第十章 人柱
Google AI Studioで専用のアプリを作り、プロットを読み込ませて作った和風ホラー小説です。
10-1【拘束】
秋の終わりの冷たい風が、カタカタと窓を鳴らす。
その音は、私の鼓動を隠すためのカーテンのようでもあり、同時にこの家を外界から遮断する鉄格子のようにも聞こえた。
私は息を殺し、自室のクローゼットの奥からリュックサックを引きずり出した。
東京にいた頃、遠足で使っていた派手なピンク色のリュック。この陰鬱な根守の色調の中で、それはあまりにも場違いで、かつて私が持っていた「日常」の残骸そのものに見えた。
震える手で、中身を詰めていく。
着替えの下着と靴下。タオル。懐中電灯。
そして、夕食の片付けのどさくさに紛れて台所からくすねてきた、乾パンとペットボトルの水。
どれも、気休め程度の装備だ。山を越えるには心もとない。
けれど、これだけが今の私に残された「抵抗」の形だった。
(今夜だ)
私は唇を噛み締め、リュックのファスナーを閉じた。
慧くんが言っていた。今夜、神代の屋敷で大人たちが集まり、儀式の最終的な日取りを決める会議がある。
神主である慧くんの父親も、地主である麗華さんの父親も、そして村の有力者たちも、その会議にかかりきりになる。
監視の目が緩む、唯一の隙。
その間に、慧くんが沙夜を連れ出す。
私は合流地点である裏山の廃道入り口で待つ手はずになっていた。
時計の針は、夜の七時を回ろうとしている。
階下からは、相変わらず両親の祈る声が聞こえてくる。
「……虚空様……我らの……」
低い、地を這う読経のような祈り。
以前は不気味でしかなかったその声も、今では私の「脱走」をごまかすための環境音として機能していた。皮肉なことだ。
私はリュックを抱えてベッドに座り、静かに時間が来るのを待つ。
家を出るタイミングを待つ中で、左手首の『根緒』が熱を持つ。
ドクン、ドクン。
まるで、私の企みを察知したかのように、脈打ち、締め付けてくる。
『根緒』に埋め込んだ金属の蓋が、皮膚を刺激する。
「……痛い」
小さく呻き、私は手首を押さえた。
痛い。だからこそ、私はまだ正気だ。
この痛みが、私をこの村の狂気から切り離してくれる。
私は窓に近寄り、カーテンの隙間から外を窺った。
街灯の少ない夜道は、漆黒の闇に沈んでいる。雲に隠れて月明かりは少なく、視界は悪い。
それが好都合だった。
これなら、誰にも見られずに移動できるかもしれない。
(待ってて、沙夜)
窓ガラスに映る自分の顔は、蒼白で、幽霊のように頼りなかった。
それでも、目だけは異様にぎらついている。
恐怖と、焦燥と、そして微かな希望。
慧くんとなら、やれるかもしれない。あんなに冷静で、頭のいい彼が計画したことなのだから。
私たちはこの巨大な胃袋のような村から抜け出し、山の向こうへ行くのだ。
そこには、当たり前の明日があるはずだ。
私が東京で捨ててきた、退屈で、平和で、誰も生贄になんかならない世界が。
ジリリリリリ!!
突如、廊下で電話のベルが鳴り響いた。
心臓が口から飛び出しそうになる。
私は弾かれたように振り返り、ドアを見つめた。
こんな時間に、誰が。
階下の祈りの声が止む。
パタパタと母が廊下を走る足音が聞こえ、受話器を取る気配がした。
「はい、高村でございます……ああ、これはこれは、慧様」
母の声色が、瞬時にして粘着質な猫なで声に変わる。
慧くん?
どうして。今頃は会議の様子を伺いつつ、沙夜を連れ出している最中じゃないの?
嫌な予感が、背筋を駆け上がった。
「ええ、莉桜なら部屋におりますわ。……はい、少々お待ちくださいませ」
階段を上る足音が近づいてくる。
私は慌ててリュックをベッドの下に押し込み、机で勉強しているふりをした。
コン、コン。
「莉桜? 起きてる?」
ドア越しに母の声がする。
「……なに?」
私は怪訝そうな声を装って答えた。
「神代の慧様からお電話よ。急ぎの用事だって」
母の声には、深夜の電話を咎める色はなく、むしろ「神代家の跡取りから連絡があった」ことへの興奮と喜びが滲んでいた。
私はベッドから這い出し、ドアを開けた。
母は満面の笑みで子機を差し出してくる。その笑顔の裏にある、爬虫類のような冷たい瞳が私を射抜いた。
「失礼のないようにね」
「……うん」
私は子機を受け取り、部屋に戻って鍵をかけた。
震える手で、受話器を耳に当てる。
「……もしもし」
『……莉桜か』
慧くんの声だった。
低く、押し殺したような声。けれどそこには、隠しきれない焦燥と、深い絶望が混じっていた。
「慧くん、どうしたの? 今夜、計画は……」
『中止だ』
彼は私の言葉を遮るように、短く告げた。
時が止まったようだった。
「……え?」
『今夜の逃亡は無理だ。中止する』
「どうして……だって、今日を逃したら……」
『俺と沙夜も、会議に出席しろと言われた。これからの儀式の手順を、当事者である俺たちにも叩き込む必要があるからと』
目の前が真っ暗になった。
話し合いの席に同席させられる。
それはつまり、一瞬たりとも監視の目が外れないことを意味していた。
「そんな……じゃあ、どうすれば……」
『動くな』
慧くんは鋭く言った。
『今、お前が動けば、俺たち全員が終わる。普段通りに振る舞え。……準備だけはしておくんだ』
「でも! じゃあ沙夜は!?」
『……分からない』
苦渋に満ちた沈黙が流れた。
受話器の向こうで、彼が歯を食いしばる音が聞こえるようだった。
『だが、今夜動けば確実に捕まる。そうなれば、沙夜への監視はさらに厳しくなる。……すまない』
プツリ。
通話が切れた。
無機質な電子音だけが、私の耳元で虚しく響いていた。
私は子機を持ったまま、その場に崩れ落ちた。
終わった。
唯一の希望が、蜘蛛の糸が、プツリと切れてしまった。
外では、風が激しさを増している。
窓を叩くその音は、まるで私たちの逃げ道を塞ぐために打ち付けられる、無数の釘の音のように聞こえた。
翌朝。
私は泥のように重い体を引きずり、学校へ向かった。
一睡もできなかった。
リュックはベッドの下に隠したまま、何食わぬ顔で朝食を食べ、両親の狂気じみた笑顔に見送られて家を出る。
その一連の動作が、まるで自分のことではないように感じられた。
私の魂は、昨夜の絶望の中に置き去りにされたまま、抜け殻だけが動いているようだった。
教室に入ると、華やいだ空気に満ちていた。
クラスメイトたちは笑顔で談笑し、すでに村の安泰が約束されたかのように、希望で目を輝かせている。
「……おはよう」
私の挨拶に答える者はいない。
無視されているのではない。場にそぐわない空気をまとった私は、彼らには見えていないのだ。
私は自分の席に向かった。
