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第一章 異物

Google AI Studioで専用のアプリを作り、プロットを読み込ませて作った和風ホラー小説です。

第一章 異物

1-1【根守村】


 六月も半ばを過ぎると、根守ねもりの空気は水を含んだ綿のように重くなる。

 肌にまとわりつくのは、単なる湿気ではない。それは、腐葉土が発酵する熱気であり、杉林の奥から滲み出す青臭い樹液の匂いであり、そして、この谷底のような集落に澱んで動かない、濃密な人の気配そのものであった。


 山峡やまかいの空は狭い。

 四方を急峻な山々に囲まれた根守村では、太陽は遅く昇り、早く沈む。外界よりも短い昼の間、逃げ場のない盆地は蒸し風呂のように温められ、夜になれば冷たく湿った闇が、底の方からじわじわと湧き上がってくる。

 昭和も六十年代に入り、都会では高層ビルが競うように建ち並び、人々が浮かれたように消費を謳歌しているというのに、この村には、時代から取り残されたような静寂と、古びた因習の匂いだけが色濃く残っていた。


 私は自宅の縁側で、じっとりと汗ばむ首筋を手のひらで拭った。

 網戸越しの風景は、薄墨を流したようにぼやけている。連日の雨で水分をたっぷりと含んだ山々は、黒々とした緑に膨れ上がり、今にも谷底の集落へと雪崩れ落ちてきそうな圧迫感を放っていた。

 ジジジ、ジジジ……と、どこかで湿った羽音を立てる虫の声が聞こえる。それに混じって、遠くで犬が吠える声、誰かが農具を引きずるような金属音、そして絶え間なく聞こえる水路のせせらぎ。それらの音は、湿った空気に反響し、実際の距離よりもずっと近く、あるいは遠くから聞こえてくるようで、耳の奥がくすぐったくなるような不快感を伴った。


「……また、曇ってる」


 私は独りごちて、膝を抱えた。

 東京からこの村に越してきて、もうすぐ三年になる。

 父の転勤が決まった時、中学入学を控えていた私は、新しい生活への不安よりも、田舎暮らしへの淡い期待を抱いていた。テレビドラマで見るような、牧歌的な風景。温かい近所付き合い。澄んだ空気と美しい星空。

 しかし、根守村は、そんな無邪気な想像を拒絶するような場所だった。

 ここにあるのは、牧歌的なのどかさではない。生存をかけた相互監視と、見えない「何か」に怯えながら暮らす、張り詰めた緊張感だった。


 私の視線は、無意識のうちに、村の最奥へと吸い寄せられる。

 そこには、根守村のすべてを見下ろす「忌み山」がそびえ立っていた。

 他の山々とは一線を画す、異様な山容。中腹から上は濃密な原生林に覆われ、そのいただきには、村のどこからでも視認できるほどの巨木が鎮座している。

 御神木。虚空様ウロサマ。あるいは、根守の大神。

 樹齢千年とも言われるそのクスノキは、遠目に見ても異常な大きさを誇っていた。周囲の木々を威圧し、その養分を吸い尽くして肥え太ったかのような、どす黒い緑色の樹冠。枝葉は空へ伸びるというよりは、苦悶するようにのたうち、四方八方へと奇怪な曲線を描いて広がっている。


 風もないのに、その巨木だけがざわざわと揺れているように見えることがある。

 まるで、巨大な生き物が、村全体を睥睨へいげいしながら、ゆっくりと呼吸をしているかのように。

 私は身震いをして、視線を逸らした。

 あの木を見ると、いつも胸の奥がざわざわとする。心臓を冷たい手で鷲掴みにされたような、生理的な嫌悪感と恐怖。

 村の人々は、あの木を敬い、崇め、心の拠り所にしているという。

 けれど私には、あれが神聖なものだとはどうしても思えなかった。あれは、もっと禍々しく、貪欲で、古い「何か」だ。この村の湿った空気を吸い、人々の視線を吸い、そして――。


「莉桜、いつまでそんなところにいるの。湿気が入るから、窓を閉めなさい」


 背後から、母親の少し尖った声が飛んできた。

 私はびくりと肩を震わせ、「うん」と短く答えてサッシを閉める。ガラス戸が閉まる重たい音が、家の中に響いた。

 台所からは、煮物の甘辛い匂いが漂ってくる。東京にいた頃の母は、もっとハイカラな料理を好んでいたはずだが、ここに来てからは、村の婦人会で教わったという地味な郷土料理ばかり作るようになった。味付けも、以前よりずっと濃く、塩辛くなっている気がする。

 父もそうだ。役場から帰ってくると、以前のようにニュース番組を見て社会情勢を語ることもなくなり、ぼんやりと酒を飲みながら、村の行事や寄り合いの話ばかりするようになった。「御子柴みこしばさんの機嫌を損ねないように」「神代かみしろ家には挨拶に行ったか」。そんな言葉が、家庭内の会話の大半を占めるようになった。


 二人は、村に馴染もうと必死なのだ。

 よそ者であるという負い目を消すために。村の「根」の一部になろうとして。

 けれど私には、それが両親が徐々に「別の何か」に変質していく過程のように見えてならなかった。彼らの輪郭が、根守の湿気の中に溶け出し、個性を失い、村という巨大な生き物の一部として同化していくような、そんな薄ら寒さ。


 家の中にいても息が詰まる。

 私は「ちょっと散歩に行ってくる」と言い残し、逃げるように玄関を出た。母の「夕飯までには戻りなさいよ」という声を背中で受け止めながら、サンダルを履いて外へ飛び出す。


 外気は相変わらず重く、肌にへばりつく。

 根守村は、忌み山をかなめとした扇状地せんじょうちに形成されている。

 最奥の、最も高い位置に神代家の屋敷と神社があり、そのすぐ下に御子柴家の広大な屋敷が構える。そこから扇の骨のように道が伸び、斜面にへばりつくようにして村人たちの家々が並んでいる。

 上から下へ。

 その厳然たるヒエラルキーが、地形そのものに刻み込まれていた。

 私の住む公務員宿舎は、扇のふち、村の入り口に近い下流域にある。かつては林業の作業員宿舎だったという古びた木造平屋で、壁には染みついた雨の跡が黒いカビとなって浮き出ていた。

 ここから村の中心部を見上げると、家々の屋根が重なり合い、まるで無数の墓標が山に向かって整列しているかのような錯覚を覚える。そして、そのすべての頂点に、あの巨木が君臨しているのだ。


 私は、村の中央を流れる川沿いの道を、上流に向かって歩き出した。

 アスファルトはひび割れ、隙間から雑草が逞しく顔を出している。ガードレールは錆びつき、赤茶けた鉄粉が地面にこぼれ落ちていた。

 道すがら、畑仕事をしている老婆とすれ違った。

 腰の曲がった小柄な老婆は、泥のついた手ぬぐいで顔を覆い、黙々とくわを振るっていたが、私の足音に気づくと、ゆっくりと顔を上げた。

 濁った眼球が、じろりと私を捉える。


「……こんにちは」


 私は努めて明るく声をかけた。挨拶をしないことは、この村では罪に等しい。

 老婆は数秒の間をおいて、わずかに顎をしゃくった。挨拶とも、威嚇とも取れる動作。そして、私の顔から視線を下げ、その手首あたりをじっと見つめた。

 私は反射的に、左手首を右手で隠した。

 何もない手首。

 滑らかで、日焼けしていない、ただの白い肌。

 だが、この村において「何もない」ことは、異常なことなのだ。

 老婆の手首には、赤茶けた樹皮のような、あるいは干からびたミミズのような、奇妙な組紐が巻かれている。『根緒ねお』と呼ばれる、村人が信仰の証として身につけるミサンガだ。

