蛸のぬめりと眼鏡
ベルナール王国で一般的に食べられているベルナール蛸は、頭が私の頭と同じぐらいの大きさで、足の一本一本が私の腕ぐらいの長さである。
ところが、ツクヨミさんにもらった大きな蛸は、その二倍ぐらいの大きさがある。
それなので、ぬめりとりも一苦労だ。
「ぅう、おおきい……おおきいことは良いことだけれど……」
蛸の表面のぬるぬるを、両手を使って上から下にしごいて取り除いていく。
ぬるぬるを徹底的にとるのがとっても大切なのよね、蛸。
「……リディア。俺の話を聞いていたか」
背後からロクサス様の声がする。
聞いていたけれど、それはもちろん聞いていたけれど、蛸も大切なのよ。
せっかくツクヨミさんから貰ったんだし、それに、釣り上げた以上は美味しく食べてあげないと、蛸さんに失礼なのだわ。
せっかくの新鮮な蛸を放置するなんて、とてもできない。
「蛸……普通に茹でただけじゃ、硬いですよね、この大きさだし……」
「リディア。帰りたいのだろう、お前は。……俺の行動は、兄上の負担にしかならない。俺が兄上のために、何かをするほどに、兄上は早く、白き月の元へ行きたいと思うのだろうな。それなら……」
「……何かをしてもらって、嬉しくないなんてこと、ないような気がします」
綺麗にぬめりをとった蛸を大きなボウルの中に入れて、塩水でもみ洗いしていく。
一度綺麗に水で洗い流して、もう一度塩水につける。
それから、私は大きなお鍋に水を入れてお湯を沸かした。
さすがは公爵家の調理場。設備が良い。
コンロもずらっと並んで四口あるし、大きな炎魔石がコンロの中に嵌められている。
「ロクサス様は、レイル様のことが大切だから……一生懸命なんですよね」
「……兄上に、生きていてほしい。昔から、兄上は、俺の憧れで……理想だった」
「私にできること、料理だけですけど……ご飯を食べることができないの、悲しいです。……病を癒すなんて特別なこと……それは、できたら良いなって思いますけど、でも」
そんな力があるとは、やっぱり思えない。
思えないけれど。
「レイル様に、少しだけでも、美味しいものを食べてもらいたいって、思います……蛸は、みんな好きですし、ちょうど新鮮ですし……いっぱい煮たら噛まなくて良いぐらいに柔らかくなりますし」
「……リディア」
「……私もレイル様に、ご飯、食べてほしい、です」
できることなら、病を癒してさしあげたいと思う。
私にそれができるのなら。
でも、それができなくても、少しでも何かを、口に入れてほしい。
美味しいって、思ってほしい。
もっと食べたいって思ってくれたら、レイル様、少しだけでも元気になるかもしれないし。
白き月にいくのはやめようって、思ってくれるかもしれないし。
「……リディア。……何か手伝えることはあるか」
ずっと何かに怒っているようだったロクサス様だけれど、落ち着いた口調で尋ねてくれる。
ロクサス様は公爵家の次男で、お料理なんてもちろんしたことがないのだろうけれど。
レイル様のために、少しでも何かをしたいのよね、きっと。
「ええと、それじゃあ、お米、とってきてください。やっぱり、お粥が良いかなって……」
「蛸と、粥……?」
「蛸の旨味たっぷりリゾットです。柔らかいですよ。あと、白ワインと、玉ねぎ、乾燥パセリもあったら持ってきてください」
「……米か。米、米と……なんだ?」
「白ワインと、玉ねぎ、乾燥パセリ。それから、せっかくだから唐揚げと、蛸の柔らか煮込みと、一本足グリルも作りますし、蛸スープも……それなので、片栗粉と卵、塩胡椒と、トマトとニンニク、オリーブオイル、月桂樹もあれば持ってきてください」
「多いな……! 一度に言うな」
