ふしぎの海のリディア
くじら一号が、外洋に向けてスイスイ進んでいく。
くじら一号の背中に乗ったヒョウモン君に、装着されている座席の上で、私は戦々恐々としながらどんどん離れていく聖都の街と、一面海と空だけの景色を見ていた。
浜辺で遊んでいる子供たちが、私たちにぶんぶん手を振っている。
くじら一号が珍しいのよね。
普通は船だし。くじらと蛸に乗って海を渡っているのはツクヨミさんぐらいなので、私もそう思う。
「まぁそう怖がるなって。タイ釣りと違って、蛸釣りはそう深いところまではいかねぇしな」
「そうなんですね……家に帰りたいです……」
「海は良いだろ、嬢ちゃん。広いし何もないし、自由だ」
「私はひじきを買いに来たのに……」
「ひじきも旨いが、蛸も良いだろ。今日は蛸の唐揚げにしてくれ、嬢ちゃん。マーガレットと飲みにいく」
「大衆食堂なので、お酒ありません……!」
「酒は持参するから、良いだろ」
「だ、だめです、ツクヨミさんとマーガレットさん、お酒飲むと、ずっといるし……」
いつもお世話になっているし。
そう思って一度だけお酒を持参することを許したら、日付が変わるまでずっといたから大変だったのよ。
私の話、聞いてくれたから、それはまぁ良かったのだけれど。
「二階のベッド、余ってるだろ?」
「と、泊まっていく気ですか……!」
「駄目なのか、俺と嬢ちゃんの仲じゃねぇか」
「たまにお買い物に行くだけの関係です……っ」
「寂しいなぁ、おい。今、俺の脳内にくじら一号が、若い女を揶揄うな愚か者……って話しかけてきたんだが」
「くじらちゃん……!」
いつも飄々としているツクヨミさんの言葉は信用ならないのだけれど、大人だと思っていたら、悪い大人だったのよ。
くじら一号は私の味方だわ。
ツクヨミさんとマーガレットさんの面倒を朝まで見るのは嫌なのよ。
いくらお世話になっているとはいえ、お泊まりは駄目だ。
「お嬢ちゃんを揶揄っていたら、目的地についたぞ」
「帰りたい……」
「新鮮な蛸、欲しいだろ、嬢ちゃん」
「ひじきごはん……」
ひじきごはんは諦めて、蛸の唐揚げにしようかしら……。
蛸の唐揚げ。トマト煮込み。一本足グリル。薄切りカルパッチョ。
蛸料理について考えながら、私はぐるりと周りの景色を見渡した。
くじら一号の座席には、操舵のための操舵輪がない。
というか、何もない。椅子はあるし、荷物置き場もたくさんあるけれど。
ツクヨミさんはくじら一号とお話をして、目的地を指示しているので、操縦の必要はないらしい。
その代わり、大きな魔石が一つ、正面の台座に置かれている。
ツクヨミさんがそれに触れると、透明な膜のような屋根が、シャボン玉が弾けるみたいにぱっと消えた。
海風に、髪が靡く。視線を巡らせると、うねうねとした太い蛸足。
黒に近い赤に、青の斑点のある、危険な色合いのヒョウモン君。
私をじっと見つめるヒョウモン君の真っ黒い瞳。こわい。
何を考えてるのかわからないわよ、蛸だし。
「ヒョウモン君の前で、蛸料理について考えるのは、罪悪感がすごいわよ……」
「大丈夫だ、嬢ちゃん。ヒョウモン君も、我も蛸料理が食いたい、踊り食いで頼む、って言ってる」
「言葉使いがすごい……! 踊り食いは料理じゃない気がします……!」
男らしいのね、ヒョウモン君。
蛸なのに、蛸を踊り食いするのね。本当に蛸なのかしら、ヒョウモン君。あやしい。
「よし! じゃあ、壺を引き上げるぞ。仕掛けた浮きが、あそこに浮いてる。ヒョウモン君、取ってくれ」
海原の水面に、ふよふよとまんまるい浮き輪のようなものが浮いている。
ヒョウモン君は蛸あしの一本を浮き輪に伸ばしてくぐらせて、ひょいと持ち上げた。
ざばんと水しぶきが上がる。ヒョウモン君がヒョイっとするだけで、浮きが空高く持ち上がる。
ヒョウモン君、体も大きいので、蛸足もとても長い。
吸盤のついた足が、海水に濡れててらてらと光っている。すごくぬめぬめしている。
ヒョウモン君が持ち上げるだけで、縄に蛸つぼがいくつかついている仕掛けが、海底から顔を出した。
それを軽々と、器用に甲板に下ろしてくれる。
ツクヨミさんは縄を受け取って、ぐいぐい引っ張っていく。
