空蝉の夢 ※◎
真夏の部屋、相棒のアコギ、はぐれものの少女、蝉
※死の要素があります。苦手な方はご注意ください。
※今回は2023年9月25日にSNS型小説投稿サイト『エブリスタ』にて公開していた(現在は削除済み)短編小説です。
シャワシャワと蝉時雨。四六時中休みなしの、年代モノの扇風機は首を振る度にカチンと変な音がする。
(抗議メトロノーム。語感、ダサ)
気怠い体で這うように冷蔵庫に向かい、薄い麦茶を一気飲み。まだ怠い。
ノロノロと冷蔵庫の中を漁り、めぼしいモノを探す。
茹でブロッコリー、塩コショウで炒めたギョニソ、インゲンのゴマ和え――明らかに弁当の残り。
野菜室に転がるレモンは母さんの酒の友。一昨日はコイツを輪切りにして塩ちょっと盛って、かじりながら焼酎の炭酸割り呑んでた。
(オヤジか)
けど、酔った母さんはゴキゲンだとギターを弾いてくれるから好き。アパートやら近所の人からクレームが来るけど。
「♪~」
鼻歌混じりに半額以下の見切り品レモンを掴む。流しの水切りカゴに放置された果物ナイフでテキトーにひと切れだけ輪切りにして、口内に放り込む。
「んんーっ」
強烈な酸味が舌を蹂躙し、味覚を圧倒的に支配する。ああ、耳の下がキュウッと痛い。
馬鹿してる自覚はある。先に飲んでた麦茶とレモンの組み合わせは最悪で、喉がガビガビと気持ち悪い。それでも、怠さは少し抜けた。
ミンミンミン――
耳を劈く蝉の声。近い。
(窓にでも止まったな、こりゃあ)
いまだにレモンの刺激が残る耳の下をさすりながら顔を上げ、窓を窺うべく部屋を向く。
惨めなまでに薄汚いボロアパートの、ちっぽけなひと部屋。ささやかな空間に差し込む夏の日差しは嫌になるくらい眩い。
頬やら首に滴る汗をおざなりに手で拭い、影へ、隅へ、涼しい方へと避難する。
ミンミンミンミン――
蝉の声。賑やか。
不用心にも開け放った窓に目を向ければ、一匹の蝉が網戸に張り付いてた。
ただでさえ暑い外の、殺人級に空気の焼けた日向で、よくもそこまで元気に鳴ける。
カタンカタン、扇風機のメトロノーム。
冷蔵庫からは微かにモーター音。
蝉はミンミンとやかましく鳴き、私はため息をひとつ吐いてから、カラーボックスに立てかけたアコギを拾う。
私の相棒。母さんの元相棒。
私が生まれる前からずっとこの部屋にいた。
――捨てられなかったの。
母さんは苦笑い。
――オトウサンには簡単に捨てられたけど、アコギだけは母さんのそばにいてくれた。
人生の酸いも甘いも噛み分けた彼女は、お酒で真っ赤に染まった頬をアコギに押しつけ呟いていた。きっと、本人は覚えちゃいない。
そんな母さんがアコギを私に譲ったのは、私が不登校になったときだった。
学校が嫌になった理由は単純だ。まわりはミーハーかつまんないガキだらけだったから。
音楽は今流行りのものしか知らなくて、いかにいち早くアイドルや人気アーティストの新しい曲を歌って踊れるかが、『エライ』と『スゴイ』の基準でしかない。
私が口ずさんだ曲は、『知らない』か『古臭い』らしく、私のことも『音痴』なんだと。
(くだらな)
朝、眠い目をこすりながら頑張って行く学校が、つまらない勉強をして、くだらないガキ共にからかわれるくらいなら行かなくていいやと思い立ち、サボったのがそのまま癖になった。ただそれだけ。
サボリがバレたとき、母さんは最初こそうるさくしたけど、何日目かしたら黙った。
――勉強と留守番をきちんとすること。それから、一日一回は相棒を構ってやんなさい。それが家にいる条件よ。
不登校十日目に、弦を新調してチューニングまで済ませたアコギを私に譲ったのだ。
今から二年前のことである。
◆ ◇ ◆
音楽は好き。ギターを爪弾くのも好き。歌うのは……嫌い。
ミンミン――
蝉の声。
お前はいつから歌っているのか。私もお前のように上手く歌えたら、現状とは少し何かが違ったのだろうか。
ポロロン、と殊更ゆっくりとギターを爪弾く。指先も指の腹ももう、弦に負けて痛むことはない。
「セッションしよっか」
蝉に提案。
いつもは音漏れを気にして、押し入れに篭もるか近くの河川敷に行くけど、今日はいいや。暑くて、とてもじゃないが、押し入れにも外にも行きたくなんてなかった。
ミンミンミンミン――
蝉が歌う。
私はそのテンポに合わせてギターを鳴らす。最初は単音。次第に強く激しく。
知ってる。こんな昼日中にアパートにいる人間は少しだけで、いても、私の騒音に文句を言わないか言えない人しかいない。だから、この時間だけは好きに鳴らす。
曲なんて最初はつけなかったけど、それじゃつまらないからと、アドリブでメロディーを付ける。
額から汗が滴り目に入ったけど、どうでもいい。
お腹は減ってるし、喉もカラカラだけど、それもどうでもよかった。
相棒の音は私が出すどの音よりもキレイで、強くて、時に優しい。
巧みな技巧があれば、相棒はいろんな音を自在に出してくれるけれど、ヘマをした時に出る拙い音もまた愛嬌があって可愛いものだ。
ミーンミンミンミン――
蝉の歌。
相棒の音に重なる蝉の声もまた、味わい深いものがある。
間近で聞いて知った。蝉って、情熱的に歌うんだな。
蝉のお腹には空洞があって、蝉の声音はそこで反響して大きくなるのだと、勉強の暇潰しで見た動画で知った。
「お前は歌う為に生まれてきたんだな」
――私はなんのために生まれたんだろう?