前の席。
そこに、慧くんがいた。
彼は机の上で両手を組み、額を押し付けていた。その背中は小さく、今にも折れてしまいそうに見えた。
そして、私の後ろの席。
そこは、空席だった。
沙夜がいない。
鞄もない。教科書もない。
まるで、最初からそこに誰もいなかったかのように、机の上は何もなく、ただ冷たい木目が光っている。
「……慧くん」
私は彼の席に駆け寄り、声をかけた。
慧くんはゆっくりと顔を上げた。
その顔を見て、私は息を呑んだ。
一晩で、十年も歳を取ったかのようにやつれていた。目の下にはどす黒い隈があり、唇はひび割れ、瞳からは光が失われている。
「……沙夜は?」
私は縋るように聞いた。
「沙夜は、どうしたの? 学校は?」
「……来ない」
慧くんの声は、枯れ木の擦れる音のように乾いていた。
「当分、来ない」
「どういうこと……」
「禊だ」
彼は吐き捨てるように言った。
「昨夜の会議で決まった。沙夜は今日から儀式の日まで、屋敷の離れに籠って禊を行う。……事実上の、軟禁だ」
「軟禁……」
「親父も、神代の親族も、交代で監視についている。食事も、排泄も、すべて管理下だ。……逃げる隙なんて、一ミリもない」
慧くんは拳を握りしめ、机を叩こうとして、力なく下ろした。
怒る気力さえ、奪い取られてしまったかのように。
「儀式の日は……?」
私は恐る恐る聞いた。
慧くんは虚空を見つめたまま、答えた。
「十一月二十日」
「二十日……?」
麗華さんの言ったとおりだ。
今日を含めてもあと、一週間もない。
「次の新月だ」
慧くんは言った。
「月が隠れ、闇が最も深くなる夜。虚空様の口が、最も大きく開く時だそうだ」
その言葉の響きに、私は戦慄した。
虚空様の口が開く。
それは比喩ではない。物理的な、捕食のための開口を意味しているのだ。
「そんな……早すぎるよ……」
「失敗は許されないからな」
慧くんは自嘲気味に笑った。
「前回の『根合わせ』で失敗したから、今度は完璧を期すんだそうだ。代わりの巫女はいない。だから、当日まで箱入り娘にして、穢れを落とし、純粋な供物に仕上げるんだとさ」
彼の言葉の端々から、どす黒い絶望が滲み出していた。
ガララ、と引き戸が開く音がした。
私たちは弾かれたように入り口を見た。
麗華さんが、入ってきた。
彼女はいつも通り、完璧だった。
制服に一点の乱れもなく、長い黒髪は艶やかに光り、その顔には聖女のような微笑みが張り付いている。
彼女が現れたことにより、教室の空気がいっそう華やいだ。
クラスメイトの挨拶にこたえつつ、麗華さんは軽やかな足取りで歩いてくる。
そして、沙夜の空席の前で立ち止まる。
「あら、沙夜さんはお休みですのね」
彼女は残念そうに、けれどどこか満足げに言った。
「大切な儀式のために、身を清めていらっしゃるのでしょう。……素晴らしい心がけですわ」
彼女はくるりと振り返り、私と慧くんを見た。
その瞳は、私たちを貫通して、その奥にある「恐怖」を見透かしているようだった。
「私たちも、心して待ちましょうね。沙夜さんが、神と一つになるその日を」
麗華さんの声は、祝福の鐘のように明るく、そして残酷に響き渡った。
私は机の下で、震える左手首を右手で強く握りしめた。
逃げられない。
沙夜は囚われた。
そして私たちもまた、この教室という檻の中で、その時を待つしかないのだ。
時間は、無情にも過ぎ去っていった。
十一月の冷たい雨が、根守の村を濡らし続ける。
沙夜の席はずっと空席のままだった。
誰もそのことに触れようとはしなかった。
担任の牛松先生でさえ、出席を取る時に沙夜の名前を飛ばした。まるで、彼女が最初からこのクラスには存在しなかったかのように。
「いないこと」にされる恐怖。
かつて山崎和也くんが消された時と同じ現象が、今度は沙夜に対して行われている。
けれど今回は、「排除」ではない。「聖別」だ。
彼女は村人たちの意識の中で、すでに人間ではなく、神に捧げられる「供物」として棚上げされているのだ。
私は毎日、慧くんの様子を窺った。
彼は日に日に消耗していった。
授業中も虚空を見つめ、休み時間も誰とも口をきかず、放課後は逃げるように帰っていく。
一度だけ、下校途中に彼を呼び止めたことがある。
「慧くん、何か……何か方法は」
彼は立ち止まり、私を見た。
その目は、死人のように虚ろだった。
「……ない」
「でも!」
「親父たちは本気だ。俺が何かするんじゃないかと疑ってもいる。……部屋の前には常に誰かいて、一人になれる時間すらない。何もするなと暗に脅されているんだ」
「そんな……実の子供なのに……」
「『神の子』だからな」
慧くんは乾いた笑い声を漏らした。
「俺たちは、親にとって子供じゃない。虚空様に奉仕するための道具だ。……道具が意志を持とうとすれば、壊されるだけだ」
彼はそれだけ言うと、雨の中を去っていった。
その背中を見て、私は悟った。
彼はもう、折れてしまったのだと。
たった一人で巨大なシステムに抗い続け、そして力尽きてしまったのだと。
私に残されたのは、自分の無力さを噛み締めることだけだった。
左手首の『根緒』が、日増しにきつく締め付けてくる。
皮膚の下の金属の蓋が、錆びついて肉と癒着していくような感覚。
(助けて……)
誰にともなく祈る。
けれど、この村に神様なんていない。
いるのは、私たちを喰らおうと口を開けて待っている、巨大な怪物だけだ。
そして、十一月二十日。
運命の日がやってきた。
朝から、村は異様な静けさに包まれていた。
空は厚い雲に覆われ、太陽の光を完全に遮断している。昼間だというのに、夕暮れのような薄暗さが世界を支配していた。
学校は、またしても「臨時休校」となった。
今回は祭りではない。村全体が喪に服すような、あるいは嵐の前の静けさのような、重苦しい沈黙が漂っていた。
午後、両親と一緒に家を出る。
二人は、喪服に着替えていた。
「さあ、行きましょう、莉桜」
母が、笑顔で促してくる。
「しっかりと、見届けるのよ。沙夜様の晴れ舞台を」
父は無言で頷き、私の背中を押した。
私は前回とは違い、喪服に似た儀式用の黒装束をすでに着ている。
昨夜、神代家の使いの人がもってきてくれたものだ。
前回の供物と違って今日の私は、巫女の手伝いをする禰宜的な立場らしい。
扇の裾野から扇の要、神社へと向かう。
視界に映る景色は、モノクローム映画のように色を失っていた。
家々の軒先には、例の黒い注連縄と、赤い紙垂が飾られている。
風がないのに、紙垂だけがゆらゆらと揺れているのが見えた。
(逃げられない)
重く、地面に沈み込みそうな足を動かしながら、私は何度も心の中で繰り返した。
ここから走り出しても、どこへ行けばいい?
