こんな時にはアジフライ
瞳が細められて、頬に長いまつ毛の影が頬に落ちる。
パンに塗ったバターがとろけるように、熱を孕んだ赤い瞳は窓の外の夕映に落ちていくお日様みたいだ。
私の頬に触れていた指先が、私の唇を辿った。
「あなたが、欲しい。ずっとそう思ってきました。あなたに触れたい。僕のものに、してしまいたい」
「……あ」
わかっている。シエル様でないこと。
でも、声も、顔も、お話の仕方も仕草も同じだから。
心が震えてしまう。勝手に頬が紅潮してしまう。
シエル様はお友達。
お友達として、私を好きだって思ってくれている。
でも、こんなふうに熱心に見つめられると──。
「リディアさん。僕の傍にいてください。あなたのことは僕が守る。……あなたをここに呼べて、よかった。王国の人間たちは聖女であるあなたを奪い返しにくるでしょう。だから一番簡単な方法で、宝石人を貶めた人間たちを壊します」
「壊す……?」
「ええ。全ての人間がいなくなれば、僕たちが魔物と蔑まれることもなくなる。隠れて住む必要も、子供たちが穿たれて──金持ちや貴族たちの宝石に変わることもなくなる」
「……それは」
「人間などいらないと、思いませんか? 宝石人は誰かを傷つけることをせず善良であればいつか救われると信じていました。けれどそんな日はこない。戦う力を持たなければ、搾取される。殺される」
淡々と、シエル様は続ける。
それはとても、怖いことだ。ステファン様やルシアンさんにも、宝石人の方々について聞いた。
ロザミアちゃんにも、お母さんにも。
だからシエル様の話が──嘘ではないことが、わかる。
「いつ襲撃があるか分からない夜を子供を抱きしめて、大丈夫だと言い聞かせて過ごして、不安定な朝を迎える。朝も昼も、夜も。いつか、生きたまま体を砕かれるかもしれないと考えながら、生きている」
「……ひどいこと、だと、思います。どうしたらいいのか、わからないです。……でも」
「リディアさん。……僕たちのために、泣いてくれるのですね。あなたはとても、優しく美しい」
涙のたまる目尻を、シエル様の指が拭う。
そしてそのまま、綺麗な顔が近づいた。
目尻に口付けられる。柔らかい唇が触れる感触がある。
私はぎゅっと目を閉じた。
『こんな話を、あなたにするべきではなかった。泣かせてしまって、すみません、リディアさん』
シエル様ではない何かは、シエル様の真似をしている。
シエル様の記憶を、シエル様の考えていたことを奪って──口にしているのかもしれない。
今までもシエル様はほんの少しだけ、抱えているものを私に教えてくれることがあった。
私はいつも、泣いてしまって。
私が泣くたびに、シエル様は困ったように微笑んで、「僕の方が大人なのに」と言って、私に謝ってくれた。
私は、そんなシエル様を見るたびに、歯痒さを感じていたのだと思う。
泣きたい時に泣いていい。怒りたい時には、怒っていい。
けれどシエル様はそれができないから。我慢して、我慢して、耐えて。
何も感じなくなってしまうほどに、心が疲れてしまって。
いつも、ご自分を責めていて。なんでも一人で、頑張ろうとして。私を傷つけないように、いつも気遣ってくれて。どこまでも、切ないぐらいに優しい人だから。
私は──私から、お友達になろうって。
大胆なことを言うことができた。
「リディアさん。宝石人に、聖女の祝福を与えてください。あなたが人を、守るように。宝石人にも、あなたの祝福を。僕を、愛してくれますか?」
「……シエル様は、私のお友達です」
「友人だけでは、足りない。僕はあなたが欲しい。あなたの全てが。……唇に、触れたい」
男性から、愛を囁かれるのは、はじめてだ。
こんなに嬉しくないものなのね。
もっと胸がときめいたりとか、世界が輝いたりとか、するのかと思っていた。
だって、この方はシエル様ではないもの。
シエル様はそんなことを言わない。自分の身を犠牲にしても、全員を守ろうとするのがシエル様だ。
誰も傷つけないように。守るために、力を使うのが、シエル様だ。
人を滅ぼすなんて、言わない。
たくさんの苦しいことを受け入れて、それでも誰かを守ろうとしていた。
セイントワイスの方々のために、死の呪いを一身に受けて。死の淵にありながら、私に重たい責任を負わせないように、なんでもないふりをして私と接してくれて。
私の力を調べたいとシエル様は言ったけれど、それは私を傷つけることにつながるのではないかとずっと悩んでいて。
白月病の治療のために料理を作る私のそばに、いてくれた。
一緒にルシアンさんを助けに行ってくれて、キルシュタイン人を貶めるヴィルシャークさんに、本気で怒ってくれた。
いつも──誰かを、守ろうとしてくれた。
私を、守ろうとしてくれた。
偽物のシエル様の奥に、本物のシエル様が閉じ込められているのなら、きっと助けられる。
「……シエル様、私、……あの、……シエル様になら、いいですよ……」
おずおずと返事をする。
もしかしてシエル様が本物で、こんな時じゃなくて、もっと違う状況で。
例えば二人きりのお部屋とか、海辺を散歩している時とか、約束している温泉旅行に二人きりで行った日の夜とか……。
そんな時に、「あなたが欲しい」って言われたら、私はかなり、ときめくかもしれないって思う。
私も、年頃の女性だし。自分の恋愛にはあんまり興味がなかったけれど、恋愛のお話は結構好きだ。
だから、憧れが全くないわけではないのだし。
でも、駄目。
シエル様は偽物で、こんな、ちょっと怖い部屋に二人きり。
偽物のシエル様が私を騙そうとするのなら、私だって騙してもいいわよね。
私は──料理のできる聖女だけれど、聖女みたいに優しくない。怒ったり泣いたり悪口だって言ったりする。
だから。
「……リディアさん、愛しています」
綺麗に微笑んで、シエル様は言った。
驚くほどに綺麗な顔が、吐息が触れ合うほどに唇が近づく。
「……ここは、やっぱり、アジフライかな!」
最初からアジフライに決めていたので、アジフライだ。
私は近づいてくるシエル様の顔を両手でぎゅっと掴んだ。
ぽんっとアジフライが現れる。
お魚を咥えた猫ちゃんみたいに、私の口に。
私は口に咥えたアジフライを(大丈夫、そんなに熱くない)、戸惑いに目を見開くシエル様の口に向かって、ぐいっと押し付けた。
何かを言おうと開かれたシエル様の口に、アジフライが強引に押し込められる。
シエル様はいつか、私の力は一口だけでも発揮されるようなことを言っていた。
一口、口に押し込めることができれば──私の勝ちだ。
シエル様の指が、私の口からアジフライを引っ張って外した。
一口飲み込んだ後に、残りのアジフライをアジフライを食べているとは思えないぐらいに綺麗な所作で食べてくれる。
「……リディアさん、ありがとう。あなたのおかげで、戻ってこれました」
そう言ってシエル様は微笑むと、シエル様に抱きつこうとした私の体を、とん、と軽く押し返して、払った。
「シエル様……!」
ただそれだけなのに、私の体はソファの端に倒れて、動くことができない。
「僕は自分が許せない。それ以上に──リディアさんを汚そうとしたお前が。僕の体から離れろ、イルネス」
シエル様は自分の胸に手を当てる。
「裂傷の赤」
それから、鮮血に似た赤い色をした切り裂く風のような魔力を放った。
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