夢と目覚め
エーリスお姉様やファミーヌお姉様、メドゥシアナがどこにいったのか、私は知らなかった。
赤い月からみんなで一緒に降りたというわけじゃない。
気づけばみんないなくなっていたような気がするし、私が先にいなくなったような気もする。
私は宝石人の国に留まった。私がお母様の子供である彼らを守らなくてはいけない。
赤い月に幽閉されているお母様はずっと夢を見ていて、憎しみと怒りと悲しみに満ちているときは、知性のない魔物を産んだ。
奪われた子供について考えて──愛しさと悲しさでいっぱいになっている時には、宝石人を産んだ。
エーリスお姉様は言った。「お母様は、泣いている」と。
ファミーヌお姉様は言った。「お母様は宝石人を愛している」と。
メドゥシアナは失敗作だったから、言葉を話すことはできなかった。
私たちはそれぞれ別の場所に、お母様の望みを果たすために降り立った。
お姉様たちが何を考えているのか、何をしようとしているのかは、知らなかった。
私は宝石人を守るという役割がある。宝石人は人に、残酷な目に合わされていたから。
宝石人はお母様の子供なのに。お母様から与えられたたくさんの魔力を持っているはずなのに。
自ら戦うことをしない。どうしてかは、よくわからない。
私が彼らを守るといえば、彼らは私を受け入れた。
あぁ、でも。
世界を破壊するために降りてきたとても強い魔物、妖精竜は、殺されてしまった。
出来損ないのメドゥシアナが、知性のない魔物のように暴れ回って──殺されてしまった。
殺したのは、宝石人だ。
私が守るべき宝石人が、どうして人間の味方をするのだろう。
同じ宝石人が苦しんでいるのに、どうして人間を助けるようなことをするのだろう。
あの人は、私の、私たちの味方じゃないとおかしいのに。
私はその姿を、数々の目を通して見ていた。
私の力で死にいたる病になった者たちは私のもの。私の目。私の耳。
シエルという宝石人を、味方にしよう。どうして宝石人なのに人間を守るのか理解はできないけれど、心の奥底ではきっと人間を、憎んでいるはずだ。
でも──。
それは、違った。
その体に寄生して、その心をのぞいた。
シエルはずっと、黴臭く埃っぽい薄暗い部屋の古ぼけたソファに座っていた。その部屋にはベッドが一つある。
ベッドには母親が横たわっている。もう、命はない。死んでいる。死んでいるのに、声だけが響いている。
「人間が憎い。人間が憎い。お父様が憎い。私の大切な人を奪った。憎い」
「あぁ、でも、駄目。サフィーロは誰も憎むなと言った。だから、駄目。誰も憎まず、恨まず、正しく生きなければ」
「全員殺してしまいたい」
「駄目。どうか、あなたは正しく生きて」
声だけが、部屋に響いている。
幼いシエルは古ぼけたソファに座って膝を抱えている。
じっと動かないでいれば、そのうち息が止まるだろうか。息が止まって、死ぬことができるだろうか。
そんなことを考えている。
でも──それは、唐突に終わった。
薄暗い部屋のカーテンが、扉が、開く。光が中に差し込んでくる。
きらきらと輝くような笑みを浮かべた少女が、シエルの目の前にいる。幼いシエルの手を、ぎゅっと握った。
「シエル様、ご飯、食べましょう? シエル様は何が好きですか?」
「シエル様が自分を大切にできないのなら、私がシエル様を大切にします」
「──お友達に、なってくれますか?」
優しさと愛情で、心が満ちる。
何を食べても味などしなかったのに。何も感じないように、誰も──恨まないように、憎まないように。
心を閉ざしていたのに。
「……どうして、こんなものを私に見せるの」
私は、目を見開いた。心の奥の憎しみを、暴いてやろうと思っていたのに。
優しくて。切なくて。愛しい記憶だ。
少女の周りには、悲しいことはあるけれど、笑顔が溢れている。
エーリスお姉様がカニクリームコロッケというものを、食べさせて貰っている。
ファミーヌお姉様が、小さく切ったエビフライを口に入れて貰っている。
一緒のベッドで、温もりを分け合うようにくっつきながら、眠っている。
「おやすみ、リディア。どうか君の幸せが、ずっと続くように」
少女の顔を優しく撫でて、祈るようにシエルが言った。嬉しそうに微笑む安心しきったその顔に、胸が締め付けられるほどに苦しい。
欲しい。
私も、欲しい。
私も──愛されたい。
お母様は宝石人だけを愛している。お姉様たちのことも、私のことも、その瞳にはうつしていない。
お母様が夢を見ながら囁く言葉は一つだけだ。
──私の、赤ちゃん。テオバルト様との、大切な。
それは私たちじゃない。そんなことは分かっていた。分かっていたけれど、それでいいと思っていた。
でも、気づいてしまった。
愛されることの喜びを、愛への渇望を。
私も、私も……!
お姉様たちのように、愛されたい。
どうして私は、一人で、頑張らなくてはいけないの? どうして私が、お母様から愛情を奪った宝石人を守らなくてはいけないの?
どうして。
どうして──私は、差し伸べられた手を、お姉様たちの手を、取ってはいけないの?
「……イルネスちゃん」
不意に、ぎゅっと抱きしめられたような気がした。
ふかふかで、あったかい。
「イルネスちゃん、大丈夫。私たちが、一緒にいる」
「イルネス。大丈夫。私たちは、姉妹だわ」
大きなエーリスお姉様と、綺麗なファミーヌお姉様が、私を抱きしめている。
「イルネスちゃん。一緒に帰りましょう。ロベリアは広いから、イルネスちゃんが一人増えても大丈夫です」
お姉様たちの姿は幻のように消えて、私をリディアが抱きしめていた。
リディアと一緒に、小さな鳥みたいな姿をしたエーリスお姉様と、猫の姿をしたファミーヌお姉様も。
「……ありがとう、リディア。あじふらいも、いちごぱるふぇも美味しかった」
このままずっと、この温もりの中にいられたら、どんなにいいだろう。
「ごめんなさい。シエル。あなたの記憶を勝手に、のぞいた」
「……構わない。もう、罪悪感も羞恥も、感じない」
リディアの背後に立っているシエルに謝ると、シエルは首を振った。
隣にいる金色の男が「少しは感じろ。すごいものを見せられたぞ、私は」と、やれやれというように額を抑えた。
「シルフィーナはまだ、苦しんでいるのだな」
金色の男に抱えられている白い犬が言う。
犬なのに、喋る。
変なのと、思って。私は目を閉じた。
あぁもう、夢が覚めてしまう。私は私の形をもう、保っていられない。
体が粒子のように、さらさらと崩れていった。
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