山はすべて「根」で繋がっている。
村人全員が、私を見張っている。
私は、ベルトコンベアに乗せられた部品のように、ただ終着点へと運ばれていくだけだ。
神社に到着すると、そこにはすでに数百人の村人が集まっていた。
全員が黒い服を着ている。
男たちは黒いスーツや紋付袴、女たちは黒い着物や喪服。
彼らは一言も発さず、整然と並んでいた。
その光景は、葬列そのものだった。
「こちらへ」
神代家の関係者だろう人に促され、私は神社の境内へと進んだ。
鳥居の下に、麗華さんと慧くんがいた。
麗華さんは私と違い、黒い振袖を着ていた。黒地に、血のような赤い彼岸花が染め抜かれた、美しいけれど不吉な着物。
きっと役割も違うのだろう。
「ごきげんよう、莉桜さん」
彼女は静かに微笑んだ。
その笑顔には、以前のような高揚感はなかった。厳粛で、冷徹な、執行人の顔だった。
慧くんは、白衣に袴姿だった。
彼だけが「白」を着ている。神職としての正装だ。
けれど、その白さは、彼の顔色の悪さを際立たせていた。彼は私を見ようともせず、ただ足元の砂利を凝視していた。
「沙夜は……?」
私が小声で尋ねると、麗華さんが本殿の方を目で示した。
「あちらにいらっしゃいます。もうすぐ、お出ましになりますわ」
その時、本殿の奥から太鼓の音が響いた。
ドン。
腹の底に響く、重い音。
それを合図に、村人たちが一斉に頭を下げた。
ジャリ、という衣擦れの音が、波のように広がる。
本殿の扉が開き、中から数人の神職が出てきた。
そして、その中心に。
沙夜がいた。
前回同様、死者に着せる白装束を着ていた。
つややかな黒髪が、きれいにとかされている。反面、顔は白粉を塗ったように蒼白だ。
蝋人形のように生気もない。
彼女は、年配の二人の巫女に両脇を抱えられるようにして歩いていた。
自分の足で歩いているのかどうかも定かではない。それこそ人形のように力なく、引きずられるようにして進んでくる。
「沙夜……」
私は息を呑んだ。
彼女の目は開いていた。
けれど、そこには何も映っていなかった。
恐怖も、悲しみも、絶望さえもない。
ただ、底のない虚無だけが広がっていた。
心そのものが、すでに殺されてしまったあとのような、空っぽの瞳。
彼女は私の前を通り過ぎた。
視線が合うこともなかった。
私は手を伸ばそうとして、動けなかった。
左手首の『根緒』が、万力のように締め付け、私をその場に縫い留めていたのだ。
「参りましょう」
麗華さんが、私の背中をそっと押した。
「虚空様がお待ちです」
沙夜を先頭に、行列が動き出す。
神社の裏手、禁足地へと続く鉄の扉が開かれる。
錆びついた蝶番が、悲鳴のような音を立てた。
その先には、闇に閉ざされた石段が、どこまでも続いている。
私たちは、一歩ずつ、その闇の中へと足を踏み入れた。
足音だけが響く。
ザッ、ザッ、ザッ。
それは、生きた人間が歩く音ではなかった。
死者たちが、自らの墓穴へと向かう行進の音だった。
私は慧くんの背中を見つめながら、必死に足を動かした。
助けて。
誰か、助けて。
心の中で叫び続けても、返ってくるのは冷たい風が草木を揺らす音と、自分の絶望的な足音だけだった。
山頂の巨木が、闇の中で私たちを待っている。
その巨大な口を開けて。
10-2【抵抗】
鉛を詰め込まれたような足が、最後の一段を踏みしめた。
そこは、世界の天井であり、同時に奈落の底でもあった。
禁足地とされてきた忌み山の山頂。
人が数十人入れるほどの広さに切り開かれたその空間は、物理的な広さ以上の圧迫感で満たされていた。空気が、重力とは別の力で歪んでいる。肺に吸い込む酸素の粒さえもが、粘着質な湿気を帯びて喉に張り付くようだ。
そして、目の前には「それ」がいた。
虚空様。
前回の儀式で見た時よりも、さらに巨大に、さらに禍々しく変貌しているように見えた。
闇夜にそびえ立つ巨木は、植物という範疇を遥かに逸脱していた。樹皮は岩のようにゴツゴツと隆起し、ところどころが腫瘍のように膨れ上がっている。枝葉は空を覆い隠すように広がり、私たちを外界から完全に遮断していた。
その幹の中央にぽっかりと口を開けた、巨大な空洞。それが何よりも恐ろしく感じられる。
松明の炎が揺らめいているにもかかわらず、その穴の中だけは光が届かない。
絶対的な闇。
すべてを吸い込み、決して吐き出さない、飢餓そのもののような黒。
耳を澄まさなくても聞こえる。
ゴウ、ゴウ、という低い唸り声が。風の音ではない。この巨木が呼吸をし、地底から養分を吸い上げ、そして新たな供物を求めて喉を鳴らしている音のようだ。
「……あ……」
喉の奥から、乾いた音が漏れた。
足がすくむ。本能が「逃げろ」と警鐘を鳴らし続けている。けれど、体は金縛りにあったように動かない。
虚空様を背に、神主と二人の巫女に支えられた沙夜が、こちらに向かって立っていた。
彼女は、白無垢によく似た死に装束を身にまとっている。
その姿は、闇の中で発光しているかのように白く、そして儚かった。
以前よりも、身体が一回り小さくなった気がする。ここ数日の軟禁生活と禊で、心身ともに削ぎ落とされたのだろうか。風が吹けば折れてしまいそうなほど頼りない背中が、私のすぐ目の前にあった。
「莉桜さん、ここからあなたが沙夜さんを支えてください」
麗華さんの声が、氷のように冷たく響いた。
彼女に促され、私は沙夜のそばへよる。
これまで沙夜の両脇を固めていた二人の年配の巫女が、無言で脇へと退いた。
代わりに私が、沙夜を支える役目を与えられたのだ。
「しっかりと、お支えして差し上げてね。最期の務めなのですから」
麗華さんの言葉には、微塵の悪意もなかった。あるのは、完璧な儀式を遂行しようとする狂信的な使命感だけだ。
私は震える手で、沙夜の肩に触れた。
びくり、と沙夜の体が跳ねる。
「……沙夜」
小声で呼んだ。
けれど、沙夜は反応しなかった。虚ろな瞳を、目の前に集まってる神代家、御子柴家の縁者達に向けている
その肌は陶器のように冷たく、生きている人間の温もりが感じられなかった。
声をかけたい。
「逃げよう」と、「こんなのおかしい」と叫びたい。
けれど、周囲を取り囲む数十人の縁者たちの視線が、物理的な圧力となって私の口を封じていた。
彼らは全員、黒い喪服を着て、無言で私たちを見守っている。
その目は、期待と興奮でギラギラと濡れていた。
これから行われるのが殺人ではなく、神聖な救済であると信じて疑わない目。
この異様な空気の中で、私一人が声を上げたところで、即座に揉み消されることは明白だった。
「皆の者、よくぞ集まった」
朗々とした声が、静寂を切り裂いた。
沙夜の父親であり、神社の神主を務める男が、私と沙夜の隣から一歩前に進み出た。
彼は威厳のある狩衣をまとい、手には大きな幣を持っている。
その表情は、これから娘を死地へ送る父親のものとは思えなかった。紅潮し、誇らしげで、恍惚としていた。
「先日の『根合わせ』において、我々は過ちを犯した。形だけの儀式で、穢れを祓おうとした。その驕りが、虚空様の怒りに触れ、土砂崩れという災厄を招いたのだ」
神主の声が、熱を帯びていく。
「だが、今宵は違う。我々は正しき道へと戻った。古の盟約に従い、最も清らかなる巫女を、虚空様の根元へと還すのである!」
