あなたに癒しの祝福を
国中を揺らしているかのように思える大きな振動が、断続的に続いた。
森の木々も、動物たちもざわめいている。
エーデルシュタインの山脈から多くの鳥たちが空に向かって飛び立ち、鹿や、うさぎなどの動物たちが恐ろしいものから逃げるようにして平野をかけていく。
ふらついて倒れそうになる私をルシアンさんがしっかりと支えている。
ガリオン様をクリフォードさんが支えて、宝石人の方々は身を寄せ合い、不安げにエーデルシュタインを見つめている。
街を包む透明な膜に、ぴしりぴしりとひび割れが入る。
歪みを修復するように、さらに新しい膜が幾重にも街を包んだ。
膜の中は真っ赤な光が充満していて、真っ直ぐに見つめると瞳が焼けてしまうのではないかと思うぐらいに眩しい。
目の奥が痛む。眩しいから、というだけではなくて──シエル様が、街の中で頑張っていることが分かるから。
私はイルネスちゃんに、夢の中に案内された。
それは多分、イルネスちゃんの記憶。シエル様と同化していた、イルネスちゃんが見たものだ。
ステファン様は、幼いシエル様は病気のお母様と同じ部屋でずっと過ごしていたと言っていた。
記憶の中のシエル様は、暗くて埃っぽい何もない部屋で、古ぼけたソファに膝を抱えて座っていた。
きっとあの部屋で、シエル様は過ごしたのだろう。
病のお母様が弱っていく姿を、ただ、ずっと見ていた。
辛くて苦しくて、残酷な記憶だ。心が壊れてしまっても、おかしくないぐらいの。
それでも、シエル様は誰も憎まず、恨まず、正しく生きることを選択した。
クリスレインお兄様が言っていたように、嫌いなトマトを消してしまおうとか、嫌いだと声を張り上げたりだとか、そんなことをしたりせずに、嫌いだという気持ちさえ心の奥に閉じ込めて。
シエル様は、強い人だ。
強いけれど、自分の心を、自分自身を守ろうとしない。
本当はずっと、苦しかったんだと思う。
苦しいということすら、気づくことができなくなってしまうほどに。
そんなシエル様が、自分の心を、体の奥に押し込めて、鍵をかけて閉じ込めてしまっていたようなシエル様が、私との記憶を大切だと思っていてくれたことが嬉しい。
私はたくさん、シエル様に迷惑をかけてしまったと思う。
いつもシエル様は私を助けてくれた。
私はシエル様の前で、泣いてばかりいた。
でも、シエル様の記憶の私はいつも、笑っていて、幸せそうで。
シエル様から見た私は、あんなふうに、笑えていたのだということが、嬉しかった。
一番大きな最後の花火があがるようにして、ひときわ大きな振動が、世界を揺らした。
透明な膜の中に溢れた光が、世界を白く染める。
私はぎゅっと目を閉じて、ルシアンさんの軍服を握りしめた。
光から私を庇うようにして、ルシアンさんが私の体を両手で包む。
「無事か、リディア!」
「皆、大丈夫か!」
ルシアンさんの声が、ステファン様の声が、草原に響く。
光がおさまり、硝子が砕けるようにして、街を包んでいた透明な膜が割れた。
街に抑え込まれていた力が解放されるようにして、強い風が草原に巻き起こり、私や皆の髪やスカートを大きく揺らした。
風がおさまった後は、ただ、静かだ。
世界を覆うような光で真昼のように明るかった辺りは、燃えるような夕映から群青色と赤と紫の交差する夜へと変わろうとしている。
夜空に輝く星々はどこまでも綺麗で、地上で起こったこととは無関係な顔をして赤い月と白い月が冴え冴えと輝いている。
皆、動くことができなかった。
ガリオン様でさえ、息を呑みながら目の前の光景を見つめていた。
翼を持った美しく輝く美しいエメラルドグリーンに輝く獣が、私たちに向かって、エーデルシュタインから空を駆けてくる。
「あれは……」
「竜だ。あれは、……数年前に、王国に現れた、魔物。世界を滅ぼす妖精竜」
ルシアンさんがぽつりと言った。
妖精竜。どこかで聞いたことがある。
それは、確かシエル様が幽玄の魔王と呼ばれる理由になった魔物。シエル様が討伐したという、恐ろしい魔物。
でも、あまりにも綺麗だった。
妖精という名にふさわしい。輝く翼に、光の粒子を纏った体。ふわりとした体毛。
翼にはいくつもの宝石が嵌め込まれているように見える。美しく、荘厳で、恐ろしい姿だ。
妖精竜は私たちの前に、静かに降り立った。
竜の体のすぐ前に、シエル様が横たわり、浮かび上がっている。
魔力の粒子に包まれたシエル様がそっと草原に降ろされる。妖精竜はするすると縮んで小さな愛らしい獣の姿になると、シエル様の横に寄り添うようにして丸まった。
「シエル様!」
ルシアンさんの腕の中から抜け出して、私はシエル様に駆け寄る。
横たわるシエル様のそばに跪いて、その体を抱きしめるようにして抱えた。
「シエル様、おかえりなさい、シエル様……起きてください、起きて、目を覚ましてください……っ」
シエル様の剥き出しの体には、大きなひび割れと細かいひび割れがたくさんできている。
体の一部が割れて、大きく抉れている。生きているのが不思議なほどに、崩れかけた姿だった。
ひび割れから覗く体の断面は宝石でできていて、赤く、弱く、輝いていた。
輝きが生命力なのだとしたら、弱々しく、それが消えていっている。
胸には大きな亀裂ができていて、ぱっくり開いた心臓部分に剥き出しになった大きく美しい赤い宝石にも、残酷な亀裂が入っていた。
「……あなたが、無事で、よかった」
薄く目を開いたシエル様が、小さな声でそう呟いた。
パキパキと、嫌な音を立てながら、シエル様の体に入るひび割れの数が増していく。
指に、腕に、体に。首に、頬に。
割れてしまう。このままじゃ、シエル様が、割れて、崩れて。
消えてしまう。
「嫌、嫌……っ、やだ、嫌です……っ、こんなのは嫌、嫌……!」
涙がぼろぼろ溢れる。どうしていいかわからない。
体が震えた。私が何かしなきゃいけないのに。何も考えられない。
命が失われることは、こんなにも怖い。シエル様が消えてしまうのが、怖い。
「シエル様、嫌……っ、一緒に、いてください、私と……みんなと……死なないって、約束しました……私、シエル様がいないと、笑うことができない、お料理も、作れない……」
シエル様は何かを言おうと、唇を開いた。
けれど、言葉はか細い息になってこぼれ落ちて、目を伏せると優しい笑みを浮かべた。
唇が、動く。まだ間に合う。私の力で、シエル様の体を癒すことができる。
私は──。
でも、体も心も震えてしまって、魔力がうまく紡げない。
「おねえちゃん……っ」
ロザミアちゃんが、宝石人の中から私の元へ駆け寄ってくる。
ロザミアちゃんの手には、私があげたエーリスちゃんドロップが握られている。
私の魔力できているドロップには、私の力が込められている。
「ドロップをたべたら、おとうさんや、みんなのキズがなおったの。こわいきもちも、なくなった。だから……」
私に、ドロップが差し出される。
私はうん、と頷いて、それを受け取って口に入れると、シエル様と唇を合わせて、溶け出したドロップをシエル様の口の中へと押し込んだ。
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