禍福の黒 ※◎
おばあちゃんがとても怖がる、私のノアール。
ノアールとはとても恐ろしい日に出会った、
※女性への暴力描写、グロテスクな表現がありますので、閲覧は自己責任の下でご判断いただきますようお願いいたします。
※こちらは2024年7月15日から小説投稿型サイト『エブリスタ』にて公開(現在は削除済)していた短編小説を加筆修正した作品です。
黒は縁起が悪いって、おばあちゃんは言った。
だから、おばあちゃんは私が拾ってきた、真っ黒くろなノアールが嫌い。
ノアールに近寄るのも、ノアールがおばあちゃんの前を横切るのも、ノアールが部屋にいるのも嫌がった。
辛気臭い、不幸が起きる――ってね。
私はそうは思わないのだけれど。
雨の学校帰り。ザアザアパチャパチャ、水音が賑やかな帰り道が、私とノアールの出会った場所だった。
雨音に紛れるくらい微かに、だけど、ハッキリと聞こえる甲高い音。
「ピャアピアァ」
まるでピアノ線を濡れた指で素早くなぞるような、ピアノの一番高い音のような。
帰り道ではあまり聞いたことがない音だったから、私は思わず足を止めた。
雨降りの夕暮れ時。視界の悪い中、音の主を探そうと脚を止めた瞬間、何か、大きな塊が後ろから凄い勢いで飛んできた。そして――
キキキーーーッ! ガシャーン!!
物凄い音と共に、ほんの数メートル先――私が脚を止めなかったら確実に巻き込まれていたであろう場所に、車が突っ込み、電柱に衝突していた。
窓ガラスかな。透明な小さなキラキラしたガラスの破片が私の足元まで飛んできて、辺りからは悲鳴とどよめきが聞こえる。
怖くて。
自分の目の前にあるのは、前方がグシャグシャに潰れた"車だったもの"。中にいた人がどうなったかなんて見えない。
もしも、私が脚を止めずにあのまま歩いていたら今頃、私はこの鉄の塊と化した車に巻き込まれていたんだと想像すると、血の気が引いた。
ショックで何も考えられなくて、どれだけの時間、茫然としていたのだろう。そんな、まわりの人の言葉も上手く聞き取れない状態だったからこそ、事故で混乱する周囲のどよめきの中で、また「ピィ」とあの甲高い音を聞き取ることができたのかもしれない。
音は小さいのに、雨音や人のどよめきや怒鳴り声、駆け足の音に紛れることなく鮮明に聞こえたものだから、余計に気になって、事故現場そっちのけで音の主を探した。
だって、音が聞こえるってことは、この近くに音の主がいるかもしれないってことでしょう。こんな大惨事に巻き込まれてしまっては、その子が大変だと思ったの。
(たぶん、音の主は子猫なんだ。まだ小さいのにこんな所に迷い込んでしまったら危ないよ)
きっと、目の前の事故からいち早く逃げ出したかった思いもあったのかもしれない。
私はフラフラと集まってきた人の輪から抜け、音の出所を探した。
◇
「ピア、ピャア」
電柱の陰、側溝の蓋の隙間、交差点を曲がった先の物陰、公園のドーム型滑り台のトンネルの中。
音が聞こえるには聞こえるけれど、その姿はなかなか捉えられず、辿り着いたのは公園内の垣根の根元。
まったく姿を見せない音の主に、どんなかくれんぼ上手かとボヤきつつ、垣根の下を覗こうとしゃがんだとき、ヌッと辺りが真っ黒になった。
(大きな影?)
私だけを覆う影と、荒い息遣い、背後から感じる重苦しい気配と汗の臭い。
何か……いや、誰かいる。
姿を確認するのに後ろを振り向こうとした瞬間、大きな湿った手で口を塞がれた。
(何? なに? なに?!)
悲鳴を上げたいのに口は塞がっている。
混乱して立ち上がろうとしても、後ろの何かがのし掛かって、木のように太い腕に抱き竦められた。
怖い、こわい、コワイ、こわい!!!
(誰か助けて!!!)