 老婆の視線は、私の「持たざる手首」をねっとりと舐めるように確認し、やがて興味を失ったように再び畑へと戻っていった。

 背中に、冷たい汗が伝う。

 直接的な言葉を投げかけられたわけではない。罵倒されたわけでもない。

 ただ、見られただけだ。

 それなのに、まるで「お前はここにはいらない」「色が違う」「混ざりものだ」と断罪されたような、強烈な疎外感が胸に突き刺さる。


 この村の視線は、いつもそうだ。

 粘着質で、執拗で、そして無言だ。

 家々の窓の隙間から、生垣の向こうから、田んぼの陰から。誰かが常に見ている気配がする。

 彼らは見ている。私が何を着ているか、どこへ行くか、誰と話すか、そして何より――私の心が、村の方を向いているかどうかを。

「心は一つ」

 学校で、公民館で、折に触れて聞かされる言葉が脳裏をよぎる。

 個人の秘密は罪。疑念は毒。全員が同じ方向を向き、同じ根で繋がらなければ、村は滅びる。

 それは教えというよりは、強迫観念に近い呪縛だった。


 川のせせらぎが、少しずつ大きくなってきた。

 昨夜の雨で増水した川は、白く濁った飛沫を上げながら、岩を噛むように流れている。水面からは、冷気と共に、土と鉄錆の混じったような独特の臭気が立ち上っていた。

 ふと、川向こうの岸に、黒い人影が見えた。

 半袖の開襟シャツに、スラックス姿。中年の男性だ。彼は川縁にしゃがみ込み、何かを川に流しているようだった。

 私は足を止め、息を潜めてその様子を伺った。

 男の手から離れたのは、白い紙切れのようなものだった。ひらひらと水面に落ち、瞬く間に濁流に呑み込まれて見えなくなる。一枚、また一枚。

 男の口元が動いているのが見えた。距離があって声は聞こえないが、その表情は真剣そのもので、何かに祈るように、あるいは許しを請うように、必死の形相をしていた。


 その男の手首にも、赤茶けた『根緒』が巻きついているのが見えた。それも一つではない。二つ、三つと重ねて巻いているように見える。

 男は最後に、持っていた小さな木筒――おそらく『響木ひびきぎ』だろう――を耳に当て、じっと目を閉じた。

 数秒の静寂。

 やがて男は、安堵したように、あるいは諦めたように深く息を吐き、がっくりと肩を落として立ち上がった。

 その姿は、あまりにも疲弊し、追い詰められているように見えた。


 私は、見てはいけないものを見てしまったような気がして、慌てて視線を逸らし、早足でその場を離れた。

 心臓が早鐘を打っている。

 あの男は、何をしていたのだろう。何を恐れていたのだろう。

 村の大人たちは、皆どこかおかしい。

 表向きは穏やかで、親切な田舎の人々だ。けれど、その皮一枚下には、得体の知れない恐怖と、狂信的な何かが渦巻いている。

 彼らは何かを恐れている。

 虚空様を? 根腐れを? それとも、互いの視線を?


 坂道を登るにつれて、家々の立派さが増していく。

 瓦屋根の重厚な日本家屋。手入れの行き届いた庭木。黒く塗られた板壁。

 しかし、どの家も雨戸を固く閉ざし、ひっそりと静まり返っていた。人の気配はあるのに、生活の音がしない。まるで、家そのものが息を殺して、外の様子を伺っているようだ。

 この村の家並みは、扇の要である忌み山に向かって、忠誠を誓うように整列している。

 それは守られている形ではない。

 逃げ出さないように、包囲されている形だ。

 扇の要から伸びる無数の見えない糸が、それぞれの家を、そこに住む人々を絡め取り、養分を吸い上げている――そんな妄想が、私の頭をよぎる。


 ふと見上げると、いつの間にか忌み山が視界いっぱいに迫っていた。

 山頂の巨木が、曇天を背景に黒いシルエットとなって浮かび上がっている。

 ここから見ると、その枝ぶりは一層奇妙に見えた。

 捻じれ、絡まり合った枝々は、天に向かって救いを求める無数の腕のようにも、あるいは獲物を捕らえようと待ち構える蜘蛛の脚のようにも見える。

 そして、幹の中心にあるという巨大な空洞『ウロ』。

 ここからは見えないはずなのに、私はそこに、ぽっかりと開いた闇を感じ取ることができた。

 すべてを飲み込み、決して吐き出さない、絶対的な虚無。


――聞こえるか。


 風の音に混じって、低い囁き声が聞こえた気がした。

 私は弾かれたように周囲を見回した。

 誰もいない。

 ただ、道端の石仏と、風に揺れる杉の木立があるだけだ。


――聞こえるか、聞こえるか。


 今度はもっとはっきりと聞こえた。耳元ではなく、脳の芯に直接響くような声。

 幻聴だ。気のせいだ。

 私は強く首を振り、耳を塞いだ。

 この村に来てから、時々こういうことが起きる。風の音が人の声に聞こえたり、木の模様が人の顔に見えたり。

 神経が参っているだけだ。父さんも母さんも、最近は「疲れている」とよく言う。この村の空気には、人の精神を摩耗させる何かが含まれているのかもしれない。


「……帰ろう」


 私はきびすを返した。

 これ以上、あの山に近づいてはいけない気がした。

 坂道を下りながら、私は自分の手首を強く握りしめた。

 何もない滑らかな皮膚の感触。

 それが今は、頼りなく、そして恐ろしく思えた。

 私だけが違う。私だけが繋がっていない。

 それは自由の証であるはずなのに、この村では、まるで裸で猛獣の檻に放り込まれたような、心細さと危険を意味していた。


 薄暗くなり始めた空から、ポツリ、と冷たい雫が落ちてきた。

 雨だ。

 根守の雨は、一度降り出すと容易には止まない。

 地面を叩く雨音が、次第に強くなっていく。その音は、村人たちの囁き声のように、あるいは無数の足音のように、私の背後からひたひたと迫ってくるようだった。

 私は走り出した。

 濡れたアスファルトに足を取られそうになりながら、転がるように坂を下る。

 振り返ってはいけない。

 背後の山頂で、あの巨木が、黒い枝を広げて笑っているような気がしたからだ。

 扇の要から見下ろすその視線は、決して獲物を逃がさない。

 根守の虚空は、いつでも口を開けて待っている。


 視界が雨で煙る中、私は必死で足を動かした。

 自分の家へ、まだわずかに「外」の匂いが残る場所へ。

 けれど、その家さえも、いずれはこの村の湿気に腐食され、根に絡め取られてしまうのではないかという予感が、冷たい雨と共に私の体を芯まで冷やしていった。



1-2【学舎】


 根守の学校の木造校舎は、常に湿った吐息を漏らしているようだった。

 六月半ばの梅雨時。分厚い鉛色の雲が根守の谷に蓋をし、逃げ場を失った湿気が校舎の古い木材という木材に染み込んでいる。廊下を歩けば、床板が「きゅ、きゅ」と何かを訴えるように軋み、窓ガラスは内側から脂汗のような水滴をだらだらと垂らしていた。

 この村にあるのは、ただの湿気ではない。何十年、何百年と降り積もった腐葉土と、人々の執着が発酵して生じた、質量のあるおりだ。それが肺に入り込むたび、胸の内側に苔が生えていくような錯覚に陥る。


 教室は一つしかない。

 過疎が進むこの村では、小学校一年生から中学校三年生まで、全校生徒合わせても二十人に満たない。そのため、すべての学年が一つの教室に詰め込まれる「複式学級」という形をとっていた。

 黒板の前に立つのは、定年をとうに過ぎたような老年の男性教師、牛松うしまつ先生一人だけだ。彼は大抵、教壇の椅子に深く腰掛け、虚ろな目で窓の外の雨脚を眺めているか、手元の新聞に視線を落としている。授業とは名ばかりで、実質的には最上級生である私たち中学三年生の四人が、下級生たちの面倒を見ることでこの「学校」は回っていた。


「ほら、ここの計算はね、こうやって根っこを分けるみたいに考えるといいの」


 教室の前方、小学二年生の席のそばで、鈴を転がすような声が響いた。

 御子柴麗華みこしば れいかさんだ。

 彼女は膝を折り、小さな机に視線を合わせるようにして、算数のドリルを指さしている。艶やかな黒髪は緩くウェーブを描き、湿気を含んでなお、一本たりとも乱れずに背中へと流れていた。整った顔立ちに、花が綻ぶような微笑み。

