だって、愛しているんですもの
クライデン女侯爵の夫、ヘルムートはいつだって美しい女性に囲まれている。
今宵の夜会もそうだ。群がる女性たちはみな美しいが、ひと際目を引く鮮やかなブロンドの美女が得意げにヘルムートへ寄り添っている。どうやら彼の今のお気に入りらしい。その不適切な距離感は、どう見たって友人の域を超えている。
「リネーイ川上流で堤防の改修が始まっただろう?以前から俺が提案していたものなんだ。完成すれば水害は激減する見込みだし、クライデン領の農作物の収穫量は格段に上がるだろう。なぜもっと早く手を付けなかったのかと不思議に思うくらいだね」
「流石ですわ、ヘルムート様ぁ!」
「学院時代も優秀なご成績だったんでしょう?うちの父も、知っていればヘルムート様を婿にしたのにと残念がっておりましたわぁ」
周囲のおべっかに得意満面のヘルムートは、まるで夜会の主役は自分だとばかりに声を張り上げていた。夜会に参加した貴族の多くが眉を顰めていることには、全く気付いていない様子だ。
特に、中央付近へ陣取った夫人の一団――派手さを抑えつつも質の良いドレスや優雅な立ち居振る舞いは、ヘルムートを囲む女性たちとは天地ほどの差があり、高貴な育ちであるとひと目で分かる――彼女たちがヘルムートへ投げる視線は、絶対零度の如き冷たさを纏っていた。
「あのように声を張り上げて……。あれではご自身の品位の無さを喧伝するようなものですわね」
「また新しいご令嬢を侍らせていらっしゃるわ。あれはブラント男爵家のご令嬢でしたかしら」
「ああ、汚らわしい平民の血を引いているという?ならばあの雌犬のような振る舞いも、納得がいくというものですわね」
「前侯爵様がお認めになったほどですから、才能はおありなのでしょうけど。少々羽目を外し過ぎなのではございませんこと?フロレンツィア様」
夫人たちの視線がフロレンツィア・クライデン女侯爵へ集中した。周囲の貴族たちの会話が止まっている辺り、彼女がどう答えるか聞き耳を立てているのであろう。しかしフロレンツィアは全く表情を変えず、その美しいガーネットの瞳を細めるだけだった。
「私は気にしておりませんわ。ヘルムート様には好きなように過ごして頂きたいと思っておりますの」
「このまま放っておけば、侯爵家の威信にも関わりますわ。本当によろしいのですか?」
「ええ。……だって私、愛しているんですもの」
◇◇◇
フロレンツィアは前クライデン侯爵の一人娘である。いずれ女侯爵となることが正式に定められた時、彼女の元にはほうぼうの貴族家から縁談が舞い込んだ。一時は釣り書きの山が人の背丈へ届くくらいだったという。
その中から選ばれたのが、デッセル伯爵の次男ヘルムートであった。
クライデン侯爵領は肥沃な土地を生かした農作が主な産業だが、取引先は国内がほとんどだ。一方でデッセル伯爵家の持つ商会は、国内のみならず国外にも販売網を持つ。デッセル伯爵家との事業提携は、クライデン侯爵にも利があった。
とはいえ、同じくらい利のある候補は幾人かいた。そこで前侯爵はそれぞれに課題を出した。内容は領地の内政や事業取引で実際に起きた問題について、解決策を提示せよというもの。他者に助力を求めても良いが、執筆は自分で行うようにとの条件付きだ。
候補者が次々と脱落する中で、唯一侯爵のお眼鏡に適ったのがヘルムートだった。
面談の場で「内政については、他にもいくつか献策したい案があります。ご息女の夫になった暁には、必ずクライデン家のお役に立ってみせます」と弁巧みに語ったヘルムートに、前侯爵はいたく感心したそうだ。
そしてフロレンツィアと結婚したヘルムートは、一躍時の人となった。
爵位を継げない次男としてさほど重要視されていなかったが、実のところかなり才のある人物らしい。なにせ、あの厳しいクライデン侯爵が認めた男だ、と。
結婚当初はさしたる問題も無いように見えた。しかしクライデン侯爵が突然の病で亡くなってから、ヘルムートは本性を表した。