少なくとも、このちっぽけなアパートに引きこもったり、人のいない河川敷でギターを掻き鳴らすためだけじゃないんだろうけどさ。
――なら、なにをすればいい?
――私はなんのために生きようか。
ビィンッ!
「!」
断線。弦が弾ける音。
私を現実に引き戻す音だ。
熱中を強制的に断たれ、うなだれる。
体が熱くて、喉が渇いて、気怠くて、のぼせた頭はクラクラして、思わず背から畳の上に倒れた。
ミンミン――
蝉の声。
「ごめん、邪魔が入った」
神様はイタズラ好き。私が好きなことに熱中すると、いつもこんなふうに水を差す。
――音痴。
いつぞやのからかいと笑いが脳裏をよぎる。最悪。
瞼を閉じる。夏の日差しでできた明るい闇が、瞼の裏に広がっている。
ミンミンミン――
蝉の声。
まだ耳朶と鼓膜を震わせている。それを聞きながら、私はずっと考えていた。
――なんのために?
◆ ◇ ◆
夏の熱と眩い光が溢れる狭いアパート。
窓枠にもたれ掛かったその人は、透き通った肌に、毛先と根元が薄緑をした変わった白髪の持ち主だった。
その姿を確認した私は、抱えた相棒を爪弾きながら「久し振り」と告げる。
知っているひとだ。いつからかなんて忘れたけれど、ずうっと前から知っていて、たまにこうして会いに来てくれる。
憧れているし、正直、好き。
「そんな所にいたら肌が焼けるよ」
「いいよ。この光にずっと憧れていたし」
男の人だけど声は高い。ご機嫌な時に思わず出るらしい鼻歌は耳触りがよく、なのに、いざ開口して歌い出すと、鼓膜をビリビリと震わすような、かなりしっかりとした声を出す。
「ねえ、あのさ。また遊ぼうよ」
夏の日差しを厭わぬ彼は無邪気に笑い、遊ぼうとせがむ。
「いいよ。今日は何をして遊ぶ?」
「"木の根ラジオ"で前に流れた曲で、お気に入りがあってさ。こんな感じの」
フンフン、と鼻歌で刻むメロディーはメジャーどころか伝説級のバンドの名曲で、私も勿論、知っているし、弾ける。幸いなことに、楽譜を近所の古本屋の片隅で見つけて、大喜びで買ってからというもの、夢中で覚えたから。
でも、学校の子達はちっとも知ろうとはしないものだ。自分たちが生まれるよりもずうっと前からある曲だから。
(あいつらは古いものを蔑ろにする)
まあ、そんなこと、今はどうでもいいんだ。彼がいるときは、余計なことに煩わされるなんてもったいない。
彼に合わせてメロディーを奏でると、不明瞭ながらも歌詞めいたものを歌い出した。かなりいい加減だったけど、音程はバッチリだ。
どちらかが奏でる曲をもう片方が伴奏する。彼とは前からこうやって遊んでいた。
一曲歌い終えると、彼は本当に楽しそうに笑う。
(あれ?)
