La Mort(死神)
ずっと――罪悪感につきまとわれながら生きていた。
私の父、マルクス・ジラールは悪人でもなければ善人というわけでもなく、分かりやすく例えると古い人間だ。
ジラール公爵家を継ぐものはかくあるべきと、脈々と受け継がれた祖先たちからの教えの通りに生きてきた人だ。
古い貴族というのは兎角頭が固い。
大切なのは血筋である。よりよい血筋を残し、家を存続させることである。
それはジラール家の歴代の祖先たちのためであり、自分自身の為であり、領民たちの為であり、私たちが忠誠を誓っているベルナール王家の為である。
そう信じている。
それは悪いことだとは思わないけれど――ジラール家に生まれた双子の兄弟である私とロクサスは、そのせいで常に比較されてきた。
どちらに家督を継がせるか。継がせるのなら、優れた方にと。
「同時に生まれてきてしまったのだから、一人分の能力が二つに分かれたのだろう。残念なことだ」
父上は私が幼い頃、溜息交じりによく言ったものだ。
せめて悪意が――どうしようもない悪意がそこにあれば、よかったのだろうけれど。
残念なことに、父上は父上なりに私たち二人の息子のことを想っていたし、その言葉は本当にそう思っているから事実を告げているという、ただそれだけだった。
双子の弟のロクサスは気が弱く、私の陰に隠れているようなところのある、繊細な弟だった。
何をしてもあまりうまくいかない不器用なロクサスに比べて、私は大抵の物事はそつなくこなすことができたし、何かを難しいと感じたことも、苦労をしたこともなかった。
私が勉強でも、剣術でも、人並み以上にこなすことができると、ロクサスが尊敬のまなざしで見つめてくるので、余計に張り切ってしまった、ということもあると思うのだけれど。
気づいたときには、私は優秀といわれ、ロクサスは不出来だと――父上から見捨てられていた。
母上は――母上のことはよくわからない。大人しい人だ。けれどあからさまに私を構い、ロクサスを遠ざけていた。父上が私を褒めるのを、自分のことのように喜んでいた。
ジラール家では父上の言葉は絶対で、母上は父上の言いなりだった。父上が私を褒めれば母上も私を褒め、父上がロクサスから興味を失ったような態度を取れば、母上もそれに追従した。
貴族の妻とはそのようなものなのだろうか。昔からジラール家にいる使用人の話では、母上はジラール公爵家に嫁ぐにはやや格の劣る伯爵家の娘だったらしい。
母上が常に父上の顔色をうかがうようにして生きているのは、そのせいもあるのだろうと思っていた。
悪い人ではないのだ。だから――ロクサスを傷つけている母上のことも、心底恨むことができなかった。
私のせいで、ロクサスはいつも寂しい思いをしていた。
二つに分かれて生まれてしまったから、本来ならロクサスが当たり前に手に入れることができていただろう愛情も幸福も、私が全て奪ってしまった。
それだけならまだ、よかった。
けれどさらに悪いことに、私たちには特殊な力があり、私は対象の時間を巻き戻す力を、ロクサスは対象の時間を奪う力を持っていた。
花を枯れさせ、虫を殺し、命を奪うロクサスは不吉とされて、母上や使用人たちは、ロクサスの顔を見ると怯えるようになった。
私さえいなければ、ロクサスは公爵家の一人息子として大切にされたのだろうか。
私さえ、同時に生まれてこなかったのなら。
私は――自由になりたい。
この家は私には窮屈すぎる。ここではないどこか、遠くに行きたい。
誰にも縛られず、誰にも迷惑をかけず、私という存在が、誰かを苦しめることのない場所に。
「ロクサス、私は……勇者になりたい」
「また、童話の話ですね、兄上。兄上の言う勇者とは、なんですか?」
私は、勉強をするよりも体を動かしたり、外で走り回ることが好きだった。
けれどロクサスがいつも、家の中で誰にも見つからないように、呼吸さえひっそりと行うようにして、屋敷の図書室にばかりいるものだから、私も時間が許す限り、できるだけ共にいるようにしていた。
ロクサスは私の半身だ。
私がいなければ、ジラール家でロクサスは、誰にも相手にされずに一人きりになってしまう。
