第35話 近づく距離
第35話 近づく距離
聖域に吹く風が、少しだけ春めいてきた。
朝の光はやわらかく、世界樹の若葉はしっとりと dew を抱いて揺れている。
ゆうは焚火跡を整え、湧き水へ向かおうとして足を止めた。
――リュシアが何やら作業をしている。
「おはよう、リュシア。今日は早いな」
声をかけると、彼女は背筋をぴんと伸ばして振り返った。
「おはようございます。少し、気になるところがあったので」
よく見ると世界樹の根元の土が、きれいに整えられている。
踏み跡がつかないよう、小さな枝で囲いまで作ってあった。
「手入れ、ありがとう。助かるよ」
「……別にあなたのためではありません。世界樹のためです」
「はいはい。理由は何でもありがたいよ」
軽く笑うと、リュシアはわずかに眉をひそめる。
だが昨日までのような刺々しさはもうない。
「……あなたのその馴れ馴れしさ、時々ずるいです」
「褒め言葉として受け取っとく」
「褒めてません」
そう言いながらも、声は柔らかかった。
ゆうは湧き水を汲み、戻ってくると焚火の近くに座り、朝食の準備を始めた。
果実と干し肉を並べると、リュシアが少しだけ遠慮がちに隣へ座る。
「……いただきます」
「どうぞ」
小さく口に含んだ彼女は、驚いたように瞬いた。
「……昨日より甘い気がします」
「それ、クロが集めてくれたやつだな。たぶん熟した場所が良かったんだろ」
「黒狼は、果実の味まで理解しているのですか?」
「どうだろな。たぶん、うまいかどうかじゃなくて、“俺が喜ぶかどうか”で判断してる気がする」
「……あなたに懐いていますね」
「まあ、命の恩人だからな」
「あなたは、そういう言い方をしますが……きっと、あなた自身にも理由があります」
「俺に?」
「ええ。黒狼があなたに懐くのは……あなたが、驚くほど自然に“仲間”として扱うからだと思います」
ゆうは少し照れくさくて苦笑する。
「そうかな。自覚はあまりないんだけど」
「あなたは、気にしないのです。相手が誰であれ」
「うん。その方が楽で」
「……楽という言葉を軽く使いますが、それは簡単なことではありません」
リュシアの言葉は、静かだが重みがあった。
「私には……できなかったことです」
少し俯いてそう言った彼女の横顔には、昔の痛みが滲んでいる。
「里で何かあったんだよな」
「……ええ。私が守ろうとした相手を、周囲が“価値が低い”と言って拒んだのです」
「ああ……エルフの価値観って、そういうのあるのか」
「あります。身分、血統、力……それらが重視されます。
私はそれが……どうしても耐えられなかった」
「そりゃしんどいな」
ゆうは枝を火にくべ、優しく言う。
「でも今は、ここにいる。あの価値観から逃げてきた」
「……逃げた、というより……追い出されたのです」
「そうか」
沈黙。
だが、その沈黙は以前のような重苦しさではない。
ゆうは火の揺らめきを見つめながら言った。
「でも、俺は良かったと思うけどな」
「……良かった?」
「リュシアがここに来てくれて。
守ってくれるやつがいるってのは……単純に助かるよ」
リュシアは顔を上げ、驚いたようにゆうを見る。
「……あなたは、本当に……そういうことを自然に言いますね」
「ん? 変か?」
「変です。ものすごく」
そう言いながら、口元が少しだけほころぶ。
「でも……悪くありません」
ゆうは思わず笑ってしまう。
「そう言ってもらえるなら何より」
「調子に乗らないでください」
「はいはい」
言葉では拒むが、リュシアの声は柔らかく、火の揺らめきとよく馴染んでいた。
⸻
昼前、ゆうは森の外側の枝打ちに出た。
聖域に余計な影ができないよう、枯れた枝を落とす作業だ。
しばらくして背後から気配を感じる。
「手伝います」
振り返ると、リュシアが木の枝を抱えて立っていた。
「おお、ありがとな。無理しなくていいんだぞ」
「……無理などしていません。私は、この場所の“守り”ですから」
「頼りにしてるよ」
「……そういう言い方、反則です」
「反則?」
「その……胸が少し、ざわつくので」
ゆうはつい、ぷっと吹き出して笑ってしまった。
「やばいな。それは初耳だ」
「笑わないでください!」
リュシアはむっとするが、その頬はかすかに赤い。
「……あなたは気づいていないのです。
それほど簡単に“他者を受け入れる”人は、珍しいのです」
「そうか? 自覚はないけどな」
「だからです。あなたの自然さは……きっと、誰かの心をほどいてしまうのでしょう」
「誰かって?」
「……自分で考えてください」
妙に意味深な言葉。
けれど、嫌な感じはしない。
むしろ、あたたかい。
作業を終えるころ、リュシアはふいに言った。
「……ゆう」
「ん?」
「私は……ここが“居場所”だと、ようやく思えるようになりました」
ゆうは少しだけ目を見開き、それから穏やかに笑う。
「それは……嬉しいな」
「……言わせないでください」
「いや、言ったじゃん」
「忘れてください!」
「無理だろ、それは」
言い合いながらも、ふたりの距離は自然と近づいていた。
聖域には、今も静かな風が吹いている。
だがその風は――
もうひとりぼっちのものではなかった。
ゆうとリュシア、ふたりの時間が確かに息づき始めている。
それは、ゆっくりと
“絆”へと形を変えつつあった。




