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The Magician(魔術師)



 窶れた母が病床で、僕の顔を見て言った言葉を覚えている。


「あなたを産んだことを、間違いとは思わない。ごめんね、シエル。誰も恨まないで。正しく、生きて」


 それは、ウィスティリア辺境伯家の物置小屋のような一室の、古びたベッドでのことだ。

 母は僕の手を取って、そう言った。

 それからほどなくして、息を引き取った。

 人は亡くなると、白い月ブランシュリュンヌへ昇るのだという。

 そこは苦しみも悲しみも不安もない楽園で、白い月に昇ることは人々の生きる目的の一つなのだという。

 白い月が母の命を吸い上げて最後には空っぽにしてしまったような、静かな最後だった。


「……正しく、生きる……か」


 昔を思い出すことは、少ない。

 そこにはなにもない。

 そう、思っていた。

 新居として購入した南地区の家は、リディアさんの店にほど近い一角にある。

 聖都の南地区のアルスバニアには空き家が多い。

 これは、アルスバニアには貧困層が多く住んでいることに起因している。

 借金の形に家を取られたり、一家が離散してしまったり、治療を受けられずに病死したり、娼館街に身売りされる者も多い。

 僕が購入した家は、元々アルスバニアでは裕福な商人が住んでいた家だったらしい。

 結局、事業が斜陽を迎え、借金をつくって一家は夜逃げをした。そのため残された家は差し押さえられて、売りに出されていた。

 とはいえ、それも二十年以上前の話だ。

 アルスバニアでは場違いに大きく立派な邸宅である。

 そのせいで誰も買う者がいなかったのだと、土地や家を転売する生業の者が言っていた。


「……正しいとは、難しいな」


 研究室に使用するために、できるだけ広く大きい家が欲しかった。

 セイントワイスの部下たちも来ることを考えると、部屋数も多い方が良い。

 王宮の魔導師府には全て揃っているが、あの場所で研究を続けるのはあまり良くないと判断した。

 広いリビングの中央に、大きな平らな皿にのようなものに水が張られた、水鏡を置いた。

 そこに僕の姿が映っている。

 髪にいくつかの宝石が連なっている、人間と宝石人の中間の、中途半端な姿だ。


「……やはり、時間がたつと、効果が薄れるのか」


 水鏡にリディアさんの作った、僕の名前をつけて貰ったソーセージの欠片を沈める。

 水鏡は何の反応も示さなかった。

 魔力診断の水鏡は、レスト神官家を頂点とする教会の保有する、利権の一つである。

 水鏡を満たす杯自体はただの器だが、その中に満たされる聖水はレスト神官家や神官たちが管理している。

 女神の神秘である、アレクサンドリアの聖なる湧き水。

 その湧き水が溜まっているのは、大神殿の奥。大神官や国王など一部の者しか入ることを許されていない場所にある。

 その湧き水の池に身を浸すと、その者の本来の姿が現れるとされている。

 それを転用しているのが、魔力診断の水鏡だ。

 おそらく、女神アレクサンドリアや神祖テオバルトが生きていた時代は、魔物も人の姿となることができたのだろうと僕は考えている。

 人に紛れる魔物を探し出すために、聖水は使用されたのではないか、と。

 聖水を持ち出すことはもちろんできない。

 そのため、僕は疑似聖水を作った。魔物の持つ魔力や呪いの効果を解明するためにつくったものだ。

 リディアさんの力を確認するために使えると思いついて使用してみたものの――薄々、そんな予感はしていたが、保存食としてとってあるソーセージには何の力もないようだった。


「何の力もない……というのは失礼なことだ。美味しいというだけで、十分な魅力だろう」


 自分の思考の冷酷さに呆れて、僕は水鏡の中から茹でたソーセージの欠片を拾い上げると口に入れる。

 スパイスが効いていて、唐辛子の粉末が入っていて、辛くて美味しい。


「……料理自体に力があるわけではなく、リディアさんの魔力が料理に零れていると考えるべきかな」


 果たしてリディアさんの持つ力を研究することが、リディアさんのためになるのだろうか。

 それは正しいのか。

 未だに、迷っている。

 多くの人が救われることが正しいのか、リディアさんの安寧が守られることが正しいのか。

 小さな体や、嫋やかな黒髪や、いつも泣き出しそうに潤んでいる菫色の瞳を思いだして、僕は深く息をつく。

 水鏡や本や研究器具が雑然と置かれた部屋に、唯一あるまともな家具である、元々この家に置いてあった黒い革張りのソファに座り込む。

 昔のことを思い出すようになったのも――リディアさんに会ってからだ。

 誰にも話したことのない自分の話を、してしまった。

 僕の代わりに一生懸命怒ってくれる姿が健気で、つい、心を――僕に、心などというものが、あったのだろうか。

 心の代わりに心臓にあるのは、冷たい宝石だと思っていたのに。

 ウィスティリア辺境伯家では、宝石人の子を産んだ母は、ウィステリアの恥と蔑まれた。

 僕は忌み子であり、屋敷の片隅に捨て置かれ――人ではないような扱いをされて育てられた。

 兄弟たちから暴力を受けることも当たり前だった。

 彼らを殺すことは僕にとっては簡単だったけれど、母が正しく生きろと言ったから、それはしなかった。

 壊すのは至極簡単で、壊さないようにすることはとても難しい。

 ウィスティリアの家を僕の家と思ったことは一度もなく、そこから出て宝石人の街に向かったが、そこにも僕の居場所といえるものはなかった。

 宝石人たちは自分たちの暮らしを守ることに必死で、僕は異物であり、諍いの原因になると危険視された。

 僕の行動次第で、宝石人の今まで守り続けていた平和な生活が――脅かされてしまうかもしれない。


『やはり宝石人は魔物だ。危険だ』


 そう王国民に思われるようなことになれば、再びまた差別の暗黒時代を迎えるのだと。

 それからというもの、僕は傭兵団の借宿で暮らし、セイントワイスに所属するようになると、王宮の宿舎で暮らすようになった。

 必要最低限の荷物しか持たない、地に足がついていないような暮らしは、身軽だけれど――生きているという実感がとても薄い。

 だからこうして、自分の家というものを持つと、はじめて自分がこの世界の一員になったような気がした。

 僕の言葉は全て空虚で。自分の感情さえ、よくわからない。

 苦しみも、悲しみも、楽しいも、嬉しいも。全て演技。本心の在処も、心の在処も、どこにもない。

 リディアさんに出会うまでは、そう思っていた。


「今の僕は、正しいのだろうか」


 分からない。

 分からないけれど――リディアさんの力になりたいと思う。

 リディアさんを、守りたい。

 その笑顔を見たい。

 今はまだ、友人として。

 お友達だと言って僕に微笑んでくれるリディアさんの笑顔が、僕は、好きだと思う。




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