――けれど。私がいるせいで、ロクサスは不遇な立場にあり、それを私が哀れむなどは傲慢もいいところだ。
それでもロクサスが私を慕ってくれるのが、救いだった。
「勇者とはね、世界を冒険する者のことだよ。偉大な冒険者。悪の魔王とか悪い竜とか、ともかく国を滅ぼそうとする悪い存在を成敗して、最後には姫君を救って英雄といわれて、伝説になる。それが、勇者」
「……悪とは、なんでしょうか」
「ベルナール王国にとっての悪というのは、やはり、ロザラクリマを起こして魔物を地上に溢れさせている、赤き月の魔女、シルフィーナなのではないかな」
「魔女……魔女ですか」
ロクサスは勉強のために図書室に籠っていたようだけれど、私は小難しい本を読むのは退屈で、子供向けの童話ばかりをよく読んでいた。
ジラール家の祖先たちが残してくれた本は多岐にわたっていて、特に私のおじい様という方は、かなりの好事家だったようだ。読むためというよりはその装丁を楽しむために様々な種類の本を集めていたらしい。
勇者を題材にした物語は意外に多く、読んでいると知らない世界に入り込むことができるようで、それを読んでいる時だけは罪悪感から逃れることができた。
「兄上はジラール家を継ぐのですから、勇者にはなれませんよ」
「まぁ、そうだね。でも、もしかしたら……と、考えるのは楽しいよ。もしかしたら、勇者になれるかもしれない」
「兄上は、優秀なのに時々、小さな子供のようなことを言いますね」
「私はまだ子供だよ。ロクサスもまだ子供だろう」
私がそう言うと、二人きりの図書室では、父上からかけろと言われている眼鏡を外しているロクサスが、私と同じ顔で呆れたように溜息をついた。
ロクサスは徐々にだけれど、無理やり大人になろうとしているように感じられた。
父に見捨てられ、母に遠ざけられて。全てを割り切り、諦観するようにして。
私にはそれが少し、悲しかった。
いつしか私は成長するにつれて、ここではないどこかに行きたい、どこか遠くに――と思う気持ちを変化させていた。
消えてしまいたいと、思うようになった。
ロクサスから全てを奪いなんでもない顔をして生きている自分が、嫌いでしかたなかった。
消えてしまいたい。私などは、生まれてこなければよかった。
――死んでしまいたい、と。
だから私は――白い月の病に侵されたことを、僥倖だと感じた。
白い月に行くことができれば、ロクサスは公爵家を継げるだろう。
私の存在がロクサスの枷になることが、なくなる。
それでいいと思っていた。
ロクサスは私の病を癒やすため、奔走してくれていた。私はロクサスに口では「ありがとう」と言いながら、早く白い月に行きたいと、ベッドの上でそればかりを考えていた。
そこに、唐突に姫君が現れた。白い月から私の元へやってきた、女神アレクサンドリアの御使いのように思えた。
姫君の料理は私を癒やし、今にも死にかけていた私の体は、元の健やかさを取り戻すことができた。
一度、生きることを諦めた命だ。
体は生きていたけれど、それはただ心臓が動いて呼吸をしているだけで、私の精神はもう死んだも同義だった。
だとしたら姫君が与えてくれたもう一度の生は、自由に生きよう。
誰に迷惑をかけてもいい。
笑われても、謗られても構わない。
私は私の、好きなように生きる。
誰かが私のことをどう思おうが、嫌おうが、好かれようが、私にとってはどうでもいいことだ。
姫君がいて、ロクサスがいる。私にとっての世界とは、それだけで十分なのだから。
それにしても――私の頭に響いていた「こっちへおいで」という女の声は、なんだったのだろう。
女というよりは、少女の声だったように思う。
病を患っている最中は、頭に響く虫の羽音と声がうるさくて、まともに考えることも難しかったが、今思うととても奇妙だ。
病と、少女の声には何の関連性があるのだろう。
果たしてあれは、白い月に私を誘う女神アレクサンドリアの声だったのだろうか。
慈愛に満ちていて、優しい声だった。全てを委ねたくなるような、けれどどこか、おぞましいものだった。
