第32話 リュシアの小さな変化
少しずつ変わっていく、リュシアの態度。
聖域は彼女の「新しい居場所」になりつつある。
第32話 リュシアの小さな変化
朝の空気が、ほんの少し暖かくなっていた。
ゆうは木の器に水を注ぎ、指先で温度を確かめる。
ひんやりとして、ちょうどいい。
「おはよう、リュシア」
声をかけると、彼女は顔を上げた。
「……おはようございます」
昨日よりも、わずかに柔らかい声音だった。
「体は大丈夫そうだな。顔色もいい」
「……あなたの言葉は信用してよいのでしょうか」
「経験に基づく観察ってやつだよ。案外、見る目はある」
そう言って軽く笑うと、リュシアはふいと視線を外す。
だが、その耳は昨日よりも緊張が抜けていた。
朝の支度を終えると、リュシアは世界樹の鉢の前に立ち止まった。
「……今日も、あの水を与えるのですね」
「聖庭水な。まあ、日課みたいなもんだ」
ゆうは小瓶を手に取り、そっと傾ける。
淡い黄色の液体が土へと染み込んでいく。
「……不思議です」
「何が?」
「あなたが、この世界樹を『物』ではなく……
まるで“誰か”のように扱っていること」
ゆうは少しだけ考え、肩をすくめた。
「うーん……相棒、みたいなもんかな」
「相棒……」
「一緒にこの森で生きてる仲間、って感じ」
「……あなたの感覚は、やはり少し変わっています」
「そうか? まあ、否定はしないけどさ」
ははっと小さく笑う。
リュシアの視線が、若木からゆうへ移った。
「……なぜ、そんなふうに接するのですか」
「理由がいる?」
「……少し、知りたいです」
その言葉に、ゆうはわずかに驚いたような顔をした。
「そうだな……」
空を見上げて、ゆっくり言葉を探す。
「俺は、この森でやっと“生きている”って感じがするんだ」
「生きてる……?」
「前はさ、ずっと何かに追われてる気がしててな。仕事とか、人間関係とか」
ちらりとリュシアを見る。
「ここでは、そういうのがない。
だから、この場所が壊れないようにしてるだけ」
しばらく、静かな間。
「……あなたは、この場所をとても大切にしているのですね」
「まあ、居心地がいいからな。
リュシアも、そう思ってるんじゃないか?」
「……そう、ですね」
小さく、けれど確かに頷いた。
その仕草を見て、ゆうはふっと笑う。
「お、素直じゃないか。その調子、その調子」
「……調子に乗らないでください」
「はは、冗談だって」
だが、そのやり取りにもう警戒の色はなかった。
⸻
昼過ぎ、リュシアがひとりで森の縁へと歩いていく。
気づいてゆうが声をかける。
「どこ行くんだ?」
「少し、周囲を見てきます。問題がないかどうか……」
「偵察か。頼もしいな」
「必要なことです」
「じゃあ、帰りに何か食べられそうなの見つけたら教えてくれ」
「……効率的ですね」
「無駄は嫌いなんだよ。性分でさ」
リュシアは小さく息を吐きながら、森へ消えていった。
しばらくして戻ってきた彼女の手には、淡い青色の果実。
「……害はありません。栄養もあるようです」
「おお、助かる。じゃあ今日の夕食だな」
自然な流れでそう言ったとき、リュシアの肩が少しだけ揺れた。
「……“今日の”夕食、ですか」
「ん? そりゃそうだろ」
「……いえ、何でもありません」
だが、その表情には、ほんのわずかな安心があった。
夜、火を囲みながら果実を分け合う。
「……こうして誰かと食事をするのは、久しぶりです」
「そっか。じゃあ記念日だな」
「……何の記念ですか」
「リュシア共同生活一週間目、とか?」
「まだ一日も経っていません」
「じゃあ前祝いだ」
「……意味がわかりません」
そう言いながらも、少しだけ口角が上がった。
焚火の揺らめきが、二人の間をやわらかく照らす。
距離はまだある。
だが、それはもう“警戒”ではなく――
少しずつ溶けていく“壁”だった。
森の静けさの中で育つ、小さな信頼。
その変化は、確かに形になり始めていた。
次回、第33話
「言葉の隙間」
交わされる何気ない会話が、さらに距離を縮めていく――。




