招かれた部屋
黒い水たまりのようなものの中にぽちゃんと落ちた私は、黒く暗い水のに包み込まれた。どちらが上か下かもわからないまま、夜の海の中、漂っているみたいだった。
水の中を泳いでいるようでもあったけれど、息苦しさは感じない。
肌にまとわりつくぬるい水をくぐり抜けて、明るい場所へと、ぷはっと顔を出す。
それはただ、錯覚だったのかもしれない。
目を開けたまま見る白昼夢のようなもので、私はふと気づくと、白い部屋に置かれた赤いソファに座っていた。
ふかふかのソファの前には、金のテーブルが置かれている。
窓の外には燃えるような夕映えが広がっている。
もう、夜が近いのかしら。
まだ昼間のような気がしていたのだけれど、いつの間にかかなりの時間が経っていたみたいだ。
「……こんにちは、リディアさん。ようこそ、エーデルシュタインへ」
静かな冬の朝を思わせる涼しげで優しい声がする。
私は、声のした方を振り向いた。
部屋の壁側に、キッチンがある。
珈琲の良い香りが白い部屋に漂ってくる。
シエル様が、先の細いポットで、硝子のドリッパーにお湯を注いでいる。
こぽこぽと、ドリッパーに珈琲が落ちる音がする。
こんな時じゃなければとても居心地の良い空間だと思うのに、優しげなシエル様の声にも珈琲の良い香りにも違和感を覚える。
「シエル様……!」
シエル様は、セイントワイスの黒いローブではなくて、白い法衣のようなものを着ている。
セイントワイスのローブを着たシエル様は魔導師という感じだけれど、白い法衣を着ていると、その見目の麗しさや髪に輝く宝石も相俟って、いつもよりもさらに神秘的な印象だ。
夕日の差し込む白い部屋に佇んでいるシエル様は、思わず目を奪われてしまうぐらいに、綺麗。
綺麗なものを見ると、少し、怖いと感じるのかしら。
今のシエル様は、その声は、──いつも私を安心させてくれるものとは、違う。
私を、リディアさんと名前で呼んでくれた。
でも──。
「ここまで、よく来てくれました。怪我はありませんか? 服が汚れてしまいましたね。取り替えましょうか」
シエル様がパチンと指を弾くと、飛空艇が落ちたりここまで走ったりしたせいで、乱れて汚れていたドレスが、新しいものへと一瞬で変わった。
白いドレスだ。繊細なレースやリボンで飾り付けられている。
街で出会った宝石人のロザミアちゃんやお母さんが着ていたものと少し似ている。
「綺麗です、リディアさん。とても似合う」
シエル様は私を褒めると、珈琲をカップに注いだ。
怖い。
逃げなきゃ。
エーリスちゃんやファミーヌさん、お父さんとも引き離されて、一人になってしまった。
一人は、心細い。
目の前にいる人は、シエル様だけれど、シエル様ではない気がする。
(でも、私……シエル様を助けに来たのよね)
シエル様を探して、エーデルシュタインのお城まで来たのだ。招いてくれたのだとしたら、これは、チャンスなのではないかしら。
シエル様の口にアジフライを突っ込むチャンスだ。
大神殿の騒乱の時にてんむすの概念を召喚したように、アジフライの概念を召喚して、シエル様の口に強引に突っ込んで食べて貰えばきっと、シエル様を支配しているイルネスの呪縛が解けるはず。
「……シエル様、会いたかったです」
私は口元に笑みを浮かべた。
今のシエル様はシエル様ではない気がするけれど、騙されたふりをしよう。
どうしてイルネスが私をここに呼んだのかはわからないけれど、機会を伺ってシエル様を助ける。
その先のことは、どうすればいいのかわからないけれど。
私は私にできることをしなければ。
「僕も、あなたに会いたかった」
シエル様はテーブルの上に珈琲のカップを置いた。
「どうぞ、リディアさん。疲れたでしょう? 怖い思いも、たくさんしましたね。魔物には、あなた以外を襲うように指示していたのですが、あれらは知能が低くて僕のいうことを聞いてくれない。困ったものです」
ソファの隣に、シエル様が座る。
ふわりと、珈琲の香りに混じり、春を告げるような花の香りがする。
私は、怯える心を隠すようにして赤いショールを引き寄せようとした。
シエル様が、雪の日に私にくれたものだ。
けれど、白いドレスに着替えてしまったからか、赤いショールはなくなっていた。
シエル様がくれたものなのに、それを覚えていないみたいに。
(やっぱり、違う)
話し方も、表情や仕草も、シエル様の真似を上手にしているけれど、その中にいるのは別の誰かだ。
誰かが、シエル様のふりをしている。
見た目は同じだけれど、中身が違う。
中身が違う人を──私は、シエル様だとは思えない。
心の奥に、怒りの炎が灯った。
体を奪ってシエル様のふりをして、私を「リディアさん」と呼んで、「会いたかった」と言うなんて。
心の中にある大切な何かを踏み躙られているような気がした。不快感が表情に出てしまいそうになり、私は自分を戒める。
今はまだ、騙されたふりを続けよう。
「あなたは宝石人ではないですが、命を奪ったりはしません。僕の傍にいてください。僕のために、危険をおかしてここまできてくれて、嬉しい」
「シエル様……」
「リディアさん、……これからはずっと、一緒です。手放したりはしません。僕はあなたが、どうしようもなく、欲しかった」
シエル様の手のひらが、私の頬に触れる。
透き通るような赤い瞳が私をまっすぐ見据えている。
愛しげに密やかに囁く声が鼓膜を震わせて、心臓がどくりと跳ねた。
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