リディア、地下水路にある調理場を占拠する
ぐらりと、景色が揺れる。
浮遊感と眩暈を感じて、視界が一瞬白くぼやけた。
レイル様やロクサス様の手の感触はきちんとある。自分がどこにいるのか良く分からないけれど、ここではないどこか別の場所に一人きりで取り残されるような恐怖は、たったそれだけのことなのに簡単に薄れていく。
地に足がついていない――まるで、足の裏の皮膚や靴底が別の何かに変わってしまったような感覚と共に、景色が色を取り戻した。
「……姫君、大丈夫?」
「は、はい……なんとか」
よろけそうになった私を、レイル様が支えてくれる。
ロクサス様は口元をおさえて青ざめている。私よりもロクサス様の方が大丈夫じゃなさそう。
「一人での転移には慣れているのですが、誰かを連れて、ということがあまりなかったものですから。前回はリディアさんの服を裂いてしまいましたが、術式を少し変化させて服は無事な筈……あぁ、リボンが解けましたね」
シエル様が気遣うように言って、ほどけかけている私の胸元のリボンを結びなおしてくれた。
「シエル、お前……リディアの服を裂いたのか……!」
「ロクサス様も私のお洋服、びしょびしょにしました」
「あれは俺じゃない、蛸だ」
「……ロクサス。蛸を使役して、姫君をびしょびしょにする趣味が……お兄様が、少し病気で寝込んでいるあいだに、随分変わってしまったのだね……」
レイル様が悲しそうに言った。
月日の変化とは、残酷なものなのよ。
「語弊がある……!」
「ロクサス様、静かに。ここは――キルシュタインの、街の隅です。騒ぐと、目立ってしまう」
シエル様が口元に指をあてて言ったあと、私の目を覗き込んで、頬や首筋に触れた。
「視点も定まっていますし、瞳孔も収縮していない。脈も、一定です。魔力酔いの症状はでていませんね。問題ないようです」
「は、はい、ありがとうございます……」
シエル様の指がそっと離れて、私は周囲の景色を見渡す。
赤い煉瓦でつくられた家々が目立つ。三角形の屋根と、煙突。背の高い街路樹が整然と並ぶ、綺麗な街という印象だ。
私たちは街の片隅、木々がはえる緑地帯に立っている。人々の姿はない。
ベルナール王国の聖都よりも少し寒いような気がする。
空はどんより曇っていて、そこまで寒いわけではないのだけれど、今にも雪が降り出しそう。
「地下水路に直接入ることができれば良かったのですけれど、転移魔法も万能ではなく、行き先の指定は、一度訪れた場所でなければできない。キルシュタインには一度訪れたことがあるので来ることができましたが」
「地下水路の場所は分かるのか?」
転移に酔ったのか少し青ざめていたロクサス様は、少し落ち着いたみたいだ。
ロクサス様に尋ねられて、シエル様は頷いた。
「ええ。キルシュタインの水源は、イナシュ山脈から流れる川の雪解け水を水路に引き込んで確保している。いえ、かつては、確保していたようです。川は水路に繋がっている。街の北側の入り口から流れる川の横の階段を降りた下ですね」
「シエル様、何でも知ってる……」
尊敬の眼差しをシエル様に向けると、シエル様は困ったように笑った。
「立場上、王家の保管している記録書を読むことができますから。制圧戦争には、ウィスティリア辺境伯――祖父も、軍を率いて参戦していました。その後キルシュタインは、辺境伯家の領地と併合されている。あの時は……母が病床にあり、周囲のことに関心を向けるような心の余裕もありませんでしたが……僕も、無関係というわけではありませんからね」
シエル様は――ウィスティリアのお家で、ひどい扱いを受けている。
きっと、本当は関わりたくなんかないわよね。
だって、キルシュタインを治めているのはシエル様の従兄弟の方だというし、私がフランソワに会いたくない以上に、会いたくないと思うし。
それでも一緒に来てくださったのだから、感謝しないと。
もしかしたらシエル様も、ルシアンさんのこと心配って思っているのかもしれない。
ルシアンさんはお友達じゃないって言っていたけれど、本当は二人は仲良しで、お友達なのかも。
男の友情というやつ。
仲良しなのは、良いことよね。
「シエルは立場から逃げないで偉いと思うよ。私などは、全部ロクサスに任せてもう勇者になることしか考えていないからね。水路に繋がる川……あ。あそこだね。行ってみよう、姫君」
「兄上……」
レイル様が私の手を引く。
ロクサス様が深い溜息をついた。
街を取り囲む外壁は、復旧されていないみたいで、半分ぐらいが崩れてしまっている。
外壁一部がトンネル状になっていて、そこから清廉な水をたたえた川が街に引き込まれている。
川の横には階段があって、その先は暗闇が続いている。
街の下にある人工的な空洞を、私たちは進んでいく。
