ロベリアの料理人、リディア・レスト
──リディア!
そう、私を呼んで必死に手を伸ばしてくれるステファン様の姿が、私の前から消えていく。
正確には、ステファン様が消えたのではなくて、私があの場所から消えてしまったみたいだ。
黒い穴から、私の体を掴むようにして黒い蔦が伸びてくる。
それは深い深い深淵へと、私を引き摺り込んでいく。
穴の底で、赤い宝石の仮面を被ったシルフィーナが私に手を伸ばしている。
『リディア、私はあなたを見ていた』
『暗い暗い、狭い場所からずっと』
『子どもたちの目を通して、あなたを見ていた』
『子どもたちは、私を裏切った。私を裏切り女神を慕った』
「それは違います……! エーリスちゃんたちは、皆は、あなたを助けたいって願っています! 私も同じ!」
穴の底にいるシルフィーナと、穴の底から伸びてくる蔦は見ることができるのに、その穴の中は真っ暗でどれぐらい広いのか、深いのかさえわからない。
光の届かない海の底へと引き摺り込まれているみたいだ。
海の底では、私を飲み込もうと巨大なイカさんが待っている。
イカさんではないわね、あれはシルフィーナだ。イカさんなんて言ったら怒られてしまうわね。
体からぐにぐにした蔦を伸ばしているし、仮面が赤いので、アカイカさんに見えなくもない。
うん。大丈夫、落ち着くよの、私。
巨大イカさんについて考えることができるのだから──大丈夫。
ここまで来れたのは、みんなの力があったからだ。
お父様たちやセイントワイスの皆さん、レオンズロアの皆さんが聖都を守っていてくれる。
レイル様とロクサス様、エーリスちゃんとファミーヌさんも一緒に、人々を守っていてくれる。
イルネスちゃんとメドちゃん、ルシアンさんが空の道を開いてくれた。
シエル様が、月への道を開いてくれた。
お父さんが、月の扉を開いて、メルルちゃんが私たちを運んでくれた。
ステファン様は一緒に、ここまで来てくれた。
私は皆から、希望を託されている。
シルフィーナが私を一人にしたのには、きっと何か、理由があるはず。
だから怖がらないで、落ち着いて。
私は一人じゃない。もう、一人じゃないのだから。
『すべて、綺麗事。私を助けたいなんて、綺麗事。私の望みは、破滅しかない。テオバルトとアレクサンドリアの子供たちを殺すこと。あの二人が、私の子供を奪って、殺したように!』
「すごく、辛くて、すごく悲しかったと思います。ひどいことだって、思います。でも、シルフィーナ! キルシュタインの方々も、宝石人の方々も、それからエーリスちゃんたちもあなたの家族ではないですか? 国が滅べば、みんな無事ではいられません!」
『それが何? 私は、苦しいばかりだった。悲しくて、辛くて、死んでしまいたくて、でも、死ねなくて。ずっと、一人だった。ここで、ずっと一人。私は、一人。誰もいらない、誰も! 全員死んでしまえばいい!』
「シルフィーナ! 私が、います、あなたと一緒に! 私も同じでした、ずっとひとりぼっちだと思っていました! だから、誰もあなたの手を掴んでくれないのなら、私が掴みます!」
蔦に絡め取られてその奥底にいる大きなシルフィーナの元へと引き摺り込まれながら、私は大きく両手を広げた。
「私は、あなたに美味しいものを食べてもらいたくて、ここまで来ました!」
大きな声を出すのは、得意じゃなかった。
隅の方で、こそこそしてばかりいた。
いつもお腹が空いていて、悲しくて。
誰かのぬくもりが、欲しかった。
私を見て欲しかった。愛して欲しかった。
でも──それは違っていて。
私はずっと、愛されていた。
シルフィーナだって同じだ。悲しいことはたくさんあったけれど、シルフィーナの両親は、きっと彼女を愛していた。
シルフィーナを苦しめたことに怒った彼女のお兄様、古い時代のキルシュタインの王は、ベルナールに戦争を仕掛けた。
苦しくて悲しくて辛くてどうにもならなかったのよね、きっと。
でも──手を伸ばせば、彼女の手を握り返してくれる人はきっと、いたはずだ。
誰もいないのなら、私が。
私があなたに手を伸ばす──!
大衆食堂ロベリアは、可愛い子供たちから女の子たち、お母さん方に、ムキムキの筋肉の方々や、冒険者のおじさまたち。
疲れた人も悲しい気持ちの人も、困っている人にも楽しい気分の人にも。
みんなに美味しいものを提供するお店。
私はその食堂の料理人だから!
「シルフィーナ! お願い、一緒に、ご飯を食べましょう!」
ぽちゃんと、私の体はシルフィーナの被っている真っ赤な宝石の中に、湖に飛び込むように飲み込まれていった。
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