パーティだ社交倶楽部だと毎日のように遊び歩き、家へ帰るのは深夜になってから。夜会にはフロレンツィアを同伴するものの、すぐに妻そっちのけで美しい令嬢たちに声を掛ける。それなりに見目が良く、口の回る彼にぼうっとなる女性は多い。そしてヘルムートはそんな娘を口説き、次々に愛人関係となった。
「すまない、フロレンツィア。イルメラにどうしてもと言われて、断り切れなくて」
「カトリンの家は困窮していてね。愛人になるから援助して欲しいと言われてるんだ。優しい君なら、分かってくれるだろう?」
彼へ侍る娘は下位貴族の令嬢ばかりだ。親の身分が低い、あるいは家の財政状況が厳しいために結婚相手が見つからない彼女たちの狙いが、愛人の座であろうことは一目瞭然。ヘルムートの寵愛を受ければ、侯爵家の潤沢な財産のおこぼれに与れると考えているのだろう。
貴族が愛人を持つこと自体は別に珍しい事ではないし、財産狙いも構わない。しかし当主はあくまでフロレンツィアなのだ。遊興費に愛人の生活費、そして別れる際の慰謝料。その費用を支払うのは彼女なのである。
愛人が別れないとゴネているから慰謝料を用意して欲しいと言われ、自らの予算を削って支払ったときも。
「名門侯爵家のお生まれでも、夫の心は繋ぎ止められないのかしらねぇ?」と茶会で揶揄されたときも。
フロレンツィアはただ「愛していますから」と鷹揚に微笑んだ。
それを聞いた者は「クライデン女侯爵は、なんと深く寛大な愛をお持ちなのだ」と感嘆し、あるいは「きっと彼女は、辛い現状から目を背けているのだろう」と憐憫を覚えた。
中にはヘルムートへ苦言を呈する者もいたが、「俺が真に愛しているのはフロレンツィアだ。愛人とは遊びに過ぎない」「当主は妻なのだから、執務は彼女に任せて俺は社交に精を出しているんだ。それに俺が出した献策は成果を上げている。何の問題があるんだい?」と流された。
確かにクライデン侯爵領は、前当主の時代よりも発展を遂げている。
水害を抑え、かつ効率の良い灌漑設備の構築。農地にならないと放置されていた土地を耕地とし、新しい作物を導入。
ここまで才のある男だ、浮気も甲斐性なのかもしれない。いや、貴族の男とは本来そういうものではないか?などと言う輩まで出てくる始末だ。
「うちの夫、隠れて愛人を作ってましたのよ。しかも『貴族ならこのくらい当たり前だ』と開き直って……!」
「妹のところもですわ。『いちいち煩い。少しはクライデン女侯爵を見習ったらどうだ』と言い放ったとか。妹はずっと泣いておりますの」
パーティ会場の隅で愚痴に花を咲かせている夫人たちの中には、黙って話を聞くフロレンツィアの姿もある。
最近、妻子がいる身にも関わらず愛人を作る男が増えた。妻が文句を言えば、彼らはドヤ顔で「嫉妬など度量が浅い。クライデン侯爵を見習え」と宣うらしい。
「まあ……ごめんなさいね、私のせいで」
「フロレンツィア様はなにも悪くありませんわ。私こそ申し訳ございません、失礼なことを申しました」
「私どもはフロレンツィア様のように人間が出来ておりませんから……」
そこへ「楽しそうだね」と割って入ったのは当のヘルムートだ。
「フロレンツィア。ディアナの気分が悪くなったらしいんだ。俺は彼女を送っていくから、済まないが先に帰ってくれないか」
「まあ、ディアナ様が?お可哀想に。ならばうちの馬車を使ってくださいな」
「いや、それでは君が不便だろう。俺はどこかで馬車を調達してくるよ」
フロレンツィアの頬へキスして去っていくヘルムートに、夫人たちは射殺しそうな視線を向けている。中には握りしめた扇がミシミシと音を立てている夫人もいるのだが、相変わらず当人は気付いていない。ある意味感心したくなるほど鈍い。
フロレンツィアはにこやかに微笑みながら、つと視線を横へ向ける。それを受けた侍女がするりと立ち去ったことには、誰も気を留めなかった。
◇◇◇
ヘルムートは自分が有能だと思っている。実際、彼は頭も口も回る方だ。同年代の子息たちと並べば利発に見えるだろう。正しく成長すれば、ひとかどの人物になったかも……しれない。
