レオンズロアの皆さんVSセイントワイスの皆さん
時刻は朝の四時半。まだ外は少し薄暗い。
夏の終わりのこの季節は、薄く開いた窓から少しだけ秋の気配がする涼しい風が入り込んでくる。
「……浮気男の夢を見た気がするのよ……」
私は窓際のベッドの上で起き上がって、ふぁ、と欠伸をした後、両手を上にぐぐっと伸ばした。
夢に、出会ったばかりの頃のステファン様が出てきたような気がする。
あの頃の夢を見た朝は、「あの頃は、幸せだったわよね……嘘つきな浮気男め、滅びろ……」とかなんとか言いながら、ぐずぐず泣いていた私。
でも、今日はそこまで落ち込まなかった。
「私が、……少し、変わった、みたいに。殿下も……心変わりぐらいは、するわよね」
ベッドから降りると、二階にある浴室に向かう。
洗面台で顔を洗って、髪を梳かして一つに結ぶ。
寝室に戻ってブラウスとスカートを着て、黒いエプロンを身につける。
エプロンのポケットに、枕元に置いてあったシエル様から貰ったお守りの宝石を入れた。
「もう、二度と会うこともないだろうし……」
良い思い出が少しだけあるというのが、そもそもよくないのよ。
最初から冷たくされていたら、怒ったり恨んだり悲しんだりすることもなかったかもしれないのに。
「でもやっぱり、ちょっと腹が立つから、朝目覚めたら間違えて石鹸じゃなくて歯磨き粉で顔を洗ったりすれば良いのだわ……」
私は夜明けの空にお祈りを捧げた。
ステファン様と私はもう無関係だし、未練も、ないけど。
でも純真だった私の初恋を奪った罪は重いのよ。
だって、初恋は一度しかできないし。
もう、恋なんて、するつもりもないし。
「偉いのよ、昨日の私。今日は朝からパンが焼けちゃうわ」
ぼんやりとした頭の中に、ステファン様の顔が思い浮かぶ。
最近会った気がするけど、顔がよく思い出せないので、目元に黒い線が入ってピースサインをしている。
ステファン様、朝から元気そうね。
ステファン様の顔に、白い満月みたいなふかふかの何かが被る。
パン生地だ。
私は昨日の夜のうちに捏ねておいたパン生地のことを思い出した。
窓の外からは、鈴虫の声がする。
私は薄く開いていた窓を閉めて、ベッドを綺麗に整えた。
それから一階のキッチンに向かった。
保存庫の中に入っているのは、レーズンを発酵させた酵母を混ぜて作ったパン種をもとに、昨日捏ねておいたパン生地である。
ふっくらと膨らんでいて、ウサギのお尻みたいで可愛い。
王国では、パンを好む人と、ご飯を好む人が半々ぐらい。
私は両方好きだし、朝ごはんを食べにくるルシアンさんと騎士団の方々も、どっちでも良いと言っている。
だから気分によって変えているのだけれど、パン生地を作るのが楽しいので、パンの日は結構多い。
発酵まで時間がかかるから、夜のうちに捏ねなくてはいけないのだけれど。
でも、この、捏ねるという作業。
全ての怒りや憎しみをパン生地に叩きつけられるので、お肉のミンチを作る次ぐらいに、好き。
「でも、私、反省したから……もうパン生地には憎しみをぶつけたりしないのよ」
保管庫からパン生地を取り出して、綺麗に拭いた作業台の上に小麦粉で打ち粉をして置いた。
私の顔ぐらいに大きく膨れ上がっているパン生地はふかふかで、柔らかい。
とっても良い感じに膨らんでいて、嬉しい。
「後は、丸めて焼きましょう。今日は、くるみとクランベリーを入れて焼いてみようかしら」
うん。美味しそう。
くるみやドライクランベリーは、ツクヨミさんがマーガレットさんと遊びに来た時にお土産でくれたものだ。
パン生地に入れて捏ねて、私の握り拳大に丸めていく。
天板に並べて、温めたオーブンに入れる。
炎魔石のおかげで、オーブンの温度も調節ができるし、安定してパンを焼けるのよね。
「すごいわ、私……! まだ、今日は、怒ってないし、泣いてない……!」
ステファン様の夢を見てしまったせいで、一瞬メンタルが暗黒面に落ちそうになったけれど、今は鼻歌も歌えちゃうぐらいに爽やかな朝という感じ。
「……あれ? じゃあ、ルシアンさんが言っていた、恨みをぶつけることで込められる不思議な力も、ないのではないかしら……ただの料理。普通の、料理……?」
それって、ルシアンさんにとっては私は、なんの価値もなくなるということではないのかしら。
それに、シエル様の役にも立たなくなってしまうのではないかしら。
「まあ、いいか」
そもそも私は、ここで静かに一人で食堂を開いて、可愛い女の子や子供たちに料理を提供する人生を送るつもりだったのよね。
