シエル様の頼み
私は私の手を握りしめているシエル様から逃れようと、ぶんぶん手を振った。
けれど手は離れずに、指を一本一本絡めるようにしてしっかり握り直されてしまう。
手が綺麗な時だったらまだしも、さっきまで料理をしていたのよ、私。
お肉の油でべとべとしているし、ぬるぬるしているので、すごく恥ずかしい。
「うぅ……」
「……今度は何故泣くのですか」
「だ、男性に、手を握られたことは、あんまりないので……あんまりないのに、あんまりない経験なのに、手がべとべとしているのが恥ずかしいのです……私、いつもべとべとしているわけじゃなくて、今べとべとなのは、現実的なソーセージのせいなので……っ」
えぐえぐしながら言い訳をすると、シエル様は何かを考えるようにして目を伏せた。
何にも考えないで良いから、手を離してくれないかしら……!
ルシアンさんといいシエル様といい、兵士を束ねる方々はお話をするときに体に触らずにはいられないとか、その方が相手を懐柔しやすいとか、そういう訓練でも受けているのかしら……。
「……浄化」
言葉と共に、私の手の周りにきらきらとした星のかけらのような粒子が舞い散り、手のべとつきがすっきりなくなった。
ほとんど詠唱をしないで魔法を使えるなんて、さすがは筆頭宮廷魔道士様、という感じだ。
私は魔法が使えないけれど、この国に住む方々は大なり小なり魔力を持っている。
貴族は魔力量が多いのが普通だし、学園の授業にも魔法学の授業がある。
初期魔法の訓練からはじまって、人によっては最上級魔法の使用と制御までを教えてもらうことができるのだけれど、魔力の発動の精神集中のために、呪文の詠唱は不可欠である。
私は魔力がないので、いたたまれない気持ちで、端っこの方で授業の光景を見ていただけなのだけれど。
格好良いなぁ、詠唱、良いなぁ、なんて思いながら。
ともかく、魔法の使用には割と長い詠唱を行うのが普通で、シエル様のように短い言葉で魔法を発動する方はいなかった。
多分、あんまり詳しくはないけれど、とてもすごいのだろう。
「これで良いですか?」
「は、はい、ありがとうございます……! じゃなくて、手、手を、手を離してください、初対面の男性に手を握られるとか、だめなんです……っ」
べとべとはとれたけれど、べとべとのとれた手をきゅ、っとなんともいえない優しさで握られて、私はあわあわした。
シエル様の指は長くてしなやかで、ルシアンさんみたいにごつごつしていない。
そのせいなのかしら。思わず流されそうになってしまって、私は焦った。
もうすぐお昼なのだけれど。昼間から、見ず知らずの男性と、お店の中で手を握り合うとかは駄目なのよ。
「あぁ、すみません。あなたに助けていただきたいという気持ちが先走り、つい」
つい、手を握るものなのかしら。
私はつい先ほど、具体的には今日の朝、私の髪に口付けたルシアンさんを思い出した。
顔の良い男性というのは、何をしても許されると思っているに違いないわ。
呪われると良い。
いえ、シエル様には今の所、特に恨みはないのだけれど。
でもシエル様もルシアンさんと一緒で、女性に人気がありそう。なんせ顔だけは、良いのだもの。
シエル様はするりと私から手を離して、それから、私の目尻の涙を指先で拭った。
「ひぅ……っ」
距離感が、距離感がおかしい……!
ちょっと、ちょっと顔が良いからって、手を握ったり涙を拭ったりしたら、私がころっと騙されると思ったら大間違いなんだからね……!
私はお父様とステファン様、ついでにルシアンさんで、男には懲りたのだ。
懲りたといっても特に何も始まったわけじゃないのだけれど。
「悩み、悩みとは、なんですか……? 私、何にもできませんけど、お料理以外、本当に何にもできませんけれど……」
「聞いてくれるのですか?」
「は、はい、聞きます……聞くだけです、シエル様は、困っているのですよね……?」
実力の確かな筆頭宮廷魔導師様が、わざわざ私のところにまで助けを求めに来るとか、よっぽど困っているのだわ。
私、男は好きじゃないけれど、困っている人を突き放すほど冷酷じゃないもの。
お話ぐらいは、聞いても良いわよね。
私が役に立てるとは思わないのだけれど。
「実は……先日、王国のキルケー山地に現れた四つ首メドゥーサを討伐に行ったのですが」
「魔物討伐は、レオンズロアの皆さんのお仕事だと思っていました」
「基本的にはそうですね。セイントワイズは、聖都や街の結界の管理や天災からの人々の救助、魔石や魔導、魔物の成り立ちの研究を主として行っています。ですが、僕の個人的な趣味で、災害指定されるほどの魔物が出現した場合は、討伐に向かうことがありまして」
「ええと、それは、一人で……ってことですか?」
「ええ。一人で。趣味なので」
「そ、そうなのですね……」
「はい。それで、メドゥーサの首を王宮に持ち帰りまして、呪いの研究をしていたのです。リディアさん、メドゥーサには強力な呪い付与の力があって、それは死の呪いや石化の呪い、腐乱の呪いなど、多岐に渡るのですが」
「知っています、その、あの、授業で、習いましたから……」
私はこくんと頷いた。
お勉強は、嫌いじゃなかった。学生時代は結構真面目に、授業を受けていたと思う。
王妃になるからということも少しはあったけれど。
でも、神官家では結構放っておかれていたから、学園では先生がお勉強を教えてくださるのが嬉しかったのよね。
「呪いを抽出して、武器などに込めることで、兵器にできないだろうかと思いまして。もちろん、実用化までは考えていないのですが、可能性として。それから、呪いを分解して、弱体化させたら、何かの役に立たないかなと思って。あ、これは、秘密なのですけれどね。結構危険な研究なので、秘密です」
「ど、どうして私に教えるんですか……! 秘密なのに……!」
「リディアさん、善良そうですし」
「私は善良とかじゃないです、毎日、男は滅びろって思いながら生活してますから……」
「それはそうでしょう。婚約破棄の顛末については最近知りましたが、ひどいものです」
「私のことは良いのですよ……! それで、シエル様は……」
「実を言えば、気づかないうちにメドゥーサの呪いに体が侵食されていたらしくてですね。遅効性の毒が体に回ったように、……まず、味覚を失いました」
「あ、味がわからないのですか?」
「ええ。おそらくは、弱体化された死の呪いなのでしょうが、味覚の次は、視覚が。だから、今の僕にはあなたの顔が、至近距離に近づかないとよく見えないのです」
「そ、それで近づいて来たんですね……! で、でも、それって……シエル様、死んでしまうってことですか……?」
「死にいたる病かどうかまではわかりませんが、少しずつ感覚が失われているようですね」
「シエル様ほどの魔導師様なら、解呪ができるのではないでしょうか……」
「試してみたのですけれど、駄目でしたね。研究の過程で、呪いが変化してしまったのか、解毒も解呪の魔法もまるでききません。このまま生きながらえても、食事の味がしない人生が続くと思うと、とてもつらい」
「ご飯は大切ですからね……!」
健やかな生活には、ご飯は何よりも大切なのよ。
私は、それをよく知っている。
シエル様、かわいそう。
私は、また涙が目尻に滲んで来るのを感じた。
かわいそう。自業自得だけれど、かわいそう。
「それで……リディアさんには、僕にかけられた呪いを解いてほしいんです」
「で、できませんよ……!」
私は首をぶんぶん振った。
何度も言うようだけれど、そんな力は私にはないのよ。
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