刻の魔法、奪魂
お行儀のよい愛玩犬のようにちゃんと座って待っているロクサス様の姿を見て一安心した私は、まず先に、お水とワインを入れたお鍋の中に完璧で可愛いまんまるい茹蛸を入れて、火にかける。
「ロクサス様、もしお湯がふきこぼれそうになったら教えてください」
「了解した」
それぐらいならきっとロクサス様もできるわよね。
ロクサス様は生真面目な表情で神妙に頷いた。
蛸を煮込みながら、私は玉ねぎをみじん切りにして、お米を研いだ。
シャカシャカお米を研ぐ音が、調理場に響く。
「リディア」
「どうしました? 吹きこぼれそうですか、もしかしてもう吹きこぼれていますか……!?」
すでにお湯が吹きこぼれているのを、わたわたしながら報告してくるロクサス様の姿を一瞬想像した私。
あわててお米を研いでいた手をとめて振り向くと、ロクサス様は神妙な表情で鍋を見つめ続けている。
弱火でことこと蛸を煮込み続けている鍋は、今のところ無事みたいだ。
「いや。鍋は問題ない。……俺にはその蛸が、もう茹っているよう見えるのだが、どうしてもう一度茹でるのかと」
「それは、蛸を柔らかくするためですけど……」
「そうか。……茹でると柔らかくなるのか?」
「そうなんです! 蛸、かたいですよね。今は、さっと茹でたから柔らかめですけれど、でも、レイル様に召し上がっていただくためには、それはもうくたくたに、ふにゃふにゃに、とろとろに、柔らかくしなくてはいけません」
「くたくた、ふにゃふにゃ、とろとろ……蛸の食感ではないな、それは」
「マーガレットさんとかツクヨミさんはお酒が好きですから、くたくたでふにゃふにゃでとろとろの蛸よりは、ぷりぷりでぐにぐにでがちがちの蛸のほうが良いらしいのですけれど、レイル様は、病身なので、体と胃に優しい蛸が良いと思うのです」
「…………リディア。柔らかい、もしくは、硬い、と言え。あと、その手つきも、やめろ……」
私は研ぎ終わったので、濡れた手を拭いて、身振り手振りで蛸を表現した。
ロクサス様は何故か口元に手を当てて、俯いた。
「ど、どうして……? わかりやすく、説明しているのに……!」
「……俺は凡庸な人間だが、柔らかい、硬い、ぐらいはわかる」
「ただの柔らかい、じゃないんです。ふにゃふにゃなんです、ロクサス様。噛まなくて良いぐらいなんですよ、蛸は長い時間煮れば煮るほど柔らかくなるんですけれど、柔らかくしてから調理することで、もしかしたらレイル様も、沢山蛸料理が食べられるかもしれませんし」
私は蛸の柔らかさについて力説した。
「そうまでして、なぜ蛸にこだわる。兄上は特に、蛸が特別好物というわけではないのだが」
「とれたての新鮮な蛸があるからですけれど……! 新鮮な物は体に良いのですよ……たぶん。それに、美味しいですし」
「……どれぐらい煮るんだ?」
「ざっと……五時間……ううん……できれば、八時間、ぐらいでしょうか」
「夜になるな」
「夜になります」
「お前は、夜までここにいるつもりか?」
「蛸のためです……蛸と、あと、レイル様のためです」
蛸さんに、美味しく食べてあげると約束したのよ。
レイル様にも、一口だけでも良いから、美味しい料理を食べて貰いたいし。
「そんなに煮なければいけないのか……」
「蛸は煮れば煮るほど柔らかくなりますから……! あ! 中途半端に煮ると硬くなるのですよ。だから、じっくり丁寧に、ゆっくり優しく、煮てあげないと……」
「長いな」
「料理というのは時間と手間がかかるのです。でも、頑張れば頑張るほど、美味しくなります。私、大衆食堂ロベリアの料理人ですから、ちゃんと、お料理して、美味しい物を食べて貰いたいって、思ってます」
「……お前は、や……す……」
「やす」
「いや……」
「やす……」
安い、かしら。
値段はできるだけ安くしたいと思っているのよ。可愛い女の子や子供には安く、男性にはちゃんと定価。
それが私の方針なので。
「鍋は、俺が、見張っておく。お前は少し、休め」
――や、す。
休めと言いたかったのね。
優しいわね。ロクサス様、なんだこいつって思っていたけれど、良いところもあるのね。
でもとても任せられないのよ。
ロクサス様に任せるなんて、とてもできない。
ごめんなさい、本当に申し訳ないのだけど、ロクサス様、何もしていないのに鍋を落として、蛸ごとお湯を床にぶちまけそうだもの。
「き、気持ちは嬉しいのですけれど……八時間後なので、ロクサス様はどこかで休んでいてください。あとは玉ねぎとお米をいためて、蛸が柔らかくなるのを待つだけなので……」
私は不自然にならないように、それとなく、ロクサス様の提案を断った。
ごめんなさい。
信用できないのよ……!