「誰ですか、この壺を割ったのは!」
「ごめんなさい。彼らがふざけて……でも、止められなかった僕のせいでもあります」
「ヘルムート様、歴史学の課題をやっておくように言ったはずですが?」
「算術の課題をやっていたら、もっと深く知りたくなってつい夢中になってしまったのです。申し訳ありません。先生、今日は算術の方をもっと詳しく教えて頂けませんか」
彼はとにかく楽をすること、そして自分を優れた人物へ見せかけることに長けていた。周囲の大人たちは彼のずる賢さに気付かず、優秀な子供だと思っている。
家庭教師だけは薄々感づいていたらしく「ご子息は大変頭が良いのですが、勉学意欲が薄いように見受けられます」と遠回しに父親のデッセル伯爵へ伝えたが、「遊びたい盛りだからな。成長すればおのずと自覚が付くだろう」と流されてしまった。
「今回の試験は28位だったよ。前回より下がってしまったなあ」
「十分よ。ヘルムートは本当に優秀な子ね」
「そうだな。ヘルムートが長男だったならデッセル家は安泰だったのに、惜しいことだ」
実のところ、ヘルムートは上級生から過去のテスト内容を聞いており、その部分のみ集中して勉強していたのである。上級生は子爵家の令息だったため、ヘルムートの口止めにも大人しく従った。それを知らない両親は、息子の努力の成果だと思い込んでいる。
兄のエルヴィンはヘルムートと違って実直な性格で、頭の回転は早くない。口には出さないがヘルムートは兄の事を馬鹿にしていた。しかしどれだけ彼が優秀に見せかけても、デッセル家の跡取りは兄なのだ。当然のことだが、跡取りである兄は常にヘルムートより優先される。
貴族なんて足の引っ張り合いが当たり前だ。実直であることなど、何の役にも立たない。自分の方が兄よりずっと上手く立ち回れるのに。
彼は常々不満に思っていた。だから父親がクライデン侯爵家へ婚約を申し込んだと聞いた時は、大層喜んだ。ようやく自分の才能が認められたのだ、と。
「この課題について一週間以内にレポートを提出するように、とのことだ。お前ならすぐに出来るだろう?頼んだぞ」
父親から書類を渡されたヘルムートは頭を抱えた。
「どうするんだよ、こんなの……」
それは『領地に寒害が訪れたと仮定し、その被害を抑え、収益をマイナスにしないためにはどうするか』という課題だった。最初から回答の分かっている課題しか説いたことのない上、下積みを疎かにしていたヘルムートに解けるはずもない。
「侯爵も人が悪い。こんなもの、実務経験がない学生に分かるわけないだろ。きっと最初から婿を選ぶ気が無いんだ。お前もそう思うだろう?テオフィル」
机に突っ伏しながら、ヘルムートは従者に愚痴る。テオフィルはデッセル伯爵家の寄り子であるヴェルター子爵家の次男だ。下位貴族クラスながら、成績は上位に食い込んでいる。自分より従者が優秀であることは気に食わないが、気配りが出来て使い勝手が良いので従者としては重宝していた。
「えーと……これならば過去にマルツ領で似たような事例がありましたから、参考になると思います」
「マルツ領?そんなことがあったかな」
「王都ではあまり話題になりませんでしたからね。マルツ伯爵の手腕で被害は最小限に抑えられましたし」
「それならテオフィル、お前がレポートを書いてくれ」
「ええ!?駄目ですよ、ヘルムート様のために出された課題でしょう?」
「だって締め切りは明後日なんだ。俺が書いたら間に合わないよ。それとも主人のいう事が聞けないのか」
渋々テオフィルが引き受けたレポートの出来は大層良かったらしい。「クライデン侯爵がお褒めになっていた。流石はヘルムートだ!」と両親は上機嫌だ。
ほどなく、ヘルムートとフロレンツィアの婚約が相成った。
これで自分は侯爵家の一員となれる。妻が当主というのは気に食わないが、フロレンツィアは大人しい性格のようだから、名ばかりの当主として自分が実権を握ればいい。自分が皆から称賛され崇められる未来を思い描き、ヘルムートは有頂天になった。