村人たちから、感嘆の吐息が漏れた。
どよめきではない。納得と、歓喜の波動だ。
「沙夜よ」
神主が、娘の方を向いた。
「喜べ。お前は選ばれたのだ。あの大いなる虚空様と一体となり、永遠に村を見守る礎となる。神代の家に生まれた女子として、これ以上の誉れはない」
狂っている。
自分の娘を殺すことを、「誉れ」だなんて。
私は唇を噛み締め、沙夜の肩を強く抱きしめた。
沙夜は、人形のように動かない。父の言葉が聞こえているのかどうかも分からなかった。
「ふざけるな……!」
低く、押し殺したような声が聞こえた。
神主である父親の真正面、親族たちの最前列に立っていた慧くんだった。
彼は白衣に袴という神職の姿をしているが、その拳は白くなるほど強く握りしめられ、肩が怒りで震えていた。
「慧、控えよ」
神主が、煩わしそうに息子を一瞥する。
「今、神聖な儀式の最中であるぞ」
「神聖……? これが、神聖な儀式だと?」
慧くんが一歩、前に出た。
その瞳には、今まで見たことのない激しい炎が宿っていた。
冷静で、理知的で、いつも諦めたように嗤っていた彼の、仮面が砕け散った瞬間だった。
「自分の娘を殺して、何が神聖だ! 何が誉れだ! あんたは、親じゃないのかよ!」
「黙れ!」
神主が大喝した。
「これは村のためだ。沙夜も、それを望んでいる。個人の情で、村全体を危険に晒すつもりか!」
「村のためなら、人を殺してもいいのか! 科学的根拠もない、ただの土砂崩れを神の祟りだと決めつけて……こんなの狂ってる!」
慧くんの叫びが、山頂の闇に響き渡った。
それは、この場にいる全員が心の中で否定し続けてきた「正論」だった。
だからこそ、村人たちの逆鱗に触れた。
ざわっ、と空気が波打つ。
「黙れ」「不敬だぞ」「神代の息子が何を言うか」
村人たちの目が、崇拝から敵意へと変わる。
「ただの木だ!」
慧くんは、目の前の巨木を指差して叫んだ。
「神なんかじゃない! 意思なんかない! ただの、巨大な植物だ! そんなもののために、沙夜が死ぬ必要なんてないんだよ!」
彼は、父に向かって掴みかかった。
神主の胸倉を掴み、その体を揺さぶる。
「目を覚ませよ親父! 沙夜だぞ! あんたの娘だぞ!」
しかし、神主の目は覚めなかった。
軽蔑と、哀れみを含んだ目で、息子を見下ろしている。
「……嘆かわしい。悪鬼に心を食われたか」
神主が合図を送る。
その瞬間、親族の中から控えていた数人の男たちが、一斉に慧くんに飛びかかった。
「離せ! 離せよ!」
慧くんが暴れる。
けれど、多勢に無勢だった。
大人の男たちの力には敵わない。彼はあっという間に地面にねじ伏せられ、泥の中に顔を押し付けられた。
「ぐっ……ううっ……!」
「静かにさせろ。儀式の妨げになる」
神主の冷酷な命令により、一人の男が慧くんの頭を強く地面に押し付けた。
理屈も、情も、正義も通じない。
ここにあるのは、ただ圧倒的な「数」の暴力と、狂信という名の鉄壁だけだった。
慧くんは泥にまみれながら、必死に顔を上げた。
その視線の先には、沙夜がいる。
「沙夜……!」
悲痛な叫びだった。
喉が張り裂けんばかりの、魂の叫びだった。
「逃げろ! 沙夜! 聞こえてるか! お前は死ぬ必要なんてないんだ!」
慧くんの手が、虚空を掻くように伸ばされる。
あと数メートル。
けれど、その距離は絶望的に遠かった。
沙夜は、動かない。
兄の叫び声さえ、彼女の耳には届いていないようだった。
その時、慧くんの目が、私を捉えた。
血走った、必死な目。
『頼む』
声にはならなかったけれど、彼の唇がそう動いたのが分かった。
私の中で、何かが弾けた。
恐怖で凍りついていた心臓が、早鐘を打つ。
慧くんがあそこまでしてくれた。自分の立場も、未来もすべて投げ打って、この狂気に抗った。
次は、私の番だ。
左手首が熱い。
『根緒』に埋め込んだ金属の蓋が、皮膚に食い込み、激痛を走らせる。
その痛みが、私に叫んでいた。
「動け」と。
「今動かなければ、一生後悔するぞ」と。
私は覚悟を決めた。
沙夜の手を引いて、逃げるしかない。
どこへ? 分からない。
捕まるかもしれない。殺されるかもしれない。
それでも、このまま彼女が闇に飲み込まれるのを黙って見ているよりはマシだ。
私は震える手を伸ばした。
沙夜の、氷のように冷たい手を握りしめる。
「沙夜」
小さく名を呼んで、私は一歩を踏み出した。
その瞬間。
ふわり、と甘い香りが漂った。
線香と、白粉と、そして腐った果実のような匂い。
私の目の前に、影が立ちはだかった。
御子柴麗華さんだった。
彼女はいつの間にか私のすぐそばまで移動していたのだ。
「どうなさるおつもりですか? 莉桜さん」
麗華さんが、小首をかしげて私を見た。
その口元は、優雅な弧を描いて笑っている。
美しい笑顔だった。
けれど、その瞳は笑っていなかった。
底のない深淵。
一切の感情を排した、虚無の闇がそこにあった。
「ひっ……」
喉がひきつり、短い悲鳴が漏れた。
蛇に睨まれた蛙のように、体が硬直する。
彼女の背後には、巨大な虚空様がそびえ立っている。麗華さんの姿が、その巨木と重なり、まるで彼女自身が虚空様の化身であるかのように見えた。
圧倒的な威圧感。
生物としての格の違いを見せつけられたような、根源的な恐怖。
「まさか、逃げようなどとは考えていませんわよね?」
麗華さんが一歩、近づく。
「儀式は始まったのです。沙夜さんは今、神の花嫁として旅立とうとしている。それを邪魔することは、村全体を、そしてあなた自身を破滅させることになりますわよ?」
彼女の声は優しかった。
まるで、聞き分けのない子供を諭す母親のように。
けれど、その言葉の裏には、冷酷な刃が隠されていた。
「破滅」。
それは「根腐れ」としての排除を意味する。
脂汗が噴き出る。呼吸が乱れ、視界が明滅する。
(動けない……)
慧くんのように叫ぶことも、抵抗することもできない。
私はただ、麗華さんの眼力に射すくめられ、膝が崩れ落ちそうになるのを必死で耐えることしかできなかった。
過呼吸になりかけ、意識が遠のいていく。
沙夜の手を握る力が、弱まっていく。
その時だった。
私の手に、別の温もりが重なった。
沙夜の手だ。
彼女が、私の手を握り返してくれたのだ。
「……莉桜、だめだよ」
弱々しい、けれど驚くほど芯のある声だった。
私はハッとして沙夜を見た。
彼女は、私を見ていた。
先ほどまでの虚ろな表情は消え、そこには静かで、悲しげな微笑みがあった。
「沙夜……?」
「この儀式はね、やらないとだめなの」
沙夜は、諭すように言った。
「だめだよ! そんなの絶対におかしいよ!」
私は涙ながらに訴えた。
「どうして沙夜が犠牲にならなきゃいけないの! 死んじゃうんだよ!? あんな穴の中に入ったら、もう二度と……!」
「うん」
沙夜は静かに頷いた。
その目には、死への恐怖など微塵も感じられなかった。
あるのは、何か別のものへの、深い憐憫のような感情。
「でもね、莉桜」
沙夜は、そっと私の顔に手を伸ばし、涙を拭ってくれた。
その手は冷たかったけれど、とても優しかった。
「虚空様がね。かわいそうだから」
「え……?」
私は言葉を失った。
かわいそう?
あの化け物が? 私たちを食い物にし、村を支配し、狂わせているあの怪物が?
