聖獣アルジュナ
私の横にちょこんと座っている、ふわふわの綿毛みたいな子犬。
それは先程まで――鏡の中に閉じ込められて、ぐったりして動かなかった毛玉だ。
「……犬がしゃべった」
エーリスちゃんも喋るのだから、犬が喋ってもそんなに吃驚はしないのよ。
でも、エーリスちゃんみたいに声が可愛くないから、驚いた。
「レスト神官家の、アレクサンドリアの力を受け継ぐ子供の前に現れるという、聖なる獣……」
お父様が言う。
聖獣。
その名前からは大きくて雄々しい獅子みたいな獣をイメージしてしまうけれど、目がくりくりしている子犬。
その子犬を――私は、知っている。
「君の力。全ての物語がはじまる前、私が封じた。けれど今は、封印が綻んでいる。年月で摩耗したのか――君が、それを望んだからか。君の魔法は君自身の力。私はただ、見守る者でしかない」
子犬が言った。
心の奥に深く響くような声。
その声が私に、教えてくれた。
――私が君の友人になろう。
一人きりで、レスト神官家の片隅で膝を抱えて小さくなっていた私の前に現れて、その獣は言ったんだった。
――リディア。友人とは、悲しみを分け合い半分にし、喜びを二倍にも三倍にも増やすものだ。
「あなたは……あなたの、名前は」
「私は君の、お父さんだ」
「お父さん!」
そう――その子犬は、私のお父さんだった。
「え?」
お父様の戸惑った声が聞こえる。聞こえなかったことにしよう。
「お父さん、フランソワを助けたいです、私、どうしたら……」
「君の封印を解こう。ただ君の心のあるがままに、信じれば良い。信じれば、魔法は君の前に形を為す。リディア、手を」
私は手を差し伸べる。
子犬は――お父さんは、私の手の上に、小さな肉球のあるぷにぷにとした手を乗せた。
お手。
「呪縛からの解放を。全ての力を。ここに、戻れ」
子犬のお父さんの言葉と共に、私の体を縛り付けていた金の茨のような戒めが、ぱきんと、崩れた気がした。
体の中に、あたたかい何かが巡るのが分かる。
頬が染まるような高揚感に、私は自分の体を抱きしめた。
私の胸の間に体を埋めているエーリスちゃんが「ぷりん……」と、ちょっと嫌そうな声を出した。
多分、苦しかったのだろう。
体の呪縛が解けると同時に、記憶が、頭の中を巡る。
私の友人。
私のお父さんの名前。
「アルジュナ……」
世界がとても大きく見えた、まだ小さかった頃。
子犬は私の側に寄り添っていてくれた。
けれど、突然その姿を消した。
子犬が、私の側にいたという記憶も、子犬が私の側から居なくなった途端に、ごっそりと抜け落ちてしまった。
子犬は私のお父さんで、聖獣のアルジュナ。
ひとりぼっちの私に、「私は君の友人。君の父になろう」と、言ってくれたんだった。
「私は君をずっと、見ていた。封じ込められていた牢獄の中からずっと。どうやら君は、魔力を料理という触媒を通して発現することが得意なようだ。つまりは、そう――」
アルジュナの言葉と共に、暗い地下牢のような場所の景色が変わっていく。
いつものコンロ、お鍋、包丁やまな板。
可愛いインテリアと、椅子とテーブル。調理台。
ここは――大衆食堂ロベリア。私のお店。
「これは……」
シエル様が不思議そうに、お店に変わった景色を見渡す。
いつもの私のお店だけれど、調理場には白いベッドが置かれている。
そこには、フランソワが眠っている。
「この空間は全て――魔力で作られている。本物だが、本物ではないもの。セイントワイスの召喚術に似ています」
「大衆食堂ロベリアだな。安心する景色だ」
調理台を撫でながら、シエル様が言った。
突然変わった景色にすぐに順応したらしいルシアンさんが、どことなく嬉しそうに言う。