未来の女侯爵と婚約したことで、ヘルムートを取り巻く環境は一変した。
令息たちは彼に媚びへつらい、見目麗しい令嬢からは秋波を送られる。自分は優秀なのだから当然だ、とヘルムートはご満悦だった。気に入った令嬢を選び、恋愛を楽しむことだって出来る。
勿論、フロレンツィアのご機嫌取りは欠かさない。この状況が彼女のおかげであることくらいは、ヘルムートも理解している。
令嬢には最初からひと時の恋であること、フロレンツィアと結婚することは話してある。それで去っていくならそれまでのこと。他にいくらでも寄ってくる女はいるのだから。
それでもいいと付き合った恋人たちは「婚約者を大切にしておられるのですね。ヘルムート様は本当に素晴らしい殿方ですわ」と褒めてくれる。どう見てもおべっかであるが、ヘルムートはすっかり自分に酔っていた。逢引の際は周囲に気付かれないよう従者に変装したり、友人にアリバイを頼む。そういうスリル感がまた、彼を夢中にさせるのだ。
結婚してしばらくは、女遊びは止めて大人しく過ごしていた。義父の手前、あまり派手には動けないからだ。フロレンツィアの執務を手伝う姿勢も見せた。尤も、面倒なことは全てテオフィルに任せていたが。
クライデン侯爵が突然の病で亡くなった時は、泣くフロレンツィアを抱きしめ 「悲しいのは良く分かる。侯爵よりは頼りないかもしれないが、俺の胸ならいつでも貸すよ」と自らも涙を流した。
勿論、全て演技だ。内心では「煩い義父がいなくなった。もうこそこそする必要はないな」とほくそ笑んでいた。
もう自分を縛る者はいなくなったとばかりに、彼は大っぴらに女性たちと付き合うようになった。
フロレンツィアが悲しんだり怒ったりしたら厄介だな、と少しだけ思ったけれど、妻は何も言わなかった。聞くところによると「夫を愛している」と公言しているらしい。
どうやら彼女は自分を深く愛しているようだ。それなら、たまに機嫌を取ってやればいいか。
そう考えたヘルムートの行動は、ますます派手になった。視察と称して愛人と旅行に行き、贅沢三昧。飽きれば慰謝料を支払って別れ、新しい相手を見つけた。
執務に関してはテオフィルに丸投げだ。彼が出してきた策で良さそうなものは、自分が考えたことにした。
これで妻はますます俺へ惚れこむだろう。もうクライデン侯爵家は自分のものになったようなものだ、と鼻高々だ。
「フロレンツィア、最近忙しいようだね。君の身体が心配だ。何か手伝えることはあるかい?」
朝食の席でヘルムートは妻へ声を掛けた。妻を気遣う夫のフリは常に欠かさない。出来る男の基本である。
「大丈夫ですわ。今日はクライシェの叔父様が、手伝いに来て下さることになっていますの」
「そうか、分かった。俺は約束があるから出掛けるけれど、無理はしないようにね」
クライシェ伯爵は前クライデン侯爵の弟であり、若くして当主となったフロレンツィアの後見としてサポートをしている人物だ。ヘルムートは彼が苦手だった。クライシェ伯爵はあまりヘルムートを良く思っていないらしく、いつも横柄な態度なのだ。
あの伯爵と鉢合わせする前に出てしまわねば。パーティの時間にはまだ早いが、ヘルムートは早々に出立した。
「イルメラはどうしたの?最近姿を見ないけど」
「行方知れずらしいですよ。実家の家業が破産したから夜逃げしたって噂です」
「ふうん」
パーティが始まる時間だというのに、取り巻きの人数が少ない。最近ずっと姿を見ない者もいる。友人によれば、ここのところ実家が破産して平民落ちする者が相次いでいるらしい。その中にはヘルムートの愛人だった女性も数人含まれている。
零細男爵家令嬢のイルメラも、叙爵されたばかりで元平民のカトリンも。
しかしヘルムートは何の疑問も持っていなかった。不景気だからなあとぼんやり考えたくらいだ。別れた後は友人関係に戻ったものの、ちょっと気まずい思いはしていたから、彼女たちがいなくなったことを幸いだとすら思っていた。
