オリビアちゃんと特別な昼食
患者様の中には、まだ歩ける方々もいるらしい。
ミハエル先生とそれから、看護人の女性の方々が盛り付けた料理をトレイに乗せて運ぶのをお手伝いしてくれた。
食事用のお部屋の広いテーブルにそれを並べて、昼食を知らせる手持ちのベルを、看護人の方が鳴らした。
「実際、こうして食事の時間だと呼んでも、自らここに来る患者はごく少数なのですけれどね」
ミハエル先生は眉間に皺を寄せる。
「内臓などには、何の異変もない。問題ないのですがね。ただ、食べたくないと言われてしまっては。無理やり、食事を口に押し込むわけにもいかない。……結局、そんなことをしても吐き出してしまうのです」
「……少しでも、口に入れてくれると良いのですけれど」
白月病になりたてのまだ動ける方々もそうなのなら、病床で寝込んでいる方々はもっとよね。
食事会場に誰か来てくれるかしらと思いながら、私は両手を胸の前で組んで、待った。
シエル様とロクサス様は私を挟んで両隣に立っていてくれていて、何も言わずに辛抱強く患者様の訪れを待っている。
ややあって、十歳程度に見える小さな女の子が顔を出した。
病衣ではなくて、藍色のワンピースを着ている。
ふわふわした髪の毛はたんぽぽのようで、肌も髪も白くて、瞳だけはエメラルドグリーンの、愛らしい女の子だ。
「先生、ご飯、できたの?」
「あぁ、オリビア。食事の時間だよ。今日は食べられそうかな」
「あんまり、食べたくない、けど……ベルで、呼ばれたから」
どこか緊張した面持ちで食事会場に入ってくるオリビアという名前の女の子に続いて、何人かの痩せ細った女性や男性たちも、中に入ってきてそれぞれ席についた。
けれど、皆どこかぼんやりと虚空を見つめているようで、スプーンを手に持とうとしない。
「今日の、ご飯は特別だって、看護のお姉さんが、言っていたの」
「あぁ。今日は特別に、街で評判の料理人のリディアさんが食事を作ってくれたんだ。セイントワイスのシエル様と、ジラール公爵家のロクサス様の紹介でな。少しでも、食べてくれると良いのだが」
「あ、あの……ふにゃふにゃ蛸のリゾットです。蛸、ですけど、凄く柔らかいので、食べやすいと思います……」
オリビアちゃんがミハエル先生を見上げて言った。
優しくミハエル先生が言葉を返したあと、私は膝を曲げて、オリビアちゃんと視線を合わせて、口を開いた。
「ふにゃふにゃ、たこ……?」
「はい……! ふにゃふにゃなんです、ともかく、ふにゃふにゃで、柔らかいのです」
「お姉さん、面白いのね!」
私が身振り手振りで蛸の柔らかさを伝えると、オリビアちゃんは嬉しそうに笑った。
「でも……良い匂いがする。美味しそうな匂い」
オリビアちゃんは自分の席に座ると、お皿の中をのぞきこんでいる。
シエル様が私の耳元に唇を寄せて、小さな声で囁いた。
「……オリビアさんは、ミハエル先生の娘さんなんです」
「……っ」
私はびくりと震えた。
耳元で囁かれてこそばゆいというのもあったけれど、その内容の方にびっくりしてしまって、目を見開いてシエル様を見つめる。
シエル様はそれ以上は何も言わずに、オリビアちゃんとミハエル先生に静かな視線を向けていた。
「お姉さんが作ってくれたのだし、食べないというのは、失礼よね、先生」
「そうだな。リディアさんがせっかくここまで来てくれて料理を作ってくれたのだから、その気持ちに報いるためにも、食べてくれると良いのだが」
「……うん。食べてみる、ね。お腹、は、空いている気がするの。でも、虫の声がうるさくて、こうしてお話しするのも、本当は、大変で。胸が、いつも、ムカムカしてしまって」
「……オリビアちゃん、無理はしてほしくないです」
泣いちゃだめだと分かっているのに、小さな女の子が口にする言葉が、あまりにも辛くて。
目尻に涙が浮かんでしまう。
「お姉さん、泣かないで。お姉さんのお料理は、美味しそうなの。ちゃんと、美味しそうなのよ」
「ご、ごめんなさい、気を使わせてしまって、私……」
「お姉さん……あのね、少し、食べるわね。だから、泣かないで」
体が辛いはずなのに、私のことを気づかってくれるオリビアちゃんの姿に、泣いている場合じゃないと自分に言い聞かせて、私はごしごしと目尻を擦った。
オリビアちゃんはスプーンを握りしめて、一口、蛸のリゾットをすくう。
それから、ゆっくりと口に運んだ。
「──美味しい!」
「オリビア……! 本当か、オリビア!」
その様子を見守っていたミハエル先生が、身を乗り出すようにして言った。
「味が、わかるのか、オリビア。吐き気は? 無理はしていないか?」
「先生……美味しい。吐き気もしないの。胸に詰まっていた何かが、取れたみたいで……頭も、痛くない。……あれ……?」
オリビアちゃんが不思議そうに首を傾げる。
「虫の声が、しないのよ。ずっと、頭の中で、ぶんぶん言っていた、羽の音が、しないの。羽の音に混じってしていた、女の人の声も、聞こえないのよ」
「女性の声……?」
シエル様が眉を潜めて、小さな声で呟いた。
「女の声、とは。兄上はそのようなことは言っていなかったな」
「僕も、はじめて聞きました」
ロクサス様とシエル様が、密やかな声で言葉を交わしている。
その間にも、オリビアちゃんはぱくぱくと、リゾットを口に運んでいる。
「美味しい、美味しい……ご飯、美味しい……お米もたこも、甘くて、美味しい……!」
「オリビア……!」
「お父さん、ご飯が食べられるのよ、私……」
オリビアちゃんが、ミハエル先生を、はじめて先生じゃなくてお父さんと呼んだ。
ミハエル先生の瞳が涙に潤んでいる。
看護人の女性たちが顔を見合わせて、「まさか」「奇跡だわ……!」と、口々に言った。
オリビアちゃんの様子を見ていた他の患者様も、それぞれスプーンを手にして、リゾットを食べはじめる。
そこここで「嘘みたいだ」「美味しい」「食事が、食べられる……」という声があがる。
「……リディア。よく頑張ったな」
ロクサス様がその光景を見ながら、短く言った。
「リディアさん。……大丈夫ですか?」
シエル様が心配そうな視線を私に向ける。
私は体の力が抜けるみたいに、ふらふらして床に膝をつきそうになる。
両側から、ロクサス様とシエル様が手を差し伸べて、助けてくれる。
「……よかったぁ……」
ただただ、オリビアちゃんが、そして他の患者様たちが、ご飯を食べてくれるのが嬉しい。
みんなが喜んでくれるのが、嬉しい。
「よかったです、ご飯、食べてもらえた……」
堪えていた涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちる。
私には何もできないって、いつも思っていたけれど。
ご飯を食べてもらえるの、凄く、嬉しい。
「リディアさん、あなたは、一体……いや、そんなことよりも、皆、病室の患者のもとへと料理を運ぼう。嫌がるかもしれないが、一口だけでも口の中に入れるんだ」
ミハエルさんの指示で、看護人の方々がそれぞれトレイを手にして、病室に向かう。
療養所全体が、歓喜の声で満たされるのに、そう長い時間はかからなかった。
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