 けれど、白いブラウスの袖口から覗く手首には、この村の人間が肌身離さず身につける『根緒ねお』が巻かれている。赤茶けた樹皮のような、あるいは干からびたミミズのような、奇妙な組紐。それが彼女の白磁のような肌に食い込んでいる様は、美しくもあり、同時にひどく痛々しくも見えた。


「わ、わかった……ありがとう、麗華お姉ちゃん」


 男の子が頬を赤らめて頷くと、麗華さんは「えらいわね」と慈愛に満ちた手つきでその子の頭を撫でた。

 一見すれば、美しく心優しい上級生と、それを慕う下級生という微笑ましい光景だ。

 けれど、私は知っている。その男の子が直前まで、鉛筆を握る指を白くなるほど強張らせていたことを。麗華さんが近づいてきた瞬間、教室の空気がほんのわずかに、けれど確実に張り詰めたことを。

 男の子は、計算が分からなかったのではない。間違えることを恐れていたのだ。間違えて、「出来損ない」の烙印を押されることを。

 私は教室の後方、自分の席で息を殺しながら、その様子を視界の端に収めていた。


「……莉桜」


 ふいに横から声をかけられ、私はびくりと肩を跳ねさせた。

 隣の席の神代沙夜かみしろ さやが、心配そうに私を見つめている。

 沙夜は、この村の信仰の中心である神代神社の娘だ。腰まで届く漆黒の髪を姫カットに整え、肌は陶器のように白い。色素の薄い瞳は、どこか現世ではない場所を見ているような透明感を湛えている。

 彼女は誰よりも美しいが、同時に誰よりも「モノ」に近い静謐さを纏っていた。まるで、硝子ケースの中に飾られた日本人形が、ふと瞬きをしたかのような儚さ。


「大丈夫? 顔色が悪い」


 沙夜の声は、雨音にかき消されそうなほど小さい。

 私は慌てて笑顔を作った。この村で生き抜くために身につけた、条件反射のような愛想笑いだ。口角を上げ、目を細め、敵意がないことを示すための仮面。

「ううん、平気。ちょっと湿気で頭が重いだけ。ありがとう、沙夜」

 沙夜は私の言葉をじっと聞き届け、それからふいと視線を逸らした。

 彼女の手元には、半紙と筆がある。下級生たちが算数や国語を自習している間、私たち三年生はそれぞれの課題をこなすことになっているが、巫女である沙夜だけはこうして、授業中も祝詞の書写や神事の作法書を読むことが黙認されていた。

 半紙の上を滑る筆先が、黒い墨で「根」という文字を書き連ねていく。

 その手首にもまた、太い『根緒』が巻かれている。他の生徒たちのものよりも一回り太く、複雑に編み込まれたそれは、彼女がこの村の「核」に繋がれていることを示す鎖のようだった。


「……無理、しないでね」


 ぽつりと落ちた沙夜の言葉に、胸が締め付けられる。

 彼女は私の唯一の親友だ。村の誰もが私を「よそ者」として遠巻きにする中で、沙夜だけが静かに隣にいてくれた。けれど、教室ではおおっぴらに仲良くすることはできない。

 なぜなら、クラスには厳然たる「序列」が存在するからだ。


 カーストの頂点にいるのは、地主の娘である御子柴麗華さん。

 そして、そのさらに上に「神」に近い存在として君臨するのが、神代家の双子――沙夜と、その兄のけいくんだ。


 私は視線を窓際へと移した。

 そこには、神代慧くんが気怠そうに頬杖をついて座っている。

 沙夜と瓜二つの整った顔立ちをしているが、その瞳には妹のような儚さはなく、代わりに冷ややかな理性の光と、隠しきれない倦怠感が宿っていた。

 彼は手元の英語の参考書を開いたまま、ページをめくることもなく、ただ窓の外の雨に濡れる山肌を眺めている。この教室の中で唯一、村の空気に染まりきっていないように見える彼もまた、決して自由ではない。


「慧さん」


 下級生の指導を終えた麗華さんが、優雅な足取りで慧くんの席へと近づいた。

 クラス中の視線が、自然と二人に吸い寄せられる。村の統治を担う御子柴家と、祭祀を司る神代家。この二つの家の次期当主たちが並ぶ姿は、この村においては王族の会合にも等しい意味を持つ。


「また上の空ですか? 受験勉強も結構ですけれど、もうすぐ夏越のなごしのはらえもありますし、神職としての自覚も持っていただかないと」


 麗華さんの声は丁寧だが、そこには明らかな棘があった。

 彼女は慧くんに対して敬語を使う。それは神代家という血筋に対する敬意だが、同時に「あなたの監視役は私です」という無言の圧力を孕んでいた。

 慧くんは頬杖をついたまま、ゆっくりと麗華さんを見上げた。


「……麗華。今は学校の時間だ。神事の話は神社でするよ」

「あら。学校も村も、虚空様ウロサマの根の上にあることに変わりはありませんわ。場所によって心が分かたれることなど、あってはなりません」


 麗華さんは聖女のような微笑みを崩さない。

 彼女にとって、信仰はこの世界の物理法則と同義なのだ。重力があるように、空気があるように、虚空様の教えがある。それを疑うことは、彼女の中では狂気以外の何物でもない。

 その歪んだ純粋さが、私には何よりも恐ろしかった。


「見てくださいな、あの窓」


 麗華さんが指さしたのは、湿気で建付けが悪くなり、少しだけ隙間風が入り込んでいる窓枠だった。

 そこから吹き込む風が、花瓶に活けられた野花を揺らしている。

「あのように隙間があれば、外から悪い気が入り込み、内側の清浄な空気を濁らせてしまいます。建付けが緩むのは、誰かが手入れを怠ったから。……人の心も同じですわね。少しの綻びが、やがて全体を腐らせる」


 教室が、しんと静まり返った。

 下級生たちが息を呑む気配がする。鉛筆を走らせる音さえ止まった。

 麗華さんの言う「腐る」という言葉が、この村で何を意味するか。全員が骨の髄まで理解しているからだ。

『根腐れ』。

 それは村八分よりも重く、死よりも恐ろしい、存在の抹消。


 慧くんは小さく溜息をつくと、面倒くさそうに立ち上がった。

 彼は窓に近づき、ガタついている鍵の部分を指先で弾いた。


蝶番ちょうつがいのネジが錆びてるだけだよ、麗華。この湿気だ、金属はどうしたって錆びる。精神論じゃなくて、油を差してネジを締め直せば済む話だ」


 慧くんの言葉は、あくまで即物的で、論理的だった。

 この村で信仰を否定することは許されない。だが、慧くんはいつもこうして、「信仰」と「現実」の境界線を綱渡りするように、麗華さんの言葉をかわす。それは神代家の跡取りという特権階級にいる彼にしか許されない芸当だった。