窓際のその人の、白い肌、白い髪が、薄い茶色に染まって見える。
「次はさあ、曲と歌を作ろう。いつものように君からね」
「う、うん。ええと」
ポンポンポン。促されて即興で弾いた単音は、まだ記憶に新しいミンミンセミとのセッションの出だしだ。
「いいね!」
身を乗り出した彼が、全身でリズムを刻む。
単音からジワジワと力強く、激しく。蝉しぐれのように狂い鳴く相棒。
彼もメロディーに合わせて歌ったが、相変わらず言語も何もあったもんじゃない、あまりにもデタラメな歌で、思わず笑う。
なんて楽しい。学校では絶対にすることのなかった遊び。デタラメで軽快で、心を通じ合えるセッションは、それに携わるだけで生を実感する。
不思議なことに、彼が歌えば歌うほど、肌と髪の色素は濃さを増し、気付けば小麦色になっていた。
「ぼくね、歌が好き。"木の根ラジオ"で曲が流れるのをずっとずーっと聴いててさ、仲間によくからかわれてた」
「曲を好きに聴いちゃ、ダメなの?」
「ぼくは特別聴きすぎだって。本当はさ、"木の根ラジオ"で色んな情報を得なきゃいけないんだけど、それそっちのけで曲を聴いてたからね」
天候や外に出るタイミング、魅力的な歌い方から地域ごとの仲間の傾向や派閥勢力など、知識と情報を定められたその時まで、できる限り蓄えなければならなかったのだ、と彼は暢気に語る。
「勉強、嫌い?」
「いいや。生きて、"次"に託す為には必要なものだとは理解しているさ」
「次?」
「そ。次」
次とは、進路とか将来とか、そういうものだろうか。
「ただね、ぼくはたくさんの曲を聴く内に、皆とは違う望みができちゃってさ。ねえ、曲を弾いて。君の弾く音がぼく、一等好きなんだ。なんたって、ずっと聴いていたからね」
リクエストに応えて、緩やかに曲を紡ぐ。
「皆はね、外に出たらまず歌う。歌って、伴侶を惹き付けるんだ。そして番って、"次"に託す。種と歌声をね」
「番っ……」
彼は明け透けに語るけど、これは聞いていいものなのかしら?
つまり、相手を得て、子孫を残すって意味の内容だろうけど、そんなに若いのに、まるで"それ"が宿命であり使命だと言わんばかりだ。
「あなたも同じように?」
恐る恐る訊ねると、シラを切るように歌い出す。
何曲目かの二人のオリジナル曲がまた生まれる。
「ぼくは子孫ではなく、個を残したいんだ。君の紡ぐ曲にぼくが創った歌を乗せたものが、ぼくがいなくなったその後もずっと残ってほしいんだ」
――それが、ぼくが自分で決めた、ぼくの生まれた意味。
褐色の肌と髪のその人は、夏の太陽よりも眩しい笑顔を見せる。
「だから、だからね、君には生んでほしいんだ。ぼくたちの曲を」
◆ ◇ ◆
ミンミンと蝉の声。
でも、目覚めたのは、暑くて小汚くてアパートの一室じゃなくて、涼しくて真っ白な病室だった。
ぼんやりと天井を眺めていたら、看護服の母さんが息せききってやってきて、ボロボロ涙を流して私に縋る。
「アナタ、重度の熱中症で駄目になるところだったのよ」
母さん曰わく、扇風機の風だけしかない夏の暑い部屋で倒れていたところを病院まで運ばれたのだと。
「あの日はやけに蝉が煩くて――夏だから当たり前なんだけど、それでも――胸騒ぎがしたの。アナタに電話を掛けても出ないから、只事じゃないと様子を見に行って、正解だった」
私、どれだけ眠っていたんだろう? 母さんがやつれてるんだよね。
それからしばらく入院していて、退院できるまで、人気のない屋上で相棒鳴らしてた。
熱中症で倒れたのに、暑い所で何やってるんだ、と母さんには叱られたけど、今でなけれぱ曲を創れない気がしたのだ。
母さんは屋上は日影でも暑いと言うけれど、言うほど酷暑というわけでもない気がするのだ。
あの狭いアパートの一室に引きこもっていたから気付かなかったけど、外に出てわかった。
夏特有の真っ青な空は少しだけ色味を薄くし、吹き抜ける風もわずかながらに涼しさを感じる。
ギターを弾いていると、何かが足に当たった。
見てみると、足元に蝉が転がっている。ジジジと最期の歌を歌い、黒い眼はこちらを見上げていた。
――ぼくは子孫ではなく、個を残したいんだ。
――君の紡ぐ曲にぼくが創った歌を乗せたものが、ぼくがいなくなったその後もずっと残ってほしいんだ。
――それが、ぼくが自分で決めた、ぼくの生まれた意味。
熱に浮かされて見た夢の、あの人の望みをふと思い出す。
「最期に何を聴きたいの?」
蝉は答えやしないから、それでは、といつかの蝉とのセッションを弾く。
足元で蝉が一頻り暴れ――でも、それはまるで踊っているようで、最後の一音の余韻が消えた瞬間、蝉は息絶えた。
夏の終わりと恋が密かに終わったのを悟る。