今のヘルムートのお気に入りは、ディアナ・ブラント男爵令嬢だ。平民だった母親が亡くなった後、庶子として引き取られたらしい。ふわふわとしたブロンドの髪にぽってりと色っぽい唇、大きい胸と腰が男心をそそる美女だ。
「悪いけど君を妻に迎えるつもりは無いよ。俺の正妻はフロレンツィアなのだからね」
「侯爵家のご令嬢に、私などがかなうはずもありませんもの。このままの関係で構いませんわ」
この娘はすごく好みだし、しおらしいところがまた可愛い。正式に愛妾にして囲おうかな、などとヘルムートは考える。無邪気にしな垂れかかってくるディアナに鼻の下を伸ばしながら。
「お父様の商会、最近売り上げが落ちてるの。クライデン領産の作物は高品質で人気が高いでしょう?安く融通してもらえないかしら」
「ああ、いいよ。何だったら半額で融通してあげる。何せ、侯爵家はもう俺のものなんだから」
「本当?ヘルムート様、大好き!」
ヘルムートとて、そんなことが出来るわけもないことは理解している。ただのリップサービスのつもりだった。
彼は全く気付かない。それが奈落への入り口だということに――いや、既に奈落へ嵌まっているということに。
「離縁……!?」
クライデン侯爵邸の応接間でヘルムートに向かい合っているのは、フロレンツィアとクライシェ伯爵である。突然呼び出されたと思えば離縁届に署名するように求められ、ヘルムートは混乱の極みであった。
「どういうことだ、フロレンツィア!俺たちの間には何の問題もなかっただろう?」
「これだけ不貞を重ねておいて、良く言えるものだ」
クライシェ伯爵がばさりと分厚い書類を机へ叩きつける。それに目を通したヘルムートは驚愕した。どこの誰と会っていたか、何を買い幾ら使用したか……それはもう、事細かく記載してある。
いつの間にこんなものを……?
いや、それよりも。何とかこの場を切り抜けなければ。
「浮気は認めます。しかし貴族なら、愛人を抱えることは珍しくないでしょう。俺はフロレンツィアを何よりも大切にしている。貴族として、間違った在り方とは思いません」
「何よりも大切に、ね」伯爵がふんと鼻を鳴らしながら嘲笑う。
「夜会で妻をほっぽり出して女漁りをすることが、正しい貴族の在り方なのかね?」
「少々酔っぱらって羽目を外したことはありますが……俺は妻を愛しているんです。離縁なんておかしいだろう。なあ、フロレンツィア?」
伯爵を誤魔化すことは無理と判断したヘルムートは、フロレンツィアへ矛先を変えた。
彼女は今まで何をしても怒らなかったはずだ。約束を破っても、他の女を優先にしても。
最近、ディアナにかまけて妻を放っておき過ぎたのかもしれない。きっと彼女は拗ねているのだろう。謝ればきっと許してくれる。
何せ、彼女は俺を愛しているのだから。
「彼女たちとはひと時の関係。俺が本当に愛しているのは君だけだ。どうか機嫌を直してくれ」
「別に怒ってなどおりませんが……侯爵家の乗っ取りを公言するような方と結婚を継続することは、不本意ですわ」
「乗っ取るつもりなんて」
無言で懐から何かを取り出したフロレンツィアが、それをチョンと叩いた。
『何だったら半額で融通してあげる。何せ、侯爵家はもう俺のものなんだから』
『本当?ヘルムート様、大好き!』
そして二人の陸み合う声。
音声を記録した魔石だと理解した頃には、ヘルムートの背中は冷や汗でぐっしょりと濡れていた。
「本気じゃなかったんです!ちょっとした戯言で」
「本気かどうかなど、どうでもいい。乗っ取りを公言する証拠が残っている、それが全てだ」
「っ、俺は今までクライデン家の為に尽くし、成果を上げてきたじゃないですか!俺を手放したら、後悔するのは貴方がたですよ」
「それも全部、従者の手柄だろう?婚約前に出したレポートも、彼が書いたものだったそうじゃないか。小賢しい真似をしおって……。自分が有能だと嘯いていたようだが、とんだ張りぼてだったというわけだ」
そこでようやく、ヘルムートは忠実だと思っていた従者テオフィルの裏切りに気付いた。考えてみれば、そうそう都合よくディアナとの逢引き現場へ魔石を用意できるはずがない。従者が手引きでもしない限り。
