『ただいま』などとは有り得ない ※◎
今作は2024年9月30日に小説投稿サイト『エブリスタ』にて公開していた掌編となります。(エブリスタ版は現在は削除済)
※死、怪異要素があります。苦手な方はご注意ください。
「ただいまー」
実家の玄関から聞こえた、いっそ暢気かと思えるくらい間延びした声。
まだ誰も声の主の姿を確認していないというのに、この場にいた誰もにわかにがどよめいたのは、安穏としたその声にある人物を思い浮かべたからだろう。
(兄貴?)
俺が想起したのはこの家の長男で、俺の実兄。きっと、他の皆も同じ。だからこそ、皆一斉に己の耳を疑った。
何故なら、こんなことは絶対に有り得ないからだ。
声の主と思しき兄は、十五年前にこの家を飛び出していったきり、行方知れずとなっていた。
(兄貴が今更、暢気な面下げて、うちに帰るはずがないだろ)
それも在りし日の、まだ優しかった頃のような、朗らかな様子でなんて。
――なんて、たちの悪い冗談だ。
実家に集う家族の誰もがそう感じていることくらい、各々の険しい表情を見ればわかる。
優しかった兄なんて、とうの昔に失われたではないか。
◆ ◇ ◆
きっかけが何だったのかは知らない。当時、まだ幼かった俺が詳細を聞かされていなかっただけだが、兄は中学生の頃、しばらくの間、自室に引き籠もっていた。
その間、家族の誰も兄の姿を見ることはなかったのではないだろうか。
数ヶ月の時を経て、やっと部屋から出てきた兄は、俺が大好きだった"優しいお兄ちゃん"ではなくなっていた。
明朗さはなりを潜め、人相も人が変わったのかと疑うほど陰険に見える。言動も粗暴になり、家を空けることが増えていく。悪い連中とツルみだしたのも早かった。
兄を補導したと、親が警察から呼ばれることもしばしば。俺は蚊帳の外だったが、父と母は幾度となく警察署に赴いたり、飽くことなく姿を消す兄を探しに、朝な夕なと方々を駆け回った。
結局、親は何年間、兄に説教と説得を繰り返したのだったか。
親が兄を更正させようと躍起になるほどに、兄と親の互いの心の距離が離れていくのが、傍目から見ても明らかだった。
やがて親は疲弊しきって諦念し、放任へと舵を切り、誰からも探されることのない兄は、そのままふらりと失踪したのだ。
俺が中学一年の頃――冬の真夜中のことである。
兄が失踪する直前。家族が寝静まった後も自室で夜更かしをしていた俺だけが、兄が出て行くのを見届けた。
膨れたボストンバッグを手に、玄関で靴を履く兄。物音を聞きつけて自室を出て、暗がりから玄関を窺う俺。
「兄ちゃん」
以前の優しかった頃とは違う、文字通り不良と化した兄をおっかなびっくり呼んだことに特別な理由はない。
次はいつ帰るのか訊ねようとか、悪いことはしないでと説得する気はさらさらなかった。親が言ってもダメなのだ。自分が言ったところで無駄に終わると諦めていたから。
ただ無意識に兄を呼んだ声が思いの外、大きくなった――ただそれだけ。兄は俺の声に気付いていながら、顎を僅かに上げただけで振り向きもしなかった。
――じゃあな。
"いってきます"も"またな"もない。そのたった四文字を低く呟いて、静かに玄関を後にした。もう、それきり。
兄が昔、よく懐いていた婆ちゃんが息を引き取っても、おふくろが入院しても、アイツは帰ってこなかった。それなのに、今更帰ってくるなど、あるものか。
あの真冬の夜に呟いた、俺にか家族皆にかはわからない『じゃあな』の声とはまったく違う、底抜けに明るい声で、家族皆に『ただいま』だなどと、アイツが言えるわけがないのだ。
俺に言わせれば、兄と『ただいま』は無縁なものだった。
俺が社会人になって何年目かの頃に、一度だけアイツを見掛けたことがある。
場所は地方の飲み屋街。平日夜のサラリーマンが数多く往来するあの酒臭い路地で、よくもたった一人を見つけたものだ。
偶然だった。いつぞや見たものとよく似た背中の奴がいると、何の気なしに目を向ければアイツだっただけ。
スーツではなくカジュアルな服装に、垢抜けた雰囲気。かつてこような荒んだ様子も不健康さも見当たらない。
一見すると、健在そう。だが、その男の背中に、言い知れぬ孤独を感じた。
真冬の凍える玄関で、靴を穿くのに爪先で床を小突きながら、『じゃあな』と告げたあの頃とまったく同じ。独りよがりの孤独を引きずっているような男がそこにいた。
かつて兄と呼んだ男に声を掛けることも、追うこともしない。
どうせ、いつかのように呼んだとて、アイツには――『ただいま』という言葉すら嫌がりそうな、孤独を往くあの男には届かないだろうと諦めていたから。
親に夜の街で見た男について、報告することもなかった。彼らは長男の話題を極力避けていたから。