「……ふふ、慧さんらしいですわね」


 麗華さんは口元に手を当てて上品に笑ったが、その目は笑っていなかった。

 彼女の視線が、慧くんの背中から、ゆっくりと教室全体を舐めるように移動する。

 下級生たちが一斉に背筋を伸ばし、教科書に向かうふりをする。まるで蛇に睨まれた蛙のように、誰もが彼女の視線から逃れようと必死だった。

 そして、その視線が私に止まった。


 心臓が、早鐘を打つ。

 胃の腑が冷たくなる。

 逃げ場のない湿度が、急激に質量を増して私にのしかかる。


「あら、莉桜さん。あなた、顔色が優れませんね」


 麗華さんが私の机の前に立った。

 甘い花の香りと、雨の匂い、そして微かに漂う鉄錆のような臭いが鼻腔をくすぐる。

 彼女は私の手首に視線を落とした。

『根緒』の巻かれていない、私のむき出しの手首。

 麗華さんの聖女のような微笑みは変わらない。その表情の中で、そこだけ他から持ってきたような無機質な目が、さらに温度を下げたような気がした。


「……すみません、少し寝不足で」


 私が掠れた声で答えると、麗華さんは心配そうに眉を下げた。

 まるで、本当に私の体調を案じているかのように。


「いけませんね。心が弱ると、根の結び目も緩んでしまいますよ。……そういえば、昨日の『根のねのとばり』、まだ回ってきていませんけれど?」


『根の帳』。

 それは、私たち学生の間で回されている交換日記だ。

 表向きは、仲の良い生徒たちの交流の場。

 けれどその実態は、麗華さんによる相互監視の記録簿だった。

 誰がどんなことを言っていたか、誰が少しでも信仰に反する態度を取っていなかったか。それを告発し合うためのシステム。

 昨日は、私の当番だった。


「あ、ご、ごめんなさい! 書いてはあるんです、ただ、家に忘れてきてしまって……」


 嘘だった。

 書けなかったのだ。

 一昨日、その日記には、一つ下の中学二年生の女子生徒が、びっしりと「感謝の言葉」を綴っていた。


『今日も虚空様のおかげでご飯が美味しいです』

『御子柴様が道普請をしてくださったおかげで歩きやすいです』

『私は村が大好きです、疑う心など微塵もありません』


 狂気じみた筆圧で埋め尽くされたページを見て、私は吐き気を催し、ペンを握れなくなってしまったのだ。

 文字の一つ一つが、叫び声のように見えた。

「私は潔白だ」「私は腐っていない」「私を消さないで」という、必死の命乞い。

 その続きに、私が一体何を書けばいいというのか。

 当たり障りのない天気の話? それとも、私も同じように狂信的な言葉を並べ立てればいいのか?

 出来なかった。ペン先が震え、インクが滲むばかりで、どうしても文字にならなかったのだ。


「忘れた、ですか」


 麗華さんの声から、温度が消えた。

 彼女は私の机に手をつき、顔を近づける。整いすぎた顔が、すぐ目の前にある。

 瞳の奥の暗い色が、私の網膜に焼き付く。


「莉桜さん。隠し事は『罪』ですよ? 忘れたのではなく、書くことが見つからなかった……つまり、村への感謝や、虚空様への思いが、あなたの心には無いということではありませんか?」


「ち、違います! 本当に、うっかりして……」


 声が裏返る。

 脇の下を嫌な汗が伝う。

 クラス中の視線が突き刺さるのを感じる。「あの子だ」「よそ者だ」「色が違う」。無言の糾弾が、私の肌を焼く。


「まあ、冗談ですわ。そんなに怯えなくて結構よ」


 麗華さんはふっと表情を緩め、鈴のような声で笑った。

 教室の空気が、ふっと弛緩する。下級生たちが安堵の息を漏らすのがわかった。

 だが、私の背中には冷たい汗が伝っていた。

 これは警告だ。

 次は許さない、という通告だ。


「明日の朝一番で提出してくださいね。……楽しみにしていますから」


 麗華さんはポン、と私の肩を叩くと、踵を返して自分の席へと戻っていった。

 肩に残る感触が、まるで焼き印のように熱く、痛い。

 私は震える手で、机の下で自分のむき出しの左手首を握りしめた。

 何もない、素肌の手首。村との繋がりを持たない、絆のない手首。

 それを握りしめるほどに、私は自分がこの教室の中で、いや、この世界の中でたった一人、根を持たない浮草であるという事実を突きつけられるようだった。

 この村の空気は、根のないものを腐らせる。

 私の体も、いつかあのドロドロとした黒い土に還ってしまうのではないか。


「……馬鹿だな、お前は」


 背後から、低い声が聞こえた。

 振り返ると、いつの間にか窓際から戻っていた慧くんが、私の後ろを通り過ぎざまに囁いた。


「適当に天気の話でも書いておけばいいんだ。真面目に受け取るな。……壊れるぞ」


 慧くんは私を見ようともせず、そのまま自分の席に座り直した。

 彼の言葉は冷たいが、そこには彼なりの不器用な忠告が含まれていた。

 慧くんもまた、この村の狂気に窒息しかけている一人なのだ。

 神代家の跡取りとして、信じてもいない神を崇めるふりをし続ける彼。

 その横顔には、十五歳の少年が背負うにはあまりに重すぎる諦念が張り付いていた。


「……ありがとう、慧くん」


 声にならない声で呟き、私は視線を前に戻した。

 黒板の前では、牛松先生がいつの間にか船を漕いで居眠りを始めている。

 雨足は強まるばかりだ。

 窓の外、鬱蒼と茂る木々が風に揺れ、まるで無数の手足が校舎を絡め取ろうとしているように見えた。


 この村では、学校さえも安全地帯ではない。

 ここは子供たちが社会を学ぶ場所ではなく、村という巨大な生き物の「細胞」として正しく機能するように、個性を削ぎ落とし、規格を揃えるための矯正施設なのだ。


 麗華さんが、自分の席で優雅に教科書を開く。

 その背中は、「正しさ」という鎧で武装されている。

 彼女は信じているのだ。私たちが一つになり、根を張り巡らせることが、村を守る唯一の道だと。そのためなら、異分子を排除することも、監視し合うことも、すべては「愛」なのだと。

 その歪んだ純粋さが、私には何よりも恐ろしかった。


 私はそっと、隣の沙夜を見た。

 彼女は筆を置き、じっと自分の手首の『根緒』を見つめていた。

 その赤茶けた組紐の結び目は、決してほどけないようにきつく巻かれている。

 まるで、血の流れを止める止血帯のように。

 あるいは、逃げ出さないように繋ぎ止める鎖のように。


 沙夜がふと顔を上げ、私と目が合った。

 彼女は一瞬だけ、泣きそうなほど心細げな揺らぎを瞳に浮かべ、すぐにまた無表情の仮面を被った。


(助けて)


 幻聴だったのかもしれない。

 雨音に混じって、そんな声が聞こえた気がした。

 けれど、私に何ができるだろう。

 よそ者でしかない、根無し草の私に。


 チャイムの音が鳴らないこの学校では、時間が曖昧に溶けていく。

 ただ、湿った空気と、監視の視線だけが、絡みつく蔦のように私たちの肌を締め付け続けていた。


 ――聞こえるか。


 ふいに、脳の芯に直接響くような音がした。

 耳から入ってくる音ではない。頭蓋骨の中で反響する、低く、湿ったノイズ。

 木の根が地中で擦れ合うような、あるいは巨大な何かが寝返りを打つような音。


 ――聞こえるか、聞こえるか。


 私は思わず耳を塞いだが、その音は止まない。

 周囲を見渡しても、誰も反応していない。麗華さんも、慧くんも、沙夜も、平然としている。

 私だけだ。

 私だけが、この異常な周波数を受信している。

 あるいは、私だけが狂い始めているのか。


 窓の外、忌み山の方角から、黒い森がざわざわと揺れるのが見えた。

 あそこには、虚空様がいる。

 千年もの間、この村のすべてを見下ろし、その根であらゆる秘密を吸い上げ続けてきた怪物が。

 私の鼓動は、その怪物の呼吸に合わせるように、ドク、ドク、と嫌なリズムを刻み始めた。

 

 チャイムの音が鳴らないこの学校では、時間が曖昧に溶けていく。本来ならスピーカーから流れるはずの無機質な電子音はなく、代わりに牛松先生が手元のベルを鳴らすことになっているが、彼は眠ったままだ。

 ただ、湿った空気と、監視の視線だけが、絡みつく蔦のように私たちの肌を締め付け続けていた。



1-3【根緒】


 雨は小康状態を保っていたが、空は重く垂れ込めた鉛色の雲に覆われたままだ。


 ――チリン、チリン……。

 

 目を覚ました牛松先生がけだるげに自身の腕時計を確認して、ベルを鳴らす。

 昼休みを告げるチャイムの音は、湿気を吸って鈍く歪み、校舎の古い木材に染み入るように響き渡った。この村では音さえも、水飴のような空気に絡め取られ、本来の響きを失ってしまうようだった。


 規模の小さい根守の学校には給食はなく、各自が持参したお弁当で昼食を済ませる。

 昼休みの後には三十分程、掃除の時間が設けられていて二十人に満たない全校生徒が一斉に動き出す。

 古い木造校舎は、歩くたびに床板が悲鳴のような軋みを上げ、窓ガラスは外気の湿気と室内の熱気で白く曇っている。雑巾がけをする下級生たちの手が、黒ずんだ床を往復するたび、じとりとしたカビと埃の匂いが舞い上がった。

