きのこは心を癒すのか
ルシアンさんは私の体からそっと手を離すと、涙のこぼれ落ちる私の頬を固い指先で拭った。
長い間剣を握っていたてのひらは、大きくて硬い。
骨の形がはっきりわかる指先に、ルシアンさんの努力が滲んでいるように見えた。
「……ルシアンさん、でもずっと、ルシアンさんは、ルシアンさんでした。それなのに」
ついこの間までは、いつものように朝食を食べに来ていて。
魔物の討伐に遠征に出かけて行って、いろいろあるけれど穏やかな同じ日常を、繰り返していて。
それなのに、どうして。
私が尋ねると、ルシアンさんはどこか疲れたように笑った。
「リディア。……本当は君をさらって、どこかに逃げようかとずっと思っていた。私は、君を、君だけは……殺したくない。王国民など皆、害獣だと思っていた。けれど、君は違う」
「わ、私も、王国の民です……ルシアンさんを、キルシュタインの人たちを、傷つけた国の」
「私の妹は……もし、生きていたら君と、同じぐらいの年だった。きっと、可愛かっただろう。……リディア、君のように」
「ルシアンさん……」
「一度燃え上がってしまった復讐の炎は消し去ることはできない。キルシュタインの者たちは、私を旗印にして旧キルシュタイン王国に攻め込み、キルシュタインを再建させたいと考えている。私も、同様に。……それが、正しいと思っていた。暴虐に奪ったものなら、同じく、奪い返されて然るべきだ」
「で、でも、ずっと、ルシアンさんは、そうしなくて……」
「私は、ゼーレ王がどのような人物なのかを知りたかった。身分を隠して近づき、私が幼い頃に見た通りの残虐な男なら、すぐに寝首をかこうと考えた。しかし……あの人は、理知的で、正しい方だ。憎しみはあるが……すぐさま手にかけるよりも、見極めたいと、考えた」
それなら──。
復讐なんて、やめて、欲しい。
ルシアンさんは、女誑しで、見た目は良くて、戦うのが好きで、私が何を言っても怒らない、優しい人。
私の見ていたルシアンさんが全部嘘だったなんて、思えない。
「ルシアンさん……もう……やめ……っ」
やめてくださいという言葉が、途中で途切れる。
ルシアンさんは私の頬を両手で包み込むようにして、私を透き通った空のような瞳で覗き込んだ。
「リディア。……私はずっと、君のくれた幻想の中で生きていたいと、願ってしまった。……だが、もう終わりだ。皆、痺れをきらしている。君がステファンに打ち捨てられて……ゼーレ王は気弱になってしまわれた。王宮は、戴冠式もまだの愚かなステファンに掌握され、ステファンはフランソワの言いなりだ」
「……レオンズロアの皆さんは、それで、大変だって言っていましたよね……」
「あぁ。フランソワの思いつきによる聖都や、各地の神殿の視察で、警護に連れ回される。……キルシュタインの者たちは私を、ベルナール王家の犬に成り下がったのかと……復讐の時は、満ちたのではないかと。……痺れを切らして、先ほどは、君を襲った。すまなかった。……どのみち、今日で最後にしようと考えていた」
「最後……?」
「あぁ。君を攫って逃げたい。これは、本心だ、リディア。君を攫って……君は、ベルナール王家に恨みを抱いているから、私と共にあるべきだと……だが、君のそばには、私以外の人間が随分と増えた。君は私のものには、ならないのだろうな。攫ったらきっと、泣きながら嫌がって、私のことを嫌うだろう」
「……攫うのは、誘拐です……だから、だめ、です。でも、ルシアンさん……いなくなったら、いやです」
「何故?」
「だって、お友達、ですから……!」
どうしたら、良いの?
私に、何ができるの?
このままじゃ、悲しいことが起こってしまう。
もし大きな戦いになったら、シエル様やロクサス様とルシアンさんが戦うことになるかもしれなくて。
誰かが、どこかで、命を落としてしまうかもしれなくて。
私──やっと、一人じゃなくなったのに。
お客様がたくさん増えて、お友達も、できて。泣きながら、恨みながらじゃなくても、料理ができるようになったのに。
それはルシアンさんのおかげで、シエル様やロクサス様のおかげで。
だから──。
「ルシアンさん、私……っ、殿下のことや、フランソワのこと、ずっと怒っていて、悲しくて、恨んでましたけど……ルシアンさんの苦しさと、私の苦しさなんて、比べたらだめなぐらいに、大きさが違うって思いますけれど……でも、私、今の方がずっと、楽しいんです」
私は私の頬に触れているルシアンさんの両手に、自分の両手を重ねた。
「楽しい?」
「はい……っ、恨んだり怒ったり泣いたりしながらお料理するよりも、美味しく食べてほしい、元気になって欲しいって思いながら、お料理した方が、楽しくて……食べてもらえると、嬉しくて……っ、ルシアンさんと一緒に、お祭りに来たのだって、すごく、楽しくて……今まで楽しいこと、あんまりなかったけど、今は楽しいことが、いっぱいあるんです」
「あぁ……私も、楽しかったよ、リディア。……君と過ごした時間は、いつだって、楽しかった」
「だったら、もうやめましょう……? ルシアンさんは、ルシアンさんのままでいてください……嘘かもしれないけど、本当のルシアンさんは、違うのかもしれないけれど、私にとっては、女誑しのルシアンさんが、ルシアンさんなんです」
「私は女誑しなどではないよ。リディア、君だけだ。君だけが……私の、友人だ」
「だったら……!」
「もう、時間切れだ、リディア。……私が立ち止まったとしても、多くの者たちが凶行に走るだろう。私はそれを止めることなどできない。彼らもまた、家族を、娘や妻を、兄妹を、嬲られ殺された。……王国の支配下にある旧キルシュタイン領は、ひどいものだ。搾取や暴力は、今も続いている」
「……ルシアンさん、でも、だからって、ルシアンさんが……全部を背負うことなんて、なくて……っ」
「私は王家の生き残りだ。……君の料理に出会うまでは、私の記憶は血と炎で満ちていた。だが……今は、きちんと思い出せるよ。父の力強い掌も、母の優しい微笑みも。……ありがとう、全て君のおかげだ。リディア、私は、私の責任を果たさなければ。私の信じる、正義を……」
「ルシアンさん……っ、きのこ、きのこがまだ、残っているので……っ」
私から離れようとするルシアンさんの腕を私は掴んだ。
それから串刺し丸焼きタケリマツタケを手にすると、ルシアンさんの口に押し付ける。
「あ、あつ……っ、熱い、リディア、熱い……っ」
「じゃ、じゃあちゃんと食べてください……! ゆっくり、食べないと、火傷します……全部食べてくれないと、口に押し込みますから……」
「ふ……っ、あ、はは……っ、君は強くなったな、リディア……泣いてばかりいると思っていたが。料理をしている最中の、君の可愛らしい恨みごとを聞いているのが、私はかなり好きだった。まるで子供みたいで……私も、君のようになれたらと、思っていた」
ルシアンさんは私からきのこの丸焼きを受け取ると、ゆっくり食べてくれた。
私は両手を握りしめて、それを見ていた。
私の料理には、病気や呪いを治す力がある。
心の傷も──癒えたら良いのに。
どうか力を貸してください、女神様──そう、祈りながら。
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