「離縁したら、デッセル伯爵家との事業提携がなくなりますよ。そうなったら、クライデン家だって困るでしょう」
「既に取引先とは信頼関係を築いております。デッセル伯爵家の仲介がなくとも、是非取引の継続をと仰る方ばかりですわ。それに、貴方と離縁しても事業提携は継続して欲しいと、エルヴィン様から申し出がありました」
「なぜ兄上が出てくる?当主は父上だ」
「あら、ご存じありませんでしたのね。デッセル伯爵は引退なさるそうですわよ」
「は……?」
事前に弟の離縁を知らされたエルヴィンは、すぐに両親を連れて謝罪に来た。
そして弟の負った賠償金は全て当家が支払う。またデッセル伯爵は息子の責任を負って引退し、エルヴィンが当主になる。だから取引は継続して欲しい、と頼み込んだらしい。
「エルヴィン様は離縁が成り次第、貴方を伯爵家の籍から抜くとも仰っておられましたわ」
「俺は甘すぎると言ったのだが。フロレンツィアが『弟と違ってエルヴィンはまともな人間だから、これ以上追い打ちを掛けないで欲しい』と言うのでな。だが我が家門の者たちはそう甘くはないぞ、小僧。お前もあの女たちのようにならないと良いなあ?」
クライシェ伯爵の底意地の悪い笑みは、ヘルムートの肝を氷点下まで冷やした。
クライデン侯爵の家門の者たちは怒っていたのだ。自分たちの盟主である女侯爵を虚仮にする行為は、すなわち家門全体に対する侮辱なのだから。
彼らはヘルムートの愛人たちの素性を調べ上げ、その実家をじわじわと追い詰めた。国外へ夜逃げしようとした者もいたが、捕えて家族もろとも鉱山へ放り込んで働かせている。
そんなこと、ヘルムートは露ほども知らなかった。せめて少しでも彼女たちを気にかけて調べていれば、自らの状況を理解できただろうに。
「もう分かっただろう。早く離縁の書類にサインしたまえ。それとも、裁判を起こされる方が良いのかね?」
「フロレンツィア、いいのか!?俺と別れることになるんだぞ!」
「別に構いませんが」と平然と答えた妻に、ヘルムートは呆然となった。
「え……だって、君は俺を愛しているだろう?」
「いいえ、貴方の事は愛しておりません」
「あんなに皆の前で言っていたじゃないか。浮気を大目に見てくれていたのも、俺を愛しているからだろ?」
「私が貴方を愛していると、一度でも言ったことがありまして?」
心底不思議そうに、フロレンツィアは首を傾げる。
ヘルムートは必死で思い出そうとした。確かに、一度も自分へ向かって愛していると言われたことはない。
彼女がいつも「愛している」と公言していたから、勝手に自分の事だと思い込んでいた。
「私が愛しているのは、クライデン侯爵家ですわ」
◇◇◇
フロレンツィアは家族を愛していた。自分を大切に育ててくれた、今は亡き両親を。
彼女は領民を愛していた。領地を訪れるたびに彼女を温かく歓迎し、「姫様」と慕ってくれる者たちを。自分に忠実な使用人たちを。
彼女がヘルムートとの縁談を受けたのは、デッセル伯爵家との事業提携が領地の為になると聞かされたからに過ぎない。何より、愛する父が決めたことだったから。
ヘルムート自身はどうでも良かった。会えば自分の自慢話ばかり聞かされる。豪勢な贈り物をしてくるけれど、どれもフロレンツィアの好みから外れたものばかり。いかにも『女性が喜びそうなもの』をチョイスしただけだ。それに、学生時代からこっそり浮気していたことも知っていた。
父が選んだ男ならば有能なのだろう。だから周囲から何を言われようとも「愛していますので」と答えていた。彼女は我が家を愛していたので、嘘ではない。
クライデン家をきちんと守ってくれるのなら、愛人も認めるつもりだった。勿論、後々遺恨が残らないよう避妊はさせる予定だったが。
しかし結婚して一年経つ頃には、夫の才覚に疑問が生じてきた。執務を手伝わせてみたものの、ミスが多い。何か意見を求めてもはぐらかされる。領地の事も、どうにも理解度が低い様子だ。
ある時ヘルムートが書いた書類を見て、フロレンツィアは気付いた。婚約前に提出されたレポートの字が、彼のものではないことに。