 私はほうきを手に、教室の隅の綿埃を掃き出していた。

 視界の端で、小学二年生の男の子がバケツの水を運んでいる。重たげに揺れる水面。彼が小さな手で取っ手を握りしめるたび、その手首に巻かれた赤茶けた組紐が、皮膚に食い込むように主張するのが見えた。


『根緒』。

 この村の人間が、生まれた瞬間から身につけるという信仰の証。

 赤ん坊の頃は柔らかい繊維で編まれ、成長するにつれて、より強固な、樹皮をなめしたような素材に変えられるという。それはまるで、成長に合わせて太くなる木の年輪のように、あるいは肉体に寄生して育つ蔦のように、彼らの身体の一部となっていた。

 あんなに小さな子供でさえ、すでに「根」を持っている。

 私にはない、絶対的な所属の証。


「莉桜ちゃん、そこ、まだ汚れてるよ」

 背後から声をかけられ、私はびくりと肩を震わせた。

 振り返ると、担任の牛松先生が立っていた。定年を過ぎて再雇用されたというこの老教師は、起きている間はいつも好々爺然とした笑みを浮かべている。白髪交じりの頭髪に、少し猫背の姿勢。着古した灰色のカーディガンは、袖口が擦り切れて毛玉ができている。

 その目は優しく細められているが、瞳の奥は濁った水のように底が見えない。

「あ、すみません。すぐにやります」

「うんうん、丁寧にね。汚れを残すと、心にもおりが溜まるから」

 牛松先生は目を細めて頷いた。その言葉は教師としての指導というより、宗教家の説法めいた響きを帯びている。

「澱、ですか」

「そうだよ。目に見えない汚れこそが怖い。いつの間にか積み重なって、心を腐らせる。だから私たちは、常に祓い清めなければならないんだよ」

 彼は教卓に手をつき、教室全体を慈しむように見渡した。その視線は、生徒一人一人を確認しているようでいて、どこか焦点が合っていないようにも見える。彼が見ているのは、私たち生徒という「個」ではなく、この教室という「場」を構成する「根」の繋がりなのかもしれない。

 先生の手首にもまた、太く、黒ずんだ『根緒』が巻かれている。

 半袖のYシャツから伸びる枯れ枝のような腕の先。長年の着用で脂が染み込み、まるで皮膚と癒着してしまったかのような光沢を放っている。

 それは装飾品というよりは、もはや器官の一つに見えた。


 私は逃げるように視線を床に戻し、ほうきを動かした。

 私の左手首には、何もない。

 滑らかで、白い肌が露出しているだけだ。

 東京にいた頃は、それが当たり前だった。腕時計やブレスレットをつけることはあっても、何もつけていないことが「異常」だなんて思ったことは一度もない。

 けれど、この村では違う。

 掃除の時間、雑巾を絞る手、机を運ぶ手、黒板を消す手。あらゆる動作の中で、生徒たちの手首にある『根緒』がちらつく。赤茶けた紐は、彼らが「根守」という巨大な生命体の一部であることを示すタグのようだ。

 私だけが、タグのない異物。

 私だけが、根を持たない浮草。

 ほうきを握る左手が、急に頼りなく、寒々しく感じられた。無意識のうちに、私は袖口を引っ張り、手首を隠そうとした。


「次は体育だね。雨だから講堂でやろうか」

 牛松先生の声に、下級生たちが「はーい」と元気よく返事をする。その無邪気な声の連なりにさえ、私は疎外感を覚えていた。


          *


 講堂と呼ぶにはあまりに古めかしい体育館は、校舎から渡り廊下で繋がった別棟にある。

 高い天井には太い梁がむき出しになっており、薄暗い空間には、長年染み付いた汗と床ワックスの酸っぱい匂いが充満していた。雨戸の隙間から差し込むわずかな光が、舞い上がる埃をきらきらと照らし出している。

 今日の授業はバレーボールだった。

 中学生と高学年の小学生数名が交じり合い、ネットを挟んで向かい合う。低学年の子供たちは、ステージ脇でマット運動をしている。


「莉桜さん、ナイスサーブ!」

 麗華さんの澄んだ声が響く。

 彼女は白い体操着に、濃紺のブルマという出で立ちで、その姿は健康的な美しさに溢れていた。艶やかな黒髪を高い位置でポニーテールにまとめ、汗ばんだ首筋が白磁のように光っている。

 彼女がトスを上げるために両腕を高く伸ばすと、その手首に巻かれた『根緒』が鮮明に目に飛び込んできた。

 他の生徒たちのものとは違う。より繊細で、複雑な編み込みが施されたそれは、単なる紐というよりは装飾品、あるいは呪術的な装身具のようだった。赤茶けた色は古血を連想させたが、麗華さんの白い肌の上にあると、不思議と神聖なものに見えてくる。


 ボールが私の元へ飛んできた。

 私は慌ててレシーブの体勢を取る。両手を組み、手首を突き出す。

 バシッ、と鈍い音がして、ボールが腕に当たった。

 衝撃と共に、袖がめくれ上がり、何もない手首が露わになる。

 一瞬、周囲の視線が私の手首に吸い寄せられたような気がした。ネットの向こうの沙夜が、心配そうに眉を寄せたのが見える。慧くんは無関心を装うように視線を逸らした。

 そして、麗華さんだけが、微笑みを絶やさずに私を見ていた。その笑顔は完璧すぎて、能面のようだった。


「休憩にしましょうか」

 麗華さんの提案で、ゲームは一時中断された。

 湿気を含んだ空気が肺に重く、私は肩で息をしながら壁際へ向かった。水筒の水を口に含むが、生ぬるくて美味しくない。鉄の味がする気がして、顔をしかめる。

 汗を拭おうとした時、隣に気配を感じた。

 麗華さんだった。

 彼女は優雅な仕草で汗を拭うと、私の隣に腰を下ろした。

「お疲れ様です、莉桜さん。少し動きが硬いようだけれど、どこか痛めまして?」

「あ、いえ……大丈夫です。ちょっと湿気がすごくて」

「ええ、今日は特に『重い』ですね。虚空様が息を潜めておられるから」

 麗華さんは当然のように、気象条件を信仰と結びつける。私は曖昧に笑って頷くことしかできない。

 ふと、麗華さんの視線が私の左手首に落ちた。

 私は反射的に右手を添えて隠そうとしたが、彼女の視線はそれを許さないような強さを持っていた。

「……隠さなくてもよろしくてよ」

 麗華さんは静かに言った。

「持っていないことは、罪ではありませんもの。まだ、えにしが結ばれていないだけ」

「ええと、その……これって、みんなつけてるんですよね。やっぱり、つけないとダメなのかなって」

 私が恐る恐る尋ねると、麗華さんは自分の手首を目の高さに掲げた。

 赤茶けた『根緒』。

 近くで見ると、それは植物の繊維を編んだもののようにも見えるし、動物の腱を乾燥させたもののようにも見えた。表面には微細な毛羽立ちがあり、生きているかのような質感がある。

「これはね、へその緒と同じなの」

 麗華さんは愛おしそうに、反対の手の指先で『根緒』を撫でた。

「私たちは皆、母の胎内から生まれます。けれど、根守の人間にとって、肉体の母は仮の親。魂の親は、あの山におわす虚空様なのです。この根緒は、虚空様の根と私たちの魂を繋ぐ血管であり、命綱」

 彼女の声は、まるで童話を読み聞かせるように優しく、そして絶対的な響きを持っていた。

「この根緒を通じて、私たちは虚空様から養分をいただき、守られている。そして同時に、私たちの心もまた、虚空様へと還っていく。循環しているのです」

「循環……」

「ええ。だから、根緒を持たないということは、根守においては『個』として孤立しているということ。大地から切り離された枝のようなものね。……枯れてしまうわ」

 麗華さんは同情するように眉を下げた。

 しかし、その瞳の奥には、憐れみとは異なる冷ややかな光が宿っていた。それは、檻の中にいる安全な人間が、外で雨に打たれる野良犬を見るような、圧倒的な優越感と排他性だった。