持っていた傘にしがみつきながら、頭の中で助けを求めて叫んだ瞬間、辺りが一瞬で漆黒に包まれた。
私を覆うものの影よりも大きく、夜の闇よりも黒くて、辺りの景色が全然見えない。
「ピィ、ピィィ、ピャア、ピィ」
「な、なんだ? へっ?! あ、ぐ……ぐぅ」
真っ黒な中で聞こえるのは、あの甲高い音と頭のすぐ後ろから聞こえる、知らないおじさんの呻き声。
でも、呻き声は私に覆い被さる人の体が離れると共に、萎むように消えていく。
何が起きているのか、全然わからなかった。
私の周りの真っ黒には熱はなくて、それどころか、雨の冷たさも雨に打たれる感じもない。
ただ甲高い音だけ鳴り続けていたかと思えば、不意に明るくなった。
(元の公園だ。雨も降ってる。でも、あいつがいない)
私にのし掛かった人間なんて、最初からいなかったかのように影も形も見えない。
(白昼夢ってやつ?)
だとしたら、とんでもなく悪い夢を見たみたい。
誰かに襲われるだけじゃなくて、ひょっとすると、さっきの交通事故も夢だったのではないかと思えてきた。
(じゃあ、あの音の主も?)
あんなに聞こえていたピャアピャアという音は、闇が晴れる頃にはもうすっかり聞こえなくなっていた。
もう、何がなにやら。
濡れた地面の上に膝をついていたから、脚も服も泥だらけ。今日はなんて厄日だろう。ため息を吐いたところで、スネに何かが触れた。
「きゃっ!?」
慌てて足元を覗くと、そこに真っ黒な何かが座っている。
何か、というのは、それが辛うじて猫のように見えるけど、猫にしてはサイズが中型犬ほどもあり、されど犬には決して見えず、狼とか、思いつく限りの生き物のどれとも違う姿をしていたからだ。
それが何かはわからない。
けれど、それはどう見ても、私の影から生えているように見えた。
「あ……あなたが私を助けてくれたの?」
どうやってかはわからない。そもそも、襲われた証拠が自分の記憶以外は何ひとつ残っていない状況で、何からどのように助けられたのかすら謎なのだけれども。
すると、真っ黒なそれは――目も、生物が持っていそうな顔のパーツも見当たらない、本当に真っ黒なのだけれど――器用に頭を下げて、ウンウンと頷いているようだった。
「ピィイ、ピャア」
「あの音だ」
交通事故に遭う少し前から聞こえていたあの甲高い音が、黒い獣から聞こえる。
大きな図体に見合わない可愛らしい音に拍子抜けしたけれど、声とさっきの返事のような動きを真に受けるのならば、どうやらこの子が私を助けてくれたらしい。
(でも、なんで)
それに、今でこそいたかいないかも怪しくなってしまったのだけれど、私を襲った人間はどこへ行ってしまったのだろう?
なにがなにやら。でも、この子の声に気付かなければ、私は確実に交通事故を起こした車の餌食になっていた。
そして、これは臆測にすぎないけれど。もし、私を襲った人間が、あの事故現場から声を追ってフラフラと離れていく私を追ってきたのだとすれば、あいつから私を助けてくれたのもやっぱりこの子である可能性か高いわけだ。
「じゃあ、あなたは私の命の恩人ね」
ならば、今度は私がこの子に助けてもらったお返しをするのが筋だろう。
少し考えてから、ひとつ頷く。
「ねえ、あなた。私の家に来ない?」
犬ほど大きな猫(?)なんて、家族が飼うことを許してくれるかはわからないけれど、命を助けてくれた恩人に一肌脱ごうじゃないの。
そうして真っ黒なそれ――ノアールは、私の家族になった。
おばあちゃんはノアールを一目見た瞬間からとても怯えていたけれど、他の家族は私に起きた出来事を聞いて、半信半疑ながらも「そういうことなら」とノアールの飼育を許してくれたのだ。
私の影、黒いもの、暗い所を自由に出入りする、ちょっと不思議なノアールは、今日も今日とて私から片時も離れず付いて回る。
おばあちゃんはノワールのことを縁起が悪い、恐ろしい、と嫌がるけれど、私にとってノアールは、悪いことから私を守ってくれるいい子なのだ。




