蛸の満漢全席における癒しの効果
トレイに載せた蛸の満漢全席を、私はレイル様のお部屋まで運んだ。
ロクサス様が何度か自分が持つと言ってくれたのだけれど、廊下で派手に転ぶとか、手を滑らせてトレイを落としかねないと判断した私は、ロクサス様の申し出を丁重に断らせていただいた。
信用できないのよ……! ごめんなさい……!
レイル様のお部屋に入ると、レイル様は最後に見た時と同じように、クッションに体を埋めて上体を起こして、窓の外を見つめていた。
「兄上、リディアが料理を作ってくれた。蛸の満漢全席だそうだ」
ロクサス様が声をかけると、レイル様はこちらに視線を向けた。
その瞳はどこか虚で、今にも白の月に登っていってしまいそうなほどに空虚だった。
ベッドサイドに置けるテーブルを、ロクサス様が持ってきてくれる。
その上に私は満漢全席の乗ったトレイを置いて、テーブルクロスがわりに白いランチマットを敷くと、その上にお料理の乗ったお皿と、カトラリーを並べていく。
「……たこ……?」
「蛸です、レイル様、蛸です。その……つい、小一時間前は私に絡みついて離れようとしなかった、新鮮な蛸を、噛まなくても食べられるぐらいにとろとろにしました」
「リディアに、絡みついていた、たこ……」
レイル様は蛸料理の数々と私の顔を見比べて、まるで初めて聞いた単語だとでもいうように、「たこ、たこ……」と繰り返した。
「そ、その、あの、美味しいと思うので……一口だけでも、召し上がってくださると、嬉しいです」
「……今まで、粥や果物を食べろと言われたことは、多くあったけれど……蛸は、はじめてだな」
「お、お嫌いでしたか、蛸……?」
「嫌いではないよ。……こうなる前は、なんでも、食べた。好き嫌いなどは、なかったのだけれど……」
レイル様はすっと、息を吸い込んで、深く息をついた。
侍女の方が挨拶と共に水差しとグラスを持ってきて、グラスにレモン水を入れてテーブルに置くと礼をして下がっていく。
「兄上。ほんの少しでも良い。食べてくれないか。リディアが……兄上のため、懸命に作ってくれたんだ」
「……そう、だね。……なにも、口をつけないというのは、失礼なことだよね」
ロクサス様の言葉に、レイル様は頷くと、ベッドに深く委ねている体を起こして、ベッドサイドに座ろうとする。
けれどすぐにふらついて、倒れそうになるのを、ロクサス様が慌てて支えた。
「すまない。……食べたいのだけれど、体にも、手にも、もう力が入らなくて」
「リディア。俺が、兄上を支えている。少し手伝ってくれるか」
「は、はい……」
ベッドサイドに、ロクサス様はレイル様を抱えるようにして、並んで座った。
本当は寝かせておいてさしあげたいけれど、レイル様がせっかく召し上がるとおっしゃってくださっているのだもの。
今を、逃すわけにはいかないわよね。
私はレイル様のそばに行って、スプーンを手にした。
唇が乾いているからと思い、まずは蛸と卵のスープをひと匙すくって、レイル様の口元に持っていく。
胸の鼓動が早くなる。
「──女神アレクサンドリア様、どうか、レイル様のご病気を……癒してください。せめて、お食事が食べられるように」
自然と、祈りの言葉を口にしていた。
女神アレクサンドリア様と神祖テオバルト様も天命を全うしたあとに、白い月ブランシュリュンヌにのぼったと言われている。
だからきっと、レイル様や私たちを天高くから見守ってくださっているはず。
ロクサス様から、レイル様を奪わないで欲しい。
私には何もなくて、誰もいなかった、から。
自分の力で道を切り開こうとしているロクサス様と、何もできなかった私が、似ているというのは烏滸がましいかもしれないけれど。
でも、ロクサス様にとって、ただ一人大切な家族のレイル様に元気になってほしいと思う気持ちは、わかる気がするから。
「……ん」
スプーンを唇につけると、レイル様は軽く唇を開いて、スープを一口飲んだ。
唇や舌を湿らせる程度の量だったけれど、ほんの少しでも、味を舌で感じてくれたら、嬉しい。
「……おいしい」
わずかばかり、レイル様の瞳に生気が戻ったような気がした。
くすんだ金の瞳が、私を見上げる。
「リディア。……おいしい。何かを美味しいと思ったのは、……いつぶり、かな」
「兄上……味がついたものを食べるのは、数日ぶりだ。……よかった」
ロクサス様が静かな口調で、けれど、深い喜びにやや上擦った声で言った。
「もう少し、食べられますか? 気持ち悪くなったり、お腹、痛くなっていませんか?」
「大丈夫。……リディア。もう少し、食べさせてくれるかな」
「は、はい……!」
私は今度はふにゃふにゃ蛸の優しいリゾットをスプーンですくった。
ほんの一口、レイル様の開いた口に入れる。
レイル様はぱくりとリゾットを口の中に入れて、軽く数回咀嚼してから、こくんと飲み込んだ。
「……柔らかくて、美味しい。蛸の味もすごくする。海、どれぐらい見ていないかな。すごく近くに、海があるのに。……海の味がする。塩の味がして、それから、甘くて、優しい」
「美味しいなら、良かったです……」
二口も、召し上がってくださった。
嬉しくて、口元が綻ぶ。
もう、全ての覚悟を決めているように見えたレイル様が、ご飯を、美味しいと感じてくれて、嬉しい。
「不思議だね。……もっと食べたいと、思ってしまう」
「食べてくれ、兄上。食べられるのなら、できる限り」
「たくさんあります、レイル様。食べられるだけで良いから、召し上がってください」
頷くレイル様の口に、私はリゾットを運ぶ。
ゆっくりと咀嚼し飲み込むたびに、レイル様の青白かった頬が、血が通ったように薔薇色に薄く色づいていく。
リゾットを全て食べ終える頃には、レイル様の瞳は、虚な金色から、冴え冴えとした月の光のような、美しい金色へと変わっていた。
どこか遠くを見つめていたような瞳孔が、私をしっかりと見上げている。
「……奇跡、みたいだ。……食べるほどに、体に力が戻ってくる。靄がかかっていたような頭も、視界も、他人の皮をかぶっていたような、倦怠感に付き纏われていた体も……自分のものに、戻った、ような」
「兄上……!」
「レイル様……」
ご病気についてはよくわからないけれど、ともかく、レイル様がロクサス様の想いがこもった蛸リゾットを、ほとんど全て召し上がってくださったのが嬉しい。
じわりと涙が目尻に滲んだ。
怒りの涙でも、悲しみの涙でもない。
……嬉しくても、泣きたくなるのね。
私は、目尻を手の甲でごしごし擦った。
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