沙夜は、背後の巨木を見上げた。
「ずっと、変わってしまったことに苦しんで、泣いているの。……私には、聞こえるの」
彼女は、淡く微笑んだ。
それは、聖女のような慈愛に満ちた表情であり、同時に、狂気に取り憑かれた者の妄執のようにも見えた。
「沙夜、何を……言って……」
今まで、沙夜は一度も虚空様の存在を否定も肯定もしなかった。
「再現劇だ」「形だけだ」と言っていた。
それなのに、土壇場になって、彼女は初めて虚空様の実在を――その「意思」を認めるような発言をしたのだ。
彼女もまた、狂ってしまったのだろうか。
それとも、巫女としての血が、土壇場で彼女を「あちら側」へと覚醒させてしまったのだろうか。
「だから、行かなきゃ」
沙夜は、私の手を優しく、けれど拒絶を許さない力強さで引き剥がした。
「沙夜、いやだ! 行かないで!」
私は彼女の手を掴み返そうとした。
けれど、その手はすり抜け、空を掴んだ。
「お勤めください。巫女様」
麗華さんが、満足げに微笑んだ。
彼女は私の肩に手を置き、その場に縫い留めるように強く押さえつけた。
「莉桜さんも、沙夜さんの晴れ姿を……しっかりとご覧になって」
沙夜は私に背を向けた。
その背中は、もう振り返らなかった。
白装束の小さな背中。
彼女はゆっくりと、闇の口を開けた虚空様の方へと歩き出した。
「沙夜ーーッ!!」
私の絶叫は、儀式の進行を知らせる管絃で鳴り響き始めた太鼓の音にかき消され、誰にも届くことはなかった。
地面には、泥にまみれた慧くんが、涙を流しながら動かなくなっていた。
私たちは負けたのだ。
この村の、巨大なシステムと狂気の前に。
沙夜の白い姿が、巨木の影に吸い込まれるように小さくなっていくのを、私はただ、涙で歪んだ視界の中で見つめることしかできなかった。
10-3【神代沙夜】
虚空様の洞の中へ、沙夜が足を踏み入れた。
深い、底のない闇が、白い装束を飲み込んでいく。
あと一歩。
あと一歩で、彼女の姿は見えなくなる。
その寸前、沙夜が足を止め、ゆっくりとこちらを振り返った。
松明の揺れる炎が、彼女の半面を赤く照らし出し、もう半分を濃い影に沈めている。
目が合った。
いや、合っていない。
彼女の瞳孔は開いたまま、私を通り越し、もっと遠い、もっと巨大な何かを見つめているようだった。
さっきまで浮かべていた慈愛に満ちた微笑みも、悲痛な覚悟も、もうそこにはない。
あるのは、ただ圧倒的な「無」だけ。
感情が抜け落ち、魂が抜き取られたあとの、美しい器。
その虚ろな顔を見た瞬間、私の脳裏に、ある記憶が蘇った。
あの日。
私がこの根守村にやってきた、最初の日。
神代沙夜という少女を、初めて見たときの記憶が。
***
根守村に引っ越してきた年の四月。
私は、世界の終わりみたいな顔をして、父の運転する車に乗っていた。
窓の外を流れる景色は、コンクリートのビル群から、まばらな住宅地へ、そして終わりのない田園風景へと変わっていった。
さらに車が山道に入ると、視界は鬱蒼とした緑一色に塗りつぶされた。
「いいところだろう、莉桜。空気がうまいぞ」
ハンドルを握る父が、努めて明るい声で言った。
私は膝の上で拳を握りしめ、あいまいに頷くことしかできなかった。
東京の友達とは、泣いて別れた。
「また会えるよ」「手紙書くね」
そんな言葉を交わしたけれど、子供心に分かっていた。物理的な距離は、心の距離も引き裂いてしまうのだと。
舗装がひび割れた山道を揺られながら、私は自分が透明な膜の中に閉じ込められていくような、心細い感覚を覚えていた。
やがて、山峡が開け、谷底にへばりつくような集落が見えてきた。
根守村。
四方を高い山々に囲まれ、昼間でも薄暗い影が落ちている場所。
そこにあるのは、テレビドラマで見るような牧歌的な田舎の風景ではなかった。
古びた日本家屋が、まるで身を寄せ合って寒さを凌いでいるかのように密集し、その屋根瓦が黒い鱗のように光っている。
そして、そのすべての家々が見上げる先に、異様な存在感を放つ山があった。
その頂に君臨する巨木が、曇天の下で黒い枝を広げ、村全体を鷲掴みにしているように見えた。
「……怖い」
思わず漏れた言葉は、エンジンの音にかき消された。
転校初日の朝。
新しい制服に袖を通した私は、母に見送られ、公務員宿舎を出た。
通学路は、湿った土の匂いがした。
ガードレールの錆びた一本道を歩きながら、私は胃が裏返りそうなほどの緊張と戦っていた。
どんな学校なんだろう。
どんなクラスメイトがいるんだろう。
いじめられたらどうしよう。
東京から来た「よそ者」として、排斥されるんじゃないか。
そんな不安ばかりが、頭の中をぐるぐると回っていた。
校門をくぐると、そこには木造の古い校舎が建っていた。
窓ガラスはどこも薄汚れていて、廊下を歩くと床板がギシギシと悲鳴を上げた。
職員室で挨拶を済ませ、担任だという牛松先生に連れられて教室へ向かう。
牛松先生は、白髪交じりの好々爺で、私の緊張をほぐすように優しく話しかけてくれた。
「緊張せんでいいよ。みんな、新しい仲間が増えるのを楽しみに待っとるからね」
その言葉に、少しだけ救われた気がした。
けれど、先生がガララと引き戸を開けた瞬間、私の安堵は粉々に砕け散った。
「わあ、来た!」
「新しい子だ!」
「東京の子だって!」
わっと歓声が上がり、教室中の視線が私に突き刺さる。
そこまではいい。予想の範囲内だ。
私が言葉を失ったのは、そこにいる生徒たちの「見た目」だった。
ノートを丸めてチャンバラをしていた小さな男の子達。
おさげ髪の女の子。
どう見ても、小学校低学年の子供たちが、教室の中を走り回っている。
その奥には、私と同じ制服を着た中学生らしき生徒も数人いるが、彼らはまるで保護者のように、小さい子供たちを眺めているだけだ。
「え……?」
私は入り口で立ち尽くした。
教室を間違えたのだろうか。
振り返って先生を見ると、牛松先生はニコニコと笑って言った。
「驚いたかい? この村は子供が少ないからね。小学一年生から中学三年生まで、みんな同じ教室で勉強するんだ。『複式学級』と言うんだよ」
複式学級。
聞いたことはあったけれど、まさか自分がその中に放り込まれるなんて思ってもみなかった。
中学生になったばかりの私が、小学一年生と一緒に授業を受ける?
そんなの、学校じゃない。
まるで、親戚の集まりか、託児所みたいだ。
ここには、私の知っている「学校」の常識は何ひとつ通用しないのだ。
その事実に、目眩がした。
黒板の前に立たされ、チョークの粉が舞う中で、私は自分の名前を書いた。
「た、高村莉桜です……。東京から来ました……。よ、よろしくお願いします」
震える声で挨拶をすると、またわっと拍手が起きた。
小学生たちが、珍しい動物を見るようなキラキラした目で私を見ている。
私は居心地の悪さに身を縮めながら、教室全体を見渡した。
二十人にも満たない生徒たち。
雑多で、騒がしくて、そして狭い世界。
その中で、一人だけ、異質な存在がいた。
窓際の後ろの席。
そこに座っている、一人の少女。
彼女だけが、拍手もせず、身じろぎもせず、ただ静かに私を見つめていた。
小柄な体躯。私と同じ、セーラー服を着ている。
腰まで届く漆黒の髪は、湿気を吸ってしっとりと重たげに背中を覆い、切り揃えられた前髪の下から、大きな瞳が覗いている。
肌は陶器のように白く、血の気が感じられない。
