リディア、はじめて魔物に襲われる
私の足に絡みついた何かが、私の体をぐいっと引っ張って持ち上げた。
「ひぅっ、あああ……っ」
ぐるりと世界が反転する。
逆さ吊りにされた私の真下に、ルシアンさんの姿がある。
木々が折り重なってできた深い洞窟の天井付近でゆらゆら揺れる私の足を掴んでいるのは、植物の蔓のようなものだ。
蔓の先には緑色の巨大な爬虫類のような姿。けれど顔の周りには、赤い花弁が花開いている。
爬虫類の体からは植物の蔓がうねうねと伸びていて、足の代わりに蔓がはえているように見える。
動かなければ木々と一体化して気づかないような色合いの化け物だった。
体はぬめっとしているけれど、蔓と体の付け根は苔むしていて、ぽこぽこと毒々しい色合いの傘の赤いきのこがはえている。
「マボロシアカダケの王様……っ」
それは食べてはいけないと言われている毒きのこに見えた。
マボロシアカダケの王様は動くことができるのね。
爬虫類の口がぱくりとひらく。ぬらぬらした赤い舌がびろんと伸びてきて、逆さ吊りにされて剥き出しになっている私の足をべろんと舐めた。
「いやああああっ、おいしくないです、私、おいしくないから、食べないで……っ、助けて、助けて、ルシアンさん……っ」
「リディア、マンイーターだ! 何故、こんな場所に魔物が……今助ける!」
ルシアンさんは美しく光る剣を腰からすらりと抜いた。
ルシアンさんに向かってくる何本もの蔦を軽々と切り裂きながら、私の元まで駆ける。
マンイーターという魔物が動くたびに、私の視界はぐらぐらと揺れた。
ゆらゆら揺れる視界の端に、黒いローブを着た誰かの姿が映る。
その誰かは、マンイーターとまるでお友達のようにして、その太い蔦の一本の上に足を組んで座っている。
「……我らの悲願、果たそうともせずに、こんなところで遊んでおられるとは。これ以上失望させないで欲しいものだ」
しわがれた男性の声で、その誰かは言った。
ルシアンさんは何も聞こえていないかのように、マンイーターの蔦を切り裂いて、地面を蹴った。
「ルシアンさん、人が……っ」
「リディア、今は、君を助けるのが先だ!」
「いやあっ、食べられる……っ」
マンイーターの口が大きく開いて、まるで踊り食いでもするかのように私を口の中へと放り込もうとする。
真っ赤な口の中には、歯がない。
赤い洞窟のように、虚が奥深くまで続いている。
簡単に私を丸呑みできるほどに大きい口の中に、蔦の拘束から解放された私は、真っ逆さまに落ちていく。
「リディア!」
ルシアンさんに名前を呼ばれる。
軽い浮遊感と共に、私はルシアンさんに抱き抱えられていた。
私をひと飲みにしようとしていたマンイーターは、頭のてっぺんから半分に切り裂かれている。
切り裂かれた体は植物と動物の中間のように見える。断面は緑色で、切られた場所から草木が芽吹き、瞬く間に成長して天井まで伸びていく。
「……ルシアン様。その女に出会ってからというもの、あなたは変わられてしまった。その女を消せば、あなたの幻想も終わりましょう」
「黙れ」
ルシアンさんは私を抱き抱えたまま、軽々と地面に降り立った。
切り裂かれたマンイーターの上に立っている黒いローブの男が、ルシアンさんを呼んでいる。
作り物のように白い顔に、丸い穴が二つあいている。仮面をかぶっているみたいだ。
切り裂かれたマンイーターの巨体が倒れて、洞窟が激しく揺れる。
最後の悪あがきのように伸びた蔦が、私の体に巻きついた。
マンイーターが倒れた地面が轟音と共に崩れていく。蔦に絡まれた私は、崩れた地面と共に落下していくマンイーターに引き摺られて、崩壊した地面に引き摺り込まれていく。
「た、助けて……っ、嫌……っ!」
実際には一瞬のことだったのだろうけれど、ゆっくりと景色が動いているように感じられた。
木々の重なった虚のような洞窟の真下は、崖になっていたらしい。
崩壊した地面から空中に放り出された私が見たのは、私よりも先に真下にある深い森に落下していくマンイータの亡骸と、青い空。
──私、こんなところで死ぬのかしら。
やっと──生きているのが、楽しくなってきたのに。
今までの記憶が、目まぐるしく脳裏に浮かんでは消えていく。