「……リディア。あの女を救うのか。お前を苦しめ、殺そうとした女だ」
もう大丈夫だと判断したのだろうロクサス様が、フェルドゥールお父様の縄をほどきながら言う。
「フランソワは、私の妹です。……ずっと、一緒に育ってきましたから」
嫌いだったけれど。
でも――フランソワもきっと、被害者なのだろう。
赤い月に幽閉されて、世界を恨み続けている魔女シルフィーナの、被害者の一人。
「リディア。……君は、優しく強い。俺が君を苦しめて、君を遠ざけた数年間で君は――とても強くなったんだな。もう俺が守らなくてはいけないと思った、泣き虫な幼いリディアではないのだな」
ステファン様が軽く手を振ると、聖剣が手の中に飲み込まれるようにして、煌めく粒子を残して消えた。
どことなく寂しそうに、ステファン様は微笑んだ。
「もう十八歳ですから……お料理も、できるのですよ。結構、人気があるのです」
「人気があるどころか、姫君の料理に惚れ込んでいる者は多いよ。殿下が夢を見ている間に、リディアはもう、一人ではなくなったのだから」
レイル様が、フランソワの眠るベッドの隣に立って、フランソワの手をとって、その手首に指先で触れる。
それから、「脈が弱いね。姫君、あまり時間がない」と、冷静な声で言う。
「リディア、君の心のままに」
「はい!」
アルジュナに言われて、私は料理を思い浮かべる。
料理に使う食材が、調理台の上に、ぽんぽんと、姿を現した。
桃、はちみつ、レモン。
アルジュナが、調理台の横の椅子にちょこんと座っている。
エーリスちゃんが私の頭の上に移動した。
ぼろぼろだった白い体がふわふわもちもちに戻っている。すっきり元気そうないつものエーリスちゃんだ。
「すぐにできます、待っていてね、フランソワ」
「……おねえさま」
目を閉じているフランソワが、小さな声で私を呼んだ。
頼られている。フランソワに。妹に。はじめて、頼られた。
お父様はフランソワのことを娘じゃないって言っていたけれど、何年も一緒にいたのだもの。
血のつながりなんて、もうあまり、関係がない。
私は桃の皮を手早く剥いて、果肉を取り出すとボウルに移す。
そこに蜂蜜と、切ったレモンのレモン汁を絞って、麺棒でぐにぐにと押しつぶす。
果肉が砕かれて蜂蜜と混ざったところで、隣にいるシエル様を見上げた。
「シエル様、あの、凍らせて欲しいんです。でも、かちんこちんに硬く、じゃなくて、良い感じに、しゃりしゃりに。なので、適度に冷やして欲しいんです」
「ええ、良いですよ」
「……リディア。シエルに頼らずとも、私も魔法が使える」
「ルシアンさんは、かちんこちんに硬くしそうですから、駄目です」
「そ、そうか……」
ルシアンさんが照れた。どうして。
「……リディア、言い方」
ロクサス様に窘められる。ステファン様が腕を組むと「……お前たち、リディアといつもこのようなやりとりを?」と、冷たい声で言った。
シエル様が丁寧な氷魔法で、桃を良い感じに凍らせてくれる。
しゃりしゃりした桃を砕いて、なめらかにしていく。
それを、硝子の器に盛って、できあがり。
「できました、はちみつたっぷり桃のまるごとシャーベットです!」
ほんのりピンク色の可愛くて冷たいシャーベットを盛って、私はいそいそとフランソワの元に行く。
スプーンですくって、小さな口にシャーベットを押し込む。
「フランソワ、食べて。一口、食べて」
フランソワは、口の中で溶ける冷たいシャーベットを飲み込むと、瞼をゆっくりとひらいた。
青い大きな瞳が、私を驚いたように見つめている。
それから、景色を見回して、「お母様……」と言いながら、大粒の涙をこぼした。
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