周りの子供たちが泥んこ遊びの延長のような無邪気さを発散している中で、彼女の周りだけ、音が吸い取られたような静寂があった。
綺麗。
そして、怖い。
人間というよりは、精巧に作られたアンティーク・ドールが、そこに置かれているような違和感。
彼女の瞳には、好奇心も、歓迎も、敵意もなかった。
ただ、そこに「在る」ものを、鏡のように映し出しているだけの、虚ろな深淵。
目が合った瞬間、私は吸い込まれるような感覚に襲われた。
彼女は私を見ているようで、私の背後にある何か――あるいは、私という存在の輪郭を通り越した中身――を見透かしているような気がした。
「じゃあ、みんなも自己紹介しようか」
牛松先生の声で、私はハッと我に返った。
小学生たちが、元気よく名前を叫んでいく。
「いちねんせいの、たなかたかしです!」
「よねんせいの、さとうみさきです!」
私は曖昧な笑顔で頷きながら、必死に名前を覚えようとした。けれど、意識の半分は、窓際の少女に釘付けになっていた。
やがて、中学生の番が回ってきた。
私の席の隣に座っていた、華やかな雰囲気の少女が立ち上がった。
「中学一年の、御子柴麗華です。これからよろしくお願いしますね、莉桜さん」
彼女は鈴を転がすような声で言い、優雅に微笑んだ。
その仕草、言葉遣い。田舎の村には似つかわしくない、お嬢様然とした振る舞い。
彼女の周りには、すでに取り巻きのような下級生たちが集まっている。この教室の女王様は彼女なのだと、一目で分かった。
次に、窓際の席の男の子が、気怠そうに立ち上がった。
「神代慧。中一。……よろしく」
彼はボソッと言うと、すぐに椅子に座り直した。
整った顔立ちをしているけれど、どこか冷めた目をしている。この騒がしい教室の空気に馴染むのを拒否しているような、そんな印象を受けた。
そして、最後。
あの子の番だ。
教室が一瞬、静まり返った気がした。
彼女は音もなく立ち上がった。
細い。折れそうなほど細い手足。
彼女は私の顔をじっと見つめたまま、唇を微かに動かした。
「……神代、沙夜」
囁くような、けれど透明な水滴が落ちるような、澄んだ声だった。
「……よろしく、お願いします」
深々と頭を下げるその姿は、あまりにも丁寧で、そしてどこか悲しげに見えた。
神代沙夜。
その名前が、私の胸に深く刻まれた瞬間だった。
休み時間になると、私はすぐに質問攻めにあった。
「東京ってどんなとこ?」
「芸能人に会ったことある?」
「その筆箱、かっこいいね!」
小学生たちが机の周りに群がり、私の持ち物を触ったり、服を引っ張ったりする。
私は引きつった笑顔で対応しながら、助けを求めるように視線を彷徨わせた。
すると、御子柴麗華さんが、「あまり詰め寄ってはダメよ、莉桜さんが困っているでしょう?」と割って入ってきてくれた。
「まずは私たち同級生が学校について話しますから、あなたたちはその後でね」
彼女が手を叩くと、子供たちは「はーい」と言って素直に散っていった。
「あ、ありがとう……ございます」
「構いませんわ。御子柴家の者として当然のことです」
麗華さんは私の机に手をつき、ニコリと笑った。
その笑顔には、裏表のない親切心と、ほんの少しの「私が守ってあげる」という優越感が混じっているように見えた。
「それにしても、莉桜さんの肌、白くて綺麗ですわね。でも、やっぱり『根緒』は持っていらっしゃらないのね」
「ネオ?」
聞き慣れない単語に、私は首を傾げた。
「これのことよ」
麗華さんは自分の左手首を見せた。
そこには、赤茶けた樹皮のような、太い組紐が巻かれていた。
ミサンガに似ているけれど、もっと古臭くて、どこか生々しい質感がある。
「この村の人間は、生まれた時にこれを授かるの。虚空様……あそこの山にいらっしゃる神様の、体の一部を編み込んだお守りよ」
彼女は誇らしげに胸を張った。
「これを持っているとね、私たちはみんな家族になれるの。心がつながって、寂しくなくなるのよ。東京には、こういう素敵なものはないのかしら?」
彼女の言葉には、純粋な自慢が含まれていた。
都会から来た私に対して、唯一マウントを取れる要素。それがこの村の伝統であり、信仰なのだ。
「へえ……すごいね。知らなかった」
私が相槌を打つと、横から「ただの因習だ」という低い声が聞こえた。
神代慧くんだった。
彼は文庫本を片手に、呆れたように私たちを見ていた。
「こんな枯れた木の皮をありがたがってんのは、じいさんばあさんたちだけだ」
「あら、慧さんったら! バチが当たりますわよ!」
麗華さんが頬を膨らませて怒る。
「神代家の跡取りという立場でそんなこと言って。虚空様が聞いてらしたらどうするの」
「聞こえるわけないだろ。ただの植物なんだから」
「もう! 可愛げがないんですから!」
二人のやり取りは、まるで夫婦漫才のようだった。
深刻さはなく、幼馴染同士の他愛のないじゃれ合い。
麗華さんの怒りも本気ではないし、慧くんの冷めた態度も、年頃の男の子特有のポーズのように見えた。
この村には、独特の信仰がある。
でもそれは、田舎によくある迷信のようなもので、子供たちにとっては日常の一部に過ぎないのだ。
私は少しだけ、肩の力が抜けるのを感じた。
ここなら、やっていけるかもしれない。
そう思った時、ふと視線を感じた。
沙夜ちゃんだった。
彼女は自分の席に座ったまま、騒ぐ私たちをじっと見ていた。
仲間に入りたそうにしているわけでも、疎ましく思っているわけでもない。
ただ、透明なガラスの向こう側から、別の世界の出来事を観察しているような、そんな目。
麗華さんと慧くんの話の輪から少し外れ、私は沙夜ちゃんの方へ近づいた。
気になったのだ。
あんなに綺麗な子が、どうして一人でいるのか。
それに、名前が慧くんと同じ「神代」だ。
「あの……沙夜ちゃん、だよね?」
声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。
近くで見ると、その睫毛の長さ、瞳の透明度に息を呑む。
「……うん」
「さっき、慧くんと同じ苗字だったけど、きょうだいなの?」
「双子の、兄妹」
「へえ! そうなんだ。全然似てないね」
私が軽口を叩くと、彼女はほんの少しだけ、困ったように眉を寄せた。
それだけで、人形みたいだった彼女の表情が、急に人間味を帯びて見えた。
会話を続けなきゃ。
私は焦って、さっき麗華さんが話していた話題を振ってみた。
「あのね、さっき麗華さんが言ってた虚空様って神様のことなんだよね……沙夜ちゃんの家は神社って聞いたよ。沙夜ちゃんは巫女さんなんだってね。 じゃあ、虚空様って見たことあるの?」
ただの好奇心だった。
田舎の神様。巨木。巫女さん。
ファンタジー小説に出てきそうなキーワードに、少しワクワクしていたのかもしれない。
私の問いかけに、沙夜ちゃんはきょとんとした顔をした。
そして、小首をかしげ、不思議そうに私を見つめ返してきた。
「……莉桜には、聞こえないの?」
「え?」
予想外の返しに、私は言葉に詰まった。
聞こえないの?
それは、「聞こえるのが当たり前」というニュアンスを含んでいた。
「聞こえるって……何が?」
風の音? 鳥の声?
それとも、もっと別の――。
沙夜ちゃんは、私の左手首、何もない手首に視線を落とし、それからまた私の目を見た。
その瞳の奥に、さざ波のような色が走った気がした。
憐れみのような、あるいは羨望のような。
彼女が口を開きかけた、その時。
――チリン、チリン――
廊下からベルの音が聞こえた。
予鈴?