白月病とは一体なんなのだろうか。ただの病では、ないのかもしれない。
なにか、嫌な予感がする。
この国で何かよくないことが起こっているような、嫌な予感だ。
病床では、ロクサスの話や使用人の話を聞いたり、少し気分のいい時は、今まであまり興味のなかった歴史書を読んだりしていた。
だから私の知識とはそこで得たものしかないが、そのせいだろうか。皆が妙だと思いながらも受け入れてしまっただろうことが、どうにも納得がいかず据わりが悪いものに思えて仕方なかった。
例えば、昔は世話焼きな兄のように優しかったステファン殿下の変化だとか。
例えば、殿下の傍にいるというフランソワという女が聖女を名乗っていることだとか。
それを、フェルドゥール神官長が当然のように受け入れていることだとか。
ゼーレ王はずっと病みついているという。私と同じ病なのかと思ったが、白月病ではないらしい。
優しかった殿下がリディアを捨ててフランソワを選び、近いうちに王として即位するだろう。
「……ともかく、体力をつけないといけない」
私は公爵家の庭の木の枝に捕まって懸垂をしながら、呟いた。
勇者とは強くないといけない。この国には強い人間が多い。
強いと言われるとまず思い浮かぶのは、星堕の死神と呼ばれているルシアンや、幽玄の魔王と呼ばれているシエルだろう。私は出遅れてしまったけれど、勇者として彼らに並び立てるぐらいに強くならなければ。
勇者とは姫君を守るもの。リディアを守り、この国の人々を守る。優しく強い正義の味方だ。
「兄上。そんな格好で……まだ病み上がりだろう」
懸垂を終えた私が、木の枝に足をひっかけてぶら下がりながら上体起こしをしていると、屋敷の中からロクサスがやってきた。
「そんな格好?」
「服を着ろ」
「嫌だよ。暑いから」
トレーニングの最中はどうせ汗が出るのだからと、私は上半身の服を脱いでいる。
ロクサスは紅茶のカップを手にしている。甘いミルクティーが入っているのだろう。私は甘い物は苦手だが、ロクサスは甘い物が昔から好きだった。
私が病に倒れてからは――ロクサスの中で何かが変わったのか、紅茶も珈琲もミルクも砂糖も入れなくなっていたようだが、また元に戻ったようだ。それがなんだか嬉しい。
「また具合が悪くなったらどうするんだ。まだ病が癒えたばかりだ。あまり動き回るな」
「私は元気だよ、姫君のおかげで」
「それは分かってはいるが、だからといって無理はして欲しくない」
「さっき、懸垂を五百回終えたばかりだけれど、まだ動ける。やっぱり、勇者になるのだからね。体力を早く取り戻したいし、筋力もつけなくてはいけない」
「それはそうかもしれないが」
「私がこんなに元気になれたのは、ロクサスと姫君のおかげだ。だから、今度は私が二人の役に立つよ。任せておいて」
私はくるっと一回転しながら、ロクサスの前に降り立った。
結構動けるようになってきたみたいだ。もうしばらくしたら、街に出かけてみよう。
冒険者ギルドに登録して、勇者への道の第一歩を踏み出すのだ。
きっとすごく、楽しい。
「そういえば、ロクサスは姫君が好きなのだよね」
「は……? え、あ、うわ!」
恋の協力をするというのも、兄としては楽しいかもしれない。
私は姫君のことが好きだけれど、ロクサスのことも好きだ。二人が上手くいってくれるのなら、私は嬉しい。
そう思って尋ねると、見事にロクサスの持っているティーカップが割れた。
「ロクサス、好意を尋ねられたぐらいで動揺して、魔力を暴走させるのはやめたほうがいい」
私は割れたティーカップを、時を戻す魔法を使って元に戻しながら言った。
焦りながら「兄上が妙なことを聞くからだ……!」などと言って、顔を真っ赤にしているロクサスの様子が面白くて、私は腹を抱えて笑った。
あぁ、私は――心から笑うことが、できている。
もう死にたいとも、いなくなりたいとも思わない。
罪悪感もどこかに消えてしまった。
花も木々も空も、世界が瑞々しく輝いているように見えた。
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