誑
誑し込む7本
『春の爪』
小さな爪を気にしていたのに、あのひとだけは私の手の爪をかわいいと褒めてくれた。
「砂浜で見つけた桜貝がこんな色だったんだ」
透明なベースを塗りながらうっとりと言われたの。
「さて、何色を塗ろうか。好きな色はある?」
その問い掛けに逡巡したのは、閃いた色が自分に似合わないと思ったから。
「……きいろ」
内緒話でもするようにひっそりぽつんと答えたら、あのひとは「いいね」と笑む。
「菜の花、みもざ、カタバミ。あなたの爪は春の色がきっとお似合いだね」
それが『好き』のはじめ。
『願い』
どうか、この広くて深い海を漂う私の、小さな小さな言葉たちを見つけてあげてください。
そして、願わくば抱き締めてあげて。
私には叶わぬことをこのコ達に。
どうか。
『十六夜月』
藍鼠の空を紗の帯が覆えども、透かす十六夜の月はそれでも眩い。
「良い夜ですね」
夜道、真っ黒な影が足下で囁いた。よく知っている声だ。
私よりも背が高く、足もうんと長い。
私が地面を向けば、影は空を仰いだ。
どうもこの影は、私のものであり、私とは違うものらしい。
「影に潜まず、隣を歩けばよろしいでしょう」
呆れ声を掛ければ、影がンフ、と笑う。
「好きな人の月影は存外、居心地がよいのですよ」
意地悪なひと。
私は月光が照らすあなたの顔が見たいの、わかっているでしょうに。
『黒のカン』
誰からとは言えないが、夜空を模した缶を貰った。
菓子折りかと思いきや、どうも違うらしい。
「本当にすべてがイヤになったら開けてごらんなさい」
やけに軽い缶を振る僕を止めた後、そう言われたのだけは覚えてる。
そして、その日はわりと早くに訪れた。
毎日毎日、本当のホントウにイヤなことばかり。
もうすべてがどうでもよくなって、缶の蓋を開けたらば、中には宇宙が詰まってる。
缶の中の宇宙の中央、ポツンとあるのは真っ黒な点。
それが周りの星を吸って飲み込み、真っ黒は少しずつ大きくなっていく。
その真っ黒の正体に気付いたのは、僕も世界も全てがすべてそれに飲み込まれた後だった。
この缶の贈り主は、気紛れで僕に終焉を託したのだ。
『何もない仏壇』
供花も供え物も何ひとつない仏壇を寂しいとは思えども、久しく空ける家に他の何を置く気もなかった。
供えたものが長らく放置されるのをわかっていて――置き去りにしたものによくないものが群がるのも知っているから――敢えて供える意味はない。
もういっそのこと仏壇を仕舞え、とも勧められたが、それも違う気がする。
まだ、ここは私の実家であり、親達が帰ってくる場所だとの意識が仕舞うことを躊躇わせた。
せめてあともう少しはこのままで。
『付き添い』
どんな思いで墓石を眺めればいいのか、俺にはとんとわからない。
墓に納まる人間は骨を見たとて原形はわからず、名を見たところで知らぬものばかり。
だから仕方なく、俺は墓石を拝む目の前の人間を眺める。
随分と熱心なのは、それだけ墓の中身に思い入れがあるのだろう。
その思いを共有できそうにない自分を薄情と評するかは……まあ、ヒトによるな。俺にはどうでもいいんだが。
形だけでも拝んでやってもいいが、それをする義理もないからやはり俺は立ち尽くすのみだ。煙草を吹かさないだけ上等じゃないか。
「もういいか」
問えば、微笑で「ありがとう」と謎の感謝をされた。
やっぱあ、おかしな奴だよ、お前は。
『ヒト誑し』
兄が憧れではあるのだけれど、彼のようになりたいというよりは、彼の力になることを私は望んでいる。
「要は惚れてるんだね、兄さんに」
「お前、そういうことをサラッと言うなよ。恐ろしい奴め」
からかっているわけではないのだけれど、渋面と紫煙のため息を向けられた。
「あー、ヤダヤダ。世間ではね、俺みたいなおっさんよりもお前みたいな出来る奴が男女問わずモテんだよ」
苦笑混じりにロックグラスを傾いで貴方はそう言うけれどね、兄さん、貴方が人間を誑し込むのが上手いの、私は昔から知ってるよ。
誑し込まれ続けたから私は貴方の傍にいるんじゃないか。
『春の爪』 2024.4.23
『願い』 2024.4.23
『十六夜月』 2024.4.26
『黒のカン』 2024.5.03
『何もない仏壇』 2024.5.03
『付き添い』 2024.5.03
『ヒト誑し』 2024.5.03




