海の家のオムそば
砂が、じゃりじゃりする。
それから、濡れた服が、べとべとする。
ステファン様の手が私の背中と、それから、頭に触れている。
ぎゅっと抱きしめられると、濡れた服越しに体温の温かさを感じた。
呼吸の音が聞こえる。胸が上下しているのが分かる。心臓の音も聞こえる。体の距離が、皮膚の境界が曖昧になるほどに近くて、波の音と水道から水の溢れる音が鼓膜を揺らした。
「……リディア。……ずっと、君には苦しい思いばかりを、させてしまった。リディア、すまない」
「は、はい……あ、あの、どうしました、急に……?」
ステファン様、寂しくなってしまったのかしら。
ぎゅっと抱きしめられる腕の力の強さが、切ないぐらいに苦しくて、私は眉を寄せた。
「俺の時間が、失われなかったら。君を――幸せにできたのに。考えても仕方ないことなのに、どうしても考えてしまう。分かっているんだ。時間が戻らないことぐらい。俺にも付け入る隙があり、それが悪かったのだろうことも理解している。……だが、どうしても」
「ステファン様……」
「今のリディアが、今のリディアでいることを愛しているのも理解している。……違う道は選べない。過去を変えることもできない。……だが、俺は……」
ステファン様は言葉を区切って、黙り込んだ。
私の肩に額を押し付けて、俯いてしまう。
少し湿った金色の髪は、お日様みたいに綺麗で、私はそっとその髪に触れた。
ゆっくり撫でると、濡れた犬の毛みたいにもさもさしている。海水で濡れたからだろう。
いつもはもっとふんわり、さらさらしている。少し癖のある金の髪は柔らかくて触り心地がいい。
「ステファン様、大丈夫です。大丈夫。……私、うまく言えないですけれど、もう過ぎてしまった数年間よりも、これから先のほうが、長いんです。生きていくの、多分ですけれど、長くて……だからその、またたくさん思い出ができます。楽しいこととか、いっぱいありますよ、きっと」
「そうだな……」
「ステファン様、国王陛下に正式に即位するから、不安、かもしれませんけれど……私も、皆もいますから。大丈夫です」
ステファン様は不安になっているのかもしれない。
それはそうよね。色々、心配よね。だって国王陛下だもの。
この国は沢山の問題を抱えていて、それがステファン様の体に全部乗せられるのだと思うと、――私ならきっと不安になってしまう。
「ステファン様、お腹がすいているのかもしれません。お腹がすくと、悲しい気持ちになりますから。海の家でご飯を食べましょう? それで、家に戻って、アサリの下処理をして、夕ご飯はアサリパスタです。食べていきますか?」
「……食べる」
ステファン様の体をぎゅっと抱きしめて、背中を撫でながら私は言った。
お兄さんで、お父さんみたいで、でも、子供みたいだ。ずっと真面目に頑張っているから、疲れてしまうこともあるわよね。
海に入るとお腹がすくし。かなり大きな穴も掘っていたし。
きっとお腹がすいて、いつもよりも不安だったり悲しい気持ちになってしまったのだろう。
私はステファン様からそっと離れると、その顔を見上げてにっこり笑った。
ステファン様、髪と服が濡れて、ちょっと悲しい顔をしている。なんだか雨の日の犬みたいだ。
「じゃ、行きましょう。エーリスちゃんたちもお腹がすいたみたいです。ね?」
「……リディア。……好きだ」
「私も好きですよ。優しいステファン様のことは、ずっと好きです。行きましょう」
私はエーリスちゃんたちを抱き上げた。
ずっと待ってくれていたエーリスちゃんやファミーヌさんやイルネスちゃんは、やっと抱っこをしてもらえて嬉しいというように、私の体に小さな体を擦り付けてくれる。可愛い。
「……ステファン。リディアの好きを、信用するな。あの好きは、屋台のオムそばが好きと、同じ意味の好きだ」
「忠告感謝する。ありがとう、お父さん」
「お前たちはどうしてもう少し、強引に迫らないのだ。男としてどうかと思うぞ」
「……リディアは、シエルやルシアンによくなついている。強引なことをして、嫌われたくない。……失ってしまうのなら、今の関係を選択したい」
「それではなにも変わらない」
「……弱いんだ。俺は。それに、どうしても……リディアを傷つけた俺には出る幕がないと、考えてしまう」
「気にしていないだろう。リディアは。……あの子もあれで、成長している。恋人やら恋愛やらに興味はあるのだろうとは思うのだがな」
ステファン様とお父さんが、何かを話しながら私たちのあとを少し離れてついてくる。
海の家のお姉さんに私は、ラズベリージュースを二つと、オムそばを三つ頼んだ。
海の家のメニューは今日はジェラートとオムそばしかなかったので、一択だった。
メニューが少ないのも、迷わなくてすんでいい。
潮風にふかれながら、屋外の木製のベンチに座ってご飯を待っていると、お姉さんがラズベリージュースとオムそばを届けてくれた。
ラズベリージュースは、氷がたっぷり入っていて、赤くて綺麗な色をしている。
ソース味の焼きそばをふんわり卵で包んだオムソバは、楕円形の黄色い卵がふっくらしていて美味しそう。
「ステファン様、食べましょう」
「あぁ。……神祖テオバルト様、女神アレクサンドリア様。そして、リディア。君と食事ができることに、感謝を」
ステファン様は丁寧に食事前のお祈りをささげた。
ふんわりまろやかな卵の味と、しゃきしゃきしたキャベツやニンジン、小さく切った豚肉の入った濃いめのソース味の焼きそばが舌の上で広がって、海で遊んで疲れた体に染み渡る。
そういえば、お昼はオムそば。
夕ご飯はアサリパスタというのはどうなのかしら。
麺。という感じ。
「美味しい。……王宮の食事よりも、俺はこちらの方が好きだな」
ステファン様は、庶民の味が好きなのよね。
オムそばを食べながら、嬉しそうに目を細めるステファン様の姿に、私は微笑んだ。
バケツの中のアサリが、口を開いたり閉じたりしている。
ソースで口のまわりをべとべとにしながらオムそばを食べ終わったイルネスちゃんとエーリスちゃんが、不思議そうにバケツの中をのぞいたり、手をバケツに突っ込んだりして遊んでいた。
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