その流麗な文字には見覚えがあった。ヘルムートの従者、テオフィルだ。彼が学院で優秀な成績を修めていたことも把握している。フロレンツィアは夫のいない隙にテオフィルを問い詰めた。
「自分が勝手にやったことです。罰は全て俺が受けます。どうか、実家だけはお目こぼし頂きたく……!」
土下座する勢いで頼み込むテオフィルに、フロレンツィアはヴェルター子爵家には手出ししない代わり、自分へ協力することを約束させた。ヘルムートの動向を逐一報告するように、と。
テオフィル自身、都合が悪いことは従者に押し付けるくせに、手柄だけは我が物とする主人にほとほと愛想が尽きていた。
そして侯爵家の使用人とテオフィルが連携し、ヘルムートの動向を監視したのである。ちなみに逢引現場に魔石を仕込んだのも彼だ。
ヘルムートの能力が見せかけだけであること。侯爵家を好きなように出来ると嘯いていること。
もはやフロレンツィアにとって、ヘルムートは害悪でしかなかった。
「これ以上この婚姻を続けても、当家には損失しかございません。離縁して下さいませ」
無表情で言い放つフロレンツィアの圧に押され、ヘルムートは離縁届に判を押した。
婚家を追い出されデッセル伯爵家に戻るも、既に離籍されていたため追い出された彼は隣国へ渡った。元取り巻きや友人たちを頼ったようだが、皆相手にしなかったらしい。尤も、彼らとていずれは社交界から爪弾きにされる運命にある。ヘルムートに集って贅沢のおこぼれに与っていた彼らを、クライデンの家門が許すはずもない。
ヘルムートは持ち出した宝飾品を金に換えて商売を始めた。しかしよく考えもせず先物取引に飛びついて倒産。しかも得意の口先三寸で増やした顧客から損害を出したと訴えられ、劣悪な環境で働かされているそうだ。
ヘルムートのやらかしはあっという間に社交界に広まったため、デッセル一家は肩身の狭い思いをすることになった。賠償金の支払いに四苦八苦しているものの、新当主のエルヴィンは堅実な男であるため、何とか財政を保っているらしい。一方で領地に押し込められた元伯爵夫妻は、乏しい仕送りで困窮している。息子を甘やかしたツケは、かなり痛いものとなったようだ。
フロレンツィアがついに離縁したというニュースを聞いて慌てたのは、ヘルムートの真似をして浮気を繰り返していた男たちである。今更のように妻へ媚びを売ったり謝罪したりしたようだが、こじれてしまった夫婦仲が戻ることはなかった。零れた水は還らないのだ。
「却って良かったわ。若いうちに別れた方が傷は浅いもの」
とある夫人は、清々しい表情でそう語った。彼女は不貞をしていた夫と離縁したのだ。同じように夫に浮気されていた女性たちは「そうねえ」「不良債権は早めに切り捨てないと」と頷く。男たちは妻にいつ切り捨てられるかと、戦々恐々としているらしい。
フロレンツィアはその後、テオフィルと再婚した。子爵家では身分に差が有るため、クライシェ伯爵家の養子となった上での婿入りだ。
新しい夫はフロレンツィアを献身的に支え、また彼の才覚は侯爵領をさらに栄えさせた。勿論、浮気など一切したことがない。
彼がクライデン家にとって有用だから。最初にテオフィルを選んだ理由は、ただそれだけ。
だが常に妻の意を汲み侯爵家や領民のために尽力する彼は、いつしか彼女にとってなくてはならない存在になった。
孫が生まれ白髪頭になった今でも、二人は社交界きってのおしどり夫婦として知られている。
「クライデン侯爵夫妻は、いつ拝見しても仲睦まじいですわね」
「一度も夫婦喧嘩をされたことが無いのですって」
「まあ!どうしたらそのように円満な夫婦になれるのでしょう。フロレンツィア様、秘訣はありますの?」
「私も是非お聞きしたいわ」
フロレンツィアはクライデン家を愛している。領民を愛している。そして自らと自らの大切なものを慈しんでくれる夫の事も、深く愛している。
だからその問いに対する答えは、これしかない。
「だって、愛しているんですもの」