第29話 誰にも渡さない場所
世界樹に与えられる「聖庭水」――
それはただの水ではなく、ゆうの意志そのものだった。
第29話 誰にも渡さない場所
朝の空気は澄んでいた。
聖域に流れる風は、森の奥からやわらかな香りを運んでくる。
ゆうは小さな木棚から細長い瓶を取り出し、静かに蓋を開けた。
中で揺れるのは、透明に近いが、わずかに黄色を帯びた液体。
「今日も頼むぞ、聖庭水」
そう呟いて、世界樹の鉢の前にしゃがみこむ。
瓶を傾けると、ちょろ、と優しい音を立てて土へと染み込んだ。
淡い黄色が土に滲み、若木の根元へと吸い込まれていく。
リュシアは少し離れた場所で、その様子をじっと見つめていた。
「……その水は?」
「聖庭水だ」
「……聞いたことのない名ですね」
「俺が勝手につけた」
ゆうは肩をすくめた。
「前にいた世界の園芸知識と、ポーションを応用して調合した。
成長させるためじゃない。安定させるための水だ」
リュシアの翡翠色の瞳が、瓶を追う。
「成長ではなく……調和……」
「そういうことだ」
若木の葉が、すうっとわずかに揺れた。
「こいつは普通の世界樹じゃない。
だから普通の育て方もしない」
「……それほど大切なのですね」
「ああ」
ゆうは迷わず頷いた。
「世界が何を求めようと関係ねぇ。
俺はこの木を、誰にも渡さない」
その言葉は、静かだったが確かだった。
リュシアはその横顔を見つめ、わずかに目を伏せる。
「……あなたは、世界を敵に回してでも守るつもりですか」
「その時はその時だな」
「……無謀です」
「かもな。でも、この場所が気に入ってる」
視線を聖域全体へ向ける。
「誰にも邪魔されず、誰にも奪われず、ただ息をしてられる。
そんな場所は、そうそうない」
沈黙のあと、リュシアはひとつ息を吐いた。
「……私も、この場所を嫌いではありません」
「はいはい」
「……茶化さないでください」
ほんの少しだけ頬をふくらませる。
「あなたがそう言うなら……私は、この森を信じてみます」
ゆっくりと世界樹へ近づき、手をかざす。
「……この樹がある限り、ここは聖域なのですね」
「そうなるな」
彼女は、若木の葉にそっと触れた。
「……守られているのは、私たちの方かもしれません」
ゆうはその言葉を聞き、ふっと目を細める。
「まあ、悪くないな」
クロが近づき、静かに二人の間へ座る。
朝の光が差し込み、若木を包み、聖庭水の残した輝きが淡く光っていた。
誰にも渡さない場所。
誰にも壊させない静けさ。
それを決めたのは、戦士でも王でもない。
ただ一人の男と、一人のエルフだった。
静かに交わされた“守る”という言葉。
聖域は、ゆうとリュシアの共通の居場所として形を持ち始めている。
次回、第30話
「この森に住むということ」
リュシアが下す、小さな決断――。