「はい、席に着いてー。次の授業を始めるぞ」
教室の戸を空けて、手に持ったベルを鳴らしながら牛松先生が入ってくる。
「あ、授業だ」
「行かなきゃ」
麗華さんと慧くんが席に戻っていく。
私も慌てて自分の席へと戻った。
沙夜ちゃんとの会話は、そこで途切れてしまった。
背中越しに、彼女の視線を感じる。
『聞こえないの?』
あの言葉の意味は何だったんだろう。
黒板に向かう先生の背中を見ながら、私は心の中で反芻した。
ただの不思議ちゃん発言かもしれない。
でも、彼女のあの時の目は、冗談を言っているようには見えなかった。
彼女には、何か聞こえているのだろうか。
私たちが知らない音が。この村に流れている、何かの音が。
窓の外を見ると、村の最奥にある山の巨木が、風もないのにざわざわと揺れているのが見えた。
その枝葉の擦れる音が、遠い潮騒のように、あるいは無数の人々の囁き声のように、微かに鼓膜を震わせた気がした。
これが、私と神代沙夜との出会いだった。
あの時の私はまだ知らなかった。
彼女が聞いていた「音」の正体を。
そして、その音がやがて、私の日常を、常識を、そして私自身を食い破ることになる未来を。
10-4【親友】
根守村の春は、泥のように重たく、そして緩慢に過ぎていった。
転校初日の衝撃から数週間が経ち、私は薄氷の上を歩くような慎重さで、この閉鎖的な社会に足場を築こうともがいていた。
教室の窓から見える景色は、日を追うごとに緑の色を濃くしていく。山々は水分をたっぷりと含んで膨れ上がり、谷底にある校舎を押し潰さんばかりに迫ってくる。
私は、その圧迫感に慣れようと必死だった。
「莉桜ちゃん、ここの計算教えてー」
「あ、うん。そこはね、分母を揃えるんだよ」
休み時間、小学四年生の女の子に算数を教える。
複式学級という特殊な環境にも、少しずつ順応し始めていた。下級生の面倒を見ることは、村の社会構造における「年長者の役割」であり、それをこなすことで私は「役立つ構成員」として認められていく。
教室は賑やかだった。
子供たちの甲高い笑い声、床板がきしむ音、チョークが黒板を走る音。
一見すれば、どこの田舎にもある、のどかで平和な学校風景だ。
けれど、ふとした瞬間に視界に入るものたちが、ここが異界であることを思い出させる。
体操着から伸びる手首に巻かれた、赤茶けた『根緒』。
教室の壁に掲げられた『虚空様』のモノクロ写真。
そして、日常会話の端々に混じる、信仰への言及。
「やはり、掃除は心のアカを落としますわね」
放課後の掃除の時間、御子柴麗華さんが雑巾を絞りながら言った。
彼女の所作は、雑巾がけ一つとっても優雅で、洗練されている。汚れたバケツの水さえも、彼女が触れると聖水のように見えてくるから不思議だ。
「床を磨くことは、己の根を磨くこと。虚空様は足元をご覧になっていますもの」
「……そうだね、麗華さん」
私は愛想笑いで同意する。
麗華さんは、この教室の女王であり、完璧な規範だった。彼女の言葉は常に正しく、村の理そのものだ。
一方で、窓際で黙々と窓ガラスを拭いている神代慧くんは、対照的だった。
「……湿気でカビが生えてるだけだろ」
ボソリと呟くその声は、麗華さんには聞こえない音量で、けれど私には届くように調整されている。
彼は常に冷めた目で村を見つめていた。
勉強熱心で、成績は優秀。けれど、その知識欲は「村のために」ではなく、「村の矛盾を暴くため」、あるいは「ここではないどこかへ行くため」に向けられているように感じられた。
麗華さんの狂信的なまでの純粋さと、慧くんの諦念を孕んだ現実主義。
二人の幼馴染の間に流れる奇妙な緊張感は、この村の歪さを象徴しているようだった。
そして、もう一人。
私の視線は、自然と教室の隅へと吸い寄せられる。
神代沙夜。
彼女は、一人で黒板を消していた。
背伸びをして、黒板消しを左右に動かす。粉が舞い散り、彼女の長い黒髪に白く降りかかる。
彼女はそれを気に留める様子もなく、ただ機械的に、決められた動作を繰り返していた。
「……」
声を発することはない。
誰かと視線を合わせることもない。
クラスメイトたちも、彼女を「そこにいて当然の備品」のように扱っている。誰も彼女に話しかけないし、彼女もまた、誰とも関わろうとしない。
いじめられているわけではない。
ただ、彼女の周りだけ、空気が真空になっているかのように隔絶されているのだ。
私は、雑巾を持ったまま立ち尽くしていた。
気になる。
どうしても、彼女のことが気になってしまう。
転校初日に目が合った時の、あの底のない瞳。人形のように整った顔立ち。
授業中に指名されれば、模範解答通りの答えを返す。
掃除の時間になれば、割り当てられた場所を完璧に綺麗にする。
下級生が転んで泣いていれば、すぐに駆け寄って背中をさすった。
けれど、そこには「意志」が感じられなかった。
まるで、精巧にプログラムされた自動人形が、入力されたコマンド通りに動いているだけのような。
「沙夜ちゃん」
私は意を決して、彼女に近づいた。
「黒板、上の方届く? 私がやろうか?」
沙夜の手が止まる。
ゆっくりと、スローモーションのように彼女が振り返る。
その瞳が、私を映した。
「……大丈夫。届くから」
鈴を転がすような、けれど温度のない声。
「そっか。……あ、髪にチョークの粉、ついてるよ」
私は手を伸ばし、彼女の髪を払おうとした。
沙夜は、びくりと身をすくめた。
拒絶、というよりは、驚愕に近い反応だった。まるで、他人に触れられることなど想定していなかったかのように。
「あ、ごめん」
「……ううん」
彼女は小さく首を横に振ると、すぐにまた黒板に向き直ってしまった。
会話が続かない。
取り付く島もない。
それでも、私は諦めきれなかった。
この無機質な人形のような少女の、仮面の下にある素顔が見たい。
笑った顔が見たい。
怒った顔でも、泣いた顔でもいい。
「神代沙夜」という人間が、そこにいることを確かめたかった。
それは、よそ者である私がこの村で「個」を保つための、無意識の渇望だったのかもしれない。
それからの日々、私は事あるごとに沙夜に話しかけた。
「沙夜、次の授業の移動教室、一緒に行こう」
「沙夜、お弁当のおかず、それ何? 美味しそうだね」
「沙夜、その消しゴム、可愛いね」
私の問いかけに対し、沙夜の反応は常に薄かった。
「……うん」
「……煮物」
「……家に転がってた」
困ったように眉を寄せ、不思議そうに私を見る。
なぜ、私なんかに構うの?
そんな問いかけが、沈黙の中に滲んでいた。
「沙夜はどう思う?」
ある時、図書室で本を選んでいる時に聞いてみた。
「これとこれ、どっちが面白いかな?」
沙夜は二冊の本――偉人の伝記と、植物図鑑――を見比べ、そして私の顔を見た。
「……先生が推奨しているのは、伝記の方」
「ううん、先生のおすすめじゃなくて。沙夜は、どっちが読みたい?」
「私が……?」
彼女は、きょとんとした顔をした。
「私は、どっちでもいい。……読むべき方を、読むから」
「読むべき方なんてないよ。読みたい方を読めばいいんだよ」
私が言うと、彼女は深い森に迷い込んだ子供のような、途方に暮れた表情を浮かべた。
「……わからない」
彼女は小さな声で言った。
「自分で選ぶ、というのが、よくわからないの」
その言葉に、私は胸を衝かれた。
彼女はこれまで、すべてを「決められて」きたのだ。
神代家の娘として。巫女として。
着るものも、食べるものも、読む本も、そしておそらくは生き方そのものも。
「そう決まっているから」。
それが、彼女の思考の終着点であり、世界との唯一の接点だった。
東京の話を振ってみたこともあった。
「東京にはね、原宿っていうところがあって、休日はすごい人なんだよ」
「クレープっていうお菓子があってね、いろんなフルーツとかクリームが入ってて、すごく美味しいの」
「可愛い服のお店がいっぱいあって、一日中見てても飽きないんだよ」
私は身振り手振りを交えて、かつての私の「日常」を語った。
きらびやかなショーウインドウ。流行の歌。甘い匂い。
けれど、沙夜の反応は鈍かった。
「……そう」
「……へえ」
興味がないのではない。想像ができないのだ。
彼女にとっての「世界」は、この四方を山に囲まれた根守村だけで完結している。
テレビで見ることはあっても、それはフィクションの世界と同じで、自分がそこにいて、それを楽しんでいる姿をリアルに思い描くことができない。
「私には、関係ない場所だから」
彼女は寂しそうに、けれど当然のことのようにそう言った。
その諦めきった横顔を見るたびに、私の中で焦燥感のようなものが募っていった。
連れ出したい。
この閉じた世界から、ほんの数メートルでもいいから、彼女を外へ連れ出したい。