初心に返ったということだわ。
パンを焼きながら、玉ねぎとにんじん、現実的なソーセージで具がたっぷりのクリームスープを作る。
後は、スクランブルエッグを作れば、朝食セットの完成である。
そうこうしているうちにパンが焼きあがった。
食堂に、香ばしくて少し甘い香りが立ち込めている。
こんがりきつね色に焼けたパンは、まんまるで、クランベリーとくるみがたくさんはいっていて、美味しそう。
時刻は午前八時過ぎ。食堂の壁掛け時計が、カチカチと鳴った。
窓からは優しい日差しが降り注いで、──外からは、爽やかな朝とは思えない、喧騒が聞こえた。
「……な、なにごとですか……」
私のお店の前で、何やら喧嘩が起こっている。
びくびくしながら顔を出すと、レオンズロアの副団長である、騎士団の方にしては細身の長身、燃えるような赤い髪をした男性、ノクトさん率いるレオンズロアの皆さんと、リーヴィスさんを中心としたセイントワイスの皆さんが睨みあっていた。
「リディアさん、おはようございます」
「リディアさん、おはよう」
私が顔を出すと、睨み合っていたリーヴィスさんとノクトさんが私の方を振り向いて、爽やかな笑顔を浮かべる。
何やら言い合っていた気がするのだけれど、気のせいなのかしら。
「お、おはようございます、リーヴィスさん、ノクトさん、みなさん……ええと、今日は、ご飯を食べにきてくれたんですか?」
ここは、食堂だし。
私のお店の前で睨み合っているのだから、ご飯を食べに来た以外には、目的はないとは思うけれど。
ご近所の方々に迷惑だから、ご飯を食べに来たのなら早く中に入ってほしいのよ。
「そうなんです、リディアさん! シエル様が南地区に自宅を購入して研究室を移されたものですから、私たちもご挨拶に来たのです。せっかくだから、リディアさんの朝食を食べようと思って、ここに。そうしたら、ノクトが邪魔をするものですから」
「当たり前だ……! どういうつもりだ、セイントワイス! リディアさんの食事は、我らレオンズロアのものだぞ」
「い、いえ、食堂なので、誰のものとかはないのですが……」
私が困り果てながら言うと、セイントワイスのみなさんが何か扇のようなものを取り出す。
扇には、私の名前と、何故かハートマークが描かれている。
「私たちは、セイントワイスではありますが、リディアさんに命を救われた時から、私たちの妖精リディアさんを崇める会を発足しました。リディアさんへの想いは、レオンズロアよりも五百倍、いえ、百億倍、といったところでしょうか。つまり、今日の食堂での食事の優先権は、我らがセイントワイスにあります」
リーヴィスさんの言葉と共に、セイントワイスのみなさんは「リディアさん!」「私たちの救世主!」と口々に言う。
「何を言っているんだ、リーヴィス。リディアさんは我らレオンズロアの嫁! ルシアン団長が幾度リディアさんを口説いて、幾度フラれたと思っているんだ……! リディアさんという光り輝く宝石の原石を見つけたのは、我らレオンズロア! 我らも、リディアたんを応援する会を発足するぞ、皆!」
ノクトさんの言葉と共に、レオンズロアの筋肉のみなさんが「おお〜!」と野太い声をあげた。
「やめてください、やめてください……! ご飯、たくさんありますから、仲良く食べてください……! 席が足りなかったら、キッチンの作業台をテーブルにしますから、ご近所迷惑です……っ」
前言撤回だわ。
爽やかな朝、男性に恨みのない私、小鳥たちも囀っているわね〜って思ったけれど。
暑苦しいのよ。むさ苦しいのよ。
気持ちは、気持ちはありがたいし、ご飯を食べたいって思ってくれるの、嬉しいのだけれど。
今日の分で焼いたパンが、一瞬にして無くなりそうな人数だわ。
私はぐすぐす泣きながら、近所迷惑な男性たちを食堂の中に押し込んだ。
「リディア、おはよう! 良い朝だな。寝過ぎて、出遅れたんだが、今日はセイントワイスの連中も来ているのか」
私が騎士団のみなさんと魔導師団のみなさんに、少しお手伝いしてもらいながら、慌ただしく動き回ってお食事を提供していると、にこやかにルシアンさんが入ってきた。
「ルシアンさんに食べさせるご飯はありません……」
「な、なぜ……」
私は諸悪の根源であるルシアンさんを、涙目で恨みがましく睨んだ。
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