足元に散らばる蛸壷。こぼれ落ちる海水。びしょびしょになる私。
「う、うう、服が冷たい……お着替え持ってきてないのに……」
「少々の濡れなど気にするな、リディア。海の男は、海水など気にしねぇものだ」
「私、海の男じゃないです……」
さめざめと泣きながら、私は濡れたエプロンや服や髪の水滴を、手で払う。靴も靴下もじんわりと海水が染み込んでいる。
「ヒョウモン君とツクヨミさんだけで、十分じゃないですか……私、手伝うこと、ないのに……」
「甘いな、嬢ちゃん。蛸壺から蛸を出すのが大変なんだ。取り出した蛸は氷魔法で瞬間凍結させる。鮮度が落ちねぇようにな。これを一人でやるとなると、なかなか骨が折れる」
「私、魔法、使えないです……」
「嬢ちゃんには魔法を使って欲しい訳じゃねぇよ。蛸壺から蛸を取り出して、凍らせた蛸を保存箱に入れるのが嬢ちゃんの役目……って、おお……!」
「え……?」
ツクヨミさんが突然妙な声をあげたので、私は足元の蛸壺を見下ろしていた視線を上に上げた。
ぐいぐい引き上げられる縄の一番最後の先端に、何かが巻き付いている。
それは、蛸つぼにおさまりきらないぐらいの大きさの、巨大な蛸だった。
巨大といっても既にヒョウモン君を見ているので、ヒョウモン君に比べてしまえばかなり小さいのだけれど。
でも、私の体と同じぐらいの大きさの蛸だ。
「こりゃ、大きいな! 足一本で、満腹になりそうな大きさだ! 頭から足までの長さは、嬢ちゃんよりも大きいんじゃねぇか?」
大きな蛸で、仕掛けは最後だった。
水浸しになった甲板に、蛸壺と巨大蛸が転がっている。
蛸壺の中の蛸たちは奥ゆかしく蛸壺の中に入っているのだけれど、巨大蛸はうじゅうじゅと足を動かして、なぜか私の方に真っ直ぐ突き進んでくる。
「い、いやぁあ……っ、捕まえたの、私じゃなくてツクヨミさんなのに、怒らないで……来ないで……っ」
私は座席の上に立ち上がって逃げた。それでも大きな蛸さんが追ってくるので、甲板の端っこまで走って逃げた。
「ひゃん!」
甲板は海水でずぶ濡れなので、結構滑る。
足を滑らせて転がりそうになった私を、大きな足が受け止めてくれる。
「ヒョウモン君……」
ぬるぬる、べたべた、しているのよ。
巨大な吸盤が、私の体に絡みついている。
優しいけど、優しいけど……! でも、ヒョウモン君は蛸なの!
「っ、うああああ……っ、た、蛸さん、離れて……っ、怒らないで、私、美味しくないから……!」
ヒョウモン君の腕というか蛸足がするりと離れたと思ったら、私と同じぐらいの大きさの巨大蛸が私にまとわりついてくる。
なんなの、今日は。
蛸にまとわりつかれる日なの、今日は。
マーガレットさんに占って貰えばよかった。蛸にまとわりつかれるから、港には近づかないようにって教えて貰えたかもしれないのに。
「嬢ちゃん、蛸に好かれたな……そういえば、倭国には、今の嬢ちゃんを絵にしたような春画があってな……」
「ツクヨミさん、しみじみ言ってないで、助けてくださいよ……っ」
「蛸に好かれるとか、羨ましい限りだ……」
「嫉妬してないで……!」
ギリギリするのはやめて欲しいのよ。
ツクヨミさんから蛸への愛は一方通行かもしれないけれど、それは私のせいではないもの。
「おお、そうだった。ほらよ」
ツクヨミさんが手をかざすと、巨大蛸は瞬時に凍りついた。
凍りついた蛸足が、私から離れていく。
「……うう、ベトベトする……ひどい……」
「泣いてる場合じゃないぞ、嬢ちゃん。蛸壺から、蛸を出す仕事が嬢ちゃんには残ってる」
「ううう……殿下め……」
ステファン様は蛸とは関係ないのだけれど、今ここで私が蛸に絡みつかれているのは、大体ステファン様のせいだ。
「孤児院の子供たちが落としたケーキのクリームで足を滑らせて転ぶと良いのだわ……」
私は呪詛の言葉を吐き出しながら、蛸壺から蛸を引き摺り出した。
涙で視界が滲んで、蛸がよく見えないのよ。
すごくぬめぬめして、グニグニしている。
確かにちょっとクセになりそうな感じだった。
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