赤い月の崩壊
小さなシルフィーナちゃんが、私の腕の中できらきら輝きながら消えていく。
シルフィーナちゃんの感情が、記憶が、痛いほどに伝わってきて、私も涙をぼろぼろこぼしていた。
「ありがとう、リディア。私のところに来てくれたのが、あなたで、よかった」
「シルフィーナちゃん……」
「もうずっと、生きてきたのに、あなたよりもずっと、年上なのに、そう呼ばれるのは心地いいわね」
シルフィーナちゃんの言葉が、声が、その残響がいつまでも鼓膜に残っているようだった。
私は空っぽになった両手で、自分の体を抱きしめる。
「シルフィーナちゃん……!」
「リディア!」
悲しみと喪失感の余韻に浸る間もないままに、赤い月の内郭から、いくつもの赤い手が私やステファン様に向かって伸びてくる。
ステファン様はそれを聖剣で切り裂き、払った。
「女神アレクサンドリアの強力な魔力が、まだ残っている。閉じ込められる前に逃げるぞ! 赤い月が自壊したら、閉じ込められたまま共に消える羽目になる」
「シルフィーナちゃんが……」
「シルフィーナは、消えた。きっと救われたんだ、リディアに」
ステファン様は私の手を握った。
手を引かれて立ち上がる。赤い月内部の床が、奥からどんどん崩れていく。崩壊がこちらに近づいてくる。
崩れた先には、ぽっかりと、空が広がっていた。
「わぁ……っ」
「リディア、走れ!」
ステファン様が私たちを捕まえようとしてくる大きな手を切り裂いて、道を作ってくれる。
けれど──どこに逃げろというのだろう。
私たちが入ってきたはずの、赤い月の入口は閉じていて、視線の先には行き止まりの壁が広がるばかりだ。
足元が崩れていく。崩れて、崩れて。
私とステファン様は、崩れた床から空へと放り出された。
ばたばたと、髪が、服が風圧ではためく。
視界いっぱいに広がったのは、ベルナール王国からキルシュタインまで広がる──私たちの住む、愛しい大地だった。
遠くに山脈が見える。聖都の横には海が広がっている。
ジラール公爵領、エーデルシュタイン。それからその先には、まだ行ったことのないクリスレインお兄様が住む、エルガルドがあるのだろう。
ベルナール王国は広くて、私はまだほんの少しのことしか知らない。行ったことのある場所も、一握りだ。
ここにはたくさんの人たちが住んでいて、人だけではなく動物も、植物も、いろんなものが生きていて。
苦しいことも悲しいことも、辛いこともいっぱいあって。
でも──それと同じぐらいに、嬉しいことも、楽しいことも、いっぱいある。
守りたい、私の場所。
大切な人たちが住んでいる、私のうまれた国。
私の知らない人たちだって、毎日泣いたり嫌になったり、でも笑ったり、楽しくなったり。誰かを愛したり、誰かと喧嘩をしたり、悩んだり、遊んだりしながら日々を過ごしている。
「お願い、アレクサンドリア様! 最後に力を貸してください、みんなを癒やす、力を!」
崩壊した赤い月は、私とステファン様が落ちるよりも早く、大地へと落ちていく。
巨大な赤い月のかけらが落ちたら、きっと大変なことがおこる。
大地は傷つき、その上で暮らしている人も植物も動物も、無事ではいられない。
「アレクサンドリア様の望み、叶えました! だから今度は、私の願いを聞いてください!」
聖女の力を失ってもいい。
私に力があるのなら、私の全てを捧げてもいい。
皆を、この国を、この大地を、守りたい。
私の体が、光に包まれる。
落ちていくばかりだった私の体が、ふわりと浮かんだ。
私の祈りなのか、それとも願いを聞き届けてくれたアレクサンドリア様の力なのか。
崩壊する赤い月が、マカロンやカップケーキ、ショコラトルテやミルフィーユ、いちごタルト。
様々なお菓子となって、王国全土にお菓子の雨を降らせる。
大きな竜の姿から、少し小さくなったメルルちゃんがステファン様を背中で受け止めて、私の隣に並んだ。
「リディア……」
「リディアさん!」
「リディア!」
ステファン様の声に、私を呼ぶ声が重なる。
宝石の羽もお洋服も、ボロボロにしたシエル様が私の元へと飛んできて、両手を広げてくれる。
ファフニールに乗ったルシアンさんも、同じく私の元へと飛んできてくれる。
ファフニールには、うさぎの姿に戻ったイルネスちゃんと、トカゲに似た姿に戻ったメドちゃんが乗っている。
「シエル様、ルシアンさん! イルネスちゃん、メドちゃん……!」
私は、シルフィーナの元で、傷つき倒れて命を失った皆の姿を見ている。
それは幻覚だとわかっているけれど、やっぱり心のどこかに、その姿は黒い染みのように残っていて。
無事だとわかって、ほっとして、止まっていた涙がまた溢れた。
私を包んでいた光が消えて、私はそのまま空からふわりと落ちていく。
そんな私をシエル様が抱き止めて、シエル様は私を抱いたまま、ファフニールの上に降りた。
「定員オーバーだ、シエル」
「助かりました、ルシアン。リディアさんを抱きしめたまま落ちるなんて、情けない姿を見せずにすんだ」
「幽玄の魔王様も、魔力切れか?」
「星墜の死神も、月は落とせなかったようですけれどね」
「あ、あの!」
喧嘩なのか、なんなのか、言い合いを始める二人に、私は話しかける。
「リディアさん、無事でよかった。おかえりなさい」
「おかえり、リディア」
顔を見合わせて苦笑したあと、優しく微笑んでくれる。
「はい! 帰りました、ただいま……!」
私もにっこり笑った。
笑ったつもりだけれど、笑えているかどうかわからなくて。
でもそれが泣き笑いだったとしても、きっと──私の大切な人たちは、嫌な顔ひとつせずに受け入れてくれるだろう。
そう思えることが、嬉しかった。
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