チャンスが訪れたのは、梅雨入り前の、珍しく晴れた日曜日だった。
「沙夜ちゃん、今度の日曜日、暇?」
金曜日の放課後、下駄箱で靴を履き替えている時に声をかけた。
沙夜は手を止め、私を見た。
「日曜日は……午後に、神社の掃除があるけれど」
「じゃあ、午前中は? お昼まででいいから、ちょっと出かけない?」
「出かけるって……どこへ?」
「村井商店。あそこ、新しい雑誌が入荷する日なんでしょ? 見に行こうよ」
村井商店は、この村で唯一の雑貨屋だ。食料品から日用品、そしてわずかながら雑誌や文房具も扱っている。私たち子供にとっては、唯一の娯楽施設と言ってもいい場所だった。
沙夜は躊躇っていた。
「でも……お父様に聞かないと」
「掃除の時間には絶対間に合うように戻るから。ね? お願い」
私は両手を合わせて拝んだ。
沙夜は私の勢いに押されたのか、それとも断る理由が見つからなかったのか、しばらく黙り込んだ後、小さく頷いた。
「……うん。わかった」
日曜日。
待ち合わせ場所の火の見やぐらの下に、沙夜は立っていた。
いつも学校で見かけるセーラー服や、祭事の際の巫女装束ではない。淡い水色のワンピースに、麦わら帽子。足元は白いサンダル。
その姿は、どこにでもいる中学生の少女そのものだった。
けれど、この根守村という背景の中では、その「普通」さがあまりにも儚く、脆いものとして映る。
「お待たせ、沙夜ちゃん」
私が声をかけると、沙夜はゆっくりと顔を上げた。
「ううん、私も今来たところ」
その声には、学校での無機質さはなく、どこかそわそわとした緊張が含まれていた。
私たちは並んで歩き出した。
会話は少なかった。
道端に咲く花の名前を教え合ったり、天気のことを話したり。
それでも、学校という「枠」の外で二人きりでいるという事実が、私たちの間の空気を少しずつ変えていくのを感じた。
村井商店に着くと、店主の源造じいさんが奥の座敷でテレビを見ていた。
「こんにちはー」
私が声をかけると、じいさんはチラリとこちらを見ただけで、またテレビに視線を戻した。
私たちはその視界の端をすり抜けるようにして、雑誌コーナーへと向かった。
色褪せた棚に、数冊の週刊誌やファッション誌が平積みされている。
「あ、これ」
私は一冊の少女向けファッション誌を手に取った。表紙には、かわいい服や小物をまとった私たちと同年代の少女たちが写っている。
「見て、沙夜。これ、今東京で流行ってるやつだよ」
パラパラとページをめくる。
そこには、根守村の湿った緑色とは対極にある、極彩色の世界が広がっていた。
パステルカラーのトレーナー、フリルのついたブラウス、プラスチックのアクセサリー。
「ねえ、見てこの服」
私は、白いレースの襟がついた、小花柄のワンピースのページを開いて見せた。
「これ、沙夜に絶対似合うよ。沙夜って色が白いし、髪も綺麗だから、こういう清楚な感じの服着たら、お人形さんみたいに可愛いと思う」
沙夜は、自分の着ている地味な水色のワンピースを見下ろし、それからまた雑誌の写真を見た。
そして、恐る恐る、写真のモデルの顔を指でなぞった。
「……似合うかな」
「似合うよ。絶対」
私が断言すると、沙夜はわずかに目を見開いた。
「もしさ、こういう服着たら、沙夜は何したい?」
「何って……」
沙夜は困ったように眉を寄せた。想像がつかないのだ。服は「着るもの」であって、「着て何かをするための装置」だという発想がない。
「例えば、映画見に行くとか、おしゃれな喫茶店でお茶するとかさ」
私が助け船を出すと、彼女は「喫茶店……」と小さく呟き、遠い世界を見るような目をした。
私はさらにページをめくった。
特集記事の見開きが現れる。『原宿特集! 竹下通りで食べ歩き』。
写真の中には、色とりどりの服を着た若者たちが溢れかえり、その手にはクレープが握られている。
イチゴ、バナナ、生クリーム、チョコレートソース。
薄い生地に包まれた、宝石箱のようなお菓子。
沙夜の視線が、その一点に釘付けになった。
「……これが、クレープ?」
彼女の声は震えていた。
「そうだよ。食べたことない?」
沙夜は首を横に振った。
「本で字を見たことはあるけど……こんなに、色がついてるなんて知らなかった」
「すっごく美味しいよ。生地がもちもちしてて、温かくてね。中のクリームは冷たくて甘いの。一口食べると、幸せな気持ちになるんだよ」
私が身振り手振りを交えて味の感想を伝えると、沙夜はほう、とため息をついた。
彼女は、まるで聖典でも読むかのように、その写真を見つめている。
そこには「根」も「湿気」も「監視」もない。ただ、甘美な幸福だけが許された世界があった。
私は、彼女の横顔をじっと見ていた。
長い睫毛が、瞬きのたびに震える。その瞳の奥に、小さな光が灯っていくのが分かった。
それは「憧れ」という名の、自我の萌芽だった。
やがて、沙夜は顔を上げ、私を真っ直ぐに見つめた。
その瞳は、いつもの虚ろなものではなく、微かな熱を帯びていた。
「……私も」
彼女は、はにかむように微笑んだ。
それは、硬く閉ざされていた蕾が、春の日差しを浴びてほころぶような、儚くも美しい笑顔だった。
「私も……莉桜と一緒にクレープ食べてみたい」
その言葉を聞いた瞬間、時間が止まった気がした。
薄暗い雑貨屋の、カビ臭い空気の中で。
沙夜の笑顔だけが、陽だまりのように輝いて見えた。
「食べてみたい」ではなく、「莉桜と一緒に」。
彼女自身の心から湧き上がった、初めての「願望」。そして私への親愛。
私は胸がいっぱいになり、泣きそうになるのをこらえて笑い返した。
「うん。食べよう。いつか絶対に、一緒に食べようね」
「うん……約束」
沙夜は嬉しそうに頷いた。
その日、私たちは一冊の雑誌を間に挟んで、たくさんの話をした。
店の奥から源造じいさんの監視するような咳払いが聞こえるまで、私たちは時を忘れて笑い合った。
その日以降、私と沙夜の距離は劇的に縮まった。
学校では相変わらず、周囲の目があるためにおおっぴらに話すことはできなかったけれど、視線が合うだけで通じ合えるような、秘密の共犯関係めいた空気が流れるようになった。
休み時間、机の下で小さく手を振ったり。
掃除の時間、すれ違いざまに微笑み合ったり。
二人きりになれる時は、沙夜はもう人形ではなかった。
よく笑い、よく話し、時には冗談を言って私を驚かせることもあった。
「莉桜、寝癖ついてるよ」
「えっ、嘘!」
「ふふ、嘘だよ」
そんないたずらっぽい笑顔を見せるたびに、私は嬉しくてたまらなかった。
彼女の中に、こんなにも豊かな感情が眠っていたなんて。
けれど。
ふとした瞬間に、影が差すことがあった。
「ねえ沙夜、高校生になったらさ、東京に遊びに行かない?」
放課後、二人で神社の裏手を歩いている時に私が提案した時だった。
「電車に乗れば、日帰りでも行けるよ。原宿でクレープ食べて、買い物して……」
沙夜の足が止まった。
さっきまで楽しそうに話していた彼女の表情が、スッと曇る。
「……高校生」
彼女は、遠くを見るような目で呟いた。
その視線の先には、いつも忌み山の影があった。
「どうしたの? 行きたくない?」
「ううん、行きたい。行きたいけど……」
彼女は言葉を濁し、困ったように眉を下げた。
「その頃には……村から離れられなくなってるから」
「離れられないって、もしかして巫女の修行とか?」
「修行?……うん、そう。十五歳になったら本格的な務めがあるから」
務め。
その言葉の響きには、単なる家業の手伝い以上の、重く、逃れられない響きがあった。
「だから、約束できないの。ごめんね」
沙夜は寂しげに微笑んだ。
その笑顔は、雑貨屋で見せた陽だまりのような笑顔とは違う、諦めを含んだ大人の笑みだった。
私はそれ以上、踏み込むことができなかった。
彼女の背負っているものの重さを、よそ者の私が軽々しく問いただしてはいけない気がしたからだ。
「そっか。じゃあ、いつか暇ができたらでいいよ」
私は明るく振る舞った。
「うん。……いつか、ね」
沙夜は私の言葉を繰り返した。
その「いつか」が、永遠に来ないかもしれないことを、彼女自身が一番よく知っているかのように。
私たちは並んで歩き出した。
木漏れ日が揺れ、私たちの影を地面に落とす。
近づいたはずの距離。
けれど、その間にはまだ、見えない透明な壁が存在していた。
村の掟。血の宿命。
そして、私たちが十五歳になる秋に待ち受けているという、「何か」。
あの時の私はまだ知らなかった。
彼女が言葉を濁した「務め」の本当の意味を。
そして、彼女が見せたあの陽だまりのような笑顔が、この先どれほど残酷な記憶となって私を苦しめることになるかを。
まだ、何も知らなかった。
(第十章 完)




