リディア、絡みつかれる。そして絡まれる。
マーガレットさんとお別れをした私は、食堂の作業台の上に冷凍蛸を置いた。
背負いカゴをおろすと、ようやく人心地ついて深いため息を吐き出した。
「重かった……蛸、ありがたいけれど、重かった……」
食堂を開くからには、食材運びは切っても切りはなせないお仕事だ。
「背負いカゴは便利だわ。八百屋のおばさまに、今度お礼に、クッキーでも焼きましょう」
基本的には満腹になる食事が好きな私だけれど、お菓子が作れないというわけではないのよね。
お菓子もまた、良いものだ。
甘いものを食べると心が穏やかになる気がするのよ。
神官家にいた時は甘いものなんて食べる機会、なかったけれど。
「……殿下に招待していただいたお茶会で食べたシフォンケーキ、美味しかったわね……」
はじめて食べたケーキ、美味しかった。
そしてあの時の殿下、優しかった。
「……忘れるのよ、私。お料理に恨みをぶつけてばかりいてはいけないのよ。食材さんたちが可哀想だし……反省したのだし」
もう殿下のことなんて好きじゃないけど。
クッキーについて考えたら、シフォンケーキの思い出が蘇ってきた。
あのシフォンケーキ、紅茶の茶葉が入っていて、甘みをおさえたクリームとラズベリージャムが乗っていて、美味しかったわね。
「やっぱり……子供たちや可愛い女の子にきてもらうためには、昼過ぎのティータイムまで営業時間を伸ばして、美味しいお菓子と紅茶を提供するべきかしら……」
私は作業台の横の丸椅子に座って、ぶつぶつ呟く。
ちょっと休憩なのよ。
市場から荷物を抱えて戻ってきたから、疲れてしまったし。
「……お菓子も、悪くないわよね。もちろん、ご飯も大切だけれど、お菓子は心のゆとり……もう怒らない私、過去の恋を引き摺らない私……」
うん、うん。
そうよね。
大切だわ。
私調べによりますと、男性というのは甘味を好まない。
ステファン様も、お城の中庭に用意されたテーブルセットに座って、はじめてシフォンケーキを食べる私を見ながら、にこにこしていたもの。
ステファン様は、甘いものが好きではないから食べないと言っていたし。
ということはきっと、ルシアンさんや、レオンズロアの皆さん、それからシエル様やセイントワイスの皆さんもそうだし、傭兵や冒険者の方々もそうに違いないのよ。
「シエル様は辛いものが好きだって言っていたから、食べないと思うし」
シエル様はお友達だから、ご飯を食べにきても良いのだけれど。
ともかく、私の可愛いお店を、可愛いお客さんでいっぱいにするためには、お菓子だ。
「とりあえず、蛸、よね。蛸。それよりも前に、お風呂に入って、着替えをしなきゃ」
海水で濡れた髪や服をどうにかするために、私は丸椅子から立ち上がった。
お昼まではまだ時間がある。
お風呂に入って昼のランチの支度をして、お店を再び開くには十分な時間だ。
「よし!」
私は気合を入れて立ちあがった。
気合を入れて立ち上がった私の足に、何かぬめぬめしたものが巻き付いた。
「ひゃあ!」
私は驚いて、悲鳴をあげる。
「な、何、ななな、なに、何、なんなの、何これぇ……っ」
怖い。怖い。
怖いのよ。
ぬめぬめした何かが、ずるずると私の体を這い上ってきている。
じたじたと暴れる私に、作業台の上で凍りついていたはずの巨大蛸さんが絡みついている。
なんでよ。
凍っていたじゃない……さっきまでかちんこちんに凍っていたじゃないの……!
「ひぇぇ……っ、た、蛸さん、怒らないで、美味しく料理してあげるから怒らないで、わぁん、ぬめぬめしないで……っ」
蛸さんが、怒っている。
いえ、怒っているかどうかはわからないわね。だって蛸だし。
ともかく蛸さんは私のスカートの下に隠れた足に、私の足と同じぐらいの太さのある蛸足をまとわりつかせて、私の腰をぎゅうぎゅうと蛸足で締め付けて、私の顔にぴたぴたと吸盤のある足の先端で触れている。
「食べないで……っ、食べられないのよ、私、食べものじゃないのよ……っ」
引き剥がそうとしてぬめぬめの蛸足を掴んでみるけれど、強力な吸盤のせいで私の体から蛸さんは離れそうにないし、ぬめぬめの体に手が滑って、うまく掴むこともできない。
「ううう、シエル様、助けて、シエル様……っ」
私の命の危機がある時に、シエル様の宝石が助けてくれるのではなかったのかしら。
ポケットの中の宝石はうんともすんとも言わないわよ。
つまり、これは命の危機ではないのかしら。
蛸に絡みつかれているだけといえば、だけなのだし。
「氷魔法がとけたのだわ……っ、帰ってきてからすぐに、調理しておけばよかった……」
氷漬けにしても生きている蛸さんの生命力がすごいといえばすごいのだけれど。
やっぱり巨大だからかしら。
大きなものは生命力も強いのだわ。
殿下のソーセージよりもシエル様のソーセージの方が立派なのも、そういうことなのよね。
人間としての器の大きさが違うのよ。
巨大蛸さんよりもヒョウモン君の方が大きいから、ヒョウモン君は紳士なのね……!
「ひ、ああああっ」
混乱のあまりよくわからないことを考えてしまったわよ。
そうこうしている間にも、蛸さんは私の体に巻きつき続けている。
一日に何回も蛸に巻きつかれるなんて、今日はそういう日なのかしら……もしかして、この蛸さんが、マーガレットさんが言っていた死神のカードが示す、蛸なの?
「……昼から、何をしているんだ、お前は。そのような趣味があるのか」
どのような趣味なの!
蛸に巻きつかれる趣味って、一体なんなの!
というか、誰なの!
「リディア、婚約破棄をされたからといって、蛸相手に戯れるとは……」
冷たい声で私に話しかけながら、食堂の扉を開いて私の元に向かってくるのは──知っている男性だ。
それは、フランソワの元婚約者の、ジラール公爵家の次男、ロクサス様だった。
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