「でも、安心して。莉桜さんも、いずれ理解できる日が来ますわ。心が一つになれば、虚空様はあなたを受け入れてくださる」

 彼女はそう言って、私の何もない手首にそっと触れた。

 ひやりとした指先。

 まるで氷のような冷たさに、私は思わず身を縮こまらせた。彼女の指が触れた場所から、見えない根が侵入してくるような錯覚を覚える。


「りおねえちゃん」

 不意に、幼い声が割り込んだ。

 見下ろすと、小学二年生の男の子が立っていた。さっき掃除の時間にバケツを持っていた子、名前は、まもるくんだ。

 彼はマット運動で乱れた髪のまま、不思議そうな顔で私を見上げている。

 そして、その無垢な瞳を、私の手首に向けた。

「なあに? 守くん」

 私は努めて明るく振る舞おうとした。麗華さんとの会話の緊張を解きたかったのだ。

 けれど、守くんの口から出た言葉は、私の期待を裏切り、心臓を鷲掴みにするようなものだった。


「なんで、りおねえちゃんは、生きてられるの?」


 時が止まったようだった。

 体育館の中のざわめきが、一瞬にして遠のいた。

 ボールをつく音、シューズが床と擦れる音、下級生たちの笑い声。それらすべてが背景音となり、守くんの言葉だけが、耳元で反響し続ける。

「……え?」

 意味がわからなくて、私は間抜けな声を漏らした。

 守くんは、悪気など微塵もない様子で、純粋な疑問として首を傾げた。

「だって、『根緒』がないんでしょ? 根っこが切れたら、木は死んじゃうよ。お水も栄養も吸えないもん。じいちゃんが言ってた。根無し草はすぐに腐るって」

 彼は私の手首を指差し、そして自分の手首の『根緒』を誇らしげに見せた。

「ほら、僕のはちゃんとあるよ。これがあるから、虚空様が息をくれるんだよ。ねえ、聞こえる?」

 守くんは耳に手を当てる仕草をした。

「き、こえる……?」

「うん。根っこから、ゴウゴウって音がするんだ。虚空様の息の音。りおねえちゃん、息苦しくないの? 溺れてないの?」


 背筋を、冷たいものが駆け上がった。

 子供特有の残酷な論理。

 彼にとって、この『根緒』は生命維持装置そのものなのだ。それを持たない私は、彼の目には、すでに死んでいるか、あるいは死に損ないの化け物のように映っているのかもしれない。

「守さん、失礼なことを言ってはいけませんよ」

 麗華さんが静かにたしなめたが、その口調には切迫感はなかった。

「莉桜さんは、この村で生まれたわけではないから特別なの。これから繋がるのよ」

「ふうん……」

 守くんは納得していない様子で、じろじろと私を観察した。

「でも、変なの。根緒がないのに動いてるなんて、気持ち悪い」

 無邪気な一言が、鋭利な刃物となって胸に突き刺さる。

 気持ち悪い。

 異物。

 生きていてはいけないもの。

 周囲の視線が集まっているのがわかった。他の下級生たちも、手を止めてこちらを見ている。彼らの目にも、同じような疑問と、生理的な嫌悪感が浮かんでいるように見えた。

 まるで、人間の皮を被った別の生物を見ているような目。


「こらこら、守くん。そんなことを言っては、莉桜ちゃんが可哀想だろう」

 ぬっと、牛松先生が私たちの間に割って入ってきた。

 先生は守くんの頭を、大きな手でわしゃわしゃと撫でた。

「莉桜ちゃんはね、まだ根守の土に馴染んでいないだけなんだ。これからゆっくり、根を張っていくんだよ。……そうだろう? 莉桜ちゃん」

 牛松先生が私を見た。

 皺だらけの目尻が下がっている。口元は笑っている。

 けれど、その濁った瞳の奥には、底知れない暗闇があった。

 彼は私を庇っているようでいて、守くんの言葉を否定しなかった。「気持ち悪い」という感覚を、間違いだとは言わなかった。「可哀想」という言葉で、私を正常な枠組みから切り離したのだ。

「は、はい……」

 私は掠れた声で肯定するしかなかった。

 ここで否定すれば、私はこの村の「ことわり」を否定することになる。それは、この教室という空間で、たった一人で戦争を仕掛けるに等しい行為だ。

「そろそろ休憩は終わりにしようか。 次はゲーム形式にしよう」

 牛松先生が手を叩くと、重苦しい空気は霧散したかのように、生徒たちは再び動き出した。守くんも、もう私には興味を失ったように走り去っていく。


 取り残された私は、自分の左手首を右手で強く握りしめた。

 脈打つ鼓動を感じる。

 私は生きている。血が通っている。

 けれど、守くんの言葉が呪いのように頭にこびりついて離れない。

――なんで生きてられるの?

――聞こえる?

 ゴウゴウ、と風の音が耳の奥で鳴った気がした。

 いや、風ではない。それは地底から響くような、重く低い唸り声。

 私の手首にある空白は、ただの「装飾品の欠如」ではない。それは、この村における「生存権の欠如」を意味しているのだ。

 自分の手首が、急に他人のもののように思えた。

 あるいは、本当に切り落とされてしまえばいいのに、という狂気じみた衝動が一瞬だけ脳裏をよぎる。そうすれば、この「持たざる」ことの苦痛から解放されるのではないか、と。


「……莉桜」

 すれ違いざま、沙夜が小さく私の名を呼んだ。

 彼女は何も言わなかったけれど、その瞳は悲痛に揺れていた。彼女の手首にもまた、巫女の家系特有の、ひと際太い『根緒』が巻かれている。

 私たちは、繋がれない。

 物理的にも、精神的にも、この村の根が私たちを分断している。


 私は逃げるようにコートの中へと戻った。

 湿った空気が、私の首にまとわりつく。それはまるで、見えない『根緒』が、ゆっくりと、しかし確実に、私の喉元を締め上げようとしているかのようだった。

 体育館の窓の外では、再び雨が降り始めていた。

 ざあざあと降り注ぐ雨音は、村全体を飲み込む咀嚼音のように聞こえた。



1-4【境界】


 放課後を告げるチャイムは、湿り気を帯びた空気の中でぼんやりと滲み、本来の音階を失ったまま余韻だけを残して消えた。

 この村では音さえも、水飴のような大気に絡めとられてしまうらしい。

 掃除とホームルームを終え、昇降口を出る頃には、空はさらに重く垂れ込めていた。鉛色の雲が、根守の地を塞ぐ巨大な蓋のようにのしかかっている。太陽の姿はどこにもなく、昼と夜の境界が曖昧に溶け合ったような薄暗さが、校舎全体を包み込んでいた。


 雨は上がっていたが、地面のアスファルトは黒く濡れそぼり、校庭の隅の水たまりには、油膜のような虹色が鈍く光っている。

 私はローファーの爪先で、コンクリートの乾いた部分を探りながら歩いた。湿った土の匂いと、どこか鉄錆のような臭いが混じり合った風が、頬を撫でていく。


「降りそうで降らない天気って、一番身体に障りますわね」


 隣を歩く麗華さんが、空を見上げながら呟いた。

 その声は鈴を転がしたように美しいが、湿度の高い空気の中では、どこか粘着質に鼓膜へ張り付くような響きを持っていた。

 彼女はプリーツの折り目が綺麗に並んだ制服のスカートを翻し、革靴で水たまりを器用に避けながら歩いている。その所作一つ一つが、この村の「正しさ」を体現しているようだった。泥水一滴さえも、彼女の白く輝く肌を汚すことは許されない、そんな不可視の結界があるかのように。


「本当だね。……また降り出す前に帰ったほうがいいかも」


 私は努めて明るい声で相槌を打つ。喉の奥が引きつるのを悟られないように、口角を上げる筋肉に意識を集中させる。

 私の右隣には沙夜、その向こうには慧くん。私たち四人は、横一列になって校門へと続く坂道を下り始めた。


 村の唯一の学校であるこの木造校舎は、集落を見下ろす高台にある。ここから家路につくということは、扇状に広がる村の、「要」である最奥部へ向かって遡上していくことを意味していた。