「……ロクサス様、眼鏡、かけてますし。言われたことは全部覚えられるとか、そういうタイプの人かと思って……」
「眼鏡をかけている人間が皆賢いと思うな。それにこれは、レンズが入っていない。偽物だ」
「おしゃれ眼鏡……ロクサス様、おしゃれ眼鏡……」
私は沸騰したお湯に、再度塩揉みしてよく水で洗ったタコを、背伸びをして足先から入れていく。
ふにゃふにゃした蛸足が、くるくると丸まりながら赤くなっていく。
「悪いか。……今でこそ、兄上の髪は真っ白になってしまったが、昔は俺と兄上、見分けがつかないぐらいに似ていたんだ。だから、父が、……不要な方、……つまり、俺に、眼鏡をかけろと言ってな」
「ふよう……?」
「兄は優秀だったが、俺は、兄に比べると凡庸だった。それだけの話だ」
「ロクサス様は魔法が使えるのに」
「……その魔法も、……良いものではない」
ロクサス様は短く言うと、私に言われたものをとりに保存庫の前に向かった。
お鍋の中で、大きな蛸がぐつぐつ煮込まれて、真っ赤になる。
ゆでだこ。
「綺麗なゆでだこ……素晴らしいゆでだこ……!」
足がくるんとまるまって、真っ赤になって、まさしく全王国民の理想とする茹で蛸が出来上がった。
蛸料理専門店の看板に描かれている蛸が、まさにこんな感じ。
ミトンをした手でお鍋のとってを掴んで、大きなザルに蛸をあげる。
蛸は茹でると小さくなるので、それはそれは大きかった蛸も、縮んで小さくなっている。
ころんとして可愛い茹で蛸を見つめて、私はにこにこした。
ここに連れて来られた時は、ロクサス様のことをなんだこの変態って思っていたけれど。
今も、連れてきた女に侍女服を着せる趣味のある特殊な変態のおしゃれ眼鏡って、多少は思っているけれど。
でも、怒る気には、なれないわね。
この美味しそうな蛸を、どうにかしてレイル様に召し上がってもらいたい。
だって蛸は、王国民のソウルフードなのだし。
あ。これは、庶民にとっては、だけれど。貴族の方々はもっと飽食なので、そうでもない。
「……うわ!」
綺麗に茹であがった蛸に満足する私の後ろで、なんだか間抜けな声があがった。
何事かと思って振り向くと、ロクサス様が両手に抱えた玉ねぎを、床にころころ転がしていた。
どうやらお米の袋と、たくさんの玉ねぎと、調味料などを一度に持とうとしたらしい。
玉ねぎを拾おうとしたロクサス様は、お米の袋を床に落として、ついでに月桂樹の葉っぱがたくさん入った容器も落として、衝撃で蓋が開いて床に乾燥月桂樹をぶちまけた。
「だ、大丈夫ですか……!」
「問題ない。拾えば良いだけのことだ」
「……もしかしてロクサス様、不器用なのですか……?」
「…………兄に比べて、凡庸だと言っただろう、俺は」
「ロクサス様、あの、ごめんなさい……何もしないで座っていてください……」
玉ねぎと月桂樹は落としても大丈夫だけれど、お米を床にぶちまけられたら大惨事だったわよ。
私がお手伝いを丁重にお断りすると、ロクサス様は「仕方あるまい……それなら、お前に、何か飲み物でも淹れてやる」とかなんとか言った。
嫌な予感しかしないわね。
茶葉をぶちまける予感しかしないのよ。
私は玉ねぎと月桂樹を拾って作業台の上に置く。
「ロクサス様……ロクサス様は、ここにいてください。それだけで、良いですから……!」
「……俺にも、重たいものぐらいは運べる」
「その時はお願いするので、今は、私を見ていてください」
「……仕方ないな」
ロクサス様が少し悲しそうだ。
でも、茶葉をぶちまけられるの、嫌だし。
何も任せられないのよ。お皿も割りそうだし。
ロクサス様を座らせた私は、再び綺麗な茹で蛸に向き合ったのだった。
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