中央に川があって、左右に人が歩くことができる通路が設けられている。
地下だから当然暗くて、シエル様が光魔法で明りを灯してくれた。
先頭を、意気揚々とレイル様が進んでいく。先頭を歩くのも勇者の仕事らしい。
知り合いがいないからと狐面は外されていて、一つに結ばれた長い白い髪が、レイル様が歩くたびに尻尾みたいにゆらゆら揺れた。
その後ろを私とロクサス様。最後尾を、いくつかの光玉をつくりだしながら、シエル様が歩いている。
光玉が地下水路の水面に映し出されて、月がいくつも浮かんでいるように見えた。
気を付けて歩いているのに、どうしても足音が響いてしまう。
「……調理場は、どこかな。生活空間なのだから、もっと広い場所にあると思うのだけれど」
レイル様がきょろきょろとあたりを見渡しながら言った。
「レイル様、あの、右側の奥の方から、スパイスの香りがする気がします」
「わかるの、姫君?」
「は、はい、たぶん……」
調味料の香りというのは結構独特。
違うかもしれないけれど、でも、湿った地下水路の空気に混じって、僅かに安心する――美味しそうな、香りがする気がする。
ナツメグ。タイム。クローブ。ローズマリー、乾燥パセリ。なんとなく、清涼感のある香り。
レイル様が私の言った方向へと、ずんずん進んでいく。
通路を右に曲がると、少し開けた空間になっている。いくつかの通路に道が分かれていて、魔石ランプの明りが通路の壁に灯っている。
見張りと思しき黒いローブの方々が数人いるのを、レイル様が軽々と、太腿に巻き付けたベルトに刺している短剣の柄を使用して、鳩尾や首筋を打って気絶させた。
半分はレイル様、もう半分はシエル様が、魔法で眠らせてくれる。
戦うために身軽になったレイル様が持っていた分も含めて、結局全部の荷物を持ってくれているロクサス様が小さな声で「……俺はあまり戦闘向きではない」と言ったので、私は頷いた。
ロクサス様、運動神経があまりよくないものね。私も戦うことはできないから、親近感を感じる。
マーガレットさんが泣きそうな顔で、「あたしは弱いから、ごめんね」と言っていた言葉が思い出された。
強い人なんて、そんなにたくさんいるわけじゃないと思うの。
レイル様やシエル様、ルシアンさんが特別というだけで。
ロクサス様も魔法が使えるけれど──でも、やっぱり戦うのは、こわい。
できれば誰も、傷つかないで欲しい。
毎日ステファン様やフランソワを恨んでいた私がそう思うのはおかしいかもしれないけれど。
戦うよりも、誰かを恨むよりも──にこにこしながらご飯を食べることができたら、それは幸せだと思うから。
「姫君、あったよ! 調理場だ。さすがは私の姫君だね。君たちに恨みはないけれど、ちょっと眠ってもらうよ」
「……眠りの風よ」
スパイスの香りが漂ってくる扉をあけると、そこには調理担当の方々がいた。
数人の調理用の白い服を着てエプロンをつけた男性たちが、何やら話し合っている。
レイル様とシエル様が、その方々をすんなりと眠らせて、調理場の隅へとロクサス様がずるずる運んだ。
不器用だけれど力持ちなのよね、ロクサス様。
「さぁ、無事に調理場は占拠したね。何を作るのかな、姫君。私は器用なんだ。できることがあれば、手伝うよ」
ロクサス様が持っていた荷物を作業台の上に乗せて、レイル様が袖をまくりながら言った。
「落ち着いて料理ができるように、誰も入ってこれないように扉を封じておきましょう」
シエル様が言うと、扉に魔方陣が輝く。
「俺は何をしたら良い?」
「ロクサス様、眠らせた者たちを、見張っていてくれますか?」
「了解した」
シエル様に言われて、ロクサス様は調理場に置いてあった椅子を床の上で眠る人たちの前に持って行って、足を組んで座った。
料理の手伝いをすると言わなくなったロクサス様。断り続けていたから、何かを察したのかもしれない。
申し訳ないのよ。
でも、やっぱり瓶とか、割られたら困るし。
「……みなさん、ありがとうございます。私、がんばりますね……!」
私はここまで私を連れてきてくれたシエル様たちにお辞儀をして、調理場の水道で手を洗った。
地下水路の調理場だけれど、きちんと設備が整っている。
水道には水魔石がはめられているし、綺麗な水が出る。
コンロは四口あって、お鍋もフライパンも包丁も充実している。
ミートミンサーもあるし、ボウルもあるし、なんでもある。
私が両手を握りしめて言うと、シエル様たちは大丈夫だと言うように、力強く頷いてくれた。
長らくお付き合いいただいてありがとうございます。
やっと一度目の佳境、ちょっとした核心部分に突入できそうな感じです。
しばらく真面目なお話が続きますが、お付き合いくださると嬉しいです!




