序章
――リディア・レスト、お前との、婚約を破棄する!
卒業式の式典で、私の婚約者であるステファン・ベルナール様はそれはもう、冷たい声でそう言った。
思い出すだけでも、腸が煮えくり返るわね。
どうして私が婚約破棄なんてされなければいけなかったのかしら。
栄光あるレスト神官家の長女である私が、婚約破棄されるとか……!
私は目の前でじゅうじゅう音を立てている卵が二つ並んでいるフライパンに少しだけ水を入れると、蓋を閉めた。
じゅうじゅうが、じゅわじゅわに変わっていく。
じゅわじゅわ。
しゅうしゅう。
卵の焼けるおいしそうな香りがする。
「この恨み……この苦痛を受け止めて、美味しくなるのよ、卵……!」
フライパンの中の卵に、私は怨嗟の呪文を唱えた。
別に魔力があるわけじゃないのよ。魔力、ないもの。
さっき、栄光あるレスト神官家の長女――とか、心の中で呟いたけれど。
落ちこぼれなのよね、私。
「……うう、つらい……卵は美味しそうなのに、ひたすらに辛い……」
フライパンを見つめながら、私は今度はくすんくすん泣いた。
情緒不安定過ぎる。我ながらどうかと思う。
私が王立アスカリッド学園の卒業式の式典で、婚約者である王太子殿下ステファン様に婚約破棄を言い渡されたのは、今からかれこれ半年ほど前のこと。
ステファン様の横には私の一つ年下の腹違いの妹であるフランソワがぴったりとくっついていた。
腹違いなのは、フランソワはいわゆる妾の子だからである。
私のお母様は早くに亡くなってしまったから、フランソワのお母様はもう妾ではなくて、正妻なのだけれど。
フランソワは私と違って、レスト神官家の力を受け継いだ優秀な子だ。
お父様はフランソワに期待していて、私にはまるで興味がないようだった。
「婚約破棄するなら最初からフランソワを婚約者にしなさいよね……!」
元々、お父様は私を政略結婚に使うつもりだったみたいだ。
落ちこぼれの私なんて、それぐらいしか利用価値なんてないし。
それで王太子殿下の婚約者に選ばれるとか、ちょっと凄いわよねって思うけれど、これには事情がある。
ここ、ベルナール王国は神祖テオバルト様を崇める宗教国家で、国教を守り伝える教団を統括する神官家の力はとても強い。
つまり、私とステファン様の婚約は、王家に乞われてのものだった。
フランソワではなく私をと望んだのは、フランソワの母であり私の義理のお母様が、もともと高級娼婦だったという出自のせいである。
それは秘せられたことだけれど、知っている人は知っている。
神官長が娼館に通って、あまつさえ正妻の座に娼婦を据えてしまうとか。
まぁ、なんていうか、所謂スキャンダルというやつだ。
「目玉焼きさん、二つ目があるから、目玉焼き人間……あなたは私の味方よね。この苦しみを、悲しみをわかってくれるのはあなただけだわ……」
ぶつぶつ言いながら、私はフライパンの蓋をあけた。
炎魔石を動力源としたキッチンは、コンロの中に幾つかの炎魔石が仕込んである。
薪と違って安定して燃えてくれるし、火事も少ないので最近のコンロは炎魔石を使っている場合が多い。
魔石は良いわね。魔力がなくても使えるもの。
「どーせ私には魔力がないわよ。無価値だわ。無価値人間。目玉焼き人間よりも、さらに下層の人間……」
フライパンの中では、ちょうど半熟に焼けた目玉焼きの二つの瞳が、ぷるぷるしながら私を見つめている。
私はため息をついた。
白いお皿に目玉焼きをうつして、今度はソーセージを二本焼きはじめる。
「結局、フランソワを婚約者にするんだったら、出自とか、関係ないじゃない」
私に婚約破棄を言い渡してきたステファン様の言い分としては、『私が、出自を理由にフランソワを虐めた』『魔力がない私には王妃としての資格がない』『王妃は神官家の力を受け継いだフランソワこそふさわしい』だそうだ。
そんなわけで、記念すべき卒業式の式典で婚約破棄された私は、すごすごとレスト神官家に――戻らなかった。
もともと、レスト神官家に私の居場所なんてなかった。
お父様はフランソワばかりを可愛がっていたし、義理のお母様だって当然そう。
使用人たちも魔力のない私を小馬鹿にしていて、お料理も作ってもらえなかった。
婚約破棄されてあんなところに帰ったら、その後どんな目にあうかわかったものじゃない。
神官家には私とフランソワしか子供がいないから、フランソワが婿をとることになっていたけれど、そちらもきっと破談だろうし。
フランソワの代わりに、フランソワの婚約者だった公爵家次男のロクサス・ジラール様と結婚しろとか言われたら最悪も良いところだ。
一生恨まれるわよ、私。
特に何も悪いことしてないのに。
そんなわけで、私は学園寮に戻って荷物をまとめて、そのまま出奔した。
色々あって、今は王都の片隅でひっそりと暮らしている。
「……今日の目玉焼きも、恨みつらみがこもってしまったわね……」
目玉焼きの隣に、焼いたソーセージを二本置いた。
あとは、新鮮なレタスと、ミニトマトを二個。
完璧な朝食の出来上がりである。
「お待たせしました、暗黒の目玉焼き、すりつぶしたいほど憎たらしいソーセージ添えです!」
私は元気よく完璧な朝食メニューの名前を言いながら、キッチンからカウンターを挟んで反対側にある食堂の席へ、目玉焼きを運んだ。
「今日も旨そうだな、リディア! 是非、我が騎士団で雇われてくれないか!」
椅子にお行儀よく座っている大柄な男性が、それはもう嬉しそうに私を雇用しようとするので、それは無視した。
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