「……八時間、時を進めれば良いのだな」
しばらく黙り込んでいたロクサス様が、ぽつりと言った。
「は、はい、そうですけれど……」
「それなら……俺にも手伝える」
ロクサス様は立ち上がると、鍋に近づいてくる。
私はロクサス様の腕を掴んだ。
鍋を倒されたらどうしよう……!
大惨事だわ。座っていてくださいって頼んだのに。言うことをきいて……!
という気持ちをこめて、必死に腕を引っ張った。
「ロクサス様、待って、待ってください……だめ、だめ……っ」
「何が、駄目だ」
「触ったら、だめ……っ、優しくしてください……っ、こぼれちゃう、から……」
鍋を倒されたら困るんです……!
私は焦った。
せっかく上手にさばいて、綺麗な茹蛸ができたのに。
あとは大人しく、ゆっくり待っていれば良いだけなのに。せっかちなの、ロクサス様。
強火にしてはいけないのよ……!
いろんな思いが頭の中にぐるぐる渦巻くけれど、焦っているせいか言葉があんまり出てこない。
「語弊のある言い方をするな……!」
「ごへい」
「時を進めるだけだ。……俺の、使える特殊な魔法。対象の時間を進めることができる。時の魔法、奪魂」
ロクサス様は鍋に手を翳した。
ただそれだけ――なのに、ふつふつと煮えている鍋の中の蛸の姿が変わっていく。
はりのある艶々の茹蛸から、濃い色をしてくたっとした茹蛸に。
「蛸、蛸、が、ロクサス様、蛸が……!」
「鍋の刻を進めた。……正確には、鍋の、蛸の時間を八時間程度奪った」
「すごい!」
私は鍋を覗き込んで、ロクサス様の腕を引っ張った。
鍋の中の蛸は、明らかに八時間以上煮込んだ趣になっている。
たっぷり入っていたお湯も、半分程度に嵩を減らしていて、お湯は蛸のだし汁が出て、薄い赤褐色に染まっていた。
「ロクサス様、すごい……! 時短です、ロクサス様……一瞬で、蛸が柔らかく煮えました、わぁ、すごい、すごい」
なんて便利なの。
なんて便利な調理器具なの、ロクサス様。
私が喜ぶと、ロクサス様は眉間に皺を寄せる。
「……この力を使って、喜ばれたのははじめてだ」
「ど、どうしてですか、すごく便利なのに……」
「奪魂は、相手の時間を奪う。花は枯れ、生き物は、死ぬ。……呪われた力だ」
「煮込み料理に最適です……! あと、お米もすぐにたけますよ、ロクサス様」
一家に一人欲しいわよね。
呪われているとは思えないのだけれど。
ロクサス様は深く溜息をついて、軽く首を振った。
「――兄は、変若水の力を、俺は、奪魂の力を持ち、双子としてうまれた。時を操る魔法が、二つに裂けたのだろう。兄の力は時を戻し、俺の力は時を奪う。枯れた花をよみがえらせる兄の力は、公爵家においては奇跡だと祝福されたが、俺の力は奪うばかり。――不吉だと、呪われていると、言われた」
「そうなのですね……」
ロクサス様も色々苦労をしているのね。
私は茹蛸をトングで鍋から取り出すと、まな板の上に置いた。
すごく、くたっとしている。包丁がすっと入る。すごく柔らかい。最高に柔らかい。
この蛸なら、百歳のおじいちゃんでも食べられるわね、きっと。
私は満足気に頷いた。
ロクサス様のおかげで、ちょっと遅い昼食を提供できそうだわ。
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