帰らない理由も、帰れない理由も、兄にはあったのだ。
◆ ◇ ◆
「ただいま」
玄関から足音がこちらに近付く。
兄っぽい声が、とうに忘れて久しいと思っていた言葉を明朗に告げながら、家族の揃う仏間に近付いてくる。
(だから、有り得ないんだって)
どう考えても有り得ないのだと、俺は仏壇前に置かれた白い箱を見据え、廊下から聞こえる足音を否定した。
朗らかに、家族皆に『ただいま』を告げられるような優しい兄はもういない。
ありもしない孤独に囚われたアイツが、高らかに『ただいま』と告げることも、家族の揃うこの家に顔を出すこともないのだ。それはもうできないことだから。
(有り得るはずがない。そうだろう、兄貴)
――声の主は絶対に、兄ではない。
確信を以て言い切れる。
俺は目の前の白い箱――骨箱の中身が誰かを知っているから。
なんなら焼かれる前の骨の主を見たし、警察に呼ばれて、孤独死した男の身元を確認したのも俺なのだから。
「ただいま」
声の主が家族が勢揃いする仏間に着く。
骨箱を向いたままの俺以外、家族は来訪者を見て、驚愕の声を上げる。
「" "!」
おふくろが呼んだのは兄だった。
親父は来訪者と骨箱を交互に見やり、狼狽える。
他の親戚もどよめき、爺さんは腰を抜かした。
それでも俺は来訪者を見ない。
「ただいま」
アイツのような声がまた告げる。おふくろが泣き声を上げて、声の主に縋る気配を感じた。
だが、背後の者が兄であるはずがないのだ。
何故なら、俺の兄はこの骨箱の中にいるのだから。
『いってきます』と言わぬまま家を出た兄は、以後、一度として『ただいま』と言わぬまま、誰に看取られることなく冷たくなった。
俺と親父はそんな孤独な男の身元を確認して、自分の身内だと認めた上で連れ帰り、荼毘に付したのだ。
俺と共に孤独死した男の顔を見た親父は、その事実と目の前に現れた男との間で混乱して取り乱している。
だが、『ただいま』しか言わぬ男を前に、自分の記憶を疑い始めていたのが、男に向けて兄の名を呼んだことで窺えた。
「ソイツは兄貴じゃない。兄貴は死んだ」
かつての"優しい兄"のナリをした男を本物と思いたがっている家族を説くが、果たして聞いているのやら。
今や、俺以外は皆、仏壇前に鎮座する骨箱という事実から目を背けることに決めたらしい。
兄貴とは違い、キチンと『ただいま』と言って家に帰ってきた男が、"この家の長男"なのだとか。
この男は俺が見た分では今のところ、『ただいま』と言いながら仏間まで歩いてきたくらいしかしていない。本当に、この男に関する記憶や思い入れは他にないのだ。
だがしかし、他の家族は違うのだと。
この男はアイツのように家を飛び出したきり蒸発などしていないのだと。彼は朗らかで優しい人のままで、数ヶ月もの間、引き籠もりをしたこともなければ、悪い奴らと付き合うような不良でもなかったのだと。
散々、親の手を焼かせ、遂には『ただいま』と言わぬまま冷たくなり、骨となって家に帰ってきた親不孝ものなど、この家には存在しないらしいのだ。
――どいつもこいつもとち狂ってやがる。
「お前、その、誰の者かも知れぬ骨だがな。無縁仏として、お寺に預けておしまいよ」
そう命じたのは親父だった。
おふくろは誰とも知れぬ"何か"に縋り、おいおいと泣いている。骨箱を見ようともしなかった。
他の家族も似たようなもの。誰もが骨箱の中身を見捨てた。
――有り得ない。
「この骨箱の中身こそが、俺の兄貴じゃないか」
どんなに俺が声を上げようと、誰の耳にも届きやしなかった。
◆ ◇ ◆
「これで満足か、兄貴」
無縁仏の墓の前、俺はそこに納まる者に問う。
兄が白骨になったあの日、実家に現れた『ただいま』の声の主はまだ家にいる。
あれが一体、なんなのかは誰も知ろうとしないし、考えない。
(まあ、家族はあれが兄貴と信じ込んでいるからな)
俺は――本物の兄の遺体を確認した俺は、家族らのあの馬鹿げた妄想に付き合いきれなかったが。
「おかげで、俺まで『ただいま』と言えなくなっちまったよ」
やっと帰つてきた者に気味悪いものは見せられない、と親父から骨箱を押し付けられ、追い出されるように家を出た。それきり、あのわけのわからぬものが居座る実家には、気味が悪くて帰っていない。
だが、それでいいのだ。もう、どうでもいい。他に振り回されるのは、これでしまいにしよう。
「アンタが散々味わった孤独が少しでも薄れるよう、遅ればせながらだが、俺にちっと手伝わせてくれよ」
今や、名すらなくなった兄と久し振りに話ができるなら、まあいいや――そうでも思わないと、俺まで気が狂っちまいそうだ。
『ただいま』などとは有り得ない 2024.9.30




