかもしれない土だ。

私は震える手で、その黒い土を握りしめた。

冷たくて、湿っていて、そして残酷なほどにただの土だった。

沙夜はもう、どこにもいない。

この世界から、完全に消されてしまった。


隣を見ると、慧くんはまだ動かなかった。

泥にまみれた横顔は、死人のように蒼白で、まばたき一つしていなかった。

彼もまた、見ているのだろうか。

妹と過ごした日々の記憶を。

守りたかった笑顔を。

そして、そのすべてが理不尽な暴力によって踏みにじられた、この現実を。

私たち二人は、世界の果てに打ち捨てられた瓦礫のように、ただそこに在った。

言葉もなく。

希望もなく。

魂もなく。


「おおおお……!」

「ありがたや、ありがたや!」

背後から、どっと歓声が上がった。

私の思考を、暴力的なノイズが遮る。

振り返らなくても分かる。

親族たちが、村人たちが、抱き合って喜んでいるのだ。

麗華さんが掲げた『根緒』を見て、儀式の成功を確信し、狂喜乱舞しているのだ。


「これで村は安泰だ!」

「虚空様万歳!」

「素晴らしい儀式だった!」


拍手の音が、波のように押し寄せてくる。

パチパチパチパチ。

乾いた音が、湿った夜空に響き渡る。

笑い声。感嘆の声。祝詞を唱える声。

それらは一つになって、巨大なうねりとなり、私たち二人を飲み込もうとしていた。


うるさい。

うるさい、うるさい、うるさい。

どうして笑えるの?

どうして喜べるの?

あんなに優しかった子が、あんなに残酷な方法で殺されたのに。

あなたたちの娘でしょう? 姪でしょう? 孫でしょう?血のつながった家族なんでしょう!

同じ村で、同じ時間を生きてきた、一人の人間でしょう?

それが、骨の髄まで搾り取られ、跡形もなく消えてしまったのに。

どうして、そんな風に手を叩けるの?


彼らの歓喜の声は、私にとっては意味を持たない雑音だった。

いや、雑音ですらない。

神経をやすりで削られるような、内臓を雑巾絞りにされるような、生理的な不快感を催す暴力的な振動だった。

彼らと私たちは、違う生き物なのだ。

言葉は通じない。感情も共有できない。

同じ形をしていても、中身は決定的に違う、別の種族なのだ。


「あ……あ……」

私は耳を塞ごうとした。

けれど、泥にまみれた手は重く、持ち上がらなかった。

歓声は止まない。

むしろ、どんどん大きくなっていく。

まるで、私たちの絶望を燃料にして、さらに燃え上がっていくかのように。


目の前の虚空様が、ざわざわと枝を揺らした。

その音は、満腹になった怪物が、満足げに喉を鳴らしている音に聞こえた。

そして、背後の村人たちの歓声は、その怪物に餌を与えた飼育員たちが、主人の機嫌が良いことを喜んでいる声に聞こえた。


ここは地獄だ。

死後の世界にある地獄ではない。

生きながらにして味わう、出口のない地獄。

そして私は、これからもこの地獄で生きていかなければならない。

沙夜を食い殺したこの村の、「細胞」の一つとして。


私は慧くんの横で、膝を抱えた。

小さく丸まり、石ころのように動かなくなった。

涙だけが、とめどなく流れ落ちる。

その静かな雫は、熱狂する村人たちの足音にかき消され、誰にも気づかれることなく、黒い土に吸い込まれていった。


(第十一章 完)

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