 道の両脇には、鬱蒼とした杉林が迫っている。

 手入れが行き届かず、枝打ちされていない杉の木々は、互いの日光を奪い合うようにひょろ長く伸び、その根元は薄暗い闇に包まれている。黒々とした幹が林立する様は、巨大な檻の格子のようだ。

 風が吹くたびに、ざわざわ、と無数の葉が擦れ合う音がした。

 それはまるで、林の奥に潜む何千もの人が、声を潜めてひそひそ話をしているようにも聞こえる。あるいは、私たちを品定めし、嘲笑っているような、無数の囁き声。


「ねえ、皆さんはご存知? 植物の根というものは、土の中で会話をしているんですって」


 唐突に、麗華さんが口を開いた。

 彼女は歩調を緩めず、視線だけを林の奥へと向けている。その横顔は陶器のように滑らかで、一切の感情を読み取らせない。


「会話?」


 私が聞き返すと、麗華さんは満足げに微笑んだ。

 その笑顔は、出来の悪い生徒に真理を説く教師のようでもあり、迷える子羊を導く聖女のようでもあった。けれど、その瞳の奥には冷徹な理性が光っている。


「ええ。地中に張り巡らされた菌糸を通じて、栄養を分け合ったり、危険を知らせ合ったりしているの。科学的にも証明されていることよ。森全体が一つの巨大な脳みそみたいなものね」


 麗華さんの言葉に合わせて、周囲の杉林がいっせいにざわめいた気がした。

 地面の下。アスファルトのさらに下。

 そこには無数の根が、血管のように、あるいは神経のように張り巡らされ、蠢いているのだろうか。私たちの足音を聞き、振動を感じ取り、その情報を村の隅々まで伝達しているのだろうか。

 想像すると、足の裏がむず痒くなるような不快感が込み上げてきた。


「へえ……すごいですね」

「でしょう? つまりね、一本の木が『痛い』と感じれば、その痛みは森全体に伝わるの。一本が病気になれば、森全体がそれを感知して、治そうとするか、あるいは――」


 麗華さんはそこで言葉を切り、意味深長な間を置いた。

 ちらり、と彼女の視線が私の左手首――何も巻かれていない空白の手首――を掠める。

 心臓が、早鐘を打った。


「あるいは、切り捨てるか。全体を生かすためには、腐った部分を排除しなければなりませんから」


 背筋に冷たいものが走った。

 それは植物学の話をしているようでいて、明らかにこの村の、人間社会の在り方を説いていた。

 個を殺し、全体に奉仕する。異物は排除する。

 彼女の言葉は、湿った風に乗って私の毛穴から侵入し、内側から体を蝕んでいくような不快感を伴っていた。

 排除。切り捨て。腐った部分。

 その単語が指し示すものが「私」であることは、火を見るよりも明らかだった。私はこの村という巨大な有機体にとって、異物であり、病原菌なのだ。


「……麗華、その話はもういいだろう」


 沈黙を破ったのは、慧くんだった。

 彼は学生鞄を片方の肩にだらしなく掛け、気怠そうに前髪をかき上げた。

 その横顔には、あからさまな退屈と、微かな苛立ちが見え隠れしている。彼はいつもそうだ。村の同調圧力に飲み込まれそうになる私を、彼なりの不器用なやり方で庇おうとする。


「科学雑誌の受け売りだろ? 菌糸ネットワークの話なんて、今は関係ない。それより、来週の模試のほうが重要だからな。志望校の判定が出る」


 慧くんは強引に話題を変えようとした。

 彼の声は平坦で、感情が削ぎ落とされているようだが、私にはそれが、彼なりの精一杯の助け舟であることが分かった。この村の狂気じみた「理屈」から、現実的な「受験」という話題へ引き戻すことで、私を遠ざけようとしてくれているのだ。

 しかし、麗華さんはふふっと口元を緩めただけだった。


「あら、慧さんったら。関係ないことなんてありませんわ。模試も進学も、すべてはこの根守の土台があってこそ。私たちは根無し草では生きられないのですから」

「……僕は、ただの事実を言っただけだ」

「事実、ね。ふふ、慧さんはいつもそう。目に見えるもの、数字で表せるものしか信じようとなさらない」


 麗華さんは憐れむように慧くんを見つめた。

 まるで、未熟な子供の戯言を聞き流す母親のような、圧倒的な優位性。慧くんの理知的な言葉も、この村の湿った空気の中では無力化されてしまう。

 そして、今度は沙夜の方へと顔を向ける。


「沙夜さんは分かりますわよね? 神社のお役目があるあなたなら、この村の空気が、昨日とは違っていることに気づいているはずよ」


 話を振られた沙夜が、びくりと肩を震わせた。

 彼女はずっと俯いて歩いていた。腰まで届く漆黒の髪が、顔の半分を隠している。

 沙夜は私の親友だ。二人きりの時は、テレビの話や、都会の流行の話で笑い合うこともある。けれど、麗華さんの前では、私たちは言葉を交わすことさえ躊躇われる。

 沙夜は、震える手で自らの左手首を握りしめた。そこには、他の村人よりもひと際太く、複雑に編み込まれた赤茶色の『根緒』が巻かれている。

 それは彼女が神代の巫女である証であり、同時に、この村から一生逃れられないという鎖でもあった。


「……うん」


 沙夜の声は、蚊の鳴くような小ささだった。

 雨音にかき消されてしまいそうな、儚い肯定。それでも、麗華さんにとっては十分だったようだ。


「空気が……重い。虚空様が、息を吸い込んでおられる気がする」

「その通りですわ。さすがは神代の巫女ね」


 麗華さんは嬉しそうに手を打ち合わせた。

 パァン、と乾いた音が響くはずが、湿気のせいで鈍く濁った音がした。


「もうすぐ夏越の祓……そして秋には大祭。虚空様は養分を求めておられるのよ。私たちの中から、誰が一番清らかで、誰が一番村を想っているか。じっと見定めておられるの」


 虚空様。

 その名が出た瞬間、周囲の温度が一度下がった気がした。

 村の最奥、忌み山の頂に鎮座するという巨木。

 私はまだ、その姿を遠目からしか見たことがない。けれど、村人たちがその名を口にする時、そこには絶対的な畏敬と、隠しきれない恐怖が混じっているのを肌で感じていた。

 神聖なものというよりは、もっと禍々しい、荒ぶる神。あるいは、生贄を求める怪物。


「養分……」


 無意識にその言葉を反芻してしまい、私は慌てて口をつぐんだ。

 麗華さんが、ゆっくりと私の方へ首を巡らせる。

 その瞳は黒曜石のように暗く、光を一切反射していなかった。彼女の瞳孔の奥に、底知れない闇が広がっているように見える。


「ええ、養分。莉桜さん、あなたにはまだ分からないかもしれませんけれど、この村はね、生きているの。私たちが呼吸をするように、村もまた、新しい血を巡らせなければならない」


 彼女は一歩、私に近づいた。

 甘い花の香りと、雨の匂い。そして、微かに漂う鉄錆の臭い。

 麗華さんの整った顔が目の前に迫る。美しい仮面の下で、何かが蠢いているような気配。


「あなたは東京からいらしたから、まだ根が浅い。でも、焦ることはなくてよ。この土地の水を飲み、この土地の物を食べ、この土地の空気を吸い続けていれば……いずれあなたの血も、根守の色に染まるわ」