『リディア。友人というのは、喜びを二倍にも三倍にもして、悲しみを半分にするものだよ』
私の小さな手を握りしめて優しく微笑む、誰かの声が聞こえる。
『私は君の友人。悲しいときは君の側にいる』
あれは──誰だっただろう。
思い出せない。思い出せないけれど、大切な記憶だったはずだ。
──私は、レスト神官家の片隅で膝を抱えて座っている。
ここには、私の居場所なんてない。片隅に置いていただけるだけで、ありがたいことだと、ざあざあ雨の降る窓の外を見ながら考えている。
どこにいても、寒い。私は役立たずで、何のために生きているのかさえよくわからない。
私は小さな声で「お腹がすいたな……」と呟いた。最後に乾涸びたにんじんを齧ったのは、いつだっただろう。
目を閉じると、雨が止んでいた。
私はドレスを着ている。今日はお城からお迎えが来る。
ステファン様は優しい。お城に呼ばれた日は、美味しいご飯を食べることができるから嬉しい。
ステファン様は優しいけれど、いつもどこか怒っている。
『魔力がないというだけで、君の存在が貶められるのは間違っている。今、父と共にレスト神官長に掛け合っている。君を城に住まわせるようにと。ずっと一緒にいよう、リディア。俺が君を守る。生涯をかけて、君を守ると誓う』
いつも怒っているステファン様は、私の手をとって熱心にそう伝えてくれる。
『君はおちこぼれでもなければ、役立たずでもない。誰かが君を貶めたのなら、君は泣いて良い。怒って良いんだ、リディア』
泣く。怒る。
それは、どういう感情なのだろう。よくわからない。
『練習をしよう、リディア。そうだな、何が良いだろうか。一緒に演劇でも見に行こうか。悲しい話や、腹の立つ話。本を読むのも良い。俺が読もうか、それとも、君が読んでくれるか?』
ステファン様はただ微笑むばかりの私に、熱心に、感情について教えようとしてくれた。
だから私は──半年して、ステファン様の関心が私からなくなってしまって。
フランソワをステファン様が好きになってしまったことが、とても、悲しかった。
泣くことや怒ることを覚えてしまった私は、大衆食堂ロベリアで、泣いたり怒ったりしながら料理を作っていて。
ルシアンさんはカウンター席に座りながら、ずっとそれを、見ていてくれた。
私の料理には不思議な力があると言って、騎士団に勧誘しようとすることはあったけれど、無理やり何かをさせようとしたことはなかったように思う。
ただ淡々と、私の様子を見ていた。
私がルシアンさんのことを悪く言っても怒るようなことはなくて。
多分私は、愚痴や文句や、泣き言を言う相手として、ルシアンさんに甘えていて。
だから、元気がなかったから心配で、ルシアンさんがご飯を食べないことなんて今まで一度もなかったから。
励ましたくて、一緒にお祭りに来たのに。
これじゃあ、ルシアンさん──もっと、落ち込んでしまう、わね。
「リディア!」
目を閉じると、こぼれた涙が空中に舞い散った。
ルシアンさんの声がする。
体が地面にぶつかる衝撃は、一向に訪れなかった。
私の体からは蔦が切り離されていて、私は逞しい腕に抱えられていた。
深い森が、眼下に広がっている。青空と、風に靡く金色の髪と、ルシアンさんの心配そうな青い瞳。
「すまない。大丈夫か、リディア。怖い思いをしたな」
冷静な声に目を見開くと、私の体は空中に浮いていた。
ルシアンさんは、操縦桿のようなものを手にしている。それは足元の大きく翼を広げた竜のようなものからはえている。
黒い竜の形をした、これは、浮遊魔石走行装置と呼ばれる、風魔石を仕込んである一人用の空中浮遊装置だ。
黒い竜は高度を下げて、森へと降りていく。
一人用の座席には、きのこが入った背負いカゴが乗っている。きのこは無事。
私も、無事。
「ルシアンさん……怖かったです……っ」
私はルシアンさんの腕の中で、ぐずぐず泣いた。
死んじゃうかと、思った。
何か、大切なことをたくさん思い出したような気がするけれど、なんだか頭がぼんやりして、うまく考えることができなかった。
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