 彼女の白い指先が、私の頬に触れそうになり、私は反射的に身を引いてしまった。

 その拒絶の動作を見て、麗華さんの目がすっと細められる。

 怒りではない。もっと冷たく、無機質な観察の眼差し。

 まるで、標本箱の中の昆虫が、まだ動いているのを不思議がるような目だった。


「……怖がらなくてもよろしくてよ。私たちは、あなたを受け入れたいと思っているのですから」


 麗華さんはそう言って微笑み、再び前を向いて歩き出した。

 私は心臓が早鐘を打つのを感じながら、その後ろ姿を見つめることしかできなかった。

 慧くんがちらりと私を見た。その瞳には、「気にするな」というメッセージと、「余計な反応をするな」という警告が混じっていた。


 坂道を下りきると、道は大きく二手に分かれる。

 一つは、緩やかにカーブを描きながら扇状地の底辺、村の入り口方面へと続く道。私の住む公務員宿舎がある方向だ。

 もう一つは、急な勾配となって山裾を這い上がり、村の最奥部、神代家や御子柴家のある「上」へと続く道。

 ここが、境界線だった。

 「持てる者」と「持たざる者」の分かれ道。

 村の「根」に近い者と、根を持たない異邦人の分岐点。


「それでは、私たちは こちらですから」


 麗華さんが短く言い、足を止めた。

 彼女と慧くん、そして沙夜は、山へと続く道の方に立っている。

 私だけが、平坦な道の方に取り残されていた。

 物理的な距離は数メートルしかないはずなのに、そこには深くて暗いクレバスが口を開けているように感じられた。


 背後には、黒々とそびえ立つ忌み山。

 その麓に立つ三人の姿は、まるで山の一部であるかのように風景に溶け込んでいた。

 制服は同じはずなのに、彼らの周りだけ空気が澱み、重力が強く働いているように見える。彼らの足元から見えない根が伸びて、地面と強固に結びついているような錯覚。


「また明日ね、莉桜」


 沙夜が、消え入りそうな声で言った。

 彼女は私と目を合わせようとしない。その視線は、私の足元のアスファルトに向けられている。

 助けを求めているようにも、拒絶しているようにも見えた。沙夜の手首の『根緒』が、彼女の白い肌に巻かれているのが目に入る。まるで、逃げ出さないように繋ぎ止める鎖のように。白くやわらかな肌にこすれて、少し赤くなっているのが痛々しかった。


「うん、また明日。沙夜、慧くん、麗華さんも」


 私が手を振ると、麗華さんは優雅に会釈をした。

 完璧な角度、完璧なタイミング。


「ええ、ごきげんよう、莉桜さん。……ああ、そうだわ」


 立ち去りかけた麗華さんが、思い出したように振り返った。

 夕闇が迫り、彼女の顔には濃い影が落ちている。口元だけが、三日月のような形に歪んで笑っていた。


「帰り道、気をつけてくださいね。最近、日が落ちるのが早いですから。暗がりで『根』を踏まないように」

「根……って?」

「ええ。アスファルトの下から、元気に育った根っこが顔を出していることがあるの。足を取られたら大変よ。……一度捕まると、二度と離してくれないかもしれませんもの」


 冗談めかした口調だったが、その言葉には明らかな毒が含まれていた。

 麗華さんはそれだけ言い残すと、慧くんと沙夜を促し、坂道を登っていった。


 三人の背中が、薄墨色の風景の中に溶けていく。

 慧くんが一度だけ振り返り、何かを言いかけたような素振りを見せたが、すぐに前を向き直した。

 沙夜は一度も振り返らなかった。

 彼らは「あちら側」の人間なのだ。

 生まれた時から根守の土に根を張り、あの忌み山に見守られ、あるいは監視されながら生きていくことを運命づけられた人々。


 私は一人、取り残された。

 周囲から人の気配が消え、急に静寂が押し寄せてくる。

 いや、静寂ではない。

 ジジジ、ジジジ……という虫の羽音。遠くで響くカラスの鳴き声。側溝を流れる水の音。

 それらの自然音が、三人がいなくなった途端に音量を増し、私を取り囲む壁のように迫ってきた。


 私は逃げるように踵を返し、村の入り口方面へと歩き出した。

 公務員宿舎のある下流域までは、ここからさらに二十分は歩かなければならない。


 ガードレールの錆びついた道を、一人で歩く。

 靴底がアスファルトを叩く音が、やけに大きく響いた。

 タッ、タッ、タッ、という乾いた音が、湿った空気に吸い込まれていく。自分の足音だけが、この世界で唯一の異質なリズムを刻んでいるようだった。


(……暗い)


 まだ夕方だというのに、谷間の村はすでに夜の気配に満ちていた。

 道沿いに並ぶ家々は、どこも雨戸を固く閉ざしている。

 まるで、外の空気を家の中に入れないように。あるいは、家の中の空気を外に漏らさないように。

 けれど、人の気配は濃厚にあった。

 雨戸の隙間、生垣の陰、二階の曇ったガラス窓の奥。

 誰かが見ている。

 私が一人で歩いているのを。手首に何も巻いていない「よそ者」が、頼りなげに歩いているのを。


 視線が、皮膚の上を這う虫のように感じられた。

 粘着質で、じっとりと濡れた視線。

『あの子だ』『東京から来た子だ』『根がない』『色が違う』『混ざりものだ』

 声に出さない声が、風に乗って聞こえてくるような錯覚に陥る。

 いや、それは本当に錯覚なのだろうか。

 風の音に混じって、低い囁き声が聞こえた気がした。


『……聞こえるか』


 心臓が跳ね上がった。

 私は弾かれたように周囲を見回した。

 誰もいない。ただ、道端の石仏と、風に揺れる杉の木立があるだけだ。

 気のせいだ。疲れているんだ。

 そう自分に言い聞かせようとした時、道端の電柱の根元に目が留まった。

 ひび割れたアスファルトの隙間から、太い木の根が隆起し、蛇のようにうねっている。

 黒ずんだ樹皮は、泥にまみれた人間の皮膚のようにも見えるし、血管が浮き出た老人の腕のようにも見えた。

 麗華さんの言葉が脳裏をよぎる。

『足を取られたら大変よ』


 その根が、今にも動き出し、私の足首を掴んで、地中深くへと引きずり込もうとしているのではないか。

 アスファルトの下には、彼らの言う通り、巨大な意識を持った根のネットワークが広がっていて、私という異物を排除する機会を虎視眈々と狙っているのではないか。


「……っ」


 私は短く息を呑み、その根を避けるように大股で通り過ぎた。

 心臓が不快なリズムで脈打っている。

 怖い。

 何が怖いのか、言葉にはできない。

 お化けが出るわけでも、殺人鬼がいるわけでもない。

 ただ、この村の景色すべてが、私という存在を拒絶しているように感じるのだ。


 山の方角から、低い風鳴りが聞こえた。

 ゴオオオ、という地鳴りのような響き。

 それは、谷底に溜まった湿気が振動している音であり、あの忌み山の頂にいる「何か」の寝息のようでもあった。


『……聞こえるか、聞こえるか』


 まただ。今度はもっとはっきりと聞こえた。

 耳元ではない。脳の芯に直接響くような、重く、湿った声。

 男の声のようでもあり、老婆の声のようでもあり、あるいは何千人もの声が重なったようでもあった。

 私は無意識に、自分の左手首を右手で強く握りしめた。

 何もない手首。

 滑らかな皮膚の感触。

 東京にいた頃は、これが普通だった。自由の証だった。

 けれど今は、この空白がたまらなく恐ろしい。

 守られていない。繋がっていない。

 私はこの村という巨大な胃袋の中で、消化されるのを待つだけの異物なのだ。


 ふと、鼻先に強烈な臭いが漂った。

 腐葉土の発酵した臭いと、鉄が錆びたような血生臭さ。

 息が詰まりそうになる。

 私は口元を手で覆い、早足になった。

 走ってはいけない。走れば、何かに追われていることを認めることになる。恐怖に負けたことになる。

 背後から誰かが――あるいは何かが――ついてきているような気配を感じながらも、私は決して振り返らずに歩き続けた。


 村の家々の屋根が、墓標のように重なり合い、その向こうで忌み山が黒いシルエットとなって私を見下ろしている。

 根守の虚空は、いつでも口を開けて待っている。

 麗華さんの言葉が、呪いのように耳元でリフレインした。


『いずれあなたの血も、根守の色に染まるわ』


 染まりたくない。

 でも、染まらなければ生きていけないとしたら?

 私の足音だけが、異質なリズムを刻みながら、宵闇の迫る道を空虚